SONATA 第二番 Op65
第三楽章
『…悟浄、話があるんです』
悟浄は八戒にそう呼び出された。
今のソファに座ると温かい紅茶が手渡され、そして八戒は悟浄の隣に座った。
「どうかしたのか?」
何かただ事ではない雰囲気を感じ取る。
悟浄は態と明るく振る舞ってそう言う。
しかし、八戒の顔は暗く陰ったままだ。
「……ごめんなさい」
八戒が口を開くと、ポツリとそう言葉を洩らす。
そう言葉に出してしまうと涙が溢れてくる。
「おい、どうしたんだよ」
突然謝って泣き出した八戒に悟浄は慌てる。
一体どうしたというのだろう。
「……八戒?」
「…僕、ずっと貴方を騙していました」
「騙してた?なにをだよ」
八戒が何を言いたいのかが掴めない。
騙す?
何を騙していたというのだ…。
「僕、本物の八戒じゃなくて…クローンだったみたいです」
「……?」
突然八戒が言った言葉が理解できない。
どういうことなんだ?
─── クローン?
「僕はニイ健一に作られたクローンなんです」
「…お前が…クローン?」
信じられない…信じられるはずがなかった。
ずっと一緒に暮らしていて、突然『自分はクローンだ』と言われて誰が信じられるのだろう。
……ここにいる八戒がクローンだというのなら、本物の八戒は一体どこにいるのだろう。
「本物は…?」
「おそらく吠登城でしょう…」
いつから八戒がすり替わっていたのだろう…。
悟浄は記憶を遡らせる。
心当たりがあるのは……。
「いつから替わっていた?」
自分の考えが正しいか確かめるように悟浄が訊ねる。
「僕にも本当のところはよくわかりません。
でも、おそらく城から助け出されたときには既に…」
─── やはり…。
八戒がニイに攫われて、助けに行ったときにはもう既に八戒は入れ替えられた後だったのだ。
と言うことは、本物の八戒があれからずっと…。
「ごめんなさい。 本当はもっと早くに気付いていたんです。
貴方に言わなきゃいけないってわかっていたのに…言えなかったんです…。 貴方の側にいたかったから…だから言えなかったんです。 ごめんなさい…」
八戒はそう言うと泣き崩れる。
悟浄はそんな八戒を抱きしめてやることしかできなかった。
悟浄は一人部屋で頭を整理していた。
未だに信じられなかった。
八戒がクローン…?
それもニイの元から助け出したときから…。
あれからもう二年も経つというのに…自分は気が付かなかった。
では、本物の八戒は…あれからずっとニイに捕らえられたままだというのか…?
「…………」
クローンの八戒が?の元でされていた仕打ちを思い出す。
…あれで本物の八戒に何もしていないなんてことはまず無いだろう。
─── それならば八戒は…。
助けに行かなくては…。
悟浄は慌てて立ち上がる。
「悟浄」
突然扉の方から名前を呼ばれる。
振り返るとそこには八戒がいた。
「さっきは取り乱してすみません。もう大丈夫です。
本物を助けに行くんですよね…。
……行きましょうか」
吠登城のニイの元へ行くまでの間、悟浄は八戒に何も言うことが出来なかった。
また、八戒も何も言わなかった。
沈黙のまま、ただ時が過ぎていく。
言わなくてはならないことは色々とあるのに、お互い一言も言い出すことが出来なかった。
城の中は相変わらず薄暗く、嫌な空気に包まれていた。
本物の八戒がこんなところに二年もいたのだろうか…。
「いらっしゃい」
ニイはまるで二人が来ることがわかっていたかのように二人を出迎える。
「……?」
「偽物の幸せは楽しかった?一年か…思ったよりも早かったね」
ニイは八戒に近付きそう言う。
「どういうことですか…?」
「君が自分がクローンだと気が付いて一年以内に戻ってきたから、早かったなってことだよ」
「………」
この男は何故、自分がクローンだと気が付いた時を知っているのだろう。
まさか、全て…。
「君の行動も思考も全てわかるようにしてあったんだよ」
知らなかったでしょ、と?は笑う。
「それから、あの夢を見せたのももちろんボクだよ」
全て仕組まれていたのだ。
二年前のあの時から、もう既に…。
「そんなことよりも八戒を返せ」
悟浄がニイと八戒の間に割って入る。
今回ここに来た目的はあくまでも八戒を助け出すことだ。
「……いいよ。
ただし、連れて帰ることが出来るのは一人だけだよ。本物の八戒か、そこにいるクローンの八戒か。好きな方を連れて帰っていいよ」
「一人……」
「さぁ、君はどちらを選ぶ?」
どちらか一人…そんなの選べるはずがなかった。
どちらも八戒なのだ。
雨の日に出会って守りたいと思った八戒。
旅から戻ってからも共に暮らしていた八戒。
どちらのことも愛している…。
でも、助けられるのは一人だけなのだ。
どうすればいい…?
「さぁ、どうするの?」
悟浄が悩んでいるとき、また八戒も悩んでいた。
自分のせいで悟浄は悩んでいるのだ。
同じ世界に同じ人物が二人も居てはならない。
どちらかが消えなければならない。
そうなるのであれば、消えるべきなのは自分の方だろう。
自分はクローンなのだから。
本来ならば存在してはいけないのだ。
何故自分はこの世に作り出されたのだろう。
もしも自分が居なければ、誰もこんな思いをしなくても良かったのだ。
自分が居なければ、悟浄は本物か自分かで迷うこともない。
自分が居なければ、本物の八戒は二年前のあの時に助け出されていただろう。
自分さえ居なければ…誰もこんな苦しい思いはしなかった。
自分のせいなのだ。
どうして自分は産まれてきてしまったのだろう。
こんなふうにみんなを不幸にして…。
それならば、もう存在していたくない…。
そう…自分が消えればいいのだ。
「悟浄」
優しい悟浄には、どちらか一人を選ぶことなんて出来ないだろう。
でも、選ばれるべき人はわかっている。
ニセモノは…ホンモノにはなれないのだ。
だから、選ばれるべきなのは本物の方…。
「今まで…二年間ありがとうございました。
短い間でしたけど…とても幸せでした」
ニセモノである自分をほんの少しの間でも本物にしてくれた。
本当に幸せだった。
だからもう充分です……。
「八戒、何をするんだ。やめろ!」
悟浄が止めようとするが、その前に八戒はナイフを取り出し自分へと向ける。
「さようなら、悟浄」
そう言い、八戒はそのナイフで自分の喉を掻き切る。
「八戒─── 」
まるでスローモーションのように見えた。
ナイフの刃が八戒の喉に食い込む。
そして、そこから鮮やかな紅い色をした血が噴き出す。
一瞬…八戒が微笑んだように見えた。
悟浄の方を見て、まるで花が咲き誇るかのような笑顔。
でも、その瞬間、八戒の身体が床へ倒れる。
……床にどんどん広がっていく赤い血。
今、何が起きたんだ…。
目の前で八戒が死んだ…?
さっきまですぐそこにいたのに。
数日前まで── 八戒がクローンであることすら知らずに──
平和で幸せな暮らしをしていたのに…。
もう、動かない…。
「…んでだよ」
倒れている八戒にそっと触れる。
まだ八戒の身体は温かい。
でも、もう動かない。
目の前にこうして居るのに。
でも、もうその目は開かれない。
「何であんなことするんだよ!」
何でいつも勝手にああいったことをするんだ…。
自分だけで悩んで、自分だけで考えて。
負担になるくらいなら…ってすぐに犠牲的な行動をとる。
どうしてそんな行動をとるんだ…。
そんなこと望んではいないのに…。
八戒のことを、失いたくないのに…。
「八戒…」
自分のせいだ。
自分が迷っていたから…だから八戒は負担になるくらいなら、
と自ら命を────
─── 貴方の側にいたいんです…。
そう言っていたのに…どうして勝手に離れていくんだ。
─── ずっと一緒にいてくれますか?
そう約束したのに…。
「……これはなかなかおもしろいね」
静かな部屋にニイの笑い声が響く。
「…何がおかしいんだ」
「興味深いなって思ったんだよ。
そのクローンには本物の猪八戒と全く同じ人格、感情を入れてあるんだよ。
つまり本物と同じ行動をとるってことだよ。
彼はこういう状況になったら自分で死んじゃうんだね」
ニイの八戒を見る目はまるで実験動物を見るようだった。
いや、彼にとってはただの実験動物だったのだ。
「テメェ…」
そのために本物の八戒はずっと捕らえられたまま。
そして、クローンの八戒は死んだ。
こんなくだらないことで一体何人を不幸にするつもりなのだろうか。
「はい、コレあげるよ」
悟浄の元に鍵が投げられる。
「本当は自分で選ばなかったからダメなんだけど、今回はクローンに免じてオマケしてあげるよ」
人をおちょくったような口調でそう言う。
悟浄はそんな?に殺意を覚える。
─── 殺してやりたかった。
こんなふうに人を人とも思わずに…。
こんな男には生きている資格はない。
この場で殺してやりたかった。
でも、今は八戒を助ける方が先だった。
「八戒はどこにいる」
怒りで声が震える。
それを必死で押さえた。
「地下室の一番奥だよ。気を付けてね」
?はヒラヒラと手を振る。
悟浄はそれを聞くとすぐに部屋を飛び出した。
「ふふ…」
悟浄の出ていったその部屋にニイの笑い声が響いた…。
地下は本当に闇に包まれていた。
薄暗いどころではない、比べものにならないほどの闇…。
灯り無しでは一歩も進めないだろう。
悟浄はポケットからライターを取り出し、それを灯りにして進んだ。
本当にこんなところに八戒はいるのだろうか。
こんな闇の中で八戒は二年間も…。
悟浄の心に焦りが生まれる。
早く八戒を助けなくては…。
そう思いながら廊下を進んでいく。
やがて、その廊下が壁へと突き当たる。
その手前にある扉…。
この中に八戒が居るのだ。
悟浄は震える手を押さえながら鍵を開く。
「………八戒?」
部屋の中も同じように闇に包まれていた。
八戒の名を呼ぶが返事は返ってこない。
ゆっくりと灯りを頼りに部屋の中を調べる。
床には色々な物が落ちていた。
そこで八戒が何をされていたかを想像させるには充分なものだった。
「八戒…」
八戒はどこにいるのだろう…。
ライターを持つ手が震える。
早く八戒の姿が見たかった。
八戒の無事な姿を確認したかった───
部屋の隅に置かれたベッドを見つける。
そこに…ボロボロに破れたシーツにくるまれて、八戒が眠っていた。
「八戒!」
悟浄は八戒の肩を掴み、身体を揺すって起こす。
その衝撃で八戒はゆっくりと目を開く。
八戒が目を覚ましたのを確認して悟浄は安堵の息を漏らした。
「……八戒?」
しかし、どこかおかしい。
目を覚ました八戒の目は焦点が定まっていないように感じられる。
…それどころか、何も反応を示さない。
「どうしたんだよ…八戒!」
まるで人形のようだった。
息もしているし、体温も感じられる。
でも、生きている感じがしなかった。
「どういうことだよ……」
「八戒に何をした!」
悟浄は八戒を抱き上げるとニイの元へと戻った。
明らかに八戒の様子がおかしかった。
こんなのは…八戒ではない……。
「ボクは別に何もしていないよ」
「それならなんで…」
「お伽噺を一つしてあげるよ」
悟浄の言葉を遮るように?が言う。
「あるところに大変美しいお姫様がおりました。
ある時、悪い魔法使いがお姫様を攫ってしまいました。
でも、お姫様はきっと王子様が助けに来てくれると信じておりました。
しかし、魔法使いはお姫様そっくりのニセモノを作ると、本物のお姫様を隠してしまいました。
そんなことを知らない王子様はニセモノのお姫様を助けると帰っていってしまいました。
本物のお姫様はショックを受けました。
それでもきっと王子様は自分に気が付いて戻ってくる…そう信じていました。
お姫様は一年信じました。
それでも王子様は戻ってきませんでした。
お姫様は、何故戻ってきてくれない…と王子様を恨みました。
お姫様は一年恨みました。
それでも王子様は戻ってきませんでした。
そうして二年経って…お姫様はどうなってしまったでしょう?」
「………」
悟浄は言葉を失う。
自分が本物の八戒に気が付かなかったから。
だから八戒はこうなってしまったのだ…。
遅すぎたのだ……。
「八戒」
悟浄は八戒の身体を強く抱きしめる。
それでも八戒は何も反応を示さない。
「王子様はお姫様の心を取り戻すことが出来るかな?」
─── この物語の続きは、君が作るんだよ…王子様…
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