死の舞踏 Op55  

ー前編ー 

 旅から戻っても、俺と八戒はまた共に暮らした。
 その時、八戒は俺に自分の気持ちを伝えてきた。

『花喃のことを忘れたわけじゃないですけど…
 今は貴方を愛しています。ずっと貴方の側にいたい…』

 俺も八戒のことが気になっていた。
 だから八戒の気持ちを受け取った。
 その時は、そんなに深く考えずに。
 アイツが過去の呪縛から解き放たれたのならば…。
 ……でも、現実は違っていた…。
 アイツは過去の呪縛から解き放たれ…ただ、新しい呪縛に捕まっているだけだった。
 本当は何も変わっていない。


『お帰りなさい、悟浄』
 八戒はどんなに俺が遅く帰ってきても、起きて待っていた。
 二時とか…三時とか…酷い日には陽が昇ってから…。
 それでも八戒は待っている…俺のことを…。
『俺のこと待たずに早く寝ろ』
 といつも言っているのに…。
『読んでしまいたい本があったんですよ…』
 そうやってアイツはさらりと嘘を言うんだ。
 八戒の本を読む速さは決して遅くない。
 それなのにいつになっても読み終わらない本…。
 進まないページ…。
 お前は本を手に取ったまま、何を考えている?
 文を目で追うこともせずに…一体何を考えている?
 一度…俺が帰ってきたことに八戒が気付かなかったときに見た…八戒のあの表情…。
 綺麗な指が本にかけられているのにそのページはいつまでたっても動かない。
 まるで一枚の絵画を見ているようだった…。
 そして…よく見なければ気付かなかったが…。
 …光を宿さないうつろな瞳。
 目を開けていても何も見えていない…。
 …何を考えたらあんな瞳になるのだろう…。
 その後、俺に気付いた八戒は、いつもの表情に戻っていた…。
 いつものように笑い…さっきまでのが幻であったかと思えるぐらいに違いすぎて…。
 …それでも…俺は、八戒のあの瞳が忘れられなかった…。

 八戒のあんな瞳は見たくなかった。
 だから俺は八戒にもう一度早く寝るように言った。
 その次の日、家に帰ると電気は消えていた…。
 でも…気配で分かった…。
 八戒は起きている…。
 自分の部屋で電気もつけずに…。
 あの時のような暗い瞳をしていたのだろうか…。
 暗い部屋にただ一人で…。
 俺が朝まで帰らなかった日は…そのまま朝を迎えていたのだろうか…。

 俺は最近早めに家に帰るようにしている。
 夜が更けるたびに八戒の暗い瞳が頭をよぎるから。
 一人にしておけなくて…側にいてやる…。
 俺が側にいるときは…八戒は幸せそうに笑う。
 その笑顔を守ってやりたい…。
 そう思っていただけなのに…。

 いつの間にか…八戒の心の闇は広がっていた。
 病んでいる心…。
 俺が…アイツの心の支えになることによって…。
 アイツの中には俺しかいなくなった。
 アイツの目には俺しか映っていない…。
 いや…本当に映しているのは俺じゃないかもしれない。
 ただ支えになる一つの存在…。
 八戒は気付いていないのかもしれない…。
 だからよけいに痛々しい…。

 片羽根の蝶は飛べない…。
 飛ぶには誰かに引き上げてもらわないと…。
 そんな風に手を引かれている状態でその手を…
 もしも…その手を離したりしたら…。
 アイツは真っ逆さまに落ちてしまうから…。
 一度、空を飛ばせたら…もうこの手は離せない。
 一生…。

 もしも…俺がいなくなったら…アイツは…。

 

「で、そんなくだらないことを言うためにわざわざ来たのか?」
 俺の目の前で三蔵が超不機嫌な顔をして言う。
 顔には露骨に『カエレ』と書かれている…。
 まぁ、俺だって来たくて来たわけじゃないけど。
 こんなことを相談できるヤツなんて他にはいない…。
 まぁ、素直にお答えが聞けるとは思わなかったけど。
「で、お前はどうしたいんだ」
「え……」
 突然三蔵がぼそりと呟くようにたずねる。
「お前は八戒と離れる気はあるのか、と聞いているんだ」
「離れる気なんてねぇよ」
「じゃあ別にいいじゃねぇか」
 …確かにそうなんだけど…
「でも、万が一俺に何かあって…俺がいなくなったら…八戒は…」
 俺の頭の中に悲しそうな瞳をした八戒の姿が浮かぶ。
 八戒…
「万が一のこと考えてもどうしようもないだろう」
「それでも…」
「そんな風におこってもいないことでバカみたいに悩んでいるお前を見て八戒がどう思うかは考えたのか?」
「……」
 悩んでいる俺を見て…八戒が…?
「お前が悩んでいること、八戒が気付いていないとでも思っているのか?」
「………わかった…サンキューな、三蔵」
 俺はそう言って八戒の部屋を出た。
「…八戒を幸せにしろよ…」
 部屋を出る寸前にかすかに三蔵の声が聞こえた…。
 本当は…三蔵が八戒のこと好きだって知ってた…。
 だから、三蔵に相談するのをためらったけど…。
 でも相談して良かったと思う。
 …俺は八戒のことを愛している。
 どんなことがあっても…必ず幸せにする。

 


「ただいま」
「あ、お帰りなさい悟浄」
 八戒が俺のことを玄関まで迎えに来てくれる。
 そして、俺の顔を見ると、にこりと微笑んだ。
「よかった、もういつも通りの悟浄ですね。ここのところ元気がないから心配してたんですよ」
「………八戒…」
 俺は八戒を抱き寄せると強く抱きしめた。
「ちょっと、悟浄…どうしたんですか…」
 八戒が少し慌てるが、それでも抵抗せず俺に身を任せる。
 八戒の暖かさが俺の体に伝わってくる。
 心地の良い暖かさだ…。
「さ、悟浄。夕飯にしましょう」
「あぁ」
 …俺はお前を絶対に幸せにする…。
 俺が、お前を支えてやる……お前が空を自由に飛べるように…。
 だから…お前は…俺のために微笑んでくれ…。

 

 

「おはよー…」
 体がだるい…。
 昨日そんなに飲み過ぎたわけではないハズだ…。
 風邪でもひいたのだろうか…。
 今までに感じたことの無いようなだるさだ。
「おはようございます。…悟浄…顔色悪いですよ…。
 風邪ですか…?」
 八戒が心配そうに俺の顔を覗き込む。
「んー、季節の変わり目だしな。ま、そんなに大したことねぇよ」

 …本当に大したことないと思っていた。
 その気怠さはいつまでもズルズルと長引いた。
 それでも別にそこまで支障があるわけでもなかったし、普段通りに暮らしていた。
 いつも八戒が心配そうな顔をしていたけれど、そんなくらいのことで仕事を休むわけにもいかない。
 以前のように賭場で稼いでいるのなら休めるが、普通の職場に就職してしまった今では簡単に休むことも出来ない。
 ……クビになりでもしたら…。
 実質的に働いているのは俺だけだ…。
 だから、俺が働かないと生活がしていけない。
 まぁ、このだるさはそこまで仕事に影響もないし…。

 

「…悟浄!?」
 …俺はいきなり仕事場で倒れた…。
 急に胸が圧迫されるように苦しくて…。
 目の前が霞む…。
「医者を呼んで…あと八戒さんに連絡を……?」
 その言葉を聞いた途端…、俺はそいつの腕を掴んでいた。
「…八戒には言うな…」
 …何故かその時そう思ったんだ…。
 八戒に知らせてはいけないって…。
「…何を言ってるの、こんな時に…」
「言うな!」
 掴んでいる手に力が籠もる。
「…わかった…八戒さんには言わないから…」
 少し戸惑いながらもそう言う…。
 それを聞いた途端に俺の手から力が抜ける。
 さっきまでの力はどこに行った…というぐらい体に力が入らない。
 意識が…薄れていく…。

 

 

 あのあと医者に打たれた薬で俺の発作は完全におさまった…。
 あの時の苦しさはもうない…。
 でも、俺は息苦しさを感じていた。
 …これは精神的なものだ…。
「…………」
 信じられなかった…。
 自分の命が…あと半年だなんて…。
 そんなことを突然言われて…どうしろって言うんだよ。
 今まで築き上げてきた物が全て崩れていく…。
 あと半年という短い時間で…。

 


「ただいま…」
 俺は無理矢理苦しい顔を隠して家に入る。
「あ、お帰りなさい。遅かったですね」
 八戒が俺を笑顔で迎えてくれる。
 よかった…俺が倒れたことは知らないようだ…。
「ん、ちょっと残業でな」
 八戒に知られないように嘘をつく。
 八戒には知られたくない。
 あと半年以内に死ぬなんて…。
 俺がいなくなったらアイツはどうなるんだ…。
 急にそんなこと……。
 でも、いつまでも隠し通せるわけでもない。
 何とかしなくてはいけない……。
 どうすればいいんだ…。
 あと半年という短い時間で…俺はアイツに何をしてやればいい……。
 八戒を絶対に幸せにすると誓ったばかりだというのに…。
 アイツを深い悲しみのそこに戻すのは嫌だ…。

 どうすればいい……。

 何度も何度も自分に問いかける。
 答えを見つけだしたくて…。
 でもどれだけ考えても何も良い考えは見つけられない…。
 …一体どれだけこうして悩んでいたのだろう…。
 窓の外を見れば、空はうっすらと明るくなっていた。
 ……もうこんな時間なのか…。
 俺はふと八戒の顔が見たくなりそっと八戒の部屋に向かった。
 八戒を起こさないように八戒に近付く。
 静かに寝息を立てている八戒の顔は幸せそうで…。
 この幸せを作り上げたのは俺で…。
 この幸せを壊すのも俺…。
 そんなことはしたくないけど…俺が死ぬのは事実…
「…………」
 ソレナラバ…
 俺の頭に恐ろしい考えが浮かぶ…。
 ソレナラバ…
 その考えに支配されたように俺の手が八戒の首に回される…。
 ソレナラバ…共ニ死ノウ…
 共に死ぬ…
 八戒の悲しい思いをさせるのならば…このまま八戒を殺して俺も死のう…。
 そうすれば…二人はいつでも一緒だから…。
 だから…一緒に死のう…。
「……悟浄…?」
 手に力を込めようとしたその時、八戒がゆっくりと目を開けた…。
 俺は反射的に手を引く…。
 …今…俺は何をしていたんだ…
「…どうしたんですか?こんな時間に…」
 俺は今…八戒を殺そうとした…?
 手がガタガタと震えるのがわかる…。
 俺は八戒を殺そうとした…。
「………?」
 震える俺の手に八戒の手が添えられる。
 俺を安心させるようにそっと手を包み込む。
「眠れないんですか?」
 八戒が俺に優しく微笑む。
 そして、今寝ているベッドの半分を空けるように縁による。
「どうぞ」
 布団の端を捲り、俺にはいるように促す。
「…八戒…」
「もう大丈夫ですよ…」
 八戒が俺を優しく抱きしめる。
 八戒の体温が俺に伝わる。
 心地よい…。
 …俺はバカだ…
 一緒に死んだからって幸せになれるわけでもないのに…
 …本当は俺が一人で死ぬのが怖かったのかもしれない…
 でも、俺は決めた…
 何を犠牲にしてでも八戒を幸せにすると…

 


 俺が八戒を幸せにするためにできること…。
 それは…八戒を手放すこと…。
 八戒を他人の手にゆだねること…。

「今日も遅くなるんですか?」
「あぁ…もしかしたら帰んねぇかも…」
「そうですか…」
 八戒が悲しそうな顔をしているのを俺は知っている。
 それでも俺は八戒の顔を見ないようにする。
 今夜が雨だと言うことも知っている。
 それでも…俺はそのことを考えないようにする…。
 ワザと八戒に冷たくする。
 …その度に俺の胸は痛む…。
 きっと…八戒の胸も痛んでいるのだろう…。
 それでも…辛いのは今だけだから…。
 幸せになるために…。
 下準備は出来ている…あとは決行するだけだ。
 これで何もかもうまくいくハズなんだ。
 …だから逆らってはいけない…。
 ためらってはいけない…。
 どんなに八戒が辛そうにしても、悲しそうにしても、決して後ろを見てはいけない。
 …振り向いたら…今まで積み上げたものが崩れてしまうから…。
 共に悲しみの底に沈むだけだから。
 だから………。

 


「俺、今コイツとつきあってんだ」
 俺は八戒の目の前でそう言う。
 …もちろんコイツとつきあっているわけではない。
 このために頼んでおいた女だ…。
「そんでさ…俺、こいつとここで暮らそうと思うんだ…」
 八戒が言葉を失い、ただ立ちつくしているのを見ないようにして…。
「だからさ、出てってくんねぇ?」
 冷たい口調で言い捨てる…。
 …もう、これしかないから…。
「…あ…すいません…気が付かなくて…。
 すぐに出ていきますから…」
 八戒は震える声で無理矢理言葉を紡ぎだし、言い終わると同時に俺に背を向け走るように部屋を出ていく。
 …これでいいんだ…。


 一時間ほどして、八戒は小さな鞄を一つ持って部屋から出てきた。
 …目が紅いのは…泣いていたからか…?
「…悟浄、お世話になりました…。
 あとの残っているものは…勝手に処分してくださって結構ですから…」
 俺はずっと八戒の顔を見ずに横を向く。
 八戒は小さく頭を下げ…出ていった。
 その後ろ姿を…見えなくなるまでみつめた。

 これでいいんだ…。
 八戒はきっと三蔵の所に行くだろう。
 三蔵には前もって話がしてある。
 俺の代わりに八戒を守って…幸せにしてくれ…と。
 三蔵は八戒のことが好きだ。
 八戒も三蔵のことを信頼している。
 だから大丈夫だろう…。
 もう俺がいなくても…。
「悟浄…本当にこれでいいの?」
 ずっと俺の隣にいた女が俺にそうたずねる。
「あぁ…。アイツのこと任せられる奴がいるからな…。
 悪かったな…こんなことに付き合わせちまって…。
 気分のいいものじゃないだろ」
「そんな…」
 そう…この女は、ただ八戒を俺から話すための口実なだけ…。
 このためだけに頼んだ女だから…。
「悪役にさせちまったな…。もう帰っていいぜ…。
 そして…ここへは二度と来るな…」
「そんなことないわ。だって私…貴方のことが好きだもの…」
 女にそう言われても俺の心は何も反応しなかった。
 俺が求めているのは八戒だけだから…。
 もう二度と手に入らない…手に入れてはいけない。
 だからもう何もいらないのだ。
「…俺にはもう何もいらない…」
 望むのは…八戒の幸せだけだから…。
「私じゃ、あの人の代わりにはなれないの?
 本当に貴方のこと…愛しているのに…」
 今にも泣き出しそうな女の髪をそっと撫でてやる。
 女に泣かれるのは好きじゃない…。
「お前を必要としているのは俺じゃない…
 …お前はイイ女だよ…。
 だからこんな死にゆく男の側にいるべきじゃないんだ」
「…悟浄…」
 女が悲しそうな顔で俺を見る…。
 哀れみを込めるように…。

「貴方はそうして…一人で死んでいくの?」

 ……あぁ…
 八戒の幸せだけを願って静かに死んでいこう…。
 他に望むべきものなど…何もないのだから……。

 

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