犬夜叉回顧録3
なぜ殺生丸の左腕は復元したのか
−偉大なる父の遺志は、二本の牙(形見)に長男の覚醒を委ねた−

 実はこの問い、答えそのものは単純明快です。「完全な妖怪である殺生丸には、元々驚異的な自己修復能力がある」からです。このことは人間とのハーフである弟の犬夜叉でさえ、えぐられた右目や毒華爪でつけられた大怪我が数日で治癒したこと(コミックス第2巻第4&10話)から容易に想像できます。
 つまりこの問いの本質はむしろ「なぜ殺生丸の左腕は、爆砕牙の誕生まで復元しなかったのか」と言い換えた方がいいかもしれません。

 主人公・犬夜叉の兄、殺生丸は桔梗復活よりずっと早く、コミックス第2巻第4話で登場します。自分と異なり人間の血が混じっている、侮蔑の対象である異母弟と関わる理由はただ一つ。父が自分でなく弟に遺したとされる形見の刀・鉄砕牙を奪うこと。

 犬夜叉自身がまったく形見に関する話を覚えておらず、殺生丸は無女という妖怪を使って犬夜叉の母に化けさせ、弟の潜在意識から探り出します。この頃の殺生丸は慈悲の心など持ち合わせておらず、ただ冷酷なだけの妖怪でした。だから用済みとなると犬夜叉を庇った無女の亡骸を平然と踏みにじる。これに怒ったかごめが、殺生丸と邪見が黒真珠を介して向かった父の墓へ「犬夜叉より先に」『一発殴りに』出向きます。

 自らの墓への道を黒真珠に封印し、犬夜叉の右目に隠したというところには、兄弟の父親である大妖怪(化け犬で人間型にも変化していたらしい)の深い意図がありました。
 鉄砕牙には結界が施されており、殺生丸はこれに拒まれて抜くことができませんでした。「会話で振り返る犬夜叉とかごめの12年」の16の会話に詳しいですが、犬夜叉自身にも抜けなかった鉄砕牙はかごめの手によって抜かれ、犬夜叉がかごめを守ると叫んだ直後に発動して牙の刀身を表します。

 真の姿である化け犬に変化した殺生丸は、この場で犬夜叉と闘い、皮肉にも父の形見である鉄砕牙によって左前足(人型に変化中は左腕)を切断されます。実にこの時から連載期間で10年、コミックスで50巻分もの間、彼は隻腕で登場し続けることになります。

 彼の鉄砕牙への執着たるや凄まじく、その後も
 コミックス第7巻第1〜5話(奈落が与えた仮の腕で鉄砕牙を奪って風の傷を操るが、犬夜叉捨て身の戦法で腕ごと奪い返され撤退)
 コミックス第13巻第7〜第14巻第1話(鉄砕牙を打った刀々斎を脅迫して自分の刀を打てと迫るが拒否され、殺そうとするも犬夜叉が風の傷を斬って吹き飛ばされる)
 コミックス第16巻第10〜第17巻第4話(鉄砕牙を噛み砕いた悟心鬼の牙から灰塵坊に闘鬼神を打たせて自分の刀にするが、犬夜叉の血の匂いの変化を嗅ぎ取り中断)
 コミックス第19巻第9話(鉄砕牙を手放して妖怪化して暴走した犬夜叉を闘鬼神の剣圧で吹き飛ばし失神させるが、自我さえ失っている奴など殺す価値もないと言い残して去る)
 コミックス第51巻第1〜6話(白夜が渡した神無の鏡の破片を天生牙にまぶしてコピー鉄砕牙とし闘うも、冥界に飛ばされながら真の継承者の証を見せた犬夜叉を認め、自ら天生牙を折って冥道残月破を弟と鉄砕牙に譲り渡す)
 コミックス第54巻第9〜10話(曲霊に憑かれた犬夜叉と闘うが、犬夜叉に残った理性、鉄砕牙、かごめが彼の心を取り戻すを見て中断)
…と実に7回にも渡って、犬夜叉と闘い続けることになります。この兄弟対決の場には常にかごめがいて、殺生丸は弟と人間の少女の仲がどんどん深まるのを認識することにもなる。奈落が滅んだ後に自ら冥道を開いてかごめを追った弟の心境を、彼は無言で悟ったでしょう(連載最後の登場コマでは、横顔一つでこれ以上なく鮮やかに弟夫婦への感情を示してくれました^^;)。

 あえて勝敗をカウントするなら7戦1勝2敗4分。結果だけ見れば屈辱的でしたが、殺生丸の闘いぶりは第3ラウンド後のりんとの出逢いによって少しずつ変化していきます。

 第3ラウンドでは「鉄砕牙を振り切らなかった犬夜叉」と「結界でガードした天生牙」によって一命をとりとめ、コミックス第13巻第3話で初めて天生牙を振るいりんの命を救う。無垢の笑みを知った彼は、自らも自覚しない内に慈悲の心を目覚めさせます。
 コミックス第19巻第5話では朴仙翁の話から、犬夜叉が半妖であるゆえに妖怪の血に心を喰われる時があるのを知る。
 コミックス第21巻第5話以降、奈落からの独立を志向する神楽が殺生丸に秘めた想いを寄せるようになる。
 コミックス第23巻第5話ではりんに危害を加えようとした琥珀の首を掴みながらも、その目を見て見逃す。
 コミックス第25巻第1〜2話では霧骨に狼藉を働かされそうになったかごめを助ける。
 コミックス第27巻第1〜4話ではりんを人質にした睡骨と蛇骨を相手に1対2で圧倒。
 コミックス第30巻第9話では白童子に首を斬られたカワウソ妖怪・甘太の父を天生牙で救う。
 コミックス第33巻第3〜4話ではあの世とこの世の境を守る門番牛頭馬頭と戦い、天生牙を抜いて平伏させる。
 コミックス第37巻第7〜8話では妖気を吸い尽くすと豪語する魍魎丸に猛攻を仕掛け、器が小さいとその体を破壊して退ける。
 コミックス第38巻第6話では奈落によって瀕死に追いやられた神楽が消滅するのを看取る。
 コミックス第41巻第8〜10話では神楽を侮辱した魍魎丸に激怒し、ついに闘鬼神を折ってしまう。ここに至って天生牙が彼の心の変化を認め、刀々斎を呼んで冥道残月破の育成が始まります。
 コミックス第43巻第6〜7話では沼渡を冥道残月破で冥界に葬り去り、犬夜叉に鉄砕牙をわかっていないと指摘する。
 コミックス第46巻第8話では琥珀をさらおうとした白夜を冥道残月破で追い払う。
 コミックス第47巻第9話〜第48巻第3話では母と再会。冥道に連れ去られたりんを追って踏み込み、哀しみと怖れを知って帰還する。
 コミックス第50巻第1〜5話では父の代からの因縁の相手死神鬼と対決、鉄砕牙との共鳴によって死神鬼を冥道に葬り去るも天生牙が鉄砕牙の一部だったことを知る。この時犬夜叉に対して『きさまと私は、死ぬまで闘い続ける運命』と語ったのですが、既に異母弟は侮蔑すべき対象でなく“自らの生涯を賭けて戦うライバル”になっていました

 コミックス第50巻第7話で刀々斎は、父が冥道残月破の完成後に犬夜叉に与えるつもりだったことを認めながらも『刀への執着と犬夜叉への憎しみを捨てた時に殺生丸は父を超える』と暗示します。
 コミックス第52巻第5〜10話で曲霊に大苦戦。しかしついに覚醒した大妖怪の能力が左腕と爆砕牙を呼び覚ますのです。犬夜叉の仲間達の盾となって曲霊に突っ込み、奈落からの借り物であるその体に握り潰されようとした刹那に。
 その刀は凄まじい光を放っていました。慈悲の心を纏って一皮むけた自らの誇りの象徴のように。

 コミックス第53巻第7〜8話では曲霊の本体に天生牙で二撃。それでも生き残った曲霊がりんをさらって最終対決に持ち込むのを受けて立つ。コミックス第54巻第7話では妖怪化した犬夜叉に傷つけられて倒れたかごめに近づく妖怪を払いのけ、目覚めるまで守る。コミックス第55巻第1話では竜鱗の鉄砕牙が妖穴を作って捕らえた曲霊を天生牙で斬りついに葬り去る。コミックス第55巻第5話では珊瑚が投げた飛来骨を投げ返し、珊瑚涙の弁明を黙って聞く。

 第2ラウンドでできた奈落との因縁は、最終的に爆砕牙によって奈落の体を壊滅させるまで続きました。
 コミックス第23巻第4話では、りんを人質にした奈落に取り込まれかけるも結界を斬った犬夜叉より先に奈落の体を切り刻む。
 コミックス第29巻第3話では、新生奈落に闘鬼神の剣圧を返されるが構わず切り下げるも逃げられる。
 コミックス第33巻第6〜8話では、父の墓上で奈落の瘴気散逸に委細構わず闘鬼神で猛攻、金剛槍破で結界を砕かれた奈落の体を粉々にするも逃げられる。
 コミックス第55巻第9話では奈落の体内で爆砕牙を一閃、大崩壊の引き金を引く。
 コミックス第56巻第1話では、四魂の玉に心を喰わせた奈落の顔面を爆砕牙で斬り下げる。
…この作品のラスボス奈落が倒れるまでには、主役とヒロインの他に絶大な存在感を持った殺生丸の働きが必要不可欠でした

 殺生丸は、他の作品ならば主役が務まるクラスのキャラクターです。彼の旅路と成長の過程は【犬夜叉】が描いた重要テーマの一つであり、父と息子、兄弟の葛藤という側面から作品を見直すと、練りに練られた伏線の妙味とその骨太さには、ただ唸らされるばかりです。

 刀々斎は語りました。殺生丸がもともと自分の中に持っていた自分自身の刀。それは真の大妖怪として精神的に成長した時に初めて手にすることができたと。父の牙によって斬られた彼の左腕は、もう一つの牙によって慈悲・哀しみ・怖れの心を知り、父の形見への未練(正確には「父は長男の自分をないがしろにしているという屈辱心」)を断ち切り、「自分以外の者のために怒る心と大妖怪としての誇りに目覚めた時に、彼の絶大な潜在能力の具現化としての“爆砕牙”と共に復元したのです。
 鉄砕牙への未練を断ち切るということの意味は、冷酷・冷徹なだけの凍てついた心を捨て、誰か他人のために何かを成し遂げようとする“王の尊厳”を身につけることでもあったのだろうと思います。

 最終回後の世界では、もう彼が異母弟と闘う必要がなくなったように思えます。自ら発した言葉『きさまと私は、死ぬまで闘い続ける運命』を間違いと認めるのは嫌でしょうから(^^;)、殺生丸があの鉄面皮を崩すことはないでしょう。しかし父が兄弟の殺し合いなど望んでいなかったことは、とっくに理解しているはずです。彼が義妹のことを名前で呼んでやる日が、いつか来るのでしょうか。

 最後に筆者は、いわゆる殺りんの関係に恋愛イメージが湧かず、まるで父娘や兄妹、姫君と近衛隊長というイメージが湧きます。定期的にりんの成長に応じて着物を届けてやるところなどを見ていると、二人が将来「そういう仲」になってもそういうイメージのままに思えるのです。
 そしてそのイメージは、一度も連載に生きた姿で登場しなかった偉大なる父と、異母兄弟「二人の母」との関係を連想させるのですよ。
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