最初のもくじ(index)に戻る

 稲垣 寿恵子   万延元年(1860年月23日)5月5日〜昭和6年(1931)7月28日

社会事業家であるとともに教育家でもあった。
寿恵子は、稲垣清次郎の二女として名古屋に生まれた。

慶応元年(1865)から明治8年(1875)まで名古屋で和漢学・数学・書道を学んだ。

明治9年(1876)17歳で愛知県立女子師範学校の正教師となった。

明治12年(1879)東京の海野家に嫁し、3児の母となったが、やがて海野家を去り、兄昌昭の家に身を寄せた。このころ、兄の友人の紹介で横浜海岸女学校(のちの青山学院の一源流校)で漢学の教師をつとめた。神の摂理は見事に遂行された。

当時の校長は、信仰、学識、容姿においてもすぐれた賜物を与えられていたバンペテン女史であった。同師も若き日に結婚に敗れた悲しみを経験したので、両者は次第に心のふれあいを深めるにいたった。

 やがて寿恵子は、回心して受洗し、伝道の世界に身を投じることとなる。
 明治17年(1884)8月に日本メソジスト教会の聖経女学校が開設され、寿恵子は教師となった。のみならず、自ら率先して日本全国を伝道のために巡回した。寿恵子が果たした伝道活動は日本におけるメソジスト教会に多大な功績を残した。しかも息の長い働きであったといえる。その一例として『秋田楢山教会百年史』の記録からも読み取れる。 すなわち、大正11年(1922)6月26日、27日の両夜にわたって秋田メソジスト教会(現在の秋田楢山教会)において婦人講演会の講師をつとめ、教会に力強い印象を残して去られた、と記述されている。


 聖経女学校は、アメリカ・メソジスト監督教会婦人宣教師ヴァン・ペテン,C.W.によって設立された婦人伝道師養成学校である。明治17年(1884)、横浜山手町に生徒6名を集めて開校された。のち、長崎の活水女学校神学部と合併して日本女子神学校となり、やがて青山学院神学部に吸収されて、その女子部となった。
 

寿恵子は自らが回心しただけではなく、熱心な日蓮宗信者の母田鶴子を信仰に導き、兄昌昭をもキリスト教に入信させた。

 明治25年(1892)には二宮わかとともに横浜婦人慈善会を設立し、横浜訓盲院の援助、娼妓救済などに尽力した。

 横浜訓盲院は、全国盲学校76校中唯一のキリスト教主義私立盲学校で、明治22年(1889)9月にドレーパー,C.P.が始めた盲人保護・教育機関<盲人福祉会>を母胎として開校した。母の死後は息子が後を継ぐなど、家族を挙げて盲教育に貢献した。

 創立者である母ドレーパー,C.P.は横浜居留地に息子夫婦と住んでいたときに按摩の笛を耳にして自宅に招き入れて盲女子から日本の盲人の実情を聞いたことが契機となったという。

大正15年(1926)隠退し、昭和6年(1931)71歳で死去した。

出  典 『キリスト教歴史』 『キリスト教人名』 『女性人名』 『恩寵100年』 『秋田楢山教会百年史』