1. 芸が身を助けるほどの不しあわせ

 「そんなに粗大ゴミばかり創られては困ります、家にはもう置き場所がありません」と今日女房に文句を言われた、と毎朝きまって乗馬 クラブで顔を合わせる彫刻家のA氏に愚痴をこぼしたところ、すかさず、「西村さん自身も粗大ゴミではなかったのですか」とからかわれ てしまった。
 渋谷の忠大ハチ公(最初の像は戦争中、国家に供出、現在のは二代目)を創ったA氏自身もおそらく常々奥様にそう言われているに違い ない。
 しかしその粗大ゴミの私の彫刻も、その対象が「馬」という特殊なものであるだけに、審査員の審査の基準がむずかしいとみえて、 日彫展(明治四十年、平櫛田中によって創設された社団法人.日本彫刻会主催の彫刻展で毎年四月に上野の東京都美術館で開催、日展系) に三年連続して入選し、目出たく社団法人・日本彫刻会の会友に推挙された。
 自分で言うのもおこがましいが、まったくの素人が彫刻を始めて満六年目の快挙である。
 とにかく、一応肩書きもできたことだし、これ以上女房の嫌味も聞きたくなく、何とか粗大ゴミの嫁入り先をさがさねばと思い、 写真をとって日本馬術連盟の役員や、日本中央競馬会の知人に宣伝することにした。
 「捨てる女房あれば助ける馬乗りあり」というところか、嬉しいことに早速いろいろなところから反響があった。
 もっとも、今のうちなら原価に近い値段で未来の日本芸術院会員の彫刻が手に入るのではという勝手な憶測によっていることは (ほぼ) 間違いはない。
 なかには、「私の乗馬姿のブロンズを創ってくれ」等という厚かましい依頼も数件あったが、「君の乗馬姿では私がどう上手に修正して 創っても到底(さま) にならないから」と鄭重にお断りさせて頂いた。
 ところが、宣伝開始から約一か月後、まるで夢のような話が持ちあがり、すっかり私は有頂天になってしまった。
 それは、以前から私の拙文を掲載させて頂いている「馬の科学」という雑誌の発行元である日本中央競馬会.競走馬総合研究所のT所長 からのもので、今、宇都宮に建設中の競走馬総合研究所の正面玄関に設置する「少女とサラブレッド」のモニュメントを創ってみないか というものだった。
 更に競馬会の理事長より、その銅像は、「馬と人との関わりの最高研究機関として、関係と調和を象徴するような、少女がサラブレッド を愛撫しているものにしてもらいたい」というコメントつきで、その銅像の題を「愛駿の礎」とするというのである。
 馬に関係して六十年、まさに馬乗り冥利につきる話のように思われた。
 馬以外は創ったことのなかった私も、こればかりは何としても創りたいと、日数的に無理だと渋る美術鋳造師を説き伏せて、その依頼を 引きうけた。
 正直なところ、十五、六歳の少女の像にはいささか手こずったが、何とか仕上げて1996年12月10日、無事「愛駿の礎」の銅像は大谷石 の立派な台の上におさまった。
 競走馬の最高研究機関であるこの研究所には世界各国の競馬関係者(獣医師、装蹄師、調教師、騎手及び牧場主等)が常に多数おとずれ ることになり、それらの人達は、それぞれ競走馬についての一家言(いっかげん) の持主であり、おそらく今回の私の馬像は、すさまじい専門家達の批評 を受けることを覚悟の上、自分なりに精魂こめて創りあげた。
 そして除幕式も無事に終ったある日、競走馬総合研究所のT所長のところへお礼に訪れた時のこと、私がまだ一度も競馬を観戦したこと がないという話をすると、所長は一瞬信じられないような顔をして、それなら第四十一回の有馬記念が三日後に開催されるから、それを ぜひ見なさい、ということになり、ちょうど同席していた研究所のN次長が、半日、中山競馬場を案内してくれることになった。
 かくして、私の生まれて初めての競馬観戦は何とも賛沢なものとなった。
 しかし私にとって初めての競馬も、実は世間一般の人のようにまったくの未経験というわけではなく、今から十数年前、御殿場の藤本 厩舎のトレーニングセンターに私の乗馬を預けていた頃、名伯楽・藤本富良(とみよし) 師の長男、勝彦君(通称勝ちゃん、ダービー男の異名あり) と一緒にダートでよく「(あわ) せ馬」(調教の時、二頭以上の馬で並んで攻め馬をすること)をしていて、富良師から、調教師になれと 言われたぐらいの知識と経験は持ちあわせていた。
 1996年12月22日、競走馬総合研究所のN次長に案内されて、まず最初に入った馬主専用の下見所で、久し振りに〈メジロ〉のK君 (立教大学馬術部出身で私の二年後輩)や社台のY君(私と同じ慶應義塾馬術部の後輩)と馬を見ながら馬の仕上がり具合について話 しているうちに、第六レースならD−Jしかないと言ったところ、その予想がズバリと適中。
 更に次の第七レースでも、つい二十日程前に競馬関係者の結婚式で一緒だった的場騎手のHがずばぬけて良く見えたので、Hを頭に 三頭程あげたところ、これ又ズバリ(勿論競馬の予想紙等見たこともなく馬名も知らない)。
 ただ次の有馬記念だけは、さすが各馬とも甲乙つけがたく予想ができなかったが、しかし二レース続けて見事適中してみるとN次長も、 いささか興奮気味で、一体どうなっているのかと驚くことしきり、「西村さんは彫刻をやめて競馬の予想屋になるべきだ」と本気で勧めて くれた。
 ひょっとして近い将来、日本中央競馬会推薦の予想屋第一号が誕生するかも知れない。
 馬に乗ることが芸のうちかどうかは知らないが、彫刻にしても、競馬の予想屋にしても、私の場合・ひょっとして「芸が身を、 助けるほどの不しあわせ」ならぬ、「芸が身を、助けるほどの果報者」になるかも知れないと、有馬記念の帰り道、一人電車の中で ニヤリとした年の暮でありました。

(1997.2)