わすれな草 Op152


「いらっしゃいませ」
「こんばんは。八戒さん今日も美人だね」
「……ありがとうございます」

 何も変わらない生活。
 変わったのは……住む場所だけ……。


 ここは長安から離れた街。
 それなりに大きな街で雑然としていて……誰も他人の事を気にしない。
 そんな、身を隠すには調度いい街だった。
 ……そんな街にしか今は居られない。
 また悟浄に騙されて……騙されたとはいえ、三蔵を刺してしまったのだから。
 三蔵は……大丈夫だろうか。
 そんな考えが時折八戒の心を流れていく。
 あの時は頭に血が上っていて、あの時の事をよく覚えていない。
 何処を刺したのかも、どのくらい刺したのかも……。
 三蔵が死んだという噂は聞かないから、生きてはいるのだろうか。
 …きっとそうだ……だから大丈夫。
 そう何度も心の中で繰り返す。


「八戒さん、今日何時に上がり?
 その後ちょっと付き合わない?」
 店の客が八戒に軽く声を掛ける。
 八戒の職場となっているこの店は身売りではないものの、酒を扱っているガラの悪い店でこんな誘いも耐えない。
「そういうお誘いはお受けしていませんから」
 八戒はいつもの通りそう返す。
 もう……前とは違う。
 素性のしれない自分はまともな職には就けなかったけれど、せめて……身売りだけは……。
 そう思っていた。
「なら何でアイツの誘いは受けるのさ?」
 男はそう言い、店の端に座っている男を指す。
 八戒はその男をちらりと見て、目を伏せた。
 その男はこの店の常連、そして今と同じ様に誘いを掛けてきた。
「……………」
 その時も断るつもりだった。
 でも……断れなかった。
「店上がったら電話してよ。な、八戒」
 男は軽い口調でそう言い、店を出る。
 きっと今日も断れない……。
 その理由は……ただその男が赤い髪をしていたから。
 身に纏うオーラが悟浄と似ていた。
 だから断れなかった。
 
 ……自分はまだ悟浄の呪縛から逃れられていない……。




「ただいま……」
 誰もいない自分の部屋に戻ったのは、夜中というよりも明け方に近い時間だった。
 一人小さく呟いて部屋の扉を開ける。
 必要最低限の物しか置かれていない部屋は、孤独を更に強調した。
 仕事の後に男の部屋に寄るのは、この寂しい部屋に一人で戻りたくないのもあった。
 一人にはなりたくない……嫌な事を沢山考えてしまうから。
 八戒は自嘲気味に溜息を吐き近くにたたんである毛布を引き寄せた。
 もう寝よう……そう思うのに、気はいつまで経っても休まらない。
 何も考えたくなくて、夜の仕事の他に昼にも雑用の仕事を入れている。
 まあ、それぐらい仕事をしなければ生活出来る程のお金が入らないという事もあってではあるが……。
 だからもう数時間後には次の仕事が始まる。
 少しでも体を休めなくては……そう思うのに、疲れ切った体とは裏腹に頭は全く眠りにつこうとしなかった。
 目を閉じれば……瞼の裏に映る……あの人の姿。
「悟浄……」
 自然に唇からその名前が零れる。
 何も意識しなくても、それでも自分はいつでも悟浄を求め続けている。
 どれだけ苦しめられても……離れても、彼の事を忘れられない。
 八戒は小さく苦笑した。
 馬鹿みたいだと……自分が。
 騙されて、使われて……騙され続けて、そして逃げてきたのに何も変わらない自分に。
 未練たらしく悟浄に似た赤い髪の男にばかり身を寄せて……一時の幻想を求め続ける。
 なんて自分は……馬鹿なのだろう。
 いつまでも……いつまで経っても……。





「………………ッ!?」
 陽の光が差し込み始め、ようやく八戒がウトウトとし始めた時、部屋に大きな音が響き渡る。
 慌ててその音の方を見れば、そこには破壊された扉。
 ……そして逆光で浮かび上がる一人の男のシルエット。
 悟浄……?いや、違う……。
「ご……悟空……」
 そこに居たのは……妖力制御の解けた悟空。
「探したぜ、八戒」
 そう言いながら悟空はゆっくりと八戒に近づいてくる。
「悟空…どうしてここに……」
 明らかに気迫の違う、まして制御の解けた状態の悟空に八戒は震える声で言い、立上がる。
「………ぐっ!」
 その瞬間八戒の体は強い力で壁に叩き付けらる。
「悟空………?」
 悟空はそのまま片手で八戒の首を持ち、壁に押しつけた。
 たった片手だけなのに、その強い力に八戒の息が詰まる。
 苦しそうに顔を歪める八戒を見下ろし、悟空は口を開く。
「八戒、あれから三蔵がどうなったか知ってる?」
 それは悟空とは思えない程冷たい口調だった。
 八戒を見下ろす視線も凍る程冷たい。
 八戒の首を押える手には徐々に力が込められていく…。
「あ………」
 悟空の言葉に八戒は言葉を返せられなかった。
「三蔵はな、失血のせいで今はもう寝たきりの状態なんだよ!」
「………………」
 三蔵が……寝たきり。
 自分のせいで……。
 悟空の悲痛な叫びが八戒の胸を締め付ける。
「悟空……」
 締め上げられる力に八戒の意識が遠のきかける。
 このまま死ぬのか……と思ったとき、八戒の首を絞める手がゆるむ。
 代わりに八戒の体は床へと勢いよく落下し叩き付けられた。
「…あ……」
 悟空は上から八戒を冷たく見下ろし、再び手を伸ばす。
 しかしその手は、首ではなく胸ぐらに伸ばされ、八戒の衣服が音を立てて引き裂かれる。
「や……悟空……」
 何が起きたのか分からない八戒に悟空は笑いながら八戒の服を引き裂き、床に押し付ける。
「俺八戒の事調べたよ。
 色んな男と寝たんだろ?……三蔵とも」
「悟空……それは……」
 八戒の言葉はもう悟空には届かない。
 悟空は残虐な笑みを浮かべたまま八戒を追いつめていく。
「誰とでもいいんだろ?ヤレれば。
 なら俺がヤッてやるよ。
 八戒をヤリ殺してやるよ」
 そう言うと同時に八戒の奥に悟空のモノが押し当てられ、一気に最奥まで押し進められる。
「やぁぁ……いやぁ!」
 引き裂かれる様な痛みに八戒の喉から悲痛な声が漏れる。
 それでもお構いなしに悟空は八戒に己を突き立てる。
「コレが好きなんだろ?」
 悟空の声がどこか遠くに聞こえる。
 意識は遠いのに痛みだけがはっきりと感じられる。
 苦しい……。
「このまま殺してやるよ。
 ヤリ殺されるんなら本望だろ?」






「悟空……」
 小さく呟いて八戒は目を閉じた。
 体の節々が悲鳴を上げているのが分かる。
 それなのに意識は遠く、ここにないかの様だった。
 このまま自分は死ぬのだろうか……。
 でもそれは仕方がないのかもしれない。
 自分のした事を考えれば。
 三蔵の事を考えれば……もう自分は死んで償う事しかできないのかもしれない。

 死は怖くない……。
 これから……この先生きていても、もう何の為に生きるのかも分からないのだから。
 だから、すべてに終止符を打つために目を閉じて……静かに死を待った。


「……悟空……?」
 しかし、いつまで待ってもそれは訪れなかった。
 自分の頬にかかるなま暖かい液体……血……。
 でもそれは自分の物ではない。
 目を開ければ、ゆっくりと倒れ込む悟空の姿は視界に広がる。
 そしてその後ろには……。
「悟浄?」
 あの日からずっと会っていない悟浄の姿。
 どうして、今ここに……?
 悟浄が……自分を助けてくれた……?
「悟浄…待って下さい」
 何も言わずに部屋を出て行こうとする悟浄に、八戒は痛む体を圧して立上がり悟浄を追う。
 何故今になって自分を助けてくれたのだろう。
 自分なんて悟浄にとってただの捨て駒なのに。
 ここに居ることだって何も知らせていないのに……。
 こんな遠い街にいる自分を……捜してくれた?
 そして殺されそうになっていた自分を……。
「悟浄……なんで何も言ってくれないのですか?」
 分からない……悟浄が……。
 また騙されているの?
 それとも本当は……。
「八戒……離せよ……」
 悟浄が小さく呟く。
 今までの様な怒鳴る声ではなく、小さく……掠れる様な声で。
「離しません……」
 離したら……悟浄が消えてしまいそうで……。
 一体悟浄に何があったのだろう。
「……みっともないだろ……」
「え……」
「見ろよ、このボロボロの格好を」
 そう言われて八戒は悟浄の姿を見る。
 ボロボロに汚れ、破れた服。
 無精ひげの伸びた顔は血色も悪く痩せこけていた。
「天罰が当たったのかな。
 ずっとお前を騙してたからさ」
 ぽつりぽつりと懺悔の様に漏れる言葉。
 その言葉を八戒は黙って受け止めた。
 胸が苦しい……。
「あれから仕事も失敗して、仲間にも女にも逃げられた。
 俺にはもう何も残っていないんだ……ああ、借金は山ほど残ってるがな」
「悟浄…」
 自嘲じみた笑いに八戒の目に涙が浮かぶ。
 悟浄が……可哀相で……。
「どうして此処に……?
 なんで僕を助けてくれたんですか?」
「……さあな、たまたまだよ」
 嘘だ……。
 偶然なんて事あり得ない。
 それが貴方の……償い?
「じゃあな……」
 そう言って歩きだした悟浄の背中がとても遠くに感じられる。
 このまま……離れてしまうの……?
「まって……一緒に……貴方と一緒にいちゃだめですか?」
 その言葉に悟浄は驚き、振り返る。
「マジで言ってんのか?」
「はい……」
 その言葉には不思議と躊躇いはなかった。
「俺はお前にあんな酷い事したんだぞ」
「……はい……」
 それでも……もう何も後悔はない。
「……俺じゃ、お前の事幸せ出来ねえぞ……」
「はい、それでもいいんです。
 それでも……貴方の側にいてもいいですか?」
 貴方は助けてくれた。
 もう捨てたこの人生を。
 だから、残りの人生をもう一度悟浄の為に使いたい。
 そんな顔をしている貴方を放ってはおけない。
 役に立たないかもしれないけれど、それでも一緒にいたい。
 生き方に不器用な貴方の為に……。
「八戒……」
 涙が頬を伝う。
 可哀相な悟浄……そんな貴方の力になりたい、少しでも。
「帰りましょう、悟浄。
 ……二人であの家へ」

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