お前は何もできないから せめて人の迷惑にならないように生きなさい。 そう言われ続けてきた私に、"お前は万物を慰める存在だ"と言ったあなた。 叶うならどうか もう一度、あなたにお逢いしたい・・・ |
『 胡蝶の君 』 |
いーち にーい さーん 目の前を右へ左へ行き来する蹴鞠。 金糸銀糸で綺麗に装飾されたそれが、目の前を過ぎる。 蹴鞠を蹴るのは兄弟達と、従兄弟の和仁。 和仁は帝の子で、現在の東宮とは異母兄弟になる。 帝の妹が降嫁し、現帝を叔父に持つこの家では特に珍しい光景ではなかった。 そんな庭の様子を、泉水はいつも膝を抱えて見つめていた。 蹴鞠は貴族の嗜み。 それでも、足手まといになるからと仲間には入れてもらえなかった。 雅楽や詩歌など、風流のみしか解せない自分。 いつも誰かに迷惑をかけてしまう、何もできない自分。 高く行き来する蹴鞠に、ぼんやりと視線をやっていると、和仁が笑いながら泉水の元へとやって来た。 「香集、仲間に入れてやろうか?」 「・・・いいえ・・・私は。ご迷惑をおかけしますから。」 「はははっ!確かにな!!」 ずきりとどこかが痛んだけれど、それはいつも忘れることにしていた。 俯いて膝に頬を埋めると、和仁が泉水の腕を強く掴み、縁側から引きずり出した。 「!っあ・・・」 「香集、特別にいい場所を教えてやるよ。」 泉水はそんな和仁の笑みが好きではなかった。 とても聡明で、従兄弟だけれどとても身分の高い人。 その人の笑顔はとても恐い。 その笑顔を見る度に、自分は邪魔なのだ、迷惑なのだと思い知る。 「・・・和仁様・・・」 「行くぞ」 「・・・あの、勝手に外に出ては・・・」 人に迷惑をかけるからと、勝手に外へ出ないよう泉水はいつも母にきつく言われていた。 けれどそんな訴えものともせず、和仁は泉水の腕をきつく握りしめたまま敷居を過ぎた。 引かれるまま連れて来られたそこは、木々が茂り、続く梅雨の空気でしっとりと濡れていた。 とても綺麗な場所。 「香集、ここには神様がいるんだってさ。お前、そういうの好きだろ?会って来いよ!」 そう言われて突き飛ばされ、慌てて起き上がった泉水の目に映ったのは、 つい先ほど登ってきた坂道を駆け下りて行く和仁の背中。 「和仁様・・・」 その背を追えば家には帰れる。 けれど神に会って来いとの言いつけを守らなければ、和仁はおろか、おそらく母にまで叱られることだろう。 母は、泉水とは違って聡明で勝ち気な和仁をとても可愛がっているから・・・ 目の前に広がるのは今まで見たことがないほど大きな森。 木々が生い茂るそこは、先が見えず、しんと静けさを湛えていた。 神様。 確かに泉水は神仏を信じ、憧れてさえいた。 神に会えばこのどうしようもない自分を変えてくれるだろうか。 眼前には薄暗い森。 一人で町を歩くことさえなかった泉水だけれど、 まるで優しく手招きされているように感じ、 その地へ踏み込んだ。 かすかに聞こえ始める鳥の声。 枝を避けながら歩いて行くと、ほんの少しひらけた場所に行き当たった。 それ以上先へ進む道はない。 しばらく動きあぐねてその場に立ち尽くしていたが、それで何か変わるわけでもなく。 元々薄暗かった辺りがどんどんと翳りを増し、遠雷がかすかに聞こえた。 日暮れが近いのだろう。 そして、梅雨ゆえの冷たい雨。 慌てて帰ろうと振り返ると、歩んできたはずの道も、避けた枝が元に戻ってもう見えない。 入る時にはあんなにも優しく感じたはずのそこが、急に恐ろしいものに思えた。 遠く見える眩い雷光から そして、だんだんとひどくなる雨から逃れようと、 泉水は隠れるように隅にしゃがみこんだ。 植物に守られるはずのそこはしかし、雷光からは隠れられても細い恵みの 雨からは逃れることはできなかった。 結い上げた長い髪が水を吸って結い紐がずれてゆく。 仕立てのよい着物も水をたくさん吸って、小さい泉水にはずっしりと重く感じた。 真っ暗な森の中に一人きり。 止む気配もなく、しとしとと降り続ける雨の中、とてもとても不安で・・・ 雨の情景がゆらりと揺れた。 屋敷で見る雨はとても美しいのに今はこんなに痛い。 「・・・父、上ぇ・・・っひっく・・・ははうえ・・・」 真っ暗になってしまった森の中。 頭からびっしょりと雨に濡れ、不安でたまらなかった。 この森に入ったことをとても後悔したけれど、それで誰かが迎えに来てくれるはずもなく。 ただただ、不安に涙を流すことしかできなかった。 パキリ 枝を踏みしめる音。 はっとして顔を上げると、とても大きな影が目の前に立っていた。 影、というのは少し違うか。 それはきちんと人の形をしていた。 「・・・ちち、うえ・・・?」 応えはない。 父ではない。 恐ろしい獣ではないけれど、人見知りの激しい泉水には不安を煽るものでしかなかった。 近付く大きな影。 それが、泉水の目の前でゆったりと屈んだ。 雷光に照らされて、一瞬窺えたその影の主は、まるで人形のように整った顔をした青年だった。 「何を嘆く?」 影に戻ったその人が訊く。 「・・・私・・・迷って・・・」 「この森に一人で入ったのか?」 「・・・・・・っ」 もう答えることなどできなくて、泉水は抱えていた膝にもう一度顔を埋めて泣いてしまった。 人前で泣くことは恥ずべきこと。 そう母には何度も言われていたけれど。 泉水はまだ7つになったばかり。 溢れる寂しさと不安を耐えることなどできなかった。 「・・・・・・」 その影の存在はなくならない。 いつまでそうしていただろうか、大きな手が、泉水の肩を揺らした。 しゃくりあげながら再び顔を上げると、先程より近くに青年の顔。 「お前、名は?」 「・・・か・・・か、づめ・・・」 「そうか。では、香集、お前は泣いてはならない。お前の揺れる気は万物をも揺るがす」 「・・・揺らす・・・?」 「お前は、良い音色を纏っているな・・・」 「・・・?」 その人が何を言っているのか分からないけれど、不思議と深い優しさを感じた。 そっとその人が手を差し出す。 泉水の目の前に、何かを支えるように。 無意識にそれを見つめると、その人が何かを呟く。 その後のことを、私は決して忘れない。 その人の手からヒラヒラと。 白く輝く蝶がいくつも舞った。 踊るように泉水の目の前でくるくると舞う蝶たち。 その蝶が纏う光が辺りを明るく照らし出した。 暗闇の中では気付けなかったものが、そこにはたくさん存在していた。 黒くしか見えなかった、泉水が隠れた植物は立派に育った紫陽花だった。 小さな花がいくつも集まってやっとできる、大きな美しい花をたくさんつけて。 そこには小鳥や小さな虫たちもいて。 蝶の光に呼ばれたように、蛍がゆらゆらと姿を現す。 目の前には、泉水をまっすぐに見つめる、その人。 白と黒の陰陽をかたどった着物を纏い、瞳の色が左右違う不思議な人。 泉水と同じように頭からびっしょりと濡れているのに、とても幻想的で美しい人。 目が合うと、その人は目を細め、ふと微笑ったように見えた。 白かった蝶が、朱や藍、浅葱、紫苑・・・さまざまな色にその姿を変え、 泉水の周りを慰めるように舞う。 いつの間にか、泣いていたことも、不安だったことさえも忘れて、泉水はその蝶を追っていた。 ぱしゃりと足元で濡れた土の音がしたけれど、何度かこけそうになってその人に支えてもらったけれど。 楽しいと・・・そう思ったことはあれが初めてだったかもしれない。 他人に迷惑をかけているのだということを忘れたことも。 初めてだった。 舞い疲れて、冷えていたはずの身体が温かくなり、その人の腕に抱かれていると、 泉水はいつの間にかうとうとと舟をこぎ始めた。 知らない人の前で安心したことなど一度もなかったのに、 その人が傍にあるというだけで何故か心が落ち着いた。 「香集・・・お前の纏う水の気は、この静かな雨と同じ。お前は万物を慰める存在だ。」 霞がかかっていく意識の中、耳に心地よい低い声。 「泣いてはいけない。お前の涙は、嘆きは、それだけで激しく地を叩く嵐にさえ勝ろう。」 優しく髪を撫ぜるその大きな手。 「香集。私を恐れなかった人間は・・・お前が初めてかもしれない」 恐れるなど・・・ あなたはとても優しい人。 不思議だけれど、とても安心する・・・ まるで、こうしていることが当たり前のよう。 あなたの名前を・・・知りたい・・・ 泉水は、気付くと自室で褥に包まれていた。 朝方、屋敷の縁側で眠っているのを父親に発見されたとの事だった。 元々身体の弱い泉水だったけれど、風邪をひくこともなく・・・ 覚えていたのはとても暖かな、人のぬくもり。 ずいぶん後になって知ったことだったが、泉水が和仁に連れて行かれた森は、京の最北に位置する北山。 人ならざるものが住むとして、京の人間はその土地を恐れる。 和仁は泉水を謀っていたのだ。 噂だったけれど、そこには神仏ではなく一人の陰陽師が住んでいるとのこと。 安部家の陰陽師。 何十年も前から姿が変わらない、異形のモノ・・・ とても大きな力を持っていて、何か大事が起った時、他の誰でもどうしようもなくなった 時だけに利用される哀しい人。 けれど泉水は知っている。 泣いていた泉水を慰めようと、美しい蝶を舞わせてくれた人。 こけそうになる泉水をさりげなく支えてくれた人。 眠りそうになる泉水を優しく抱きしめ、ずっと髪を撫ぜていてくれた人・・・ 役に立たない、迷惑だと言われ続けている泉水のことを、万物を慰める存在だと言ってくれた人。 叶うならどうか、もう一度あなたにお逢いしたい。 陰陽寮に行っても 北山に行っても それ以来あの不思議な人に会うことはできなかった。 けれど、良い音色を纏っていると言ってくれたから。 泉水は北山の泉で笛を奏で続ける。 どうかあの人に届いていますように。 どうか、あの人が心穏やかに過ごしていてくださいますように。 あの日から十年以上。 その日も、泉水は笛を奏で続けていた。 「泉水さんの笛って、とっても優しい・・・」 優しく微笑んで、喜んで笛を聴いてくれる竜神の神子。 今日はあなたが無事、帝側の八葉に認められ、顔を合わせる日。 北山で神子と出会った時は・・・やっとあの人と再会できたと思ったけれど。 不思議です。 今、あの時と同じように、運命が巡っている気がする。 近付く気配。 そのうちの一つを、私は確かに知っている。 あの日感じた、暖かで、でもピンと張り詰めた弦糸のような気配。 見えてくる4人の姿。 ああ、あの日と変わらない陰陽の着物。 ゆったりと振り返るその動きをただ追って・・・ ああ。 一体何から話せばよいのでしょうか。 その左右違う瞳に、そっと尋ねる。 「・・・あなたの、お名前を・・・」 |
【蒼き流れを先途に…】
の紗羅蒼流 様に、『 晴乞 』のイラストのお話、 『 胡蝶の君 』をいただいちゃいましたvv 泉水ちゃんが泣くと、鳥や虫、花といった森羅万象の気が乱れるという 設定で描いたイラストなのですが、もしかすると いちばん気が乱れているのは 泰継殿かもしれませんねv (萌 お話では、泉水ちゃんと泰継殿は十数年ぶりの再会ですけど、 時折 木の上からこっそり成長を見守っていたりして〜…v などと 思わず萌妄想をしてしまいましたvv 素敵なお話をくださって、ありがとうございます〜vvv |