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─少しだけ長い秋の夜─ Written by G7 脱衣所から出ると、ひんやりとした空気が上気した肌に心地良く感じた。 『内風呂を造って正解だったわね…』 マリアが心の中で呟きながら時計を見ると、もう十二時近くまで時間が過ぎていた。 まだ本格的な寒さを迎える前だとしても、劇場内にある大浴場から部屋に帰る事を考え ると本当にありがたい事だと思う。 まだ新居ではなく帝劇の二階に住んでいた頃は、別段不便にも思わなかったのだが、こ してみると自分も少しずつ変ってきているのだと感じた。 『そう云えば、今日は仲秋の名月だったわね…』 以前は部屋に帰り様、カーテンを閉め忘れた窓から良く月を見上げたものだった。 そして思いの他長居してしまい、危うく湯冷めしそうになった事もあった。 しかし、湯上がりの火照った身体で月を見上げると不思議と身も心も落着いて来るよう で、遂々時間を忘れてしまうのだ。 『新しい生活に不満は無いけれど、お風呂上りに夜空を眺められないのがちょっとね…』 こんな事が不満と感じられるのは、今が幸せだからなのだろう。 露西亜から紐育、そして帝都へと流れ着いた彼女の人生だったが、己の人生に不安も不 満も感じる間もなく慌ただしく過してきた。 だからこそ、今感じる小さな不満もいとおしく感じるのだとマリアは思う。 「あら、まだ髪を乾かしてなかったんですか?」 寝室に戻ると濡れた髪をそのままに、タオルを首に巻いたままベットの淵に腰掛けた夫 の姿を見て、驚きと呆れの混じった声を上げてしまった。 「うん、まだちょっと熱くてね…」 膝の上に乗せた本のページを捲りながら、目線は膝の上に落としたままの大神が答える。 確かに今の時期、風呂から上がった直後は汗ばむ程の暖かさが残っている。 しかし、いくら暖かな部屋の中とは云え、彼女が大神と入れ替わりに風呂場に向かった 時間を考えれば、そのままでは確実に風邪をひく。 「風邪をひきますよ、体調管理も支配人の仕事の一つです」 当り前の事を言ったつもりのマリアだったが、何となく自分でも可愛げの無い言い方だ と思ってしまう。 自分の言葉にもう少し柔らかさや、カンナの様な朗らかさが有ればと思うが、大神は然 程気にしたふうも無くマリアの言葉に応える。 「うん、このページを読み終ったら乾かすよ…」 先程から膝の上に置いた本を読むのに集中しているとばかり思っていたが、しっかりと 彼女の言葉も聞いたようだった。 「タオル、置いときますね」 ベットの脇に新しいタオルを置いて、マリアも鏡台の前に腰を下ろす。 鏡越しに後ろを確認してみると、大神は本に集中したまま動く気配は無い。 「ふぅ…」 苦笑いを堪えた溜め息を吐きなら、マリアは視線を鏡に映る自分の姿に戻す。 『久し振りに、ゆっくりと出来る夜なのに…』 総支配人に就任して暫くは、大神の方が覚えなければならない事やこなすべき仕事が多 すぎて、こうしてゆっくりと就寝前の時間を過せない日が続いた。 マリアとしても簡単な書類の整理や資料集めなどは手伝えるものの、職務の性格上大神 本人の判断が必要な仕事も多く、深夜まで支配人室に篭ることも珍しい事ではなかった。 前任者である米田など普段の行動や生活を鑑みると、一体何時これだけの仕事をこなし ていたのだと疑問を抱くと共に、マリアは改めてその偉大さに感心してしまった程だ。 しかし時間が経つにつれ、大神の方も如何にか仕事にも慣れ、最近は比較的余裕のある 夜を過しているの筈なのだが・・・。 『読書の秋とは言うけれど、何もそんなに一生懸命にならなくても…』 元来、大神には習慣として読書するという事が無かった。 本を読む事が嫌いなのではなく、必要であれば様々な書物も読んでいる。 聞く所に寄れば士官学校時代は、教本や関係書物などかなりの読書量だったらしい。 しかしマリアが想像するに、物語や詩といった叙情的な文章には縁が無かった様に思う。 でなければ、二人きりの時などもう少し気の利いた台詞の一つも出てくる筈である。 役職柄、次の舞台の演目などを決定したり脚本家などとの交流も多くなり、演劇だけで なく様々な知識や教養が必要とされるらしい。 だからと言う訳では無いだろうが、最近は暇を見つけては読書に励んでいるようだった。 そして、その中身の方もただ闇雲に読むのではなく、花組の演目で使えそうな物語を自 分なりに選んで読んでいる。 勿論マリアとしても、大神が読書に勤しむ事に異議がある訳では無い。 彼女自身も本を読む事は嫌いではないし、好きだからこそ読書に集中している時に邪魔 をされたく無い気持が判ってしまうのだ・・・。 『だからと言ってもね…』 幾分矛盾した感情だと判っているつもりだが、物分かりの良い妻を演じたい自分と少し でも此方を気にして欲しい女としての自分・・・。 少し前迄はこんな事で悩むなど考えもしなかった。 物語などを読んでいて登場人物がこのような悩みを抱いていても、自分とは無縁のもの だと思っていたし、たとえ当事者になったとしても割り切れる自信があった筈だった・・・。。 今こうして鏡に映る自分の表情にしても、周囲からは「変った」と言われる事が多いが、 自分自身ではその違いが判らない。 ただ、今もこうして些細な事で揺らぎ易くなった感情、これだけは確かに変ったと断言 できるのだが…。 「マリア、どうしたの?」 突然の後ろからの声にマリアが驚きながら振り返ると、先程まで読んでいた本を閉じ、 不思議そうな表情で彼女を眺めている大神の視線に気が付いた。 「いえ、何でもありません…」 取繕うように返事を返し、大神の横に腰を下ろしたマリアは、サイドテーブルに置かれ た本の表紙を指でなぞりながら声を掛ける。 「もう良ろしいのですか?」 「うん、明日も早い事だし・・・、それに話の筋は知っているからね」 軽く眉間を摘まみ、大神は欠伸を噛殺しながらマリアに答える。 『竹取物語ね…』 箔押しされた豪華な表装には、彼女も良く知る昔話のタイトルが印字されていた。 日本最古の物語、マリアも一応の粗筋は知っている。 仲秋の名月の時期に読む『竹取物語』、タイムリーとは言わないまでも、これが最近分か り始めてきた日本の「侘び寂」なのだと考えると、何となくそういうモノなのだろうと納 得してしまう。 「そうですか、何か新しい発見はありましたか?」 「うーん、上手くすれば新しい演目としていけそうかなって…」 マリアの視線に気付いた大神は照れくさそうに頬を掻きながら彼女の問いに答える。 「ふふっ、すっかり支配人って感じの台詞ですね」 「まあね…」 僅かに語尾を弱めながらも、最後まで逸らかす事無く言い切る大神の表情には自分の仕 事に対しての責任と自信が感じられた。 「でもさ、読んでいて思ったんだけれど、かぐや姫ってさ求婚を受ける気が無いから、無 理難題を出したんだろう?」 大神の問い掛けにマリアが顔を上げると、先程までの支配人然とした表情は影を潜め、 普段の柔らかい笑みを浮かべている。 「結局、誰一人としてかぐや姫の望んだ物は手に入らずに諦めてしまうんですよね」 「それって男からしてみると、何だか酷い話だなぁって思えてくるんだよな」 「えっ?」 一瞬、大神の言わんとする意味が判らずに、マリアは咄嗟に返す言葉が出てこない。 「だって、求婚者の中には途中で命を落としてしまう人もいる訳だし、最初から月に帰ら なければ行けないからって話をしてくれれば、納得も出来ただろうに…」 言いたい事を汲取ろうと、大神の顔を見つめていたマリアは、その余りに真剣に話す表 情に思わず笑いそうになるのを堪えてしまう。 『本当に、変な処で正直なんだから…』 物語、しかも御伽噺の類を真剣に解釈しようとする大神に対し、そんな真正直な性格を も愛しく思いながら、マリアは少し含みを持たせた口調で逆に問い返す。 「では、もし私が月からやって来た人間で、今後月に帰らなくてはいけないからと言った ら一郎さんは私の事を諦めて忘れてくれますか?」 我ながら意地悪な質問だと思ったが、余りに正論すぎる大神の言葉にマリアとしても少 しだけ反論してみたくなったのだ。 「そんな、忘れられる訳がないじゃないか!例えマリアが俺の事を忘れてしまっても、俺 は絶対に忘れないし、思い出させてみせる」 マリアの言葉に対し先程までの話は何処へやら、熱い口調で話す大神の様子に心を擽ら れながらも苦笑いが浮かんでしまう。 「だから、そういう事なんじゃないのでしょうか…」 「何か上手く逸らかされた様な気がするんだけれど…」 マリアの顔に浮かぶ苦笑いを見つめ、僅かに拗ねた様なニュアンスを残しながら、大神 は渋々納得の肯きを示した。 「逸らかしたつもりは無いですけれど、人間って何かに対する思い入れを簡単に諦められ ない生き物ですから…。それに無下には断れないしがらみもあると思いますし」 今までの自分を振り返りながら言葉を紡いだマリアだったが、そこに自責や後ろめたさ の感情は無く、穏やかな口調で話を続ける。 「もし私が同じ立場でも、やはり同じ事をすると思います。それに、やはり意にそぐわな い相手と結婚はしたくないものですし…」 言葉の最後に含みを持たせながら話を締め括るマリアに、大神は彼女の真意を読み取ろう とその表情を見つめた。 「マリアは、その、俺との結婚は望んだ事なんだよね?」 「もう、何故疑問形なんですか、確認しないと不安ですか?」 「いや、なんか物語の中でもそうだし、現実だって・・・。俺って女性心理ってのに気が付 くのが鈍いからさ…」 『逆に鋭かったりしたら、それはそれで私が不安になってしまうわ…』 一瞬心に過った己の呟きを抑えながら、マリアは悪戯な表情で切り返す。 「では、私が何処にも行かない様にしっかりと捕まえていてくださいね」 耳元で囁くように呟くと、マリアは身を起して大神に満面の笑顔を送った。 ポカンとした表情でマリアに見惚れていた大神は、暫くして我に返ると慌てて言葉を返 す。 「何処にも帰さないし、マリアの帰る場所は俺の胸の中だと思っているから…」 決して計算した訳ではないだろう、しかし狙った様な気障な言葉にマリアは崩れそうに なる自分の表情を隠すように大神の胸に顔を預ける。 「では、離さないでください…」 マリアの言葉に大神は何も言わずに、背中に廻した腕に力を込めた。 ゆっくりと時が進む部屋の中・・・。 秋の夜長という言葉がある通り、少しずつ長くなって行く夜の時間。 気候的にも穏やかで読書や芸術、運動など色々な事に勤しむ事が出来る季節だという事 は知っていた。 マリア自身、普段忙しい分このような時間を有効に使わなくては・・・、という気持も無い 訳では無かったが、こんなふうに過す時間は嫌いではなかった。 結婚する前と後で、二人の間でお互いを思う気持に変化があったわけでは無いと思う。 ただ、微妙に流れる時間の速度が違う気がするのだ。 二人の仲が公式なものになるまでは、限られた逢瀬の中で時間を惜しむように過してい た。そしてこのまま時が止まれば良いと真剣に思った事もあった。 しかし、二人が同じ部屋で暮す毎日を送るようになってからは、その時間の流れはとて も緩やかになった気がする。 物理的に一緒に過す時間が増えた事は確かだったが、それ以上に二人だけの時間に対し て余裕と云うかゆとりの様なものを感じるのだ。 だからと云って、お互いの思いが惰性になった訳ではない、その証拠に今この瞬間も大 神の何気ない一言や行動に対し、こんなにもドキドキしている自分がいるのだから・・・。 偶にはこんな夜の過ごし方も悪くないと思う。 このささやかな時間を楽しむように、マリアは身体の力を抜いて大神に全てを委ねる。 「どうしたんだい?」 僅かに加わった重みだけの筈だったが、大神は何かを感じたように問い掛ける。 「何故、竹取物語などを読まれたのですか?他にも物語なら沢山あるのに…」 自分の感情の機微に気付いてくれた事を嬉しく思いながら、もう少しだけこの甘やかな 遣り取りを続けていたいと思ったマリアは、顔を上げると逆に問い返す。 「特に深い意味はないんだけれど・・・。最近月を見ていてね、そう云えば今日は仲秋の名 月だっけ?見廻りの最中にカーテンの隙間から見上げる月があまりにも綺麗だったので、 何となく月に因んだ本でも読んでみようかなって思っただけだよ…」 『以外とロマンチストなのよね…』 触れ合った身体から直に響く大神の声を楽しみながら、マリアは言葉を繋げる。 「月から連想される話ですと、私の場合は吸血鬼や狼男とかをイメージしてしまいますけ れど…」 「何か恐そうな話ばかりだね」 「可愛く無いですか?」 大袈裟におどける大神に対して、マリアは拗ねた口調で顔を上げた。 「ううん、確かに月って綺麗だけれど、月を見ていると魅了されるっていうか、引込まれ るようで恐いって思うし、逆に何か昂揚するような気分にもなるから…」 自分の感情を上手く言葉に出来なかった大神は、絡み合った視線を解くように瞳を泳が す。 「でも、月に魅了されて昂揚するなんて、まるで狼男みたいですね」 大神の子供っぽい仕種に笑いを堪えつつ、マリアは軽く追い討ちの言葉をかける。 「それって、俺が?」 自分の言葉に困惑したような表情を浮かべる大神に、マリアは想像の中で白銀に輝く狼 の耳と尻尾を付けてみる。 「ふふっ、イメージですよ」 マリアがそんな想像をしているとも知らずに、大神は彼女のクスクス笑いの意味が分か らないといった様子だったが、反撃の為に表情を作り直す。 「何か微妙なイメージだなぁ・・・。でも俺が狼男だったら、今日みたいな満月の晩は傍に いると危険かもしれないよ?」 低めの声色と表情を作った大神の姿が余りに想像通りで、マリアは笑いを堪えられなく なってしまう。 「困りましたね・・・。銀の弾丸は無いのですが、私のエンフィールドは狼男さんには利くと 思います?」 大神の胸板に寄せていた頬をずらし、人差し指で心臓の辺りを突ついてみる。 「うっ…」 意外なマリアの反撃に、言葉に詰った大神は引き攣った笑いを浮かべる事しか出来なか った。 当初の話から大きく外れてしまった会話、特別に意味のある遣り取りでは無かったが、 こうして二人で他愛も無い会話を交す事は楽しかった。 そんな雰囲気の中、マリアは普段であれば考えもしない事を思い付き行動に移した。 大神の反応を確かめながら、銃に見立てた人差し指を軽く動かす。 しなやかな指先が大神の胸板に軽やかに「の」の字を画く。 一瞬だけ身震いした後、擽ったさの中に微かに混じる別の感情に頬を染めながら、大神 は彼女の背中に廻した腕を解いて両手を軽く上げた。 「色んな意味で降参です…」 「……」 「……」 「「ふふっ…」」 そして僅かな沈黙の後、どちらとも無く笑い声が重なる・・・。 ゆっくりと更けて行く秋の夜…。 日々鮮やかさを増す紅葉さながらに、お互いの頬は朱に染まり…。 夜空に浮かぶ名月の下、進み行く秋の気配と共に二人の仲もその深みを増して行く・・・。 ─fin─




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