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 土井 八枝   明治12年(1879)〜昭和23年(1928)5月10日
 大正〜昭和期の随筆家。土井晩翠の妻。

<生い立ち>
 高知県高岡郡佐川町に生まれた。
 県立第一高等女学校を卒業した後、上京して上野の東京音楽学校に入学した。予科を終えて、本科在学中に兄の1年先輩にあたる土井林吉(晩翠)に出会い、結婚した。

<仙台>
 翌年すなわち明治33年(1900)夫の出身地である仙台の第二高等学校に教授として赴任する夫に従って仙台へ移住した。
 仙台への道中、はじめてみる大雪に驚き、寿司を「すす」、饅頭を「まんづう」と発音する異郷の地に心細さを感じた。そして、気候風土習慣の差はずいぶん甚だしいことであろうと想像して、八枝は、仙台の10人兄弟の長男の嫁となり切るには、容易ならぬ努力がいることを予知し、覚悟した。

 八枝はいつも手帳を持ち歩き、仙台弁を細かくメモして、言葉の違いに興味をもって研究した。その結果、助詞を省いて発音されることなどに気づいた。そうしたメモを整理して『仙台方言集』(大正8年)、『仙台の方言』(昭和13年)を出版した。

 方言学者の東條操から「今日の方言界の先覚」ともいわれた八枝は、「土佐の方言」の執筆も彼から勧められた。夫の薦めもあって昭和9年(1934)、55歳のとき、今度は土佐弁を収集することにして土佐に40日間ほど滞在した。そのときのエピソードが、60歳のときに出版された『随筆藪柑子』に記されている。夫の晩翠は序文で「家庭の主婦としてどれ程内助の功があるかは別問題だが、少くも内妨の害だけは無かった事をここに保証して筆を擱く」と述べている。

 八枝の母校である高知県立第一高等女学校の校歌の歌詞を頼まれた晩翠が女学生を前に話した講話を扉の外で八枝も聞いていた。
 3年間、基礎をしっかり鍛えるために、ただ一曲だけを繰り返し稽古した義太夫語りの訓話に感銘を受けた八枝は、、自分も年齢のことなどを忘れて「如何様にも努力」しようと決心した。そして、かねてからの念願だった絵の道に励もうと、牧互秀、池上秀畝に師事して絵を学んだ。

 自分の好きな藪柑子のスケッチを義太夫語りの話のように3年間続けた八枝は、この絵を随筆集のタイトルにも選んだ。それが、昭和15年(1940)60歳のときに出版された随筆集『随筆藪柑子』である。

 晩年、起き上がり小法師の姫だるま人形を思いつき、その絵柄を染めたてぬぐいとともに製作し、母校第一高等女学校の交友会館建設の資金集めに尽力した。

 息子の英一が抱いたハンセン病救助の彼岸を果たすために長島愛生園、御殿場の神山復生病院を見舞い、その報告を『主婦之友』に発表した。そのほか、各種婦人団体や学校の理事、幹事をつとめ、新聞雑誌などに「仔兎の成長」「形見の山荘」などを寄稿し、講演やラジオ放送にも出演した。

 男女6人の子どものうち5人までが20歳代で病死した。その試練をキリスト教に入信し、キリスト教の教えに従って、長女の照が残していった立派な死の型だけでも学んで、世を去られるようになりたいと念願」するのだった。一番幸福な人とは、百万長者になることにあらず、えらい肩書きを持つことにあらず、喜んでしなれる人になることだと、長女の照は幸福な子だった、と述べた。また、夫を励ました。

 昭和11年(1936)7月、宮城学院に長女照子の記念として、宮城郡七ヶ浜吉田浜町字沢尻の畑地をキャンプ敷地として寄贈した。

 八重は、夫が欧米留学中は津田英学塾で英文学を学んだほど、研究心の旺盛な人生だった。
 夫の晩翠(1871−1952)を残して昭和23年5月10日、69歳で人生を終えた。
左の胸像は、土井晩翠です。
提供先:仙台市情報提供サイトSENDAIフォトナビ観光施設
title 土井晩翠 No.407-010
出 典 『女性人名』
日本の墓:土井晩翠 http://www.hakaishi.jp/tomb/01-24.html
時代を駆ける女たち http://www.sole-kochi.or.jp/jyoho/play/place1/bae00s3.htm
仙台市情報提供サイトhttp://photo.siip.city.sendai.jp/senphoto/p_04/details407/407_010/
学校法人宮城学院 http://www.mgu.ac.jp/home/

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