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 玉木 愛子   明治20年(1887)12月28日〜昭和44年(1969)
 随筆家、俳人。

 小学校入学ころからハンセン病の症状が出て、以来ハンセン病のために種々の苦労を身に負いながらキリスト教信仰により地上に生かされている意味と神の恵みに感謝して人生を終えた。社会がハンセン病を正しく認識し、無理解を反省する貴重な資料的自伝『この命ある限り』を愛子は執筆した。以下、自伝に沿って学んでいきたい。


<生い立ち> 
 愛子は、大阪の島の内で材木問屋の長女として誕生した。
 愛子の下に6人の弟妹がいる。母方の祖父は京都で典医だったが、明治維新になって大阪に出て米屋を手広く商って、常時「とりてき」や関取が出入りしていた。

 父は、河内の山中の古い系図のある三男だが、祖父は村長をしていたのでかなりの用地があった。しかし、慣わしで材木の送り先である問屋へ客分として見習い奉公に上がり、一番番頭として絶えず各地の山林を見回りに出ていたので、結婚後も留守がちだった。
 
 愛子が4歳過ぎたころ、2歳下の妹といっしょに麻疹にかかった。
 そのころ、従兄弟が13歳で亡くなり、葬儀に出かけることになった。妹は祖母が面倒を見たが、愛子は真綿に包まれて母の懐に抱かれて人力車で伯母の家に出向いた。

 伯母の家は工業家だったので、大勢の職工が働いていた。そこに遊びに出かけるといつもまっさきに職工Kが愛子を抱き上げて愛撫してくれた。その日もそうだった。Kには顔に赤い斑紋が見られたが、周囲は赤あざだと、気にする様子がなかった。だが、後日分かったことには、Kの赤い斑紋は癩(ハンセン病)だった。その1年後にKは四国遍路をするといって奉加帳をもって愛子の家に現れた。

 従兄弟の葬儀から戻った夜、愛子は出盛りの麻疹が内攻して、赤かった顔が真っ白になった。家中は驚き2,3の医者を招き入れてあれこれ手当ての限りを尽くした。やっと一命はとりとめたものの、その後、肺炎になり、また百日咳にまでなって、その年の暮には頭髪まで抜けた。そのときのことを愛子は、入浴が可能になったとき鏡に映った変身振りをおぼろげに覚えていた。

 翌年の春から愛子は山村流の舞踊を習い始めた。小学校3年生のころからは、琴、三味線も習った。

 ある朝、愛子は左ひざに一銭銅貨大の水泡ができているのに気づいた。痛くも痒くもなかった。ドイツ帰りの医者の診察を受けた。その往診結果、ハンセン病であると知らされた。この日以来、愛子の家や親戚は大変なショックで、日蝕のように黒い翳りが漂うようになった。その当時のハンセン病に対する社会の一般的通念は伝染病ではなく、遺伝病である、と思われていた。

 愛子の家系は5,600年前までさかのぼって調べ上げられたがその形跡は何もなかった。親戚中は愛子の罹病に対して「愛ちゃんがその犠牲になってくれたのであろう」と、愛子を大変いとしがった。こうした慈愛に満ちた愛子への思いやりは後年の病院生活を送ることになってからも変わらなかった。「愛ちゃんに贈る慰めは、世の中で一番尊いものだ」といっては、面会も絶えることがなかった。

<小学校入学> 
 ハンセン病と宣告されたが、水泡が治ってしまえば、普通の子となんら変わりなく8歳の春を迎えて小学校に入学した。せいぜい、当時の治療は注射がないために「太風子丸」を服用することだった。この丸薬は異様な臭気がしたうえに服用後は気分がすぐれず嘔吐に悩まされた。

 家業の都合で島の内から四ツ橋に近い長堀川を前にしたところに転居した。楽しい子ども時代だった。ハンセン病の兆しは、左ひざあたりが少々麻痺していた程度で、ほかには兆しは見られなかった。
 通学と習い事は一日も休むことなく続けたが、大阪府立病院へも週に一度行く必要があった。太風子丸はカプセルに変わったが、油を直接飲むのでいよいよ胸が悪くなって、つらかった。

 小学校は長堀川の東にある育英高等小学校に通った。高等小学校2年生のとき、家業が栄えて大きな倉庫を必要としたため、大阪から南方面の堺に転居し、学校も転校したが、先生たちに非常に可愛がられて学校生活を送った。

<高等女学校入学> 
 満12歳の春、高等女学校へ入学した。まだ「高等」と言わなかったころには歌人与謝野晶子や女流画家島成園も通学した女学校であった。徐々にハンセン病の症状が出始めた様子で、左手の小指と薬指の力がぬけてきた。体操の時間はきちんと手指を伸ばすことができずに怠惰な生徒として教師に注意されることが増えた。愛子がいくらがんばっても麻痺のために思うようにならず、体操が嫌いになった。

 その秋、身体検査が行われ、背中の白い斑紋を校医によって指摘された。愛子は自分がどのような病気にかかっているのか、当時はまだわからなかった。ハンセン病のことは母の胸のなかにしまっておかれ、病名を愛子は明かされていなかったのだった。母は「もう学校へも行けなくなったか」と目をしばたいた。身体検査を受けた翌日から学校へ通うことはなかった。家で母から裁縫を習い、琴の習い事のほかは府立病院へ週一度の通院をすることがつとめに変わった。

<ハンセン病と知る> 
 満14歳の春、病院に名医が着任したとのことで改めて診察を受けた。その結果、裁縫も止めて温泉地で気楽に保養することを勧められた。このころから愛子は自分の病気に疑問を抱き出した。母はいつか分かるときが来る、と答えようとしなかったが、2,3ヶ月後にはじめて「ハンセン病」であることを母の口から知らされた。しかし、そのときの愛子はハンセン病に対する知識はほとんどなかった。

 このときから離れ座敷で生活をすることになった。親戚や家族の交わりは以前と変わりなかった。
 事の次第を知らない女学校時代の学友は愛子をしばしば訪ねた。愛子は舌の先で障子にそっと穴を開けて、学友に対して母が、ときどき養生のために田舎に行っていると苦しい偽りを言っている姿と、学友の横顔を眺めた。懐かしさと学友が妙齢となり美しくなっている姿と自分の姿を重ねながら複雑な思いをしたことだろう。

 このころ、京都大学の学生Hが愛子の母に愛子との結婚を求めた。母は愛子にはリューマチの気がある、と縁談を断ったが、病気はなおるから病気が治るまで待つと、しばしば愛子を訪ねて来たが、いつも母や妹は愛子はあいにく留守にしている、と言い訳をした。そして、愛子自身で結婚の申し込みを断った。

 徐々に身体に変化が現れ、顔にあからみが出てきた。瞼が腫れぼったくなって、火鉢のそばや風呂上りのときなど、愛子は自分の顔からてらてらと妙な光が出るようになったことを知った。時折、知人が自宅を訪問してくれることに対して母は辛く感じたのか、道頓堀で隠居生活をしていた祖母のもとへ愛子を預けた。親戚は、しばしば祖母のもとへ愛子を訪問した。とりわけ従姉は遊び仲間となった。母は家業を営みながら、愛子の病の癒されることを願い、水垢離をして祈願した。

 愛子の家では恒例のにぎやかな行事として、節分の夜は父が福豆を撒き、祖母を上座にして使用人にいたるまで座り、年の数にひとつ加えた豆を白紙に包んで受け取り、氏神様にお参りする習慣があった。愛子は来年も生きたいとは思わなかった。門灯の光を避けて暗い場所に立った愛子は、お星様、私はあなたのところへ行きたいです。一日も早くこの命をお引取りください、と握り締めていた豆を夜空へ紙包みごと投げた。

<父の死> 
 節分の過ぎた3月、遠江の山林が山火事で莫大な損害を出したことを引き金に、6月には日向で管理させていた杉山からも火災が発生した。胃弱な父は家の主として宮崎県に出向き、別府温泉で胃腸に特効のある温泉の湯を飲んだ。当時は入浴と同時に呑むのがよいとされていた。ところが逆に腸が悪化し衰弱が激しくなった。7月10日、病院で死去した。

 父の死は、愛子の家の事情を一変させた。それまでの使用人に暇を出し、住まいも小さな借家に移り住み、39歳で未亡人になった母は、17歳の愛子を頭に3歳の子の世話をしながら材木の中継ぎ行をこなした。愛子は不自由な体のために母親の役に立たない自分を惨めに感じた。白昼、人通りのなかを病院に通いたくないほどの姿になっていた。弟妹や従妹たちが愛子の不自由な格好を真似てからかったこともあったが、平常の生活では愛子を大変いつくしむ家庭であった。弟は花を生けて離れで過ごす愛子の部屋を整えてくれた。

 家業は、わずか一年半余りで父在世中よりも張り合いのある店に復興した。家族一丸となっての復興は、家族の結びつきがいっそう強まった。

 愛子は萎えた手で筆が使えるように苦心した。ペンを手首にくくりつけても手首から先の手がぶらぶらと邪魔でうまくいかない。とうとう鉛筆を小指と薬指の間に出して両手首で拝むようにしっかり抑えて書く稽古を考案した。毎朝、新聞に連載されていた夏目漱石の小説の一日分を写すことを日課とした。「彼岸まで」「それから」「門」の三篇を続けてノートに控えることができた。

 やがて顔面弛緩の症状が現れ、唇が下がり、下瞼は垂れてきた。悲しいという言葉ではとうてい表現できないほどの変容だった。ポンピアンマッサージクリームで母は朝夕のマッサージをしてくれた。母は愛子の慰めにとオルガンを購入してくれた。洋楽関係の書物やオルガン教則本などを揃えて夢中で独学した。オルガンの楽しみは5年ほどだった。やがて両足が萎えてペダルが踏めない状態になった。

 そろそろ愛子の弟妹たちが結婚をする年齢になった。長男である弟は奉公先から戻り結婚話が出てきた。愛子は自分の病気が一家の癌となっていることに辛さを感じて、どこかの山中で自決したい思いにかられたが、不自由な身体でこっそり身支度をすることができなかった。そうしたある日のこと、母が二つの菅笠と袖なしを調えてきて、二人で淡路島巡礼に出よう。もし治らぬ病ならが船中から入水しようと、打ち明けた。

 母まで道連れにはできない。身の隠し場所として、新聞で知った草津の宿屋に問い合わせの手紙を出した。しかし、道中の困難なことなどを思い巡らしていよいよ焦った。そのとき愛子は、熊本市の回春病院のことを思い起こした。

 自分で手紙を出して入所を申し出た。住所も名前も適当だったが、熊本市の郵便局が気配りをして、大阪に出向いていたハンナ・リデルあてに転送してくた。リデルは、入院手続きを回春病院長三宅俊輔に指示し、愛子あてに「後藤すみ子」名で大阪の中の島から手紙を出した。

 折り返し三宅俊輔から心温まる手紙が愛子との間で往復した。もうすでに足でペダルを踏むことすら困難になっていた愛子であったが、母の愛情は深かった。愛子にオルガンに向かわせてくれ、可能な時間を愛子とともに過ごすようにした。

 生まれてこれまで家族の慈愛のなかで過ごしてきた愛子は家族との別れの時を迎えた。その前夜は親戚中が送別のために集まって、歌や詩その他で愛子との別れを惜しみ、午前2時まで語り明かした。

 母と弟に助けられ、マスクやショールをして病気を周囲に悟られない格好で身を整えて午前11時に大阪の梅田駅から上熊本に普通列車を利用して心休まらない長旅に出た。下関から連絡線船に乗り換えた。人との交渉を恐れた愛子は下層の船艙の荷物の中に、まんじりともせず立ち尽くして潮の音を聴いた。トイレに立つ必要のないように食事も控えた。上熊本駅には翌日の午後2時に到着した。

 三宅俊輔は列車がホームに入ると、窓枠に手をかけ「私が三宅俊輔です」と、丁重に愛子ら3人を出迎えてくれた。この対応に感激する間もなく人力車が4台、駅前に既に用意されていて、それに乗って病院の坂下まで運ばれ、そこには5,6人の婦人の出迎えが待っていた。

 なんの気兼ねなくまともに顔をあげて見ることのできる人間らしいゆとりある生活が17,8年ぶりによみがえった。その一方でこれまでの家庭の慈愛から離れて孤独になる不安が愛子の心を襲った。共同生活で、それぞれ境遇の異なった苦労を背に負って入室している人々のことを知った。

<受洗> 
 愛子(34歳)は入院1年半後に、受洗した。大正10年(1921)6月5日の第一日曜日であった。

 病院は、院長三宅俊輔と三井たみ看護婦の献身的なコンビネーションがあった。三井は明治30年代からつとめ、すでに80歳を過ぎていた。リデルから受け取る手当てを貯めて患者の憩いのためにと園内の芝生の一隅に六角堂の四阿(あずまや)を寄付され、亡くなる1週間前まで働いた。

 三宅俊輔は医者であると同時に熱い祈りの人でもあった。全身全霊を傾けて祈り、毎日2時間あまりを祈りの時間に用いた。大正15年9月4日、午後6時からの神癒祈祷会に出席した午後11時50分、翌日曜日のご用を整えられて間もなく急逝した。残念なことにリデルは軽井沢に避暑に出かけて、30年にわたる同労者三宅の葬儀に出なかった。三宅俊輔の遺品からは
<やりかけ>
 
出 典 『この命ある限り』『足跡は消えても』

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