SONATA 第二番 Op65
第四楽章
「八戒、起きられるか?」
悟浄が眠っている八戒をそっと覗き込む。
八戒の目は開かれていた。
どうやら起きているらしい。
「御飯作ってきたんだ。食べるだろ?」
起こすぞ、と言い八戒の上半身を起こす。
二年という長い時間……。
八戒の心はもうここには無かった。
この二年がどういう二年だったのかは悟浄にはわからない。
でも、心を失ってしまうほどのものだったのだろう。
その間、自分は一体何をしていたのだろう。
八戒がこんな目に遭っているとも知らずに、八戒を救ったつもりでいた。
……そうして幸せにしようとしていたクローンの八戒も今はいない。
自分の負担になるくらいなら、と自ら命を……。
結局、どちらも幸せにしてやることが出来なかった。
自分の力が足りないせいで。
もうこれ以上八戒を苦しめたくない。
八戒を幸せにしてやりたい。
八戒の心を取り戻してやりたい…。
だから、八戒を連れて家に戻ってきた。
この家で…八戒と暮らしたこの家でもう一度生活をしよう。
絶対に八戒を守る。
八戒を幸せにする。
もう一度笑顔を取り戻させてやりたいんだ…。
「ほら、八戒」
お粥をスプーンですくい、冷ましてから八戒の口元へ運び、ゆっくりと一口一口食べさせてやる。
戻ってきてからもほとんど八戒は反応を示さない。
ほとんどの時間を寝て過ごし、残りの少ない時間は、ただぼんやりとしている。
それでも目が見えていないわけでも耳が聞こえていないわけでもないらしい。
悟浄はそれを知り、少し安心した。
ただ、心は何も見えていないようだった。
こうして御飯を食べさせてやれば、少しながらも八戒は食事を取った。
でも、それに対して感情は何も反応しないのだ。
生きているのに、生きていないようだった。
人形のようにただ座ってじっとしている。
「八戒…」
名前を呼んでも何も反応を示さない。
「…八戒……」
それでも八戒はここにいて、生きているのだ。
悟浄はそっと八戒の身体を抱きしめる。
痩せてしまってはいたが、八戒の身体だ。
抱きしめればちゃんと体温も伝わってくる。
八戒…なのだ。
「…絶対にお前の心、治してやるよ」
誓うように悟浄は八戒にそう言う。
その言葉が八戒に届いたか届いていないかはわからないけれど…。
それから数日経ったある日、悟浄の家に三蔵と悟空が訪ねてきた。
近くに用事があったので、そのついでに寄ったという。
「ここのところ連絡が全くなかったから一応な。ところで八戒はどうした」
三蔵にそう言われて悟浄は口ごもった。
確かにここのところ連絡は取っていない。
というよりも取れなかったのだ。
八戒があんなことになってしまったとは言えなかったし、出来るだけ八戒の側にいたかったのであまり家を空けることが出来なかったからだ。
だが、いつまでも隠しておけることでもないし、話さなければならない内容であった。
「どうかしたのか?」
「…いや、実は」
悟浄が話そうとした時、廊下の向こうから悟空が慌てて走ってくる。
「八戒がおかしーよ。俺、話しかけてんのになんにも反応しないんだ…」
「………」
悟空はここに来てすぐに八戒の部屋に行ったらしい。
悟空が悟浄の家に来てすぐに八戒に会いに行くのはいつものことだった。
しかし、今の八戒は…。
「どういうことだ」
そう言う三蔵に悟浄は何も言わずに立ち上がった。
そして八戒の部屋へと向かう。
三蔵も悟浄に続いて八戒の部屋へ向かった。
三蔵は部屋へ入り八戒の姿を見て、自分の目を疑った。
目の前にいる八戒は、前に見た八戒と全く違っていた。
ベッドに座っている八戒は、虚ろな目のままぼんやりとしていた。
自分たちが部屋に入ってきたことすら気が付いていないのではないか。
「…八戒なのか?」
「あぁ、本物の八戒だ」
本物の部分がやけに強調されている。
本物の八戒だというのなら何故…。
あの少し会っていないだけの間に、一体何があったというのか…。
「何があったんだ」
ただ事ではないのは一目見ただけでわかる。
「後で話す」
悟浄は短くそれだけ言った。
そして、ゆっくりと八戒に近付く。
「どうした、眠いのか?」
八戒が目を伏せ、微かに眠そうな仕草をした。
悟浄は八戒をそっと寝かせ、布団を掛ける。
「おやすみ」
それは小さい子供のかけるような優しい声だった。
「その話は本当なのか?」
八戒が眠ってから、三人は今へと移った。
そこで悟浄は今回のことを全て話した。
今まで一緒にいたのは八戒のクローンであったこと。
そのクローンが自ら命を絶ったこと。
そして、本物の八戒はこの二年で心を失ってしまったこと。
信じられない事実に二人は驚愕する。
「嘘だったらいいんだけどな。
生憎と本当の話なんだよ」
悟浄が少し視線を逸らしながらそう言う。
「そうか」
三蔵もそれ以上は何も言えなかった。
二年前、八戒を助けに行くとき、自分も同行していた。
あの時助けた八戒がニセモノだったなんて、そんなことは考えもしなかった。
自分にも責任がないわけではない。
「…八戒、元に戻るの?」
黙って話を聞いていた悟空がポツリとそう漏らす。
「…アタリマエだろ。絶対に…絶対に戻してみせる」
八戒にもう一度笑顔を取り戻してみせる。
「約束だぞ」
悟空は今までになく強い目をしてそう言った。
悟浄もそれに対して強い意志を持って頷いた。
「何か必要なものがあったら言え。用意してやる」
三蔵もそう言う。
これはもう悟浄と八戒だけの問題ではないのだ。
この問題の大元では皆関係している。
だから出来るだけ力になりたい。
そして、何よりも皆、八戒の笑顔を望んでいた。
「三蔵……。
じゃあ、頼みがある……金貸してくれ」
「…………」
突然の話の流れに三蔵が固まる。
まさかこの場面で『金』と言われるとは思っていなかった。
「…いや、だって今ずっと八戒についててやりたいから稼ぎに出てる暇ねぇし」
悟浄が慌てて説明する。
しかし、言われてみればその通りだ。
三蔵は懐から一枚のカードを取り出す。
「使え。利子は八戒の笑顔だ。必ず払えよ」
「………あぁ」
あれから毎日、悟浄はかいがいしく八戒の世話をした。
その成果か、八戒の状態も少しずつ良くなってきている。
まだ、何も喋らないし、もちろん笑わないが、それでも少しずつ反応を示すようになってきた。
「八戒」
悟浄が八戒の名を呼べばそれに反応して振り返る。
確実に八戒は良くなってきている。
悟浄はいつも八戒が昼寝をしている間に買い物に出かけた。
なるべく起きている間は八戒の側にいたいからだ。
「八戒に何か買っていってやろうかな」
悟浄は歩きながらそう考える。
絵本なんか良いかもしれない。
ずっと寝ていて暇だろう。
まだ自分で読むことは出来ないから、読んで聞かせてやりたい。
最近の絵本は大人でも楽しめるものもそれなりにある。
あとCDでもいい。
昔、八戒が好きだと言っていた曲。
ショパンだかバッハだか…。
あの時『興味ない』と言ってしっかり聞かなかったのが悔やまれる。
あの曲は何という曲だっただろう。
花屋の前を通ると色とりどりの花が並んでいた。
「……花か」
花というのも良いかもしれない。
八戒は花が好きだ。
花なら見た目にも華やかだし、良い香りもする。
でも、せっかくなら切り花よりも…。
そうだ、八戒を連れてピクニックに行こう。
たまには部屋を出て。
今はもう外も暖かいし、花もいっぱい咲いている。
だからピクニックに行こう。
「八戒、ピクニックに行こうぜ」
次の日はとてもよく晴れていて、ピクニック日和だったので、悟浄は八戒にそう言った。
八戒は悟浄の顔をじっと見つめる。
「なぁ、いいだろ?今は花もたくさん咲いてるし。
八戒、花好きだろ?」
それに対して、八戒はこくんと小さく頷く。
「じゃあ、出かけようぜ」
そう言って悟浄は八戒の手を取った。
悟浄は八戒を車椅子に乗せると家を出た。
お日様が輝いている。
でも、日差しは強すぎず、とても爽やかな風が吹いていた。
遠出でもしてみたかったが、やはり八戒の身体が少し心配だったので近くの丘へと行った。
「八戒、今日はホントにいい天気だな」
外の世界は知らないうちに春を迎えていたのだ。
いつの間にか花が咲き乱れている。
そよぐ風で八戒の髪がサラサラと揺れた。
「この辺で休憩にするか」
悟浄は八戒を車椅子から降ろし、大きな木の根元にそっと座らせる。
ちょうどそこは木の葉によって日陰になる。
いつまでも家の中だけというのもよくないが、いきなり長時間日に当たっていても体によくないだろう。
「八戒、外に出るのもたまにはいいよな」
八戒は何も答えない。
それでも八戒の表情はいつもより安らいでいるように見える。
連れてきてよかった、悟浄はそう思う。
八戒のためにだったら何でもしてやりたい。
八戒が喜ぶなら、何でも…。
「八戒、花摘んできてやるよ」
悟浄はそう言い立ち上がる。
八戒に似合う花をたくさん摘もう。
そして、その花を部屋にも飾ろう。
部屋を明るくしよう、早く八戒に笑顔が戻るように。
花を摘む悟浄の側をあるものが通った。
「あ、そうだ」
「八戒」
悟浄が八戒の元へと走り寄る。
そして八戒の目の前に合わせた手を差し出す。
八戒は不思議そうにその手を見つめる。
その手がゆっくりと開かれる。
中から現れたのは…一匹の真っ白な蝶。
その蝶は八戒の目の前をヒラヒラと飛んでいく。
「綺麗だろ」
青空へと飛んでいく真っ白な蝶。
八戒はその蝶を目で追う。
その時、ほんの一瞬ではあったが…八戒が微笑んだ。
それは春風が一瞬吹いたかのような笑顔だった。
「は…っかい…」
八戒が笑ったのだ…。
悟浄は八戒の身体を抱きしめる。
一瞬でも八戒の笑顔が見られたことが嬉しくて……。
「今日は疲れただろう。ゆっくり休めよ」
いつものように八戒をベッドに寝かせ、上から布団を掛けてやる。
おやすみ、といって部屋を出ようとした時、自分の服が何かに引っ掛かっているのを感じた。
振り返って見ると、自分のシャツに引っ掛かっていたのは八戒の指だった。
八戒が悟浄のシャツの裾を掴んでいるのだ。
八戒は何も喋らない。
それでも八戒の心は言っているのだ。
『どこにも行かないで』と…。
「八戒……」
心を取り戻すというのは楽しいことばかりではない。
何かを感じるようになるということは辛いことも悲しいことも感じるようになる。
そして…寂しいという感情も。
「今日は一緒に寝るか」
悟浄が八戒の横へと潜り込むと、八戒は少し安心した顔を見せる。
八戒は寂しくて辛かったのだ。
長い間、ずっと閉じこめられていた。
その時感じた孤独。
それは八戒の心に大きな傷を作った。
だから、八戒は孤独をおそれている…。
「八戒、俺はここにいる。ずっとここにいるから」
悟浄は八戒をそっと抱き寄せた。
ここにいると示すように。
そうして二人はお互いの体温を感じながら眠った。
八戒はまだ何も話さない。
それでも八戒が何を伝えたいかはわかった。
俺は八戒が望むことを出来るだけ叶えてやりたかった。
八戒は時折笑顔を見せてくれる。
作ったものではない自然な笑顔。
それだけで充分だと言える。
それでも……。
いつかもう一度俺の名前を呼んで欲しい。
すぐでなくていい…。
いつまででも待つ。
だからいつか、もう一度名前を呼んで…。
─── 悟浄……
SONATA END
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