
「小型飛行機はなぜ墜落したのか」
事故調査の仕事は本当に気の抜けない仕事です。一つとして同じ事故はありませんし,公の諸機関と違い捜査権がないので,案件ごとに知恵と洞察力が求められます。ですから決まったサイクルで仕事をしたい人には,あまり向かない稼業かもしれません。
数年前に起きたセスナ機墜落事故も保険調査員を悩ませる事故でした。甲さん乙さんら5人を乗せた自家用小型機が墜落したのはまだ寒さの残る季節でした。近畿地方の山中に墜落したこの事故で5人全員が亡くなりました。当然保険会社もすぐに対応し始めましたが,通常の事故処理手順通り事故原因調査をすることになりました。
保険調査員はまず報道された新聞記事を持って現地警察署に向かいました。A市警察署には警察本部が指揮する本件の対策本部が置かれており,慌ただしい空気に包まれていました。保険調査員には担当のY警部が紹介され,名刺交換をして早速本論に,と思ったところでY警部が言いました。「運輸省がまだ情報を送ってこないので我々も詳細を把握できていないのです。早く送達するように言ってあるのですが。」無理もありません。航空機事故の場合は運輸省(当時)の航空事故調査委員会も関与するからです。ちなみに保険調査員という立場は警察機関と通々だと思っている人も少なくないようですが,そうでもありません。捜査上の秘密や公務員の守秘義務ゆえにただでさえ情報収集には技術が求められるのです。その上この件では他機関も関係しているので始末が悪い。保険調査員はY警部に言いました。「分かりました。ご遺族の方に一日も早くお支払いするのがせめてもの力添えと思っております。現場の確認だけでもすませておきたいのですが」。Y警部は理解を示し,地図を持ってきて墜落地点を教えてくれました。「捜査員が間違えずに行けるように山道に目印をつけていますから。気をつけてくださいよ」。
翌日,保険調査員は現場山中へ向かいました。長時間の現場調査が必要でしたので助手についてきてもらいました。墓地の脇に車を止め,道なき道をゆき,30分以上歩いてようやく墜落地点にたどりつきました。予想に反して損傷を受けた立ち木の範囲は狭く,樹皮はどれもほぼ真上から裂かれており,山肌は狭く深く陥没していました。どう考えても機体は頭から,しかもほぼ真上から墜落したとしか思えません。事故がどのような経緯で起きたのか,もう少し確かめてみる必要がありました。
保険調査員は次に自家用機を管制する空港にゆき,飛行計画や事故前の機体の様子を確かめることにしました。その結果,事故機の飛行経路自体は,飛行前に提出されていた飛行計画と合致しており問題はありませんでした。保険調査員は空港担当者に聞きました。「事故機の整備はいかがでしたか? 当日出発前に何か変わったことでもありましたか?」保険調査員はふだん飛行機を操縦していませんし,離陸前には当局者による点検が厳しく行なわれるものなのだろうと思っていましたが,当局者の答えは違いました。「整備は年何回か行なわれる検査に合格すればいいですし,飛行日も飛行計画さえ出ていればOKなんです。」自家用飛行機って案外フランクなんだなと保険調査員は思いました。
結局新聞報道の内容を超える情報は得られず,事故原因の詳細は運輸省の報告を待つこととして,保険会社もひとまずご遺族に手当てをしました。
航空事故調査委員会による調査報告は,事故から約半年経って発表されました。それによると,この墜落事故の原因はパイロットの「空間識失調」であった可能性が高いとのことでした。これにより「グレーブヤード・スパイラル」(雲の中を飛行中,機体は水平状態なのに,パイロットは傾いていると錯覚し,機体の姿勢を戻そうとして同じ方向に旋回を続けてしまうことにより,機体が旋回しながら降下,墜落にいたること。)を引き起こしたということでした。空間識失調に陥ると,パイロットは自動操縦装置や計器を信頼できなくなり,自動操縦装置を解除し,感覚で確信した方向へ操縦を続けてしまうようです。雲の中でどのような混乱が起きていたのか考えるだけでも,機内の緊迫した,絶望的な空気が伝わってくるように思われました。
保険調査員は亡くなられた甲さん乙さんたちを悼みながらも,この事故を通じ,どれだけ経験があったとしても,また,どれだけ機器が進歩しても,人間の能力には限界があり,機器も最後に依り頼める救いではないのだと教えているように思いました。昨今政治経済をにぎわせている「デフレ・スパイラル」にもどこか似たような危険があるように思われてなりません。信頼できる“計器”と確かな“経験”がどこにあるのか,ひとりひとりが自分でよく選択すべき時代と言えるのではないでしょうか。