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 潮田 千勢子   弘化2年(1845.10.9)9月9日〜明治36年(1903)7月4日
 明治期の社会運動家。婦人伝道者。

 信濃国飯田藩の藩医丸山竜眼の二女として厳格な教育を受けて成長した。
 慶応元年(1865)同藩士潮田健次郎と結婚した。明治15年(1882)信州飯田の空家になった生家が教会として用いられていたことからキリスト教に接近し、ソーパー,J.宣教師により受洗した。

 明治16年(1883)夫と死別し39歳で未亡人となった千勢子は、3男2女とともに上京した。子女を養育しながら桜井女学校の保母科に入学し、末娘を付属幼稚園に通園させながら学業を終え、幼児教育にあたった。あわせて外国賛助員会長のミス・スペンサー,M.A.とともに伝道に従事した.。

 明治20年(1887)横浜聖経女学校に入学し、23年(1890)卒業して婦人伝道者となった。上京以来7年間、勉学と伝道に従事したことになる。

 その間に同19年(1886)12月6日、東京婦人矯風会(日本基督教婦人矯風会)が日本橋教会を会場にして発会式を挙行した。その発起人のひとりに千勢子は名を連ねた。以後、矢嶋楫子佐々城豊寿らとともにリーダー格の運動を展開した。メンバー佐々城豊寿とともに白票倶楽部を設けて婦人の政治活動抑圧に反対運動も起こした。

 同21年に『東京婦人矯風会雑誌』を発行し、さらに大久保に女子救済所を設けた。千勢子はこれを「念春館」と命名した。これは日本における婦人救済事業の最初といえよう。

 娼婦救済所をつくり、社会矯風、廃娼を唱えた。足尾銅山鉱毒事件が起こると田中正造の依頼を受けて矢嶋楫子、島田信子(島田三郎代議士夫人)とともに現地に出向き、ただちに救済婦人会を組織して被害地で救済にあたり女子を慈愛館に保護した。そのときの事件に連座して拘置所に入れられていた黒澤酉蔵に聖書を差し入れて信仰に導きいれた。

 また貧民の救済施療、教育の必要を痛感して東京婦人慈善会をつくった。女子の実業を奨励した背後には、本人自身の人生行路からの体験もあろうが、女子の他人への依頼心を排除することにつとめていたのであった。

 明治36年(1903)、第回矯風会全国大会において古希を迎えた矢嶋が会頭辞任をほのめかしたことにより潮田33票、矢嶋10票で第2代会頭に推された。しかし、胃がんに冒され病中の身となった。そのようななか「わが矯風会は、社会を相手として働く所のものなれば、いやしくもかかる公共的事業に当たらんと欲するものは、その間決して私意私情を挟むべからず」の姿勢を貫き通し、心血を注いで言動一致の誠実な活動を展開した。

 その間、渡米後芝浦電工を創始した長男伝五郎は幼児を残して35歳で他界した。千勢子はお遍路に出る人の気持ちがわかるといいながらも私情を挟まずに悲しみを乗り越えて全国運動を続けた。

 第2代会頭就任3月後、讃美の歌声に送られて天に召された。
 60歳弱の生涯に対して告別式には300名が参列し、神と人に仕えた千勢子の死を悼んだ。田中正造は弔辞を読み上げながら泣いた。渡良瀬の堤防がすぐ目の前に見える足利市川崎の岩崎家の庭先に千勢子の碑が建った。遺骨は青山墓地に葬られた。

 50年後、千勢子の孫にあたる元慶応大学塾長潮田江次が、小泉信三後援会長のもとに、矯風会本部会館建設発起人のひとりとなった。まさしく、千勢子の精神が死後も生きている証拠である。
出 典 『キリスト教歴史』 『キリスト教人名』 『女性人名』 『銀座教会九十年史』 『矯風会百年史』