死の舞踏 Op55  

ー後編ー 

 

 ただ歩き続けた…。
 休むことも忘れて…。
 歩いている間、何を考えていたのだろう。
 よく覚えていないが、わかっていることは悟浄のことであるということだけ。
 ……悟浄…。
 僕はもう貴方には必要とされていないのですね。


 長安に着いたのは、一体何日ぐらいしてからだろう…。
 飲まず食わず、睡眠をとることもなく歩き続けて気がついたら長安にいた。
 何故だかはわからないが、悟空と三蔵に会いたかった。


 僕は一体どうしたいのだろう。
 彼らに会って…自分を必要として欲しいとでも言うつもりなのだろうか。
 彼らには彼らの生活があるのに、それを僕のわがままで壊して、必要として欲しいだなんて甘えるつもりなのだろうか。
 そんなことは出来ない。
 自分の勝手な意思で彼らに迷惑はかけられない。
「あ、八戒ー」
 悟空が僕に気付いて声を掛けてきてくれたけど、僕はその瞬間悟空とは反対方向に走りだした。
 今の僕は二人に会うことは出来ない…。

 


 逃げるように走り続けて、突き当たったのは崖…。
 断崖絶壁というのがふさわしいのだろう。
 かなりの高さがあり、遠く下の方に湖が波を打っている…。
 ここから落ちたら…。
 今、ここから一歩踏み出せば…自分は死ぬだろう。
 きっとここなら死体も浮かび上がらない。
 死ぬのなら、そうやって誰にも知られずにひっそりと死にたい。
 まさにここはうってつけの場所ではないか…。
 もう誰にも必要とされていたいんだから…生きていても仕方がないじゃないか…。
 いや…、本当は悟浄だけ必要とされていればいい…。
 世界中の人が自分のこといらなくても悟浄だけが必要としていればいい。
 世界中の人が僕のことを必要としていてくれても…悟浄が必要としないなら…いる意味がないから…。
 悟浄だけが僕を必要としていてくれればそれでいいのに…。
 でも、もう貴方は僕のこと必要はないんですよね。
 だから、もう僕は生きている意味がない…。
 ここで消えよう…。
 全ての存在を水に帰そう…。
「…悟浄……」
 頭に浮かぶのは悟浄の姿…悟浄の声…。
 もう一度会いたい…。
 いいえ、そこまで贅沢は言いません。
 ただ、遠くからでもいいから悟浄の姿を一目みたい。
 わがままだってわかってはいるけれど…、最後に一目だけでいいから…貴方を見させてください。

 


 この街を出て、まだ数日しか経っていないのに、涙が出そうなぐらいに懐かしかった。
 あんなに長い間旅に出ていたときは何とも思わなかったのに…。
 懐かしのはこの街…?
 それとも、悟浄の姿を見られるということ…?
「おや、八戒さん。久しぶりだねぇ」
「あ、八百屋のおばさん」
 僕の姿に気が付いた八百屋のおばさんが話しかけてくる。
 オバサンは僕がこの街を出たことには気が付いていなかっただろう。
 元々、毎日街まで買い物に来ていたわけではないから。
「これ、悟浄に持っていっておやりよ」
 おばさんが真っ赤な林檎を一つ差し出す。
「あ…でも……」
 もう悟浄には会わないのだから。
 言葉を濁している僕をおばさんは違う意味に取ったらしい。
「お見舞いだよ…悟浄も大変だね…」
 少し悲しそうな顔をしておばさんが言う。
 …お見舞い……?
「…悟浄…どこか悪いんですか?」
 僕の言葉にはっとして口を噤む。
 そして気まずそうに目を逸らした。

 僕は街から家まで全力で走った。
 …信じられなかった。
 まさかそんな事って…。
 悟浄が……
 悟浄の命があと半年だなんて。
 どうして僕には言わなかった…?
 僕のために?
 じゃあ、あれも全て僕のためだったの…?
 …僕のためなんかじゃなくていい。
 他にいい女の人が出来て、僕のこといらなくなった。 それでいいから。
 それでいいから…悟浄が死ぬだなんて…嘘であってほしい。
 何かの間違いであってほしい…。

 

 家は静まりかえっていた。
 それでも人の気配はあったので悟浄はいるのだろう。
 僕はそっと家の中に入った。
 家の中は荒れていた。
 たった数日経っただけなのに。
 ところどころに色んなものが散乱していて、とても女と住んでいるという感じではなかった。
 ……悟浄…。
 僕は気配を殺して悟浄の部屋へと向かった。
 悟浄の姿が見たい。
 あんな噂、嘘だと信じさせてほしい。
 悟浄の部屋の前まで行って立ち止まる。
 今、部屋に悟浄はいる。
 でも、扉を空けることが出来ずにただ立ちつくす…。
「…………」
 その時、中から聞こえてきた…。
 悟浄が咳き込んでいる…。
 ただの咳じゃない…。
 扉越しに聞くだけでもそう思えた。
 …本当に貴方は……
 どんどん嫌な方に考えが進んでいく。
 怖く手足が震えているがわかった。
「……八戒…」
 突然中から扉が開き、悟浄が出てくる。
 その手に持っているタオルにできた、無数の赤い染み…。
 ……血……?
 血を吐いたんですか…?
「八戒、何しに戻ってきたんだよ!出てけって言っただろう!」
「…悟浄……」
 僕の目から涙がこぼれた…。
 悟浄に怒鳴られたから?
 それとも悟浄が本当に病気だったから?
 何が理由なのかはわからなかったけど、僕は涙を止めることができなかった。
「悟浄…貴方、病気だって本当ですか…?」
「お前には関係ない」
 悟浄は短く言い捨て、僕から視線を逸らす。
 …どうしてそんなこと言うんですか…
「僕はここにいてはいけないんですか?
 僕はここしか居るところがないんです…」
 それなのにどうして…
 どうして一人で死んでいこうとするんですか?
「……んで…」
「…え……?」
 悟浄が苦しそうに言葉を絞り出す。
「なんでわかんねぇんだよ!俺はただお前を幸せにしてやりたかっただけなんだよ。
 お前を悲しませたくなかっただけなのに…なんでわかってくれねぇんだよ!」
 …悟浄……。
 僕はそっと悟浄を抱きしめる。
 悟浄の心が痛い…。
「何故貴方もわかってくれないんですか…。
 僕にとって、貴方の側にいること以外に…幸せなんてないんですよ…」
「……八戒…」
「お願いします…貴方の側にいさせて下さい…」
 それだけが僕の望みだから…。
 それ以外に望む事なんて…何もない…。
「…わかった…ただし、一つだけ約束してくれ」
「………」
「絶対に自ら死を選んだりしないって…」
「…はい……」


 それが貴方の側にいる条件ならば、僕はどんなことでもします。
 どんなことでも守ります。
 貴方の側にいたいから。
 だから、貴方の側にいさせて下さい。

 

 

 

 それからの生活は…とても幸せとは呼べなかった…。
 悟浄が苦しそうにするのが辛くて…。
 悟浄が苦しそうにしているのが怖くて…。
 悟浄に死が近付いているのが目に見えてわかって…
 …逃げたくなってしまう。
 そんな悟浄のすがたをもう見たくない。
 …それでも側にいたい。
 そんな葛藤を胸に抱きながら毎日を過ごしていた。


「悟浄、大丈夫ですか?」
 僕の気孔では病気を治すことはできない。
 それでも、悟浄の苦しみを少しでも和らげることができるなら、と僕は毎日悟浄に気を送った。
 それが無茶なことだってわかっていた。
 それでも僕にできることは何でもしてあげたい。
 たとえ、この身が崩れても…それで貴方の苦しみが減るのなら続けていきたい。
 貴方のために…。

 

 

 


 ある日、三蔵が訪ねてきました。
「…三蔵…いらっしゃい。どうしたんですか…?」
 三蔵は僕の顔を見るなり、僕の腕を掴み上げた。
 …三蔵……?
「…お前、自分で今どんな状態かわかっているのか!?」
 …どんな状態…?
 そんなのどうでもよかった。
 いま、僕がどんな状態でも構わない。
「…悟浄」
 また悟浄に発作が起こって、僕はとっさに悟浄に気を送った。
「やめろ!」
 三蔵が僕の手を再び掴み、気を送るのを遮る…。
「放してください」
 三蔵の手を振りきろうとするが、力強く掴まれており、振り解くことができない。
 …どうして邪魔をするんですか?
「お前、こんな事続けてたら、悟浄より先にお前の方が死ぬぞ!」
「それでも構いません!」

 僕なんかどうなってもいい…。
 ただ悟浄がこれ以上苦しむのは耐えられない。
 …残された時間は余りに短くて。
 どうしたらいいかわからなくて…。
 今、僕にできることをただ必死ですることしかできない。
 …もっと何かをしてあげたいのに。
 ただ焦っているだけ。
 時間だけがどんどん過ぎていくのがわかった。
 時を止めたい…。
 今、苦しい状態で時を止めても仕方がない。
 けれど…それでも止まってほしい。
 これ以上と気が進まないでほしい。
 貴方と過ごしている時間が一分一秒でも長く続いてほしい。
 叶えられないとわかっていても僕は強く願う。
 僕と悟浄の時間を奪わないで…。

 残された時間はもう殆ど無い…。
 終わりの時が見え始める。
 毎日近付いてくる死の影に怯えながら暮らす…。
 一歩一歩死神が近付いてくる足音が聞こえる。
 このまま悟浄を連れて逃げてしまいたい。
 …そんなことをして死神から逃げられるわけではないけれど。
 どうしようもない気持ちだけが積もっていく。
 今、こうして繋いだ手から伝わる体温…。
 もうすぐ伝わらなくなるの?
 …怖い……。
 どうしようもなく怖い…。
 目を閉じて、全てから逃げてしまいたい。
 …それでも僕は目を開け続ける。
 この目の前に広がる紅を目に焼き付けるために。
 どんな貴方の仕草も忘れないように。
 深く深く心に刻みつける…。
「……悟浄…」
 僕の頬を伝って涙が落ちる。
 …どうして…
 どうしていつも僕から大切な人を奪うのですか?
 …ねぇ…神様……。
 僕が罪深いからですか?
 だから僕の大切な人を奪っていくのですか?
 それならば…僕はどんな罰でも受けます。
 この命を捧げてもいい…。
 だから…僕から悟浄を奪わないで…

 

 

「八戒…」
 悟浄が薄く目を開け、僕の名前を呼ぶ。
 僕は伸ばされた手を強く握り返した。
「悟浄…どうしたんですか?」
 僕は一生懸命笑顔で答える。
「ごめんな…幸せにしてやれなくて…。
 幸せにするって…約束したのに…」
「…悟浄……」
 悟浄の言葉に僕の目から涙がこぼれる。
 一生懸命我慢しようとしたのに…。
「悟浄…僕は幸せですよ。
 貴方に出会うことができて…そして、こうして貴方と一緒にいることができて…。
 それだけで本当に幸せです…」
 悟浄が幸せそうに笑った。
 そして指先で僕の涙を拭う。
「なぁ…キス…してもいい?」
「えぇ…」
 そういって重なり合う唇。
 ほのかな温もり…。
 今ここにいる証…。
 今生きているという証…。
「何度でもキス…して下さい。僕の全ては貴方のものなんですから…」
 何度も繰り返されるキス…。
 まるで別れを惜しむように…。


「八戒…愛してるよ…」

「えぇ…僕も愛してますよ…悟浄……」

 

 

 悟浄の声を聞いたのはそれが最後だった…。
 その後悟浄は意識を失った。
 医者の話では…もう目を覚ますことはないと…。
 それでも僕は悟浄を失いたくなくて延命措置をとった。
 ただのかりそめの命…。
 そんなの…ただ悟浄を苦しめるだけだともわかっていた。
 でも、僕は一パーセントもない可能性に期待していたのかもしれない…。
 もう一度悟浄が目を覚ましてくれることを望んで…。

 

 

「……悟浄……」

 繋いだ手から体温は伝わってくるのに…。

 貴方の鼓動も伝わってくるのに…。

 貴方は本当にもう目を覚まさないのですか…?

「…悟浄……」

 もう僕の名前を呼ぶことはないのですか…?

「……悟浄…」

 もう一度目を覚まして…。

「悟浄……」

 僕を見て…僕の名前を呼んで……

 

 


 ある日…悟浄の症状が変化した…。
 …悪い方向に…。
「…悟浄……」
 意識もないのにすごく苦しそうで…僕は罪悪感に潰されそうだった。
 僕のわがままで…
 悟浄を失いたくないからって…無理に悟浄の命を延ばして…。
 ただ悟浄が苦しむだけなのに…。
「…悟浄……ごめんなさい…」
 それなのに…まだ僕は自分のわがままで…悟浄を失いたくないってわがままで悟浄を縛り付けている…。
 悟浄の体を抱きしめる。
 そして全身で気を送り続ける。
 まるで悟浄をどこにも連れて行かせないようにするかのように。
 ずっと悟浄を抱きしめた…

 

 

 

 


 目を覚ますと自分の部屋の天井が目に入った。
 自分の部屋のベッド…なんでここに…。
 起きあがろうとするが体に力が入らない…。
「気が付いたか…」
「三蔵…貴方がここに運んでくれたのですか?」
 僕の額に水で絞ったタオルが置かれる。
「……あんな気の使い方をすれば倒れるのは当たり前だろう…」
 ………。
 そうか…僕は悟浄に気を送り続けて…それで…
 …悟浄……
「…悟浄は……」
 僕の質問に三蔵は視線を逸らす…。
「…悟浄は死んだ…」
「…そうですか…」
 …悟浄……
 僕の目からたくさんの涙が溢れてくる。
 僕は涙を止めることもできず、ただ声も出さずに泣いた。
 ……悟浄…
「…ヤツは幸せそうだったぞ」
「………」
 幸せそう…?
「あんなに苦しかったのに、ヤツの死に顔は幸せそうだった」
「…そうですか……」
 …悟浄…貴方は幸せでした…?
 本当に幸せだったんですか?
 僕は貴方に何もしてあげられなくて、貴方を苦しめてばかりだったのに…それでも貴方は幸せだったといってくれるのですか…?
「…三蔵…経を読んでもらえますか?」
「悟浄のためか?」
「…いえ、僕のためにです。
 悟浄と約束したんです。生きるって…」

 

 

 

 


 悟浄…。
 貴方と約束したから僕は今生きています。
 貴方と暮らしたこの家で……。
 本当はこの家を離れて一人で暮らそうかと思いました。
 だけど、この家は貴方が残したものだから…。
 だから僕はこの家にいます。
 貴方との思いでは捨てられない。

 …でも、この家で暮らすのは辛いです。
 一人で暮らすにはこの家は広すぎます…。
 そして…貴方がいないということを実感する。
 あまりにも貴方との思い出が多すぎるから…。
 この家で…貴方はいつも笑っていて…。
 …僕が何度も空き缶を灰皿にしないで下さいとか、洗濯物はすぐに洗いに出してくださいとか…毎日毎日いうのに…貴方はやってくれなくて…。
 僕はいつも怒るのに…それなのに貴方は『ワリィワリィ』って、反省してないような顔で笑って…。
 しょっちゅう無断外泊したり…いろいろ街で問題を起こしたりして…それで……
 それで…それで……
「…悟浄…」
 こんなにも貴方との思いでは残っているのに…
 それなのに…どこを探しても、もう貴方はいない…。
 …貴方に会いたい……

「…悟浄……」
 手に持った剃刀で左の手首を切った…。
 そこから真っ赤な血が溢れ出る…。
 冷たい水に浸すと気持ちよかった…。
 血が水に溶けて、水が真っ赤に染まる。
 綺麗な紅い色点。
 まるで悟浄の髪のよう…
 風にさらさらと流れる悟浄の髪…
 まるで悟浄の瞳のよう…
 僕を見つめる悟浄の瞳…
「…悟浄……約束を破ってしまって…貴方は怒りますか?」
 生きるって貴方と約束したのに…。
 ……約束…破ってしまいますね…。
 貴方と約束したから…一生懸命生きようと努力したけど…。
 やっぱり…貴方がいないとダメなんです。
 貴方に会いたい…。
 貴方との約束…破ってしまったけど…どうか僕の願いを聞いて下さい。
 …わがままばかり言ってしまうけど…
 でも…最後のわがままだから…
 だから、このわがままを叶えてください…
 …悟浄……

「もう一度…貴方に会わせてください…」


 

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