片翼の天使達

−その1 洗礼の儀式−



「ようやく君の番だね」

「そのようだな…」

重い扉を開くと、そこは広い空間が広がっていた。
清らかな空気と柔らかくも厳かなパイプオルガンの音色が、心の奥底にまで浸透していく。
ぐるりと辺りを見渡せば、室内を飾る見事な装飾品には誰もが目を奪われる。
ここは都内某所にあるアイオーン正教の大聖堂。
アイオーン正教とは今のこの世界で唯一の教え。
誰もが神に祈りと感謝の言葉を捧げ、日々を過ごしている。
聖堂の入口で汚れ一つ無い眩く輝く白装束を身に纏い、優しげな微笑みを浮かべている少年と、無表情でじっと前だけを見ている少年がいた。

「どうかした?」

「片翼の天使…」

「うん…そうだよ」

少年の視線の先にあるのは、この大聖堂のシンボルである2体の『片翼の天使』だった。
アイオーンとは『天使』を意味する。
万人はその生を終えた時、天使達によって神の元へと送られると教えられている。
どんなに悪人であろうとも、どれほどの善人であろうとも、死を迎えた時は天使が降りてくるのだ。
後は神の裁きにより、天国か地獄に行くのかが決定する。

「洗礼を受けた瞬間から…手塚、君は“対”となる人物と人生を共にしなければならないのは、知っているよね?」

「幼い頃から聞かされていたからな…」

手塚と呼ばれた少年は、全てを諦めたかのような溜息を吐いた。

“対”となる人物。

この世に生を受けた全ての者の中には、自分と『対』になる人物が存在している。
これは産まれた瞬間から、いや、母親の胎内に宿った時から、その人に与えられた運命となる。
この世界では、神の定めた運命には誰も逆らう事など出来やしないのだ。
そして『対』の存在。
『対』なんて言い方は難しいかもしれないが、簡単に言えば「あなたには既に決められた伴侶がいるのですよ」と、親や親戚の誰でもなく、神から決められているのだ。
世の中には言葉では説明出来ない不思議な力をその身に秘めている人がいる。
神は力を持つ者を誕生させる際に、試練を与える。
それが『対』の存在。
どんなに優れた人でも、対がいなければ己の持つ力を使う事が出来ない。
力を使いたければ対を見つけなければならない。
その対を見つける為にはアイオーン正教に出向き、そこで洗礼を受けて、対を探せられる力を手に入れなければならない。
しかも片方だけが洗礼を受けても仕方が無い。
しかも洗礼を受けるには、様々な手続きや手順が必要となる為、中には“面倒だ”と、対を諦めてしまう人もいる。
それは僅かな確率で、ほとんどの者は対を探す為に洗礼を受ける。
実際に対と共に生きている者は、世界的な重要人物やアーティスト、スポーツ選手など色々な分野で活躍しているし、他にも力を使って事業を始めている者達がいる。
ただし、その人物が男なのか女なのか、はたまた子供なのか老人なのかは全くわからない。
どんな人物であろうと受け入れなければならない。


「でも…君の対ってどんな人だろう?」

『対』となる2人は、かなり似通った性格や人生を送っている人が多い。

優しげ微笑みを浮かべている少年は「何があっても平常心の塊であるこの男の相手なのだから、きっと相手も同じようにいつでも難しそうな顔をしているに違いない」との考えに到り、クスクスと笑った。

「…不二」

「あぁ、ごめん、ごめん」

ジロリと睨まれるが、自分の考えがどうにもツボにはまったらしく、簡単に笑いを止められない。

「お前の考えている事などお見通しだぞ」

白装束を見に纏いし少年、不二は、慌てて咳払いを一つすると、漸く笑いを止めた。

「周助様…」

聖堂の入口で話をしていると、礼拝堂の方から1人の若いシスターが現れ、不二に深々と礼をした。

「手塚、準備が出来たみたいだよ」

「あぁ…」

「では、こちらへ…」

その女性の後を歩き、礼拝堂の中を歩く。
今日は特別な日である為、普段は一般人に開放されている大聖堂には数人のシスターしかいなかった。
大理石で出来ている床を歩けば、足音が響く。
静けさが身体の中に染み渡った。


「ここだよ」

不二が開けた扉の先には、儀式を行う為だけの小さな部屋があった。
しかし儀式を行うだけあって、不思議な力が部屋全体を覆っているのが分かる。
室内には滾々と泉が湧き、小さな神殿にも2体の片翼の天使が奉られ、その天使に祈りを捧げる女性だけがいた。
外へ流れて行く空気は、この大聖堂のどこよりも張り詰めていて、痛いほどだ。

「ここが、洗礼の間なのか…」

「そうだよ」

中に一歩入れば、前を歩いていたシスターが2人の前を深々と礼をしながら通り、そのまま外に出ると音もなく扉を閉めた。
数本のロウソクだけが、この部屋を明るくしている。

「何だ?何かが飛び交っているな…白みがかった青色に薄い緑色の…何だこれは?」

部屋に入った途端、手塚の目には何かが映り込む。
しかし不二にはさっぱりわからなくて、手塚が見つめる先と手塚を交互にを見て首を傾げるだけだった。

「凄いわね、国光君」

神殿の前で祈りを捧げていた女性が、手塚の名前を呼びながらこちらを振り向いた。
同じ白装束なのに、こちらは鮮やかな刺繍が施されていて、不二よりも格が上だと瞬間的に判断出来る。

「お久しぶりです、由美子さん。いえ、大聖母様とお呼びした方がいいですか?」

「うふふ、どちらでもいいけど。国光君に大聖母なんて呼ばれると、ちょっとくすぐったいわね」

頭を覆っていたフードを取り去り現れたのは、横にいる不二と良く似た顔立ち。

「では、由美子さんとお呼びさせて頂きます」

「周助もご苦労様ね」

「由美子姉さん」

目元を下げて柔らかく微笑む姿は、正しく聖母といっても過言ではない。
由美子は不二の姉であり、このアイオーン正教の大聖母でもある。
不二と手塚は幼馴染の為、由美子とも仲が良い。
本当に姉のような存在だった。
手塚は1人っ子。
不二には姉である由美子ともう一人弟がいる。
人付き合いの苦手で友人を作るのが下手な手塚にとっては、不二も姉や弟がどれだけ心の支えになったか分からない。
不二の家系は、代々に亘りこの大聖堂の聖母として神に祈りを捧げ、市民に教えを伝えているのだ。
先代の聖母は不二達姉弟の母である淑子であったが、淑子は不二の家系ではない。
祖父母には女子に恵まれず、しかも男子1人しか授からなかった。
息子には早々に妻を娶らせる事にし、女子が産まれるまでの間の長い時を祖母が聖母を務めていた。
心優しく、誰に対しても平等に接する祖母は、どの代の大聖母よりも市民やシスター達に慕われていた。
しかし幼い頃から身体が弱かった祖母は、孫の顔を見る事無く天に召されてしまった。
信者の誰もが涙を流し、その涙で大きな湖が出来たとか、出来なかったとか。
女子が産まれるまでのその間、聖堂の関係者との会合で、淑子に大聖母の代役を務めてもらった。
祖母に負けず劣らず慈愛に満ち、全てを平等に接する広い心を持っていた為、何事も無く時が過ぎた。
そして待望の女子である由美子が産まれ、聖母の自覚を由美子自身が身に着けた時に、淑子から由美子へ世代交代をしたのだ。
もう数年も前の話しだ。

「由美子姉さん、手塚が見ているものは何なの?僕には何の事だかさっぱりだよ」

不二は手塚と姉には見えている、この部屋に飛び交っている不思議な物体の正体が分からない。

「どうして周助には見えないのかしら?」

困ったわね、と溜息を一つ。
同じ家系に生まれながら、弟達には力が全く無い。
弟達だけではなく、不二の家系の男達全てに、だった。

「国光君に見えているものは精霊の仮の姿よ。私には強い霊力があるから精霊の姿で見えているけど、普通の人では見えないのよ」

普通の人には見えないものが、手塚の目には見えている事になる。

「手塚にも、姉さんと同じような力が有るって事なの?」

「えぇ、それが国光君に与えられた力。それもかなり強いものね。今、国光君の傍にいるのは、四大精霊のうちの二つ…ウンディーネにシルフ…」

不二達が話をしている間、手塚は飛び交っている不思議な色をずっと眺めていた。
ふわりふわりと自分の周囲を飛び交う光にそっと手を出して触れてみると、緊張していた自分の身体が、次第と解けていくのを感じた。
張り詰めていた空気が今では心地良いほどだ。

「でも、洗礼を受ければもっと強くなるわ」

聖母である由美子には『先読み』の力がある。
しかしそれは、その人の人生の全てを知る事になる。
幸せな人生を送る者もいるが、目を背けたくなるほど辛く哀しい人生を送る者もいる。
聖母としての役割と、先読みとしての役割の為に、これまでに数人、哀れな末路を送った者を見てしまい、由美子は自分の力を制御し、大切な行事以外ではその力を使わないようにしている。
それくらいに、この力を自分自身が恐怖している。

「さぁ、周助は部屋の外に出て」

由美子の一言で、部屋の空気がもっと張り詰めたものへと変化した。

「それじゃ、また後で」

不二もこの空気の変化に気付き、2人に向かいふわりと微笑みを見せると、部屋から出て行った。

「では、始めましょうか」

「…はい」


洗礼の儀式は静かに始まりを告げる。