
「不況が小さな不動産店を直撃 ― 父子の願いはかなわず」
一口に「保険」といっても,その種類の多さには脱帽です。それだけ私たちの身の回りには危険(リスク)がいっぱいだということですね。個人だけでなく,企業用の保険の種類もたくさんあります。「身元保証保険」もその一つ。これは簡単に言えば,「企業内での従業員などの不正による会社の損害を補償する保険」のことです。銀行などの金融機関でも従業員を対象にこの保険が活用されています。
ある秋のさびしい季節に,保険調査員は身元保証保険に関係した調査の依頼を受けました。甲銀行の銀行員だったA男が甲銀行の金2,000万円を横領し,甲銀行が損害の補てんを保険会社に請求してきたのです。保険会社はすぐに対応し,甲銀行に保険金を支払いました。こんどは保険会社が甲銀行から債権を引き継ぎ,A男からわずかでも弁済を受けられないか調査をする必要があるのです。調査員のあいだでは“求償事案”と言いますが,保険調査員はこの件を受件した時,はじめは内心,“とんでもない男だ”と思いました。
A男の所在は不明だったので,A男の父親が経営しているという不動産店に,父親の乙太郎を訪ねることにしました。ある朝,保険調査員はアポイントを入れず,私鉄駅前にひっそりと構える店にたどりつきました。この不動産店はいちおう株式会社ですが,ガラス戸にはカギがかかっており,だれもいません。たまたま訪問してきた男性に乙太郎の所在を聞くと,「本人に聞いてよ」と気のない返事。保険調査員はしばらく待つことに。
2時間ほど待つと,やせこけた初老の男性が足元をフラフラさせながら店にやってきました。保険調査員は丁重にあいさつし,訪問の目的を伝え,事務所の中に通してもらいました。男性はしわがれ声で自己紹介し,乙太郎であると名乗りましたが,聞かされていた年齢よりもはるかに年上に感じられました。
乙太郎によるとこの不動産店はバブルの時には左うちわだったものの,不景気のあおりをもろに受け,夢半ばにして倒産の危機に面したというのです。乙太郎はこの店を大きくして将来は息子のA男といっしょに事業を展開するのが夢だったのです。A男もそれを楽しみにしていたので,お父さんの店が傾きかけた時,なんとしても父を救いたいという気持ちになりました。
乙太郎の話では,倒産の危機に面してしばらく経った時,またとない大きな“仕事”が転がり込んできました。住んでいる町の都市計画が発表されて,不動産取引に明るい見通しが立ったのです。しかし,ある土地を押さえるのに資金が足りませんでした。資金さえあれば店も生活も一気に好転するとの確信がありました。その話を聞いたA男はお父さんを救いたい一心で,勤めていた銀行の金2,000万円を“借用”してしまいました。しかし世の中は厳しいもので,この事業はうまくゆかず,結局使った2,000万円を元に戻すことができなくなってしまったのです。その後もアパートの取引さえ満足になく,この父子は一気に奈落の底に...
乙太郎は言います。「このところほとんど何も食べていません。ここの大家がいい人ですから事務所は今のところ使えていますが,この通り電話も止まっています。ガスも出ません。でも水はどういうわけか今も出ます。だから水を飲んでるんです...」保険調査員は差し出された宅建主任者証を確認してびっくりしました。主任者証の写真の乙太郎はふっくらとしたたくましい姿だったからです。保険調査員はいつになく心を動かされ,ちょうど昼になったので乙太郎を誘って近くのうどん屋に行きました。乙太郎は「こんなうまいうどんは久しぶりだ!」と言いながら,だしまで全部平らげました。この時,乙太郎の白い顔にさっと赤い血の気が戻ったのを今でも鮮明に覚えています。
この調査はしばらく続きましたが,結局息子の所在は乙太郎も“分からず”,深追いするにも限界がありました。乙太郎を最後に訪問した時,乙太郎はこんな秘話を教えてくれました。「あんただから信頼して言うんだけど,息子の銀行の人が数カ月前にここに来てねぇ... わしに金がないのを知っていながら,さらに1,000万円借りたことにしてくれって。それで数日後見たらホントにわしの銀行通帳に1,000万入ってた。ただし,この金は絶対に使ったらいけないそうなんです。現実それ以後,この通帳は閉鎖されたみたいですわ。」保険調査員は差し出された通帳を見ながら義憤にかられました。何の目的で銀行がこんなことをするのか... しかし,どん底まで落ちた乙太郎にとっては,もう,憤る力もありませんでした。保険調査員は乙太郎の願いを聞き入れて,バブルの時期に得意先からもらったという新品の紳士用ベルトを2,000円で買いました。乙太郎はいつかのようにとても喜びましたが,保険調査員はこれが安易な施しに思えて自分の良心に責めを覚えました。
数年後,保険調査員は新聞記事を見て複雑な気持ちになりました。見出しにはこうありました。「甲銀行,破たん」。