21000Hit 記念 SS




「マリア、折り入って相談があるんだけれど…」 就寝前、照明を落とそうと立ち上がろうとする彼女を呼び止める夫の声。 声に混じる真剣な響きに、マリアは思わず佇まいを正して正面に向き直る。 「なんでしょう…?」 彼女を見つめる大神の瞳は、普段彼女が密かに名付けている『夜の眼差し』ではなく、 何かを決心したような輝きを湛えていた。 「以前から考えていたんだけれど…」 『何の事かしら…?』 「俺も責任ある立場に就いて、勿論今までだって責任のある立場だったんだけれど…」 「はい…」 言葉を選ぶように話し出す夫の姿を見つめながら、マリアはその断片的な大神の言葉の 間に色々と考えを巡らせてみる。 「マリアと結婚して生活も順調で、人間的にも成長していると思う…だからそろそろ…」 「はい…」 それらはマリアとしても十分に判っている事、今更改まって確認する事では無いと思う のだが、妙に畏まった大神の態度にマリアの思考も遂々飛躍してしまう・・・。 『そろそろって・・・』 夫婦として一緒に暮し始めて、余裕を感じる間もなく慌ただしく今日まで来てしまった が、思い返せば結構な時間を共に過ごしているのだ。 徐々に夫婦としての生活にも慣れ始め、マリア自身の中でも『そろそろ』と云う言葉に 思い当たる節もある…。 『一郎さんったら、何も改まって言わなくても・・・。でも私も考えていた事なのだし…』 時間にすれば僅かな間だったが、マリアの思考は自己完結し、頭の中ではキャベツ畑が 広がり、その上からはコウノトリの大群が舞い降りる。 大神の方でも己の胸に秘めたる思いがそうさせるのか、微かに身を乗り出しながら意を 決した様に一気に言葉を紡ぐ。 「俺、髭を伸ばそうと思うんだけれど」 「はっ?」 「考えてみたのだけれど、俺って貫禄が無いっていうか・・・。髭でも伸ばしてみたら少しは 貫禄っていうか威厳みたいなモノが備わってくるのかなって…」 自分の予想を大きく裏切られたマリアは、その落胆よりも大神の言葉を完全に理解出来 ずに生返事しか返せない。 「マリアはどう思う?」 大神の問い掛けに対して、自分一人だけが先走って飛躍した想像を巡らした事に、恥ず かしさが込み上げてしまうマリアは、火照った頬を隠す為に顔を上げられなかった。 「一郎さんが決めたなら、私は別に…」 深く考えないまま、マリアはその場を取繕うと返答する。 「そう、賛成してもらえて俺も踏ん切りがついたよ」 マリアの言葉を聞いて、大神は嬉しそうに肯いてから彼女を引き寄せる。 そうして何時もと同じ甘い抱擁に、マリアもつい流されるように大神の胸に身を預けて しまう。 『髭ね…』 心の中で先程の言葉を反芻してみるものの、大神から送られる心地良い刺激にマリアの 思考は甘く霞んでしまうのだった・・・。 21000Hit 記念 SS ─オトコの憧れ?─ Written by G7 最初に苦情が出たのは、あの大神の宣言から2日程経った頃だった。 マリアが図書室から出てきた所を、通りかかったカンナに呼び止められた。 「なぁ、マリア・・・。隊長のアレ、何とかしてくれよ…」 その性格からか、普段から隠し事やヒソヒソ話といった類の事が嫌いなカンナが周囲を 見回し、人気が無いのを確認してからマリアに耳打ちする。 「どうしたの、突然に『アレ』って…?」 「何かさぁ、本人は結構気に入っているみたいだけれど、どう見てもアタイにはカビにし か見えないんだよな〜」 何かを思い出した様にカンナは僅かにその形の良い眉を歪めた。 「カビって、カンナ…」 カンナの言葉が何を指しているのか、直に察する事が出来たマリアはその彼女らしい表 現に思わず吹き出しそうになってしまう。 「マリアはどう思っているのか知らないけどよ、アタイは似合わないと思うんだ」 確かに大神が髭を伸ばし始めて数日が経ち、幾分目立つようになっては来ている。 しかし生来髭の濃くない体質の為か、朝晩大神と顔を合わせているマリアとしては、そ の微妙な変化も日常として受け止めてしまい然程気にしてはいなかったのだ。 「マリアはんにカンナはん、何をヒソヒソと話してるん?」 部屋に戻る途中なのだろうか、階段を上がってきた紅蘭が廊下の隅で話している二人に 気付いて声をかけてくる。 「あっ、紅蘭からも言ってやってくれよ、隊長のアレ…」 大神の髭に関して少しでも味方が欲しいのか、カンナは紅蘭に手招きをしながら意見を 求める。 「なんや、その事で話してたんか。確かにアレは罰ゲームに近いモンがあるなぁ」 「罰ゲーム?」 「そや、大神はんがどんな真剣な顔で真面目な話をしても、あの髭を見ると笑いそうにな ってしまうんや。もう我慢するのに一生懸命で話しなんかマトモに頭に入らへんし…」 話しているうちに彼女も何かを思い出したようで、紅蘭は言葉の途中で何度も笑いを堪 えている。 「貴方達の意見は分ったけれど、そんな言われ方をされているなんて、一郎さんが少し可 哀相だわ…」 カンナ達の言い分も十分に理解できるのだが、そのあまりの酷い言われ様に『大神の妻』 という立場のマリアとしては、どうしても良人を擁護してしまう。 「マリアはそう言うけれど、アタイ達にとっては結構重大な問題なんだぜ」 「まぁ、今はまだ笑い話で済むけれど、これ以上アレが伸びたら…」 マリアの曖昧な言葉に二人は言葉を畳み掛ける。 「そうねぇ…」 カンナ達の言葉に、つい先日の出来事を思い出すマリアだった。 新居のリビングを片づけていた時、机の上に置かれたままになっている雑誌を仕舞おう と手に取った。 現在の処、新居に住んでいるのはマリアと大神の二人だけであり、マリアが読んだのでな ければ残る選択肢は一つしかいない。 雑誌自体は定期的に発売されている政治や経済の時流を取り上げるもで、そういった事 にあまり興味の無いマリアはパラパラとページを捲り、そして偶然所々に折り目が付いて いるページがある事に気が付いたのだ。 何気なく折り目のページを見比べると、記事自体には何の繋がりの無いものばかりだっ たが、一つだけ共通する箇所がある・・・。 それぞれの記事の横に添えられている写真、各界の著名人らしいのだが 全員が立派な髭 を生やしていた。 短く形を整えられたものや、長く伸ばした先端部分を綺麗にカールさせているものなど、 形も長さも様々だが、それぞれが立派と言える代物だった。 マリアの想像が正しければ、大神はこれらの写真を元に自分の理想とする髭の未来図を 考えているのだろうと漠然と考えていたのだが…。 その時は然程深刻に考えもしなかったが、カンナ達の言葉を聞きながら、あの写真の様々 な髭と大神の顔を重ね合わせたマリアはブルッと身震いしてしまう。 「マリアはん?」 そんな出来事があった事を知らない二人は、マリアの反応を怪訝そうな表情で眺める。 『絶対に嫌っ!あんな冗談みたいにカールしたり、触覚みたいに尖った髭を生やした一郎 さんなんて…』 次々と浮かんでくる自分の恐ろしいイメージに対し、マリアは紅蘭の声も聞えないまま 一人想像の世界をさ迷ってしまう。 「お〜い、マリア?」 カンナに肩を揺すられて、マリアはようやく元の世界に連れ戻される。 「判ったわ、機会があれば私からも言っておくから…」 それだけを口にすると、マリアはボソボソと何かを呟きながら階段を降りて行く。 何処か思い詰めた様な彼女の表情と発せられるオーラに対して、まだ何か言い足り無さ そうなカンナと紅蘭だったが、結局何も言えずに黙ってその後ろ姿を見送るしかできなか った…。 ◇ 「どうしたんだい、マリア?」 マリアがカンナ達の話を聞いてから数日が経ったある日の事、朝食の席で彼女の対面に 腰掛けた大神が不思議そうな表情を浮かべる。 「ええ…、別に…」 先程からチラチラと大神の顔を見ていたマリアだったが、改めて大神の方から顔を向け られると、まともに目を合せられないでいた。 『確かによく見ると、毎日徐々に濃くなってるわ…』 マリアとしては別段好きでも嫌いでもなかった大神の髭だったが、一度気になってしまう と最初は小さかった違和感が日を追うに連れ大きくなってくるのだ…。 そして気になるだけでなく、彼女としても無視できない実害も発生してきており、マリ アの違和感はここ数日でピークに達していた。 「そう…」 大神はマリアの様子を気にしながらも、大神は一端間を空けるようにカップに入った牛 乳を一気に飲み干す。 そして気遣わしげな視線でマリアを見つめながら言葉を続けた。 「でも何かあるんだったら、一人で抱え込んでしまわずに言ってくれよ」 その声に混じる大神の優しさが、一人悩んでいたマリアの心を暖かく包み込む。 そして己の中で積もり固まりつつあった違和感を一旦押え込み、彼女は再度大神の髭に 対しての考えを改めてみるのだった。 『一郎さんの意志で伸ばしている髭なのだから、私や周囲がとやかく云う事でも無いのか もしれない・・・。それに見慣れてくればきっと…』 皿の上のトーストに目を落としていたマリアは、気持を整理して視線を上げる。 「一郎さん、……っ!!」 何処か吹っ切れた様な表情で顔を上げたマリアだったが、正面で微笑んでいる大神の顔 を見た瞬間凍り付いてしまう。 『やっぱり、嫌!!』 大神の慈しむような瞳と整った鼻梁の下、僅かに形になってきた髭に沿って付着してい る白い筋・・・。 今しがた飲んだ牛乳の残滓が、その笑顔を全て台無しにしているのだ。 先程までマリアが強引に整理した気持は吹き飛び、急転直下で心の奥から理不尽な感情 が再び湧き上ってくる。 「何?」 マリアの心情の変化など判りもしない大神は、相変らず髭の下に牛乳を付けたまま笑み を浮かべていた。 「髭、剃って下さい…」 「何で?マリアだって賛成してくれてたんじゃない?」 突然のマリアの要求に大神は首を傾げる。 痛い所を突かれたマリアは一瞬押し黙ってしまうが、呆けた大神の態度を見れば見る程 に、彼女の感情は昂ぶってゆく。 『もう、押さえ切れない…』 自分でも何故こんなにも怒っているのかは判らない、しかし『嫌なものは嫌』という子 供じみた自分の心に渦巻く感情を押さえ切れなくなっているのだ。 「実際、花組のメンバー達の評判も悪いですし、やはり私も似合わないと思うんです」 「評判や風評なんて一々気にしないし、似合う似合わないは俺の問題だろ?」 マリアの鋭い口調に一瞬だけ鼻白む大神だったが、彼女の突然の言葉にカチンとした様 子で言い返した。 「責任のある立場なんですから、そういった事も気にしてください!」 「その責任ある立場って奴に見合うように伸ばしているんだし、多少似合わなくたって誰 にも迷惑をかけている訳じゃないだろ!」 『迷惑って、そんな子供みたいな開き直りを…』 傍からみればお互いに子供の口喧嘩レベルの言い争いであるのだが、自分の感情に流さ れているマリアも大神もそれに気が付かない。 お互いに言葉が鋭くなり、売り言葉に買い言葉で朝の食卓は一気に緊張の度合いを増す。 「此処には年頃の女性が多いのですから、そういう事も気にして欲しいんです。今だって 牛乳が付いたままですし…」 マリア自身は努めて穏やかな口調で話したつもりだったが、普段よりも低めの声が逆に 喧嘩を売っているように聞えてしまう。 「俺には女性心理なんて分らないし知らないけれど、マリア達だって少しは男の憧れって ヤツを理解してくれても良いじゃあないか」 幾分荒い仕種で手の甲で口の周りを拭いながら、大神は不貞腐れた様に反論する。 『オトコのアコガレ…?』 大神の何気ない一言がマリアの頭の中で反芻されて行く。 マリアとしても格段意識している訳ではないが、共にこれからの人生を共に歩む伴侶と して、大神の事を敬い・気遣い・そして愛しているのだ。 勿論、相手の全てを理解しているとは言わないし、寧ろ判らない事の方が多いだろう。 だからこそ常に相手の事を察する事が出来る様、敬謙で寛容な気持を持って相手に接し ていたし、大神にしても同じだと思っていた。 しかし大神が勢いで発した一言は、そんなマリアの考えを覆し、そればかりか彼女の逆 鱗に触れる決定的な一言になってしまう…。 『少しは理解して欲しいですって…。男の憧れって何?知りたいとも思わないけれど、そ んな訳の分らないモノの為に私はずっと悩んで振り回されているの…』 そしてマリアの心の中で、これまで渦巻いていた感情が飽和して喉から溢れ出す。 「他の人間は別にして、私には実害もあるんです!」 「どんな実害?」 大神は腕組みしながら、マリアを訝しげな眼差しで眺めながら言葉を返す。 そんな大神の態度にマリアの最後の一線、今まで理性で抑えていた事柄が口を割って言 葉になってしまう。 「最初はチクチクして痛かったですし、生え揃ってきたと思ったらゾワゾワするし・・・。髭 を剃ってくれないんでしたら、もう…」 初めは勢い良く出てきた言葉だったが、実際に口に出してみると予想以上に恥ずかしい内 容を口走ってしまった事に気付いたマリアの声は、徐々にトーンダウンして行く。 「『もう』…って、何が『もう』なの?」 普段の彼女らしからぬ発言に、驚いたように目を瞬かせていた大神だったが、聞えなく なってしまった言葉の最後を聞き直す。 「知りません!ご自分で考えてください!」 半ば自棄気味にマリアは会話を打ち切ろうとする。 「チクチク・ゾワゾワ?」 自らの台詞で羞恥に顔を染めるマリアは、大神の疑問の声を聞いて更に頬を紅潮させた。 「何度も繰り返さないでください!」 マリアの抗議の声を他所に、大神は自分の髭に手を当てながら思案顔で俯く彼女を眺め ている。 見つめられているのが判るマリアは、顔を上げられない。 先程までの爆発的な感情の波は過ぎ去り、彼女の心の中では気持ちを吐露した昂揚感や 満足感よりも今は羞恥と気不味さが心を占めていた。 「ふ〜ん、そうだったんだ…」 暫し考えた後、大神は納得したように声を上げた。 「なっ、何が『ふ〜ん』なんですか!」 大神の思考に想像を巡らせたマリアは、その言葉に含まれたニュアンスに反発するよう に勢い良く顔を上げる。 「いや、マリアがそんなふうに感じていたなんて知らなかったから…」 「かっ、感じていたなんてっ!」 「チクチク・ゾワゾワしてたんでしょ?」 改めてお互いに顔を向け合うと、どうしても大神の髭に目が行ってしまうマリアは、己 の自爆発言を思い出し、口篭もってしまう。 「俺、髭を剃る事にするよ」 次の言葉が出てこないマリアを見つめながら大神が口を開いた。 「えっ…?」 「髭、剃るから…」 先程まであれほど意固地になっていたとは思えない大神の言葉に、マリアは驚きのあま り反応出来ない。 「オトコの憧れは…?」 やっとそれだけ口にしたマリアに対し、大神は満面の笑みを浮かべて彼女の問いに答え る。 「『髭』っていう男の憧れは断念するよ。その代わり、もう一つの憧れってヤツをね…」 何処か嬉しそうな大神の声を聞きながら、先程までの緊迫した雰囲気からの変わりよう に戸惑いながら、マリアはただ肯く事しか出来なかった・・・。 ◇ 「入りますね…」 一応の確認を取りながらマリアは浴室のドアを開ける。 換気しきれない湯気が一気に流れ出し、マリアの視界を乳白色に覆って行く。 「随分時間がかかったね?」 場所柄か幾分エコーが掛かった大神の声が以外と近くに聞えてしまい、マリアは胸元と 腰に添えている腕に力を込める。 大神が髭を剃る事の条件として挙げた、もう一つの『男の憧れ』・・・。 本人曰く、「髭が柔らかくならないと綺麗に剃れない」とか「しっかりと剃っている所を 確認して欲しい」など、最もな理由を幾つも上げてはいたが、結局の処は『一緒に風呂に 入ってくれるのだったら、髭を剃ってもいい』という馬鹿げた提案だった。 普段だったら考えるまでも無く却下するような提案だったのだが、マリアとしても成り 行き上一度は賛成してしまった『大神の髭』であったし、自分の不条理な感情で言い争っ てしまった事もあって、渋々了解してしまったのだ・・・。 『改まって一緒にお風呂なんて、恥ずかしいじゃない…』 そんなマリアの心情などお構い無しに、大神は彼女に背を向けたまま呑気な口調で声を 掛ける。 「ほら、もう綺麗に無くなっているだろう」 洗い場に備え付けられた鏡の前に座っていた大神が、剃刀を当て綺麗になった顔をマリ アに向けた。 「こっちを向かないでくださいっ!」 慌てて非難の声を上げるマリアだったが、大神は彼女の声も届いていないような呆けた 表情を浮かべたまま固まってしまう。 「そんなに見ないでください!」 大神の視線から僅かでも逃れようと、マリアが身を捩り覆う手に力を込める程に、その 豊満な胸は腕から零れそうになり、括れた腰と下腹部は悩ましく揺れ動き、煽情さを増す ばかりだった。 普段から肌を露出する事に慣れていないマリアにとって、たとえ夫と云えど明るい場所 で素肌を曝す事には抵抗があるのだ。 「凄く綺麗だ…」 普段は照れと気恥ずかしさで言ってくれない言葉だったが、今のマリアにとっては嬉し さよりもただ羞恥を煽るだけだった。 浴室の熱気以上に熱い大神の視線で肌が紅潮してくるのを感じながら、マリアは羞恥と 熱気にあてられてしまい、その場に座り込みそうになるのを辛うじて堪える。 「先に入らせてもらいますね…」 何とか言葉を紡ぎ、マリアは手早くお湯を浴びてから浴槽に足を入れる。 マリアとしても何時までもその場に立っている訳にはいかなかったし、何より大神の視 線から身を隠したい一心だった。 そして肩までお湯に浸かると、浴槽に背中を預けて大きく息を吐き出す。 胸や腰に当てた腕はそのままだったが、身体に染み込むお湯の温かさが幾分その緊張で 固くなった腕の力を緩めてくれる。 横目で洗い場の方を見てみれば、マリアに背中を向けた大神が髪を洗っている所だった。 『一郎さんの背中か…』 過去の戦闘では常に先陣を駆ける彼の背後を守る為に、そして演習や留学で大神が帝都 を離れる時も、その背中を見つめていた・・・。 尤もその時はこの様な状況で彼の背中を眺める事になるとは思いもしなかったが、改め て見てみると、あの頃と変らない広く逞しい後ろ姿に、胸が熱く脈打つのが分る。 大神はそんなマリアの心の内を知らずに、のんびりと鼻歌混じりで頭からお湯を被って いる。 『お背中、流します…、なんて言った方が良いのかしら?』 日頃の感謝を込めて純粋に考えたマリアだったが、実際に大神の後ろで背中を流す事を 想像し、頭を振ってその思考を打ち消した。 『そっ、そんな恥ずかしい事を出来る訳ないじゃないっ!』 桜色に染まった頬を隠す様に、ブクブクと空気を出しながらマリアは顔を沈める。 「俺も入りたいんだけれど、少し場所を空けてくれるかな?」 自分の思考に沈みながら、無為な水泡を浮かべていたマリアの頭上から身体を洗い終え た大神の声が掛けられた。 「えっ!はっ、はい」 水面から顔を上げ、慌てて返事をするマリアの僅かに空いた後ろ側から大神は足を滑り 込ませる。 「いっ一郎さんっ!」 しかしマリアの抗議の声は、湯船からお湯が溢れる音と重なり掻き消されてしまう。 当たり前のように後ろから腰に腕を回し、大神はマリアを軽く引き寄せながら手を組み 合わせる。 背中越しに感じる大神の身体にマリアは一瞬だけ身を固くした。 彼女の腹部に添えられる形で置かれた両掌を、大神が緩やかに動かす度にお湯とは違う 温かさが伝わり、徐々に身体の力が抜けてしまうマリアだった。 「一緒に風呂に入るなんて始めてだね…」 マリアの緊張が解けたのを感じて、大神は顔を近づけて彼女の耳元で囁く。 「はい…」 「随分と顔が赤いけれど、のぼせちゃった?」 微かに耳に触れる唇の動きがマリアを軽く身じろぎさせる。 「一郎さん、意地悪です…」 「ゴメン、でもマリアって色白だから、そういう反応がすぐ分るんだ…」 言葉を交しながら、大神は耳朶から唇を動かして顎に移動した。 「もうチクチクもザワザワもしないだろう?」 僅かに腰を浮かせて首を伸ばし、大神は互いの頬を合せる。 「はい、でもあまり顔を前に出さないでください」 大神が少し視線を落とせば自分の身体が覗き込まれる態勢に、マリアは慌てて身を屈め て身体を丸めた。 「じゃあ、これならOKなの?」 マリアの肩に乗せていた顎を動かし、大神は彼女の無防備な項へと唇を這わす。 濡れた後髪の間から押し当てられる、暖かな感触・・・。 マリアの腰の前で組まれていた手はそのままに、大神はゆっくりとした動きで腕を上げ て行く。 腹部を撫でながら上昇する掌の感触と項に感じる唇に、マリアは声を抑えながら抵抗す る。 しかし元々が一人用に設計された浴槽の中では逃げ場も無く、大神の悪戯に翻弄されて しまう。 「もうっ!」 微かに残っていた理性を総動員して、マリアは自分の身体を隠していた腕を解き、後ろ に向かって軽く水面を跳ね上げた。 「うわっ!」 顔面にまともにお湯の飛沫を浴びた大神は、驚いたように声を上げて頭を振る。 「やったなマリア」 「自業自得です、一郎さん」 二人の口調は普段と変らないものだったが、お互いの表情には柔らかい笑みが浮かんで いる。 しばらくの間、浴槽に響く水音と時折聞える小さな嬌声・・・。 やがて堪えきれないといった様子で笑い声が重なり、マリアは力を抜いて大神の肩に頭 を預けた。 「ねえ、マリア…」 戯れの為に濡れて張り付いたマリアの前髪を掻き揚げながら、大神が顔を近づける。 「なんでしょう?」 「そろそろ上がらない?」 マリアが視線を上げると、無邪気さの中に微かな情炎を灯した大神の瞳と交差する。 「そうですね、私も身体を洗ったら出る事にします…」 『これから先、一体幾つの男の・・・、一郎さんの憧れに付き合う事になるのかしら…?』 視線を絡めたまま、マリアはふと過った疑問を心の中で考えてみる。 しかし不思議と嫌とは思わない自分に対し、驚きと可笑しさが混ざり合った感情が込み 上げてくるのだった。 「じゃあ、お先に失礼するけど、これからも機会があれば一緒にお風呂に入ろうね♪」 立ち上がろうと腰を浮かせながらの言葉に秘められたニュアンスと、先程から臀部に感 じる大神の自己主張に、マリアは笑みを浮かべながら甘い吐息と共に言葉を紡ぐ…。 「もう、本当にのぼせてしまいそうです…」 ─Fin─




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