SONATA 第二番 Op65
第一楽章
真夜中の廊下に足音が響く……。
その廊下に明かりは灯されておらず、廊下を歩くその男が持っている小さな明かりが男の足下だけを照らす。
男が歩く音だけが廊下に響いている。
他には何の音も存在しない。
もう皆が寝静まった城の中で一人の男が廊下を歩く。
まるで一目を忍ぶように。
明かりを持った手と反対の手には一人分の食事を載せたトレイ…。
暫く暗い廊下を奥へと歩いていた男の足が、ある部屋の前で止まる。
そこは誰も近寄らないような城の奥まった所にある小さな部屋…。
ずいぶん前から使われていないような部屋だ。
男はポケットから鍵を取り出し、部屋の扉を開ける。
真っ暗な部屋の中に……一人の青年が眠っていた。
「おいで……」
小さく呼びかけられたその声に青年は目を覚ます。
「ご飯の時間だよ」
そう言って持ってきた食事を床の上に置く。
「さあ、お食べ」
まるで親に隠れて飼っているペットに餌をやるように───
「君がここに来てから一年になるね」
ニイは八戒を抱き寄せるようにする。
「………いつまでこんな事を続けるのですか?」
八戒が虚ろな目で尋ねる。
こんな事を聞いても無駄だという事はわかっている。
もう何度も何度も……数え切れないほど尋ねた。
でも返ってくるのは曖昧な返事だけ。
例え『明日帰してあげる』と言われたところで簡単に信じれるものでもないし、気休めにもならない。
それに、この男から解放されても生きて帰れるなんて保証はどこにもないのだ。
それでも、八戒はまるで口癖のように?に問う。
『帰して』という代わりののように。
ここに来てから一年────
最初に捕らえられてから一年も経つのだ。
この部屋に連れてこられたのは何時のことだっただろう。
捕らえられて……初めのうちはニイの実験室に居た。
でも数日でこの部屋に連れてこられた。
実験室の狭いゲージの中よりはマシだったけれど、ここには光がない。
窓の無いこの部屋には光が入らない。
今が昼か夜かもわからない。
この部屋には時計が無いので、時間もわからない。
『一年』と聞かされ『もう一年』とも『まだ一年』とも考えられる。
もう時間の感覚など忘れてしまった。
ずっとこんな真っ暗な部屋に閉じこめられたまま。
昼も夜もわからない生活。食事は一日に一回だけ。
ニイが食事を持ってくる時間はどうやら夜中らしい。
………それがわかるだけ。
他には何も情報が無いから……。
もう一年この男しか見ていないのだ。
ニイが来るまでの時間は何もする事が無いから、ただウトウトと眠りにつくだけ。
初めのうちは悩んだり、苦しんだり、希望を持ったりと色々考えた。
でも、どれだけ悩んでも現況は変わらない。
どれだけ苦しんでも……どうにもならない。
どれだけ希望を持っても………誰も助けてはくれない。
もう疲れてしまった。
どれだけ考えても何も変わらないのならば、無駄なことだ。
もう何も考えない……考えたくないのだ。
だから眠っていた。
………現実から逃げるように。
そんな生活をしていたから、八戒の体力は確実に落ちていった。
もう逃げる力はおろか抵抗する力も無い。
でも……もう別に構わなかった。
……もう何も希望が無いのだ。
それならいっそ壊れてしまいたかった。
早く心を手放して楽になりたい………。
「さあ、何時までにしようか」
ニイが軽く笑う。
まだ君の事、飽きてないからねぇ、と笑い八戒を更に自分のそばに引き寄せる。
ニイの吸っていた煙草の香りが感じられるぐらい近くに寄る。
この煙草の香りにも、もうすっかり慣れてしまった。
今では悟浄の吸うハイライトの香りも、三蔵の吸うマルボロの香りも忘れてしまった。
……早く飽きてくれればいいのに───
八戒は心の中でそう呟く。
飽きて、殺して、捨てられてもいい。
こんな所でこの男のモノのように飼い慣らされるよりは。
でもそんな望みだって叶いはしないのだ。
分かっている…だからもう何も望まない。
「でも誰も気が付かないね。本物の君がココに居るって事」
「………」
そう……助けを待ったって、来るはずなんかない。
だって、誰も今ここに自分が捕らえられている事を知らないのだから。
だから助けが来るわけなんて無いのだ…。
「僕の作ったクローンが、それだけ上手く出来てたのかな。それとも、君たちの友情も愛情もそんな程度って事かな」
だから───
一年前、八戒が捕らえられて直ぐの事だった。
八戒の前に現れたもう一人の八戒。
「君のクローンを作ってみたんだよ。どう?ソックリでしょ」
まるで鏡の前に立っているようだった。
寸分違わない容姿……。
ゾッとした。
ドッペルゲンガーのようだった。
それは明らかに八戒であった。
自分と同じ細胞を持つ人間……。
でも、それは?が八戒の為に作ったただの玩具だ。
ただ、八戒の目の前で八戒を犯す事が目的だったから。
クローンは最初はただの人形だった。
外見は八戒の姿をしていたけれど、中身は違っていた。
ニイに忠実に従う人形だった。
八戒の目の前でクローンは素直にニイに従った。
その姿を見せたかったのだ。
それを見て、八戒が苦しそうにするのをニイは楽しそうに見ていた。
ただ、その為に作られた……。
だから……それだけで終わる筈だった。
それだけで終われば良かったのに。、
そうすれば、今頃こんな事にはなっていなかった……。
「折角だから、このお人形に君の人格を入れてみようか」
ただ、何気なく言った言葉。
それによって運命は大きく変わっていく。
八戒の姿の中に八戒の人格が入る。
そうして人形は人間になる。
クローンは自分がクローンである事を知らない。
自分が本物であることを疑わない……。
八戒の姿で八戒の記憶と人格を持つ、それは本物の八戒と何も
変わらない───
八戒そのものになる。
だから誰も気が付かない。
八戒がクローンとすり替えられていたなんて。
吠登城から助け出されたのが八戒本人ではなく、クローンであったなんて。
吠登城から救い出されたのも、記憶をなくしていたのも、全て思いだし苦しんでいたのも……本物では無くニセモノ。
誰も気が付かない────気付いていない………。
悟浄が告白をして結ばれたのも……本物ではなく偽物………。
八戒はずっとこの部屋に閉じ込められたまま。
誰も助けてくれない。
誰も救ってくれない。
誰も想ってくれない。
誰も…気付いてさえくれない………。
ニイから聞かされた。
悟浄が自分の事を愛していると。
それを聞いた時、とても嬉しかった。
……でも今、悟浄が八戒だと思っているのは本物の八戒ではなくクローン。
自分では無いのだ。
愛されているのは自分では無い………。
でも───
「そうだ、こうしない?誰かがクローンの事に気が付いたら君をお家に帰してあげるよ」
「…気が付いたら……?」
ずっと何処を見ているかも分からない瞳をしていた八戒が、その言葉に反応を示す。
今、この男は自分のことを『帰す』と言ったのか……?
八戒は自分の耳を疑う。
失っていた希望が戻ってくる。
ここから出て……悟浄の元に帰れるかもしれないのだ。
「そう。そう言うことにしよう。君の愛する紅い髪のお兄さんは、自分が愛しているのが本物ではないって気が付くかなぁ。でも、もう一年も気が付かないんだもんね。無理かな」
ああ…そういう事なのか……。
八戒の瞳に戻りかけていた光が消える。
この男はやはり自分を帰す気など無いのだ。
自分に期待させておいて、その望みが叶わず絶望するのが見たいだけ…。
「ねぇ、まだあの男の事を信じている?」
?が八戒の顎を掴み意地悪く問う。
それに対して八戒は何も答えなかった。
分からない……。
自分は悟浄の事を信じているのだろうか。
もう信じていない…そう思いながらも、心のどこかでまだ悟浄の事を信じている。
自分の事に気付いて…自分を救いに来てくれるのではないかと信じている。
でも……信じない。
期待すればするほど……後で辛いのだから。
だからもう信じないのだ……。
でも本当は心のどこかで信じている……?
信じていたかった。
…悟浄───
もう一年も悟浄に会っていない。
元気ですか……?貴方は元気なのですか?
…貴方に会いたい───
ずっとそれを望んでいた。
「彼が愛しているのは本物のキミ?それともクローン?」
…望んでいたのに………。
「この一年でキミとクローンにはどれぐらい違いが出たかなぁ」
ニイが八戒の首元に顔を埋めながらそう言う。
「…ど……どう言う事ですか?」
「分からない?」
耳の裏を舌で舐めあげる。
そして続いて八戒の柔らかい耳朶を甘噛みする。
その感触にじっと耐え、あがる息を必死に押さえる八戒を見て小さく笑う。
「キミは今、こうしてボクに抱かれているでしょ?」
ニイが滑らかな八戒の肌に手をおろす。
そっと腰の辺りを撫で上げる。
そして痩せて完全に浮き出てしまった肋の一本一本を指先でなぞる。
「や…ん……」
ニイに慣らされた身体は、それだけの事でも熱を帯びてくる。
「だけどさ……」
「あぁ…は……」
突然ニイは八戒の反応し始めたモノに手をかける。
八戒の身体が仰け反る。
「クローンはキミの愛するお兄さんに抱かれているでしょ?」
八戒のモノに直接刺激を与えると、八戒の唇から押さえられない嬌声が次々と溢れ出す。
八戒の先端から溢れ出す液体を先端から根元へと親指の腹で塗り込めていく。
「ボクの言いたいこと、分かった?」
あと少しでイキそうな八戒のモノの根元を手で締め付けイけないようにする。
「ゃ…あぁ……」
突然精を止められ、八戒が苦しそうにする。
まるで水からあげられた魚のようだ…。
もうニイの言っている事など耳に入っていないようだった。
「分かんないかな」
八戒の身体を裏返すと、後ろから一気に貫く。
「や……はっ…あぁん……」
すっかり慣らされてしまった八戒の後ろは、何もしていなくても易々と?を受け入れていく。
「ボクに飼い慣らされたキミの身体と、キミの愛する人に愛されているキミのクローンの身体は、どのくらい違うのかなって事だよ…」
ニイが部屋から出ていけば、また闇に戻される。
少しの光も無い闇に。
深い闇は心の中にまで広がっていく。
心の中の唯一の光まで消していく。
「…悟浄……」
何度も呟いた…。
自分を救う呪文のように何度も、何度も……。
悟浄が助けに来てくれるってずっと信じていた。
確かに彼は助けに来てくれた。
でも彼が救ってくれたのは自分では無かった。
ニイの作り出したニセモノ……。
『彼はニセモノのキミを連れて帰ったよ。可哀相に…本物のキミは置いていかれちゃったね』
ずっと信じていた人に裏切られた。
これはそれに入るのだろうか。
悟浄は僕のことを助けてくれるって信じていた。
例え…ニセモノを連れて行ったにしたって、自分を助けに来てくれたのは事実なのだから。
彼がニセモノに気が付けば……まだ自分がここに居るって気が付けば、きっと悟浄は来てくれる。
本物の自分を助けに来てくれる……。
そう信じているから。
だからまだその頃は心に光があった。
『キミの想い人はキミのことが好きみたいだね。良かったねー、両思いだよ。……でも今愛されているのはキミじゃないけどね』
悟浄が自分のことを愛してくれていた。
それはすごく嬉しかった。
すごく嬉しかったけれど……。
今、愛されているのは自分では無いのだ。
悟浄に愛されているのは……クローン。
自分はこんなにも不幸なのに、クローンは悟浄に愛されて幸せになっている。
…どうして───
本物は自分なのに。
『キミの大切な人とキミのクローン、幸せにやっているみたいだね。別に本物じゃなくても良かったのかな』
時折告げられるクローンの事が八戒の心に闇を落としていく。
希望も何もかも奪っていく。
もう信じることも出来ない……。
自分の居た場所に今、クローンが居る。
自分に向けられていた眼差しがクローンに向けられる。
今、悟浄に愛されているのは自分ではなくクローン。
本物は自分なのに……。
どうして彼が幸せになるの?
どうして自分が居るはずの場所に彼が居るの…?
どうして悟浄の側に彼が居るの……?
彼は自分のクローンなのに。
本物ではなく、ニセモノなのに。
影が本体を食らいつくす。
クローンが本物になったら……そうしたら自分はどうなる………?
影が本体になり…本体が影になる。
自分は…影になるのだろうか。
影になり、この闇の中で生きていくのだろうか。
……闇の中では影は映らない。
何も見えない…。
そうして自分は闇の中に消えていく────
「…悟浄……」
闇の中、手をのばしても何も見えない。
のばした伸ばした手さえも見えない。
本当にそこに腕があるのかさえも分からない。
だって……何も見えないから。
少しの光も無いから…何も見えない。
本当に自分はここに存在しているのだろうか。
それさえも分からなくなる。
いつか、このまま自分は消えるのだろうか。
だって、心の中にある光だってもうすぐ消えてしまうから。
そうしたら自分は本当に闇の中に……。
心の中までも闇に包まれる。
何も見えなくなる。
そうして存在すらもわからなくなるから。
そうしたら…自分は居なくなる………。
自分自身が居なくなる───
気が付いて…本物の僕に……。
僕を助けて………。
心の光が完全に消えてしまう前に…。
僕が…消えてしまわないうちに。
僕を闇の中から救い出して……。
貴方の光で………。
まだ僕が僕であるうちに───
─── 僕は本物?
…それとも…………影?
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