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荻野 吟子 嘉永4年(1851.4.4)3月3日〜大正2年(1913)6月23日

 吟子は、近代日本で女性として医師資格試験に合格した最初の医師である。35歳のときだった。女医を目指した吟子の思いは当時の屈辱的な男尊女卑のひどさに対する義憤からである。

 吟子は、埼玉県大里郡泰村(妻沼町)の庄屋荻野綾三郎の5女として生まれる。父が吟子のことを「女に要らぬ利発ぶり」と嘆いたとのこと。吟子は松本万年が埼玉県妻沼村に学舎を開くと松本の娘荻江とともに万年について漢学を学んだ。吟子と松本荻江の二人は義姉妹の契りを結んだ仲で、いっそう学問に積極的になった


 16歳で近郷川上村の豪農稲村家に嫁いだが、3年後に実家に戻る。その理由は、夫から淋病をうつされたことにある。当時、名医として名高かった下谷順天堂の佐藤尚中の診察を受けた。ここで、吟子は始めて西洋医学にふれた。しかし、名医の診察とはいえ、まじまじと見据えられる治療法に女の身として絶えがたい屈辱を味わった。

 当時、男から性病(花柳病)をうつされた女性は、遊郭や花柳界に多かったが、結婚後、夫からうつされた妻も多かった。こうした経緯が吟子をして女の病は女医の手でと、女医の道へと発奮させた。明治3年(1870)のことであった。それから3年後、吟子は単身で上京して、国学者(漢方医)井上寄圀の門下生となりたちまちにして頭角をあらわした。

ところで、明治8年(1875)東京女子師範学校が神田宮本町に創設された。開設時の「官立女子師範学校生徒入学心得書」に「生徒の年齢は大約14歳以上20歳以下」の女子として100名に限って入学させることとした。その結果、応募者193名中74名が合格した。だが合格者の大半は辛うじて小学読本あるいは物理階梯程度の書の素読ができる程度で、数学に至ってアラビア数字を知っているだけのものが大半を占めて、まともに入学を許可できる生徒はひとりもいなかった。これが第一期生である、と『東京女子高等師範学校六十年史』に出ている。

ついで明治9年師範学科を本科とし、別に予備の教科を設けて別科として予科が設けられた。併せて、入学試験の年齢制限を緩やかにして能力のある志願者を受け入れることにした、とある。吟子はすでに年齢制限に差し障っていたが、「大約」によって入学できたのであろう。

鳩山春子も官立東京女学校(竹橋女学校)廃校により東京女子師範学校の構内に設けられた別科英学科に明治10年(1877)16歳で入学した。ところが、竹橋女学校時代の教授内容と比較するならば、予習をするほどでもないほどの張り合いのないものであったために春子は別科英学科に在籍のかたわら駿河台のミセス・ウワイコップから英語を学び、漢学者中村元起から資治通鑑の教授を受けた。春子は明治11年(1878)17歳で別科英学科第一回を首席で卒業し、式場で英語論文を朗読した。英語の添削は永井久一郎に見てもらった。なお、春子は明治14年(1881)20歳、7月13日に本科を卒業した。前年に鳩山和夫と婚約したのだったが、母校に乞われて就職した。

明治12年(1879)2月13日、東京女子師範学校第一回卒業証書授与式が挙行された。入学許可者74名だったが、この日の卒業生は15名だった。吟子は首席で卒業したといわれている。同年7月に第二回授与式が挙行され、18名が卒業した。この卒業生は第一回と同じく明治8年に入学した生徒である。

 吟子は女医の道を求めて私立の医学校好寿院で3年間学んだ。しかし当時は女性に医師資格試験の受験が許可されず、2年間を虚しく過ごした。

 

鳩山春子

共立女子職業学校創立者。鳩山一郎、秀夫の母。

永井久一郎

作家永井荷風の父。明治9年(1876)11月、日本最初の幼稚園「東京女子師範学校付属幼稚園」開設。その幼稚園に荷風は明治17年(1884)からほぼ1年間、通園した。

 

 

 

 

出典:『キリスト教歴史』『鳩山春子』『東京女子高等師範学校六十年史』『女性人名』『明治快女伝』『近代日本非人問題年表』