明治〜大正期の石版画家。
信濃国岩村田藩の重臣山室尚高の4女。
明治7年(1874)17歳のとき、ロシア正教会宣教師・ニコライを頼って単身で上京し、翌年1月5日受洗した。
ニコライに認められて正教女子神学校寄宿舎に住んだ。ニコライは、ロシア正教会最初の来日宣教師である。
明治9年(1976)から岡村政子の名で工部大学美術学校第一期生として西洋画科に入学した。そのときの教官イタリア人のフォンタネージについて絵を習い、その間、ニコライからは石版印刷述を学んだ。同窓に山下りん、浅井忠、小山正太郎らがいた。在学中、佐久間出身の岡村竹四郎と結婚した。
夫は明治15年(1882)ごろに受洗し、大正8年(1919)には正教伝道団設立発起人となった。
フォンタージの解任とともに退学し、明治13年(1880)夫に協力して石版印刷信陽堂を設立して、石版画を描き石版印刷業を営むことになった。
政子の洋風美人画石版刷りは東京土産として大評判だった。やがて福沢諭吉の時事新報、和田篤太郎の春陽堂、金陵堂からの注文を受け多くの人物画石版刷り、イコンなどを制作した。営業は大変繁盛し、信陽堂はのちの東洋印刷に発展した。
主著に『小学画学かいてい』7冊(明治19年)、『新撰画入門』8冊(明治21年)がある。
大正12年(1923)の関東大震災で芝公園内の岡村家も全焼し、政子の作品も烏有に帰したという。 |