山下 りん       安政4年(1857)5月25日〜昭和14年(1939)1月26日
 明治〜大正期のイコン(聖像)画家

 常陸国笠間に生まれた。
 父は笠間藩士山下常重、母はため。文久3年(1863)9歳で父と死別した。

 生来、画を好むりんは、明治6年(1873)画業を志して郷里を出奔したが、家に連れ戻された。翌年、上京して、
学婢として浮世絵師の歌川国周、丸山派の日本画家月岡嵐月らに師事したが、飽き足らず、洋画に転じて中丸精十郎に師事した。

 同10年(1877)旧藩主牧野貞寧の学費援助を得て工部美術学校に女子第一回生として入学した。同期にりんのほか、学校長大鳥圭介の娘大鳥雛子、詩人川路柳紅の母となる川路花子、のちの石版画家山室(岡村)政子、ほか5名の女子がいた。ここで、政子に連れられてロシア正教会に通っていたが、11年(1878)ニコライ(Nikolaj)から受洗して、洗礼名をイリーナと名付けられた。

 工部美術学校でイタリア人教師フォンタネージ(Fontanesi,Antonio)の指導を受けていたが、翌年フォンタネージは帰国した。後任教師への不満から退学者が相次いだ。りんも13年(1880)10月退学した。

 ニコライからイコン画家としての修業のためにロシア留学を勧められ、13年12月横浜を発ちロシアに向かった。14年(1881)3月ペテルブルグの聖ペテルブルグ復活女子修道院に寄宿しながら、イコンの修業をはじめた。日本人としてのロシア留学生第一号である。
 
 同年9月からエルミタージュ美術館でルネサンス期のイタリア画家、とりわけラファエロとその一派の作品の模写に励んだ。しかし、イコン制作の妨げになるとして、11月にエルミタージュでの勉強を修道院から禁じられてしまった。そのことが引き金となって、りんはうつ状態で病気がちとなった。4年間の修業を半ばにして16年(1883)3月に帰国した。その後、神田駿河台の正教会女子神学校の寄宿舎に住み込んで、画業の研鑽を続けた。

 翌17年、登校復活大聖堂が起工され、24年(1891)竣工した。東京復活大聖堂(ニコライ堂)にロシア人イコン画家ベセノホフの助手としてイコンを描く機会を与えられた。共同作業となる新しいイコンは22年末に完成したが、関東大震災で焼失してしまった。

 同24年(1891)に来日したロシア皇太子に救世主復活のイコンを献呈する光栄に浴した。
 20〜30年代は正教会教会堂の建設が日本各地に相次いだが、そのイコンはすべてりんに委ねられた。今日、その作品をみることができるのは北海度札幌教会、上武佐教会、秋田県大館市の北鹿正教会、岩手県の盛岡正教会、一関正教会、千葉県八日市場市の須賀正教会などで、作品の総数は150点を超える、といわれている。

 明治45年(1912)2月大主教ニコライが死去した。このころからりんの白内障が悪化した。
 大正5年(1916)函館に聖堂が再建され、りんはこれに12大祭のイコンを献じた。同7年笠間に帰り弟・峯次郎方に身を寄せた。峯次郎は、昭和12年(1937)、死去した。りんはその後、絵筆をとることなく自然を友として83歳で死去した。

 りんの墓は茨城県笠間市光照寺にある。
出 典 『キリスト教人名』 『女性人名』
山下リン研究会(http://www.mars.dti.ne.jp/~machi/index.html
日本正教会ホームページ(http://www2.gol.com/users/ocj/index.htm
イコンについて(http://www.orthodox-jp.com/hokkaido/icon.htm