『風の絆』 1

「それでは、私はちょっと出てまいりますので」
そそくさと箸をおいて、恒例の簡略念仏を唱えた後、弥勒が立ち上がった。
「今日も単独行動なの弥勒さま?」
膝の上でまだもぐもぐやっている七宝の口をハンカチでぬぐいながら、かごめがいう。
「…てことは、また俺が留守番か?ったくここんところ毎日じゃねえか。一体どこをほっつき歩いてんだよ、それも夜な夜な」
 犬夜叉はどんな場所でもまるで気にせず食事をするが、こういったまっとうな屋敷での席では妙にあっさりとすませてしまう。まあ喰うのがやたらに早いこともあるが、どちらかといえば屋外のほうが居心地がいいらしい。胡座をかいて腕組みした脇に抱えるのは、普段はただのボロ刀である父の形見・鉄砕牙。最近は無性にこの格好が様になってきている。弥勒は苦笑して振り向いた。
「犬夜叉にはちと申し訳ないとは思っていますがね。ここしばらくは奈落の野郎も大人しいようですが、油断は大敵です。かごめ様をよろしく」
 しゃらん、と錫杖の音も軽々と、一行の中では少々年輩の法師はそそくさと草履をはいて出ていった。今日の宿泊先は人気の多い宿町である。妖怪退治と四魂のかけら収集を生業(?)とする一行にとって、珍しくまともに金をはらっての一泊だが、この前の仕事ではそれなりに礼金があったので、いつもより環境はいい。もっとも例によって、マネージャー役でもある弥勒の口八丁手八丁による収入であることは、かごめも珊瑚も感づいているのだが。
「何をやっとるんじゃろうか弥勒は?朝になるといるが、いつ頃戻ってきとるんじゃ?」
いつのまにやらかごめの膝の上をちゃっかりと食事の時の指定席にしている七宝が、食後の一杯とばかりに茶をすすって言った。
「真夜中になってから、そおっと戻ってきてるのよね。実は昨日、ちょっと眼がさえててわかったんだけど、座るなりふうっ…て息ついてたの」
かごめが七宝と犬夜叉を交互にみて言った。
「法師様には法師様なりに何かあるんだろ。別に私たちがどうこう言うことじゃないと思うよ」
 妙に淡々とした口調で珊瑚が腕を置いた。犬夜叉は無言だったが、七宝があっさりと、
「珊瑚は気にならんのか?ここはきれいなおなごが多いんで、今日は昼のうちから弥勒の機嫌がよかった。また誰かに子供を産んでくれるように頼み…もが!」
 言おうとしたのをかごめがあわてて口を塞いだ。珊瑚の体が一瞬静止して、そこはかとなき殺気めいたものが漂ったのである。しかし次の瞬間、
「はは。そうかもしれないね。困った法師さんだ。ねえ、かごめちゃん」
「え、えーと、その…」
妙にぎこちない笑顔を向けられてかごめは焦った。犬夜叉はといえば、反対の方向をみて知らんぷりをしている。
「私、風呂につかってくるから」
珊瑚はすっくと立ち上がると、草履をはいてなぜか飛来骨を抱え、つかつかと出ていった。
(お風呂に行くのに、武器携帯するの…?)
かごめは少しばかり冷や汗を流して珊瑚を見送った。

 歩く度に独自の音をたてる錫杖は、当然人の目をひく。弥勒の容貌はその類の人々の間では当然若手であるが、荒行に耐えて道を求める者としての威厳は、すれ違う一般人に思わず頭を下げさせるものがある。もっとも彼の場合、その相手が男か女かでは対応がかなり異なってくる。この時刻の宿町では、目立たない一角にいわゆる「夜鷹」の女性達もちらほらと顔を出す。彼女たちにしても、法師に堂々と誘いをかけるほど罰当たりではないが、弥勒とたまたま眼が合った者がいると、にっこりと笑みを返してくる彼の態度にいささか戸惑いを覚えるものだった。ただ今日に限っては、弥勒もそういう態度をとる度に、妙に背中にムズ痒いものを感じていた。
(はて…なにやら穏やかならない雰囲気が…?)
ちらりと後ろを振り返るが、別につけられている様子はない。気のせいか。弥勒は少々脚を早めた。場所的にはまだ先だ。

(何をやってるんだ、あたしは…)
 珊瑚は宿町の一角に体を隠しながら複雑な想いにとらわれていた。その道を生業とする者にしては、たしかに彼は破戒的だ。女性に礼儀正しいのは当然ではあるが、その接し方たるや修行中の身というにはほど遠い。そんな男であるから、自分たちに隠れて怪しげなことをやっていたとしても、咎める筋合いはない。…ないはずなのに、妙に胸がムズ痒い。
(法師様がそんなトコ行っていいのかって…言うのか?言ってどうなるってんだ?バカみたいだ、あたし…)
 ひゅう、と一陣の風が珊瑚の髪を揺らせた。ちらりと目をやったそのずっと先で、弥勒の後ろ姿が小さくなっていく。既に宿町の端を過ぎている。行き先は一体どこなのか。それを確かめたところでどうなるものでもないのに、珊瑚は引き返すことができなかった。
(ええいっ、この際そういう奴ならそういう奴だってこと見てやるんだ!)
無理に自分を納得させて彼女は後を追った。

(ちょうどいい風だな…)
 弥勒は脚をとめると夜空を見上げた。綺麗な半月を時折雲が覆い隠す。月の明かりが草原を照らしては消え、彼の袈裟を消しては浮かび上がらせる。彼の立っている場所から数尺先には鉛直に錫杖が立っていた。こおおお…と口元から発せられる小さな声が少しずつ大きくなる。すうっと差し上げる右手には、彼の人生と切っても切れない関係にある宿命の証・風穴が封印されている。以前、不覚にも蟷螂妖怪に切られたために寿命を縮めてしまった自らの最大の武器にして最大の弱点…一度開けば寿命を何日縮めるかわからない、その右手だ。錫杖の輪がカチ、カチカチ、と振動を始める。じわりと額に浮き出てくる汗。弥勒の視線は錫杖の先にある輪の中心に注がれていた。
「南無…大師返上…」
念仏を唱えて左手が懐に忍ぶやいなや、弥勒は二枚の念符を宙に投げた。
「破っ!」
気合一閃、念符が一瞬宙で静止した。同時にじゃらりと右手の数珠を取り去れば、びゅうっと封印の布をはためかせて風が起こった。錫杖の六個の小輪が、一斉にじゃらん、と音を立てて弥勒の方向に向かい水平になる。右手首を左手で押さえ、左足と右足を地に踏ん張り、弥勒は右手を一直線に突き出した。錫杖がぐぐっとしなり、大輪の周囲がガチガチガチ、と軋んだ。額の汗が大きくなり、首筋をつたい始める。宙に静止した二枚の念符は青白い光を放ち、弥勒と錫杖の間を結ぶ一線を挟んでいたが、やがてぴりっと端から亀裂が入った。弥勒の眼孔が一段と見開いた。
「散!」
二枚の念符がばちっと粉々に四散する。同時に右手の風穴はごおっ…と唸りをあげ、しなりきった錫杖の端が地面から抜け、弥勒めがけて飛び出した。即座に数珠を右手首に巻き付け、一直線に飛んできた錫杖を体をかわして右手でがしっとつかみとる。風は一瞬で止んだ。
「ふうっ…」
弥勒は左腕で汗をぬぐった。
(もう少しか…)

(あれって、何かの修行なのか…?)
珊瑚は町外れの物陰からじっとその様子をうかがっていた。夜鷹たちのたまり場を素通りした後、草原に出て錫杖を突き立てたところで、胸のモヤモヤは消えていた。弥勒は錫杖をつかみとっては、二度、三度と同じことを繰り返した。
(悪いこと、したかな…)
邪推した自分が妙に恥ずかしくなった。一人きりでやるからには、他の皆には秘密にしておきたい修行なのだろう。何を目的にしているかはわからないが、おそらく真剣そのものなのだろうその表情を想像すると、珊瑚はそれ以上そこに留まる気にもなれず、そそくさと宿の方向へ走った。

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