15000Hit 記念 SS




─太正13年 4月─ 「結局、返す事が出来なかったわね…」 西日が差し込む窓際、マリアは部屋のクローゼットの前に立ったまま一人呟く。 両手に握られたワイシャツは、クリーニングから帰ってきた時のまま、綺麗に折りたた まれている。 何処にでも売っている有り触れた男物のワイシャツ、つい数時間前まで一緒にいた人物 が袖を通していた事がある代物だった。 傾きかけた陽光に照らされた布地は、仄かな温もりをマリアに伝えている。 「……」 その温もりに何を思い出したのだろう、口を開きかけたマリアだったが、結局言葉は形 にはならずに消えてしまう。 そして彼女は言葉を紡ぐ代わりに、大切な物を抱き締めるように胸に寄せ、何かを思い 出すように瞳を閉じた…。 15000Hit リクエスト SS ─部屋とワイシャツと露西亜での夜─ Written by G7 シベリア鉄道、東の終着駅であるウラジオストック駅に降り立つと、沈みかけた夕日と 冷たい潮混じりの風が二人を出迎える。 何か特別な日という訳ではない筈だが、何処か鄙びたホームには忙しない人の波であふ れていた。 「マリア、こっちだよ…」 周囲の光景を見まわしていたマリアに、先を歩く大神が声をかける。 「……はい」 周囲を眺めていた彼女の返事を確認すると、再び大神は改札に向かって歩き出す。 露西亜に於ける東亜細亜への窓口である港町ウラジオストック、街の性格上なのか駅舎 の中には様々な人種が溢れている。 しかし行き交う人々を見てみれば、やはり白色人種が多く、金や赤といった髪色の中で 大神の黒髪・黒瞳といった容姿はかなり目立っていた。 だが、真っ直ぐに前を見つめる瞳と、背筋を伸ばして颯爽と歩く姿・・・。 その堂々とした立ち振る舞いは、大柄な人波の中でも決して見劣りすることは無かった。 先程まで無邪気な子供のように、車窓からの景色を眺めていた人間と同一人物とは思え ない切り変わり方を見て、マリアはそのギャップに思わず笑みをこぼしてしまう。 「今日の宿舎は、駅からすぐ近くって話しだから」 後方で浮かべられたマリアの笑みを知らないまま、大神は前を歩きながら地図を片手に 口を開く。 「ちゃんとしたベットで寝られるってのも勿論だけれど、夕食が美味しいと良いなぁ」 「ふふっ、隊長ったら・・・。でも確かに美味しいにこした事はないですね…」 大神の何気ない一言に、マリアは長い列車での出来事を思い出す。 長い距離を走る列車の中には食堂車も完備されていたが、出される料理はお世辞にも美 味しいとは言えない品物だった。 立ち止まる駅での停車時間に、地元の人々が売りに来るピロシキや茹でたジャガイモな どの方が美味しく感じる程である。 物珍しさもあったのか、目に付く品物を次々と行商から購入する大神。 マリアは苦笑しながらその様子を眺めていたのだが、今考えると単調になり易い列車で の生活に於いて、良い気分転換になっていたのかもしれない。 そんな事を思い出しながら駅舎を出て然程広くも無い中央広場を抜けると、アムール湾 から流れ込んで来る潮の香りが先程よりも強く鼻孔に広がる。 「果てしなく広がる大地ってのも良いけれど、やはり潮の香を嗅ぐと落着くなぁ」 少し芝居掛かった台詞と何処となく懐かしそうに目を細める大神を見ていると、マリア はこの旅が終わりに近づいている事を強く感じた。 日程の殆どを移動に費やし、狭い客車で身を寄せ合うようにして過ぎた日々…。 『旅行』というには、幾分慌ただしい行程だったが、マリアにはそれで十分だった。 己の過去と向き合い、新しい未来へと進み出す為の旅…。 言葉にすれば聞こえは良いが、ただ自分の心に区切りを付けたかっただけなのかもしれ ない…。 擦り減った石畳に目を落としながら、マリアは再び旅を振り返る。 『私に付合い、終始穏やかな笑顔で私の隣にいてくれた隊長・・・。 旅の当初、過去と向き合うことに対して、不安を感じていた私を励ましてくれた隊長…。 そして今・・・・・・』 これまで共に過してきた時間に比べれば遥かに短い間の筈なのに、この旅はそれに匹敵 する程の思い出をマリアに与えてくれた。 目的を果たし、十分に満足できる旅だった筈なのに…。 しかし、こうして旅を振り返ると、満足感と共に微かな寂寥に似た何かを彼女に感じさ せていた。 『こうして二人で旅をする事なんて、数ヶ月前までは考えもしない事だったのに…』 顔を起こし空を見上げると、広がる雲が随分と低く感じる。 『露西亜の空って、こんなに低かったかしら…』 釈然としない自分の感情が、こんな光景を見せているのだろうか・・・。 マリアは気持を切り替えるように大きく首を振ると、先を歩く大神の元へ足を速めた。 ◇ 「何を見ているの?」 先にシャワーを浴びた大神が、窓辺に寄りかかって外を眺めていたマリアに声を掛けた。 「あっ、隊長…」 窓の外に広がる景色を眺めていたマリアは、慌ててカーテンを閉めようとする。 「そのままで良いよ、俺も景色を見たいし…」 そう言いながらマリアの横で立ち止まり、闇に静まるアムール湾に目を凝らす大神。 街で数軒しか無いホテルの中で、唯一部屋を取れたのが湾から近いこのホテルだった。 そして夕食も終わり、後は就寝までの時間を過すだけである。 景色を見つめたままの大神とその横顔を黙って見つめるマリア・・・。 まだ乾き切っていない濡れた黒髪と、微かに風呂上がりの大神から香る石鹸の芳香。 そんな普段見る事の無い大神の姿に、マリアの心拍数はグングンと跳ね上げる。 彼女の心の乱れは、閉めようとしたカーテンを強く握り締めてしまい、微かな布摺れの 音が二人の沈黙を破った。 「マリアもシャワーを浴びてきたら?」 「はい…」 短い会話の後、僅かな間を置いて二人の頬が赤く染まる。 別段、意味のある会話でも無い筈だったが、お互いに変に意識してしまったのだろう。 「その、ちゃんとお湯も出たし…」 「はい…」 首都であるモスクワ程の都市は別にして、今の露西亜に於いて辺境の港町でお湯が使え るホテルは珍しかった。日本では考えられないような事だが、逆にこんな会話の端々で自 分達が異国の地に二人きりだという事を互いに強く意識してしまうのかもしれない。 「では、シャワーを使わせて頂きます…」 「うん…」 治まりそうに無い頬の火照りを残したまま、マリアは足早にシャワー室に向かう。 暫くして微かな水音がベットルームに聞えてくると、大神は大きく息を吐き出してベッ トの上に身を投げ出した。 「子供じゃないんだから・・・、俺って何意識してるんだろう?」 微かにくすんだ天井を眺めながら、大神は一人呟いてみる。 先程までは自然に振舞えていた筈なのに、部屋に二人っきりという事が自分を落着かな くさせるのだろうか・・・。 当初の予定では、シングルを二部屋借りる筈だったのだが、結局空いていたのはこのツ イン一部屋だけだった。 初めから予約など出来る筈も無い強行軍の旅なのだからと、仕方なくこの部屋に宿泊を 決めた二人・・・。。 しかし列車での日々と違い、ホテルの個室という事が今まで意識していなかった感情を 思い出させたのかもしれない。 部屋に戻ってからは、口数も少なくなりお互いに何処か気不味い雰囲気が部屋を支配し ているのだ…。 「きゃっ!」 大神が考えに耽っていると、突然シャワールームの方から短い悲鳴が聞えた。 「マリアっ!?」 考えるより早く、軍人として訓練された大神の身体が反応する。 ベットから起き上がり、跳ぶように数歩でシャワー室の前まで行きつくと、大神は一気に ドアを開け放った。 「何かあったのか、マリアっ!」 「………」 時間にすれば僅か数秒、湯気の立ち込める向こう側に見える裸身のマリア・・・。 突然に現われた大神の姿に、マリアも呆然とした表情で身体を隠す事も忘れていた。 大神の緊迫した目線とマリアの驚愕の視線が交差する。 そして状況を確認しようと大神が視線を移動させようとした瞬間・・・。 「……っ!!」 マリアは咄嗟に右手で握っていたシャワーのノズルを大神に向ける。 エンフィールドとシャワーの違いは或ものの、その完璧なシューティング・フォームか ら放たれた透明な弾丸は大神の顔面を確実に捉えた。 「っ冷たい〜!?」 情けない大神の叫び声とマリアが力強くドアを閉める音は部屋を抜け、開け放たれたま まのカーテンから暗く静かなアムール湾へと吸込まれていった・・・。 ◇ 「本当にすいませんでした…」 「いや、俺もノックも無しにドアを開けてしまったし…」 タオルで頭を拭きながら、大神はバツが悪そうに苦笑する。 「私が悲鳴なんて上げなければ・・・。しかも、隊長に水を浴びせてしまうなんて…」 ベットの縁に並んで腰掛けていたマリアも、後ろめたさからか視線を自分の膝に落とす。 「いきなりお湯から水になってしまったら、誰だって驚くよ。でもシャワーで良かった、 もしエンフィールドだったら、今頃は本当に冷たくなっていたからね」 「隊長っ!冗談でも笑えません!」 場を和ませようとする大神の意図は分かっていたが、咄嗟の事とはいえ自分の行動に負 い目を感じていたマリアは、つい剥きになって反応してしまう。 「ゴメン、言い過ぎ…クションっ!」 「隊長!身体を冷やさないようにしなければ…」 大神のクシャミを聞いたマリアは、慌ててベットの毛布を取ろうとするが、二人が腰掛 けている為に毛布は上手く大神の身体には掛からない。 「大丈夫だって」 「駄目ですっ!」 「本当に…」 「駄目ったら駄目です!」 毛布を大神に掛けようとするマリアと、それを遠慮する大神・・・。 「寒くないから…」 「いいから暖かくしてくだ…クシュン!」 永遠に続くかと思われた二人の遣り取りだったが、マリアのクシャミで二人の動きが止 まる。 胸の前で毛布を握り締め、クシャミの為か微かに潤んだ瞳と昂ぶった感情に頬を紅潮さ せるマリア。 そんな彼女の姿を見て、何故か大神も頬を染めてしまう・・・。 「ふふっ…」 「ふふふっ…」 「「クシュン!」」 やがてどちらとも無く漏れる笑い声と同時に発せられるクシャミ…。 「何やってるんだろうね」 「本当に…」 視線を絡ませながら、お互いに和やかな表情で言葉を交す。 先程まであった妙な緊張感も無く、穏やかな雰囲気が二人を包む。 「こうすれば、二人とも暖かいし…」 そう言いながら大神は片手でマリアの肩を抱き寄せ、空いた左手で器用に自分達に毛布 を巻き付ける。 「ねっ」 「はい…」 茶目っ気混じりに片目を瞑りながら同意を求める大神の言葉に、マリアも笑顔で言葉を 返しながら、僅かに身体を預けながら大神を見つめる。 互いに言葉も無く、静かな時間だけが流れて行くが、その沈黙は苦痛では無かった。 そして自然と近づくお互いの距離・・・。 「んっ…」 僅かに喉の奥に絡まったマリアの言葉は、形にならずに大神の唇に塞がれる。 そうして二人にとってのセカンド・キスは甘く静かに交された。 ◇ 「結局あの後、二人して船の出港ギリギリまで寝てしまって…」 マリアはワイシャツを抱き締める腕に僅かに力を込めて、懐かしそうに目を細める。 露西亜での最終日、ウラジオストックで迎えた朝・・・。 言葉を交す余裕も無く、必死に身支度する二人。 初めて二人で迎えた朝だったが、情緒や感慨に耽る時間も無い慌ただしさだった。 忘れ物の無いように、取り敢えず目に付く物を片っ端からトランクに詰め込む。 何とか出港の時間にも間に合い、二人の旅は無事幕を閉じた。 そして帝劇に帰り、自分の部屋でトランクを開けたマリアは、衣類の中に見慣れない男 物のワイシャツを発見したのだった。 何度か返す機会は有ったと思う。しかし結局は持ち主に返す事の出来なかった手の中の ワイシャツ・・・。 「帰ってきたら、必ず返しますから……ね」 小さな声で呟いたマリアは、その温もりを確かめるようにワイシャツに頬を寄せる。 そうして暫くの間、その感触を確かめた彼女は宝物を隠す子供のような表情を浮かべな がら、丁寧に畳まれた自分の衣類の傍らにワイシャツを置いた後、静かにクローゼットを 閉じた…。 ─fin─




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