SONATA 第二番 Op65
第二楽章
八戒と悟浄は旅を終えて、また前住んでいた家に戻ってきた。
別にお互いに何も言わなくても自然にこうなった。
今までと同じように二人で生活して行こうと………。
話し合う必要など無かったから。
この生活を続ける事に何の疑問も抱かなかった。
それなのに───
「悟浄、コーヒー飲みますか?」
「おう」
その返事を聞いて八戒は居間から台所へと移動する。
コーヒーメーカーにスイッチを入れ、食器棚からお気に入りカップを取り出す。
二つお揃いのシンプルな白のカップ。
これは旅に出る前、共に生活を始めた時に悟浄が買ってきたものだった。
二人でお茶を飲む時はいつもこのカップにする。
いつの間にかまるでそれが決まりのようになっていた。
そのカップにお湯をそそぎカップ全体を温める。
もうコーヒーは随分落ちており、台所に良い香りが広がる。
「何かお茶菓子あったかなぁ」
八戒はそう言って周りを見回す。
悟浄は別に進んでお菓子とかを食べるわけでもないが、甘い物が嫌いな訳でもない。
折角コーヒーをいれたのに、お茶菓子が無いのはあまりに寂しすぎる。
戸棚に悟空用に買っておいたクッキーの箱を発見し、そこから数枚拝借する。
「ちょっとお借りしますね。また買っておきますから」
と、一応今ここにいない人物に断りをいれておく。
トレイの上にいれたばかりのコーヒーとクッキーをのせた小皿を乗せ、悟浄の元へ戻る。
「お待たせしました」
「サンキュ」
旅から帰ってきてからは毎日が平和で、特にする事があるわけでもなく、こうしてのんびりと暮らしている。
なんだか理想的な老後の生活のようになってしまったような気がしなくてもない。
旅に出ていた頃があまりにすごすぎたんでそう思うのかな……と八戒はぼんやりとコーヒーを飲みながら考える。
思い起こせば旅に出る前も今と対して変わらない生活だった
………気がする。
感覚の違いだろう………。
すぐにこの平和な生活に慣れる。
平和でいいのだ……せっかく幸せになったのだから。
だから、老後の生活でもなんでも……このままでいい。
こんなに幸せなのにふと『この幸せはいつまで続くのだろう』と考えてしまう。
何故だろう………。
もう何も心配する事などないのに。
それなのに……いつかこの幸せな時間が終わる気がしてならないのだ。
どうしてそんな事を考えるのだろうか。
この間夢を見たからだろうか。
ニイに捕らえられていた頃の………いや、捕らえられた夢を見た。
だからこんなに不安になってしまうのだろうか。
─── なぜ今更あんな夢を見たのだろう。
あれからもう一年も経つのに。
あの時の傷もすっかり癒えたのに。
それなのにどうしてあんな夢を………。
でもあれは夢だ。
ただの夢だ…。
そう思いたかった。
もう何事も起こって欲しくない。
このまま平和がずっと続くように。
この幸せをずっと守れるように。
そう祈り続けたい───
─── 闇…。
見回しても何も見えない程の濃い闇。
「………」
闇は嫌いだ。
嫌な記憶が押し寄せて来る。
早くここから出たい。
身体が恐怖に震えているのがわかる。
…怖い………。
ここには居たくない………。
「………?」
ふと、人の気配を感じ、八戒は振り返る。
誰かが、居る…。
足音が一歩一歩近づいてくる。
─── 誰…?
「─── …自分……?」
何の光も無い闇の中だというのに、闇の中から出てきたもう一人の姿をはっきりと見ることが出来る。
はじめは鏡かと思った………。
でも違う…鏡では無い。
自分と同じ姿をした人間がすぐそこにいる。
「なんで………」
突然現れたもう一人の自分に八戒は慌てる。
目の前にいるのは、紛れもなく───自分。
姿も気配も全て自分と同じだった。
そしてなによりも自分自身が感じている……目の前にいるのが
自分であると───
「………して……」
もう一人の八戒がゆっくりと口を開く。
「どうして、貴方がそこにいるんですか?」
冷たい言葉……。
明らかに殺意を含んでいる。
「─── どういう事ですか………?」
もう一人の八戒は質問には答えず俯く。
そして顔を上げ八戒を一度睨み付けると後ろを向き、また闇の中へと消えていった。
「……な…に………?」
八戒は闇の中に一人立ちつくしていた。
八戒の唇から漏れた小さな呟きも誰の耳にも届くことなく闇の中へと消えていった………。
………あれは夢だったのだ。
八戒は目を覚ましてから何度もそう自分に言い聞かせた。
夢─── …ただの夢なんだ。
……それなのに頭の中にはっきりと残っている。
「八戒、どうかしたのか?」
朝からずっと浮かない顔をしている八戒に悟浄は心配そうにそう言う。
「いえ、少し夢見が悪くて……」
八戒はそうとしか言えなかった。
それしか分かっていない。
何か心にひっかかっている嫌な夢だった。
でも前の?に捕らえられていた夢を見たとき程はっきりと『悪夢』と言い切れるわけでも無い。
ただ、自分の目の前にもう一人の自分が現れるというだけのものにすぎない。
それなのにどうしてこんなに気になるのだろう。
ただの夢ではない、本能がそう告げている。
では、一体どういう意味だったのだろうか。
─── どうして貴方がそこにいるんですか?
その言葉の意味は……。
そして自分は何を言いたかったのだろう。
もう一人の自分は何を言いたかったのだろう。
そして…どうして自分は殺意を向けられなくてはならないのだろう。
分からない───
まだ足りないピースが多すぎて分からない。
でもこれだけで終わるとは思えなかった。
嫌でもこの先見えてくるのだろう………この出来事の全体が。
「悟浄……」
八戒は悟浄にそっと手を伸ばす。
「どうした?」
甘えるようにしてくる八戒を悟浄は優しく抱きしめる。
この幸せな時が終わりを告げる………。
八戒はそんな気がしてならなかった。
目を開ければ……広がるのはやはり闇。
あの夢だと八戒はすぐに分かった。
やはり一度きりでは無かったのだ。
ただの夢では無い───
まだ自分以外に誰もいない闇の中で何かが起こるのをただじっと待ち続けた。
それからそんなに時間は経っていないだろう。
闇の中からまたもう一人の自分が現れる。
前と同じ夢だ───
だが前回とは少し違う事に気が付く。
自分はもう一人の自分を見ているにも関わらず、互いの視線がかみ合わない。
もう一人の自分もこちらを見ている。
……でも自分を見ていない─── 見えていないのだ。
自分はもう一人の自分を見ることが出来ているのに、もう一人の自分は自分の事を出来ない。
何故だろう……前回は互いに見ることが出来たのに。
「………?」
闇の中からまた一人現れる。
真っ暗な闇に白いものが浮かび上がってくる。
その人物は真っ白な服を着ているのだ。
「…?健一………」
闇の中から現れた人物────それは白衣を着ているニイ健一。
なぜ彼がここに現れるのだろう。
………当然無関係ではないはずだ。
というよりも彼が今回の事の首謀者であると考えるのが正しいのだろう。
そう考えるのならば、この間見たニイに捕らえられる夢もすでに関係していると言える。
何故今更……あれから一年も経っているのに───
「………」
?の目にも八戒が写っていないのか、八戒の方を見ることも無くもう一人の八戒へと近づく。
そして突然もう一人の八戒の手を掴むと後ろに捻りあげる。
もう一人の八戒が苦しそうな顔をした。
?ともう一人の八戒は何か会話をしているようだが、八戒はよく聞き取れ無かった。
そんなにも離れている訳でもないのに。
自然と足が二人の元へと近付いていく。
何か、その会話がとても気になった。
半ば催眠術にかかったかのように、足が一歩一歩前へ進んでいく。
『猪八戒のクローン、本当に良く出来たよね。本物とどこもかわらない。芸術品だと思わない?』
「─── え…?」
?の言ったその言葉だけ鮮明に聞き取れる事が出来た。
そして会話の続きはまた聞き取れ無くなる。
どういうことだろう。
八戒は更に二人に近付こうとするが、そのとき急に闇が濃くなり、二人の姿は見えなくなってしまった。
─── 猪八戒のクローン……?
「………!」
目を開ければそこは自分の部屋。
目を覚ましてしまったのだ。
またせ知らなくてはいけない事は沢山あるのに。
─── クローン…。
あれは一体────
結局八戒はあれから朝まで眠ることができずにあの夢のことをずっと考えていた。
あの夢の意味するものは何なのだろう。
そして?の口から発せられた『クローン』と言う言葉。
─── 猪八戒のクローン、本当に良く出来たね……
自分のクローンが作られているとでもいうのだろうか。
それならば…夢の中で自分の前にいたもう一人の自分は───
あれは自分のクローンだったのだろうか。
本当に自分のクローンが作られていて、そのクローンは、今まだ?の所にいるのだろうか。
……そして今まだ酷い仕打ちを受けているのだろうか。
だからもう一人の自分は、自分に対して殺意を向けて来たのだろうか。
同じ『猪八戒』なのに自分だけが幸せになっているから───
だからクローンは自分の事を恨んでいるのだろうか。
………どうしたらいいのだろう。
このまま放って置くわけにはいかない。
でもどうしたら……。
ニイの元から助け出す……?
でも助け出した後、どうしたらいいのだろう。
同じ世界に同じ人間が二人もいる訳にはいかないのだ。
だからといって殺す訳にもいかない。
彼も今、命を与えられて生きているのだから。
どうしよう───
八戒の心に迷いと焦りが生まれる。
─── このことを悟浄に話さなくては………。
そう思い、八戒は立ち上がるがそのまま止まる。
悟浄はこのことを知ったらどう思うのだろう。
自分にクローンがいて、そのクローンがまだ?の元に居ると知ったら。
悟浄はどう想う……?
「悟浄─── 」
まだ行動を起こすのは早いかもしれない。
あくまでこのことは憶測にすぎないのだ。
何の確証もとれていない。
まずは本当に事実であるかどうかを………。
悟浄に話すのはそれから………。
少し眠るのが怖かった。
……事実を知るのが怖かった。
色々と考えすぎて、眠れないかもしれないと想ったが、意外なほどすぐに眠れた。
それすらも外からかけられた力なのかもしれなかったが───
今日の夢ではニイともう一人の自分の姿があった。
いつも初めは誰もいない闇なのに。
八戒はゆっくりと二人に近付いた。
二人の会話を聞くために。
真実を知るために───
『……いつまでこんな事を続けるのですか?』
ニイの膝の上に乗せられたもう一人の八戒が虚ろな目で呟く。
今日は全ての会話を聞き取ることが出来た。
それはまるで映像を見せられているかのようだった。
『さあ、何時までにしようか』
一体何の話をしているのだろう。
続ける…とは……?
こうしてニイがもう一人の八戒を陵辱する事だろうか……。
そしてニイがゆっくりと次の言葉を発する。
「…え……?」
八戒は自分の耳を疑った。
この男は……今なんと言った─── ?
心臓が止まるような衝撃を受けた。
まさかこんな事が……。
『誰も気が付かないね。本物のキミがココに居るって事』
そう言われたのはもう一人の自分……。
つまり、もう一人の自分こそが本物の『猪八戒』なのだ。
……と言うことは、今ココにいる自分は…クローン………?
『ボクの作ったクローンがそれだけ上手く出来ていたのかな。それとも君たちの友情も愛情もそんな程度って事かな』
上手く出来たクローン。
誰も気が付かない…。
そう…本人さえも………。
「そんな─── 」
クローンは自分の方だったのだ。
自分は?に作られたニセモノ…。
信じられなかった。
でもそれが事実なのだ。
『そうだ、こうしない?誰かがクローンのことに気が付いたらキミをお家に帰してあげるよ』
その言葉と共に二人の姿が消える。
そうして今度はもう一人の八戒だけが闇から現れる。
「ねえ、どうして貴方がそこにいるんですか?」
─── クローンなのに
「ねえ、どうして貴方が悟浄の側にいるんですか?」
─── ニセモノのくせに
「ねぇどうして貴方が幸せになるんですか?」
─── ………。
「本物は…僕なのに─── 」
「八戒、大丈夫か?」
目を開けるとそこには悟浄がいた。
「悟…浄……?」
これは現実?
「随分とうなされていたけれど、大丈夫か?なんか悪い夢でも見たのか?」
─── 悪い夢……そう言い切れてしまえばどんなに楽だろう。
ただの悪夢だったらいいのに。
……自分がクローンだったなんて。
未だに信じられない…。
でも現実なのだ。
「…悟浄……」
言わなくては……。
悟浄にこのことを言わなくては。
「どうした?」
……でも言ってしまえばこの生活は終わる。
このことを知ったら、悟浄は本物の八戒を助けに行くだろう。
そうしたら自分はどうなる─── ?
もう悟浄の側にいられなくなる。
それならいっそ……。
八戒の頭の中に卑怯な考えがよぎる。
このまま黙っていれば悟浄は気付かない。
悟浄は自分のことを愛し続けてくれるだろう。
なら─── このまま黙っていれば……。
このまま…自分が本物になりばいいんだ………。
結局八戒はこのことを悟浄には言わなかった。
そして、このまま自分が本物になる決意を固めていた。
自分だって『猪八戒』なのだ。
例え作られた命であっても、それでも『猪八戒』として生きる権利はある。
だからこのまま悟浄と暮らしていく。
そう決めたのだ。
それが例え人の道に反していようと……本物に恨まれようと構わない。
それでも、悟浄の側に居たい。
永遠に悟浄の側にいると決めたから。
でも分かってはいたがそれはかなり苦しかった。
罪悪感に苛まれながらも懸命に笑顔を振る舞った。
どんなに辛くても悟浄の側に居られるなら平気だった。
毎晩毎晩本物の自分に罵られてようとも耐える事が出来た。
でもどうしようもない時もある…。
それは─── 悟浄が本物の八戒のことを語るとき……。
「そーいや、お前が倒れてたのってこの辺だったよな」
ある日、街から返る途中の森の中で悟浄が八戒にそう言った。
「あん時は色々大変だったよな。覚えているか?」
「え…ええ……」
八戒は少し口ごもる。
確かに覚えてはいる────ただし植え込まれた記憶の中で。
でもそれを体験したのは自分ではなく本物の方。
そのとき自分はこの世に存在していなかった。
「あんときお前、なんか生きる気力もなくってすげえ儚げな感じでさ…。でもなーんか守ってやりたいとか思ったんだよな」
その時から好きだったのかもな、と小さな声で付け足し笑う。
八戒もそれに応じるように笑った……表面だけで。
本心ではとてもではないが笑うことなど出来なかった。
あの時から好きだった────つまり本物の八戒を愛している
ということなのだ。
それは───
「…あの……」
「ん、なに?」
「いえ、何でもないんです」
思わず、あの時の自分と今の自分とどちらが好きか聞いてしまいそうになった。
でもよく考えればこの質問は卑怯だ。
普通は『前の方が良かった』などとは言わない。
だから、ただ今の自分…つまりクローンである自分の方が前の自分…つまり本物の自分よりも好きだと言って欲しかっただけなのだ。
自分を愛していると言って欲しいだけ───
不安なんです…。
本物として生きると決め手も、本当に悟浄は自分を愛してくれているのかが。
自分を通じて見ている本物の八戒を愛しているだけな気がして不安になる。
「悟浄……」
「どうした、八戒?」
八戒はそっと悟浄に寄りキスを強請る。
何度口づけを交わしても不安はとけない。
「ん…や……」
何度身体を合わせてもそれでも不安は消えない。
「愛してるよ……八戒」
そう呼ばれる名前。
それは自分の事なのか、本物の事なのかわからない。
「あ…あいしてます……悟浄…」
だから自分を愛していると言って───
「八戒、愛してる……」
違う…『八戒』ではなく…『僕』を愛してるとそう言って……。
今ここにいる自分を……
「あ…ん……あああ……」
「…八…戒………」
ゲームオーバーですね…。
やっぱり無理だったんですよ。
ニセモノはどんなに頑張ってもホンモノにはなれない。
悟浄が愛しているのは『八戒』であって自分の事では無い……。
自分は猪八戒であるけれど猪八戒でない。
─── じゃあ自分は何なのだろう。
それすらもわからなかった。
でも分からなくてもいいから一度だけでも『愛している』と自分に言って欲しかった。
『お前を愛している』と───
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