最初のページ(index)にもどる


 植村 貞子     天保11年(1840)5月17日〜明治21年(1888)5月26日
 牧師・植村正久の母。

 上総国山辺郡武射田村(東金市)の漢方医中村氏の娘。同村内の1500石を領する旗本・植村祷十郎と結婚した。

 夫・祷十郎は、世が世ならば旗本の跡目相続となるべく約束された家系であったことから、何不自由ない身で、自ら鷹揚な気品を備えていた。維新後、流浪の身となったにもかかわらず先代が東京芝露月町の屋敷内に小鳥などを飼育する鳥の間を設けていたというような生活を見ていたので、不如意な生活が余儀なく襲ってきたにもかかわらず依然として小鳥などを飼って、気の好い風流な人で、人情に厚く、細工をしたり調理を試みたりするのが得意でもあった。不器用な正久の料理自慢もこうした方面から受け継いだものだろうか、と言われている。

 安政4年(1857)長男の正久を出産した。ついで男子2人を産んだ。

 明治維新後は旧領地に帰農した。正久に洋学を学ばせるために横浜に出したが、そのために貞子は秘蔵の髪飾りを売って正久の授業料に充てた。貞子は男勝りな気性で、聡明敏達だった。正久が初めて英語を学ぶころ、苦心してこれを助け、あるときなど、スペリング・ブックの単語を鵜呑みして、まず覚えこみ、貞子が”ベーカル”と言えば、正久が”ビー・エー・ケー・イー・アール、ベーカル、パン焼者”と答えるといった風に、根気よく正久の勉強の面倒を見てやった。

 横浜に住んでいたころ、出入りの青年たちの話し相手になりえたほどの進歩的な貞子であった。が、健康状態はあまりよくなかったので、火鉢にかじりついた格好が多かった。そのせいか、何事にも気難しく、ともすれば眼を光らせて批評的になることがしばしばであった。

 貞子はさほど縫い物の習い事をしたことはなかったようだが、着物を解きながら縫い方を自分で覚えたり、他人の着ている着物などに眼を向けて縫い方の巧拙を見抜いたほどだった。

 しっかりものの貞子と、フェリス和英女学校で学問に専念した嫁姑の同居生活は苦労がなかったわけではない。正久の妻・季野が結婚して半年あたりに、あまりの環境の違いに姑・貞子と折り合いがうまくいかず、一時、帰郷したことがある。そうすると、正久が季野の実家である紀州まで迎えに行った。

 貞子は、きわめて正直な性格の持ち主であった。臨終近くなって、孫の澄江にむかい懇々と「人間はうそを言ってはならない」と繰り返して言い聞かせた。貞子の死後、息子の正久は娘・澄江に母の残した最後の言葉を繰り返させた。

 息子・正久は両親の反対を押し切って、明治6年(1873)5月横浜公会でバラ宣教師から受洗し、キリスト教伝道者となり、東京下谷に下谷一致教会を設立した。明治10年頃、一家は下谷へ移転した。そのころにはキリスト教に反対していた正久の両親も受洗していた。

 貞子は48歳で生涯を閉じた。墓は多磨霊園にある。
出 典 『植村 1』 『女性人名』
トップにもどる