SONATA 第二楽章 Op1−4
「…いや…やめて……」
頭を抱え込み、自分を守るようにして踞る。
戻った記憶は、あまりにも八戒には重すぎた。
このままでは自分を押し潰されてしまう…。
「……八戒…」
これ以上見ていられない。
ある意味陵辱されている姿を見るよりも辛かった。
「…八戒…」
呼びかける声は届かない。
差し伸べる手も彼には見えていない。
見えていたところでその手を掴むことはないだろう。
「八戒…」
このままでは、八戒の心は本当に壊れてしまう…。
悟浄は自分の手を見つめる。
自分は八戒に何をしてやることが出来るのだろう。
自分がとった行動により…八戒は今、よけいに苦しんでいるだろう。
…それを詫びるためではない。
八戒のことを愛しているから…だから八戒を救いたい。
でも、どうすれば八戒のことを救うことが出来るかわからない。
全てを拒絶している八戒には…近付くことすら出来ない。
───
それならせめて…
「八戒…ワリィ」
「……ッ…」
悟浄は八戒の身体を抱き起こすと、その鳩尾に拳を叩き込む。
八戒が気を失い悟浄の腕の中に倒れ込む。
今は…一時凌ぎに過ぎなくても、八戒を苦しみから解放してやりたかった。
まだ気を失っていた方がマシだろう。
根本的な解決はまだ何も見えておらず、ただ一時的に苦しみを減らすだけ…。
それでも…他に何も方法が見つからないから。
「…戻ろう」
「あぁ」
これ以上ここにいても仕方がない…。
三蔵と悟浄は、気を失った八戒を連れて悟空の待つ宿へと戻った。
宿に着き、悟浄は八戒を部屋のベッドへと寝かした。
数日前と同じように…。
数日前と違うのは、八戒の首に嵌められていた首輪が今はないということ。
───
そして、あの時無かった八戒の記憶が…今はあるということ……。
あの時よりも今の方が状況が悪い。
八戒の額に水で絞ったタオルを載せる。
顔色は悪かったが、綺麗な寝顔だ…。
眠っている間は苦しまないのであれば、ずっと眠ったままにしてやりたい。
今はこんなに落ち着いているのに…。
目を覚ませばまた苦しむのだろう。
綺麗な顔を歪ませ、苦しみに耐える。
透き通るような翠色の瞳には涙が浮かぶのだろう。
決して強いとは言えない心の中では…一体どんな感情が渦巻くのだろう。
「八戒……」
守ってやりたいのに…自分たちにはどうすることも出来ない。
数日前…八戒が森で攫われたとき、どうしてその時に助けることが出来なかったのだろう。
どうしてその時気が付くことが出来なかったのだろう…。
─── アイツが危機に晒されている時、何も知らず、何も感じないで…
八戒もこんな気持ちだったのだろうか…。
もう遅いのか…?
もう八戒を救うことは出来ないのか…?
八戒を救いたい。
…どんなことをしてでも。
もう八戒が傷つかないように
───
「八戒…気が付いたのか…」
悟浄が水を替えに行って戻ってくると、八戒は目を覚ましていた。
その様子は不思議なくらいに落ち着いて見えた。
ベッドの上で上半身を起こし、ぼんやりと窓の外を見つめている…。
吠登城で見せたような様子はどこにもない。
「悟浄…。
すいません、御迷惑をかけてしまって…」
八戒がそう言って小さく笑う。
いつものような笑顔ではなく、どこか無理したような微笑み…。
「気にすんなって。それよりもまだ体調完全じゃねーんだろ。寝てろよ」
悟浄もそれに対して気付いていないかのように無理をして明るく振る舞う。
前のように記憶が無いというわけではない。
八戒はあの時のことを思いだしてしまっている…。
八戒の心の中は今どうなっているのだろうか…。
仲間に心配をかけまいとし、無理に平気なフリをする。
本当はすごく辛いのだろう…。
でも、悟浄にはどうすることも出来なくて…せめて、そんなことに気付かないフリをする…。
「八戒、気が付いたの?」
八戒が目を覚ましたことに気付き、悟空と三蔵が部屋へと入ってくる。
「…悟空、三蔵……」
「八戒顔色ワリィじゃん。
寝てなきゃダメだよ」
まだ上半身を起こしたままだった八戒を悟空が布団の中へと沈める。
「…悟空、この間はすみません。
身体…痛くないですか?」
宿を出る前に八戒は悟空に当て身を喰らわせ、気絶させた。
いつものように気孔でなら相手にあまりダメージを与えることなく気絶させることが出来るのだが、あの時はようりょくを封じられていたため力任せになってしまった。
きっとかなり痛かっただろうと、八戒はすまなさそうな顔をする。
「あ…うん、平気。
あれくらいなんともねーよ」
悟空が笑顔で八戒に返すが、その笑顔はどこかぎこちない感じがする。
悟空が城へ行かなかったものの、大体のことは三蔵から聞いていた。
だから素直に笑うことが出来なかった。
「三蔵、なんだか御迷惑ばかりかけてしまいましたね。
僕もう大丈夫ですから……。
何時までもこんなところで足止めをくらっている場合ではありませんよね」
だから旅の続きを…と八戒は言う。
「八戒…」
八戒は大丈夫だというものの、どう見ても大丈夫という感じではなかった。
しかし、八戒が三蔵のことを無言のまま見つめる。
これ以上迷惑はかけられない…八戒の目が三蔵にそう訴えていた。
「…出発は三日後だ。
それまでに体調を整えておけ」
「……はい」
三日後からまた旅が続行された。
「遅れを取り戻さなくてはいけませんね」
そう言い、ジープのハンドルを握る八戒の顔色は三日前よりは良くなっているものの、まだ完全とはいえなかった。
本当はもう少し休んでいた方がいいだろう。
しかし、一日中寝かしているのも酷だろう。
あまりに時間がありすぎるから。
嫌なことを思い出し、考える時間がありすぎるから。
それは八戒にはあまりに辛すぎるだろう。
それくらいなら少し無理をしてでも旅を続けた方がまだマシだろう…。
他のことをしていれば、まだ嫌なことを思い出す時間が減る。
それぐらいしか八戒の苦しみを減らす方法が思いつかないのだ。
せめて時間の流れと共に八戒の苦しみが少しずつでも消えていけば……。
でも、時の流れは八戒の傷を癒してはくれなかった。
八戒の顔色は相変わらず悪い…。
そして、日に日に痩せ衰えていった。
表面上では平常を装い笑顔を振りまいている。
だが、内面は今にも崩れ落ちそうなくらいに傷だらけだった。
隠してはいたが、食事は殆ど取っていなかった。
食べ物が喉を通らないらしく、食事の後吐いていたことさえあった。
そして夜は殆ど眠っていない。
───
眠れないのだ。
特に一人部屋の時はまだしも同室者がいるときは全く眠っていなかった。
同室者が眠った夜半に部屋を出ていき、明け方まで戻らなかった。
…怖いのだ。
人が…そして、何よりも自分が……。
首輪をされていたときの記憶が押し寄せる。
それがあまりにも鮮明すぎて…。
悟浄を、三蔵を求めた自分。
いくら意識がなかったとはいえども、あんな浅ましい姿を仲間に見せてしまった。
今はもう首輪はない。
だからといって大丈夫だという保証などどこにもないのだ。
もしかしたら、また夜中に自我を失うかもしれない。
その想いが八戒を苦しめ悩ませる。
闇が全てを映し出す…。
もちろんそんな八戒の様子に悟浄と三蔵…そして、悟空までもが気付いていた。
だが、誰も何も言わなかった。
わかっていても…やはりどうすることも出来ないからだ。
八戒のオーラが全てを拒絶していた。
───
仲間でさえも。
だからそっと見守っていた方がいいのだろう。
八戒の心の傷が少しでも癒えるまで…。
この先何事もなければ
───。
何もなければ八戒の心の傷も何時かは癒える。
過敏になった警戒心もいずれは治まるだろう。
このまま何事も起こらなければ…。
そう望む。
だけど、その願いは永くは持てなかった…。
それが起こったのは数日後のことだった。
いつものように雑魚の奇襲。
あまり歓迎できるものでもなかったが、今なら少し歓迎できるかもしれなかった。
旅を続けている…とはいえ、大半の時間はジープでの移動である。
何かしていれば嫌なことを考えずに済むとはいえ、ジープの運転程度では、ベッドで横になっているのや、ただ座っているのに比べれば気が逸れるだろうが、完全ともいえない。
ジープを運転しながら何を考えているかはわからない。
それに比べて、敵を相手に戦うのであれば、その時だけでも考えずに済むだろう。
それに何かが変わるかもしれないと思った。
少しでも気が晴れれば…と。
でも、それが誤った考えであったことにすぐに気が付くことになる。
今回の雑魚敵の奇襲…その数はかなり多かった。
だが、手こずるほどのものでもなかった。
いつものように転々と敵を潰す。
八戒も次々と自分に向かってくる敵を気孔で倒していく。
ぱっと見た目では普通の様子だった。
だが、三蔵は八戒の様子に微妙な違和感を感じた。
見逃してしまいそうな僅かな違い…。
八戒を取り巻くオーラが違うのだ。
敵に向けている殺意…それがいつもよりも強い。
そして、その敵意に隠れていて、なかなか掴めない気…。
これは…脅え……。
殺意に時折見え隠れする脅え。
それが相互作用で殺意をふくらませていく。
静かに膨れ上がっていく殺意…。
それはまるで風船のように張りつめていく。
「…八戒!」
三蔵が八戒の名前を呼んだとき、不意に敵がうしろから八戒の肩を掴んだ。
その瞬間、大きく見開かれた翠の瞳。
「伏せろ!」
三蔵は咄嗟に悟浄と悟空を地面へと倒す。
八戒が大きく目を見開いた…それだけのことだったが、一瞬にして計り知れないほどの殺意を感じた。
目が眩むほどの光が一体に広がる。
大きな気が竜巻をおこす。
光と風がおさまった後にそっと顔を上げる。
そこで目に映ったのは…原形をとどめていない大量の妖怪の屍。
「なんだよ、これ……」
辺り一面に血の臭いが広がる。
もしもあのまま立っていたのならば、自分たちも無事ではいられなかっただろう。
そう考えるとゾッとした。
あの瞬間、張りつめていた八戒の気が一気に放出された。
まるでふくらませた風船が破裂するように…。
「八戒…」
多くの屍の中心で、八戒は踞ってすすり泣いていた。
「まさか、これ程までとはな…」
薄暗い部屋のベッドで八戒は眠っていた。
窓の外では八戒の心を移すかのように空が大粒の涙を零していた。
あのまま気を失った八戒は一向に目を覚まさない。
かなり衰弱していた。
「体内の気を殆ど放出したみたいだな」
あれだけの力をおこすほどの気だ。
半ば暴走のようなもの。
八戒の額に濡れたタオルを起きながら悟浄が言う。
自分たちの考えが甘かったのだ。
時間を置くだとかそっとしておくだとか言って、実際のところは何もしていないのだ。
いつか時間が経てば良くなるなんて保証もないようなことを言った。
何か他のことをしていれば気が紛れるなんていいかげんなことも言って…。
そうして今回のことが起こってしまったのだ。
…自分たちの責任だ。
八戒のことを何もわかっていなかった。
わかったフリだけして、実際にはわかっていない。
そして、よけいに八戒を傷つけた。
きっと目を覚ましたら八戒はもっと傷つくのだろう。
八戒のことを救いたい。
もうこれ以上傷つけたくない。
多少無理をしてでも八戒を助けなくてはならない。
これ以上八戒が傷つかないように。
「八戒…」
悟浄は八戒の前髪にそっと手を伸ばす。
青白い顔色…まるで血が通っていないかのようだ。
?の元から助け出したときより、もっと白い。
振り出しよりももっと前に戻ってしまった。
自分のせいだ…。
自分がもっとちゃんとしていればこんなにならなかったはずだ。
───
悟浄…。
一緒に暮らしていた頃、自分に向けられていた笑顔…。
肌の色は元々白かったけど、時折ピンク色に染められて…。
八戒の発している華やかな気が悟浄をいつも幸せにしていた。
その頃からずっと八戒に惹かれていて、その笑顔を守りたいと思っていた。
でも守れなかった。
今の八戒には…どちらもない。
でも、八戒のことは好きだ、愛している。
だから取り戻したい…八戒の笑顔を。
どんなことをしてでも。
こんな風に傷つく八戒は見たくないから。
───
こんなことが続けば、八戒は死ぬ。
でも、絶対に八戒のことは失いたくなかった。
闇の中で八戒は目を覚ました。
雨が降っている音が耳へと届く。
起きあがろうとすると目眩がして視界が歪む。
それを無理に振り切り立ち上がる。
身体に力が入らない…。
原因は分かっている。
隣のベッドを見ると悟浄が眠っていた。
悟浄に怪我はなかったかと心配になり悟浄に近寄る。
しかし、ある一定のところで足が止まる。
体が強張るのがわかる。
悟浄のことが怖い…。
いや、悟浄でさえも怖いのだ。
一緒に暮らしていてお互いに信頼していた。
そして…悟浄のことを愛していた。
近くにいることをあんなにも求めていたのに。
それなのに、今は怖い。
───
自分はもうここにいない方がいいのではないか。
八戒はそう考える。
信じていた人たちが怖い。
そんな中でこれ以上旅を続けていくのは無理だ。
自分のせいで、みんながぎこちなくなっているのも感じ取れる。
これ以上一緒にいても、互いに潰しあうだけだ。
あんな風に気を遣われて、無理矢理作った笑顔を見ているのは辛い。
自分さえいなくなれば元通りになるだろう。
その方がいい…。
これ以上みんなの負担にはなりたくなかった。
あんな浅ましい姿を見せ、更に自分の暴走によって、一歩間違えば自分の気で殺していたかもしれない。
自我が保てない。
自分という存在がだんだん見えなくなる。
もしかしたら知らないうちに悟浄を、三蔵を、悟空を殺すかもしれない。
信頼していた人たちを…。
信頼していた
───
言葉に出さずとも全てが分かり合えた。
でも今はわからない…。
みんな自分に対して気を遣い、一歩引いて壁を作って接する。
自分は心の果てで無意識に恐怖を感じ、壁を作る。
互いに作られた壁…。
それは世界の違いのように、自分とみんなの間を区切る。
もう別世界の人だと自分の知らしめる。
自分が無意識に作る壁は思ったよりも深いもので、恐怖から遮るだけではなく、その恐怖に対して無意識に反撃を始める。
…無意識の殺意。
いつか、あの妖怪に対して放ったような気を悟浄達に向けて放つかもしれないのだ。
───
僕はここにいない方がいい…。
自分の体を無理に動かし、悟浄の側による。
…愛しい人。
ずっと側にいることを望んでいたけれど…。
「さようなら」
そっと悟浄に口付ける。
せめていつまでもこの温もりを覚えていられるように、と。
そして、そのまま八戒の姿は雨の中へと消えていった。
パタンと極力音を立てないように閉められた扉の音で悟浄は目を覚ました。
実際に閉まる扉の音を完全に聞いたわけではないが、妙に胸騒ぎがした。
隣のベッドを見れば、八戒の姿は無い。
こんな夜更けのしかも雨の中、一体どこへ行くというのだろうか。
嫌な予感がする…。
「…あのバカ」
悟浄は慌てて宿を飛び出した。
雨は思ったより強く、また気温も低い。
まだ熱も引いていないのにこんな雨の中を…。
だんだん強くなる雨の中、悟浄の思考も焦りが増してくる。
早く八戒を見つけなくては…。
しかし八戒がどこに行ったのか全く見当がつかない。
「…八戒……」
八戒のことだけを考え手足を進める。
八戒のことしか考えられない…。
まるで何かに導かれるようにして、悟浄は走り続けた。
しばらく走り続けて行き当たった森。
そこに八戒はいた。
雨の中で八戒はただ立っていた。
そのまま雨の中に消えて無くなってしまいそうだった。
悟浄はそんな八戒をここに繋ぎ止めるかのように八戒の名を呼んだ。
「八戒!」
その声に振り返った八戒が驚きに目を見張る。
「…悟浄、どうしてここに……」
見れば悟浄はかなり雨に濡れていた。
どれくらいの時間雨の中にいたのだろうか。
───
自分を捜すために…。
自分のせいなのだ…。
悟浄に迷惑をかけたくなくて出てきたのに、それなのにまた悟浄に迷惑をかけてしまったのだ。
「迎えに来た。一緒に帰ろう」
悟浄は手を差し伸べ八戒に寄る。
優しく差し伸べられた悟浄の手。
でも、その手を取ることは出来ない。
「来ないでください」
八戒が激しく拒絶の言葉を吐く。
「…もう、僕は貴方の側にいる資格なんて無いんです」
雨と涙の混ざったものが八戒の頬を伝う。
「悟浄に…三蔵に、あんな浅ましい姿を…。
その上、貴方達を殺していたかもしれないんです」
「八戒…」
「怖いんです。
あんなに信頼していた仲間なのに……」
愛している貴方なのに…。
「怖いんです…」
言葉にしてしまうと、苦しいのに次から次へと溢れてくる…。
「…八戒、落ち着けよ」
悟浄はそっと八戒の肩を抱く。
「触らないで。離してください」
八戒は抵抗して、抱きしめる悟浄の腕に爪を立てる。
悟浄の腕から赤い血が流れ落ちる。
「…八戒、愛してる。
ずっと愛してた…今でも愛してる」
八戒の爪が悟浄を傷つけているのに、それでも悟浄は優しく見つめてくる。
「悟…浄……?」
今、悟浄は何と言った…?
自分のことを…こんな自分のことを『愛してる』と。
そう言った…?
「八戒、愛してる」
もう一度悟浄が言う。
八戒の手の力が弛む。
まるで引き寄せられるように悟浄の胸に顔を埋める。
「……じょう…ごじょう…」
悟浄の胸の中で何度も悟浄の名を呼ぶ。
帰りたかったのだ…。
どんなに脅えて噛み付いていても…。
本当はここに帰りたかった。
「悟浄…僕も貴方のこと、愛しています…」
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