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天皇と皇族の天神荘ものがたり
不二家のLOOKチョコレート -a- ☆小坂町に行った人のWeblogに、高松宮が小坂鉱山訪問と書かれていた。博物館の説明を信じたのかもしれないが、ぼくの記憶ではそこに展示されている青い豪華な列車に乗ったのは皇太子時代の大正天皇だった。小坂町のHPで確認してみると、 1908 明治41年 皇太子殿下(大正天皇) (9/22) 1921
大正10年 淳宮(秩父宮)、高松宮両殿下 (8/4)。 天皇と皇族の訪問は戦前それ以外にはない。戦後は、やっと2008年( 平成20)6月天皇皇后両陛下が植樹祭のおりにはじめて旧小坂鉱山事務所を訪れた。関係者には名誉の一日である。しかし、この事実は米代川の下流に位置する天神貯木場と天神荘の訪問記録と比べると、謎めいてくる。歩いて15分のきみまち阪が明治天皇の想い出を伝える聖域のように考えられていたからだろうか? *天神荘 [最初のは母の回想、その他は能代市役所の資料による。] 1937 昭和12 天皇 1939 昭和14 照宮 1943 昭和18 北白川宮大妃房子 6月19日東京に帰る。[高松宮日記] 敗戦後 1947 昭和22 天皇、大雨で視察中止。 1949 昭和24 高松宮 ☆戦前、天皇と皇族は天神貯木場と天神荘を訪れても小坂鉱山には決して立ち寄ろうとしなかった。これには歴史の闇につながる理由があって、昭和天皇は敗戦後《昭和天皇独白録》の中でそれとなく語っている。 ☆ H *cat willow連載 |
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チーズケーキ -b- ☆2001年4月29日新装オープンの旧小坂鉱山事務所に行ってみると、3階の一室でテーブルに向かって腰かけた久原房之助の白い石膏像があった。鉱山事務所と日本最古の洋風の芝居小屋康楽館はその人物が作らせたと思っていたが、誤解だった。そんな特別記念的な扱いは戦後生まれの市民の理解を越える。 Wikipediaによれば、小坂鉱山は1884年官営から藤田組に払い下げられた。藤田家と血縁関係にある久原房之助は明治末期1891年から1903年まで小坂鉱山の経営者だった。鉱山事務所は1909年完成、康楽館は1910年完成だから、久原がその計画にどんなかかわりを持ったか、分かりにくい。 久原(くはら)房之助は政界の黒幕として知られていた。陸軍との結びつきも強く、敗戦後A級戦犯容疑者のリストに載った。この黒幕がどんな活動をしたか、昭和天皇の回想が浮き彫りにしている。現代風に書きあらためると、 *張作霖爆死の件 (昭四?年)[正しくは昭和三年] [原文の注記] [前半の要点---事件の主謀者は河本大作大佐だが、田中義一首相は問題をうやむやに葬ろうとした。そこで天皇は前と話が違うことを怒り、辞表を出させた。これは若気の至りだった。] 田中内閣はそういう事情で倒れたが、田中にも同情者がある。久原房之助などが重臣〈ブロック〉という言葉を作り出し、内閣が倒れたのは重臣たち、宮中の陰謀だと触れ歩くに至った。 こうして作り出された重臣〈ブロック〉とか宮中の陰謀とかいう嫌な言葉や、これを真に受けて恨みを含む一種の空気がかもし出されたことは後々まで大きな災いを残した。あの2.26事件もこの影響を受けた点が少なくないのである。 この事件があって以来、私は内閣の上奏するところのものは仮に自分が反対の意見を持っていても裁可を与えることに決心した。 戦後、GHQが調査して理解できなかったのは天皇がなぜアメリカとの戦争を止められなかったか、ということである。独白録の言葉は誰もが突き当たるにちがいないその疑問に答える。 ☆ H |
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Updated 20.9.7.25 ココナッツ・ドーナッツ ☆昭和天皇と女性の皇族がきみまち阪だけに彩りを添えたことには、ロマンチシズムが漂う。それをどう考えるか? *きみまち阪は聖域だから、天皇と女性の皇族は礼儀にしたがった。 *女性の皇族は大気汚染などの鉱害を恐れた。鉱山の環境が悪いのは現実的な問題だっただろう。それ以前に自然愛護の伝統がある。古代から杉の香りは日本でも健康をめぐむ〈植物のロマン〉で、これは自然回帰の生活が理想である〔1〕。そして、銅色の杉皮と葉は富と幸運と輝かしい未来の約束の象徴と信じられていた〔2〕。 とはいえ、それには政治的な背景があった。独白録は昭和天皇が小坂鉱山に行こうとしなかった理由をも明らかにしている。久原グループは宮中に対する陰謀を宮中による陰謀と言い換えて〈恨みを含む一種の空気〉を帝都に作り出したのである。若い天皇がそう思ったというのは、主観的であれ、その後の行為と判断に影響する重要な事実である。〈恨み〉と〈一種の空気〉については注意深く分析しなければならない。 それは悪党らが狙ったとおり進んだ。特に満州某重大事件という呼び方はミラー・イメージとして宮中某重大事件を想い出させたにちがいない。〈いやな言葉〉という天皇の言い方には、それに対する反感もある。宮中某重大事件とは、大正時代の1921(大正10)年皇太子裕仁と久邇宮良子(ながこ)の結婚に元老山県有朋や原敬首相らが反対した事件である〔3〕。久邇宮良子を支持する右翼テロ組織玄洋社と徳川頼倫(よりみち)派は暴力をちらつかせて民主的な反対派を黙らせて、いわゆる大正維新を完成させた。明治様式のデモクラシーは見世物の芝居に変えられようとしていた。 ☆ H 仮面の道: レヴィ・ストロース |
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草木の里 ブルーベリーとリンゴ果樹園 -d- ☆デモクラシーの芝居で皇后良子(ながこ)があやつり人形になったとしても、必然的な成りゆきだろう。将来の皇后として認められたことへの恩があるからなのか?これは祖父久邇 (くに)宮朝彦が文久の政変で長州藩と7人の公家の反幕府派を弾圧したために明治政府から反政府活動の陰謀で逮捕されて親王の身分を剥奪されたことの名誉回復だった〔1〕。 皇后良子に関する事実を見るのは非常にまれである。高松宮喜久子妃は回想録《菊と葵のものがたり》で戦後皇后がヨーロッパに行ってみたいと打ち明けたので、実現のために走り回った話を書いているが、あとは触れない。喜久子妃のイメージに反するが、遠慮か敬遠がある。良子の人柄が知れるのは、平民であるということ以外に自分に対して何が不満なのか、と話した今の皇后美智子の民主主義的な批判だけである。これはどこで読んだか、忘れた。 しかし、高松宮日記で次第に疑惑が強まる。皇后は御所で行なわれる重要な神道の祭式に欠席して〈代拝〉させる例が多い。理由は明らかでない。 ☆ H 1
wikipedia |
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Updated 20.9.7.25 大館橋 右岸 ☆高松宮日記にはそれ以上に刺激的な出来事が書かれている。 昭和18年 1943 6月19日
(土) 北白川宮様(房子妃)より秋田の土産。ショデ、ウリイ、ワラビ、板麩。 ショデは秩父宮が弘前にいたころから毎年到来。 7月12日 (略) 今春ご視察の各妃殿下をご慰労のために午餐にお招きのところ、皇后はきのうからお風邪とかで、各妃殿下がご参内になってはじめて皇后の出席がないことを知る。太夫、女官長がテーブルの両端について食事はあったということだ。お料理の支度したからとか、京都から久邇宮妃が上京するからとか言うので、止めなかったとは思うが、京都からでも、お出ましがなければ、二度出ていらっしゃってもよいので、そこは皇族の考え方で考えるべきである。(キク子、百合君様、賀陽宮様は秋だから今回はない。) [編集者の注; 各県における婦人の活動状況を視察。] 皇后も視察に行ったので、午餐に出席して当然だが、風邪を口実に姿を見せなかった。北白川宮房子妃その他の妃殿下は御所で〈きのうからお風邪〉と聞いて、快く思わなかったにちがいない。延期すればいいのだから。しかし、欠席の理由は別にあった。上京した母久邇宮邦彦(くによし)王妃俔子(ちかこ)と会わなければならないということだ。これは不意の訪問とは考えられない。高松宮宣仁(のぶひと)が皇后良子の態度を責めるのは、そこに北白川宮房子妃を侮辱する意図を読んだからだろう。主催したのは、皇后自身ではなかったか?とはいえ、北白川宮房子妃に対してそんな冷たい仕打ちをする理由があるのだろうか? 日記では皇后の行為に関してはほとんど一言しか記されない。リアルに書いたのはそのエピソードだけである。高松宮宣仁に話したのは誰か、と明記されないが、房子妃だと思う。ふだんの例では、彼女の女性的な語りが直接記されることが多い。 高松宮がめずらしく感情を抑えられなかったのは、皇后が皇族らしくない振る舞いをしたことにショックを受けたからだろう。実際、これは読者にとっても突然のドラマである。そして、宮様が批判するとおり〈皇族の考え方〉でない。世間の物語によくある女の考え方か、反西洋的な古い観念か、と思わせるが、おそらく混ざり合っているだろう。 ☆ H |
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長木川 カラス -f- ☆12日の午餐の翌日、日記にはふたたびその出来事が記される。 7月13日 東久邇宮、来談。(略) きのう皇后様が風邪のため視察が済んだ各妃殿下への慰労午餐にもご出席がなかった。今日火曜日の映画もお誘いがない。(略) これはその問題に関してまだ言いたりないことがあると思わせる。しかし、それだけで、ただ御所での映画に誘われなかった不満を書きとめている。 東久邇宮稔彦王が来た理由は、それと関係があるかどうか、明らかでない。ただ皇后良子の父邦彦(くによし)王は稔彦の兄である。 映画に誘われなかったのは、東久邇宮と高松宮、北白川宮大妃房子だろうか? 午餐の出来事には、こういう疑問点がある。 1
誰がその日を選んだのか? これは宮廷の伝統的な儀礼にしたがったまでのことだろう。12日を選ぶ理由は、《仮面について ギャルリー 1》に書いたとおり、12は太陽が真上で輝く幸運な時だから、である。 2
13日にも午餐の欠席について書いたのはなぜか? 《仮面について ギャルリー 2》の考察が明らかにしたとおり、13は太陽が西に傾く不幸な時である。晴れやかな儀式で異変が起きたことを表わすための形式だろうか? ダブル・イメージとして見れば、12→13の移行が指示する現象はそういう重大な不幸だが、指示する実体は皇后か黒幕である。この黒幕は、隠語で〈ホシ〉と呼ばれているようだ。しかし、同じ出来事を2度書いていることは青銅鏡のミラー・イメージを想い出させる。これは呪術的な表現だろう。ついでに言うと、《仮面について ギャルリー 1---12 十二》は、この日記がヒントになった。 ☆ H |
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大館橋上流 -g- ☆ 3 皇后が北白川宮大妃房子に対してそんな仕打ちをする理由があるのか? 房子妃は明治天皇の第7皇女である。皇后良子(ながこ)の祖父久邇宮朝彦は明治維新の逆賊として一時的に皇族の身分を剥奪されたのだから、動機はある。しかし、北白川宮に対してはその反対に好意を感じていいはずだった。北白川宮能久(よしひさ)親王は、自分の意志かどうかは別にして、明治天皇に逆らって会津藩を中心とする東北列藩同盟の〈東武皇帝〉に就任して、明治政府からしばらく皇族の身分を剥奪された。久邇宮朝彦と似たような運命を生きた。 ところが、能久の子成久(なりひさ)王は明治天皇の第7皇女と結婚した。完璧な栄誉だが、旧徳川幕府の反天皇派にとって、これは決定的な裏切りを意味したかもしれない。そう考えれば、北白川宮成久(北伯爵)と房子妃が1923年(大正12)4月1日フランスで自動車事故にあう運命の舞台裏が目の前に見えてくる。徳川義親の存在については、前に〈ナチスの鉤十字と日の丸の旗〉で語ったとおりだが、日記では怪人物のように書き表されている。 慰労の午餐の出来事には、現実の政治と長い歴史がからんでいる。高松宮は明治天皇の孫なので、北白川宮大妃房子と親密な関係である。房子は、成久王を自動車事故で失った不運に成久王と彼女の子北白川宮永久王が1940年(昭和15)満州西方の飛行場でプロペラに巻き込まれて死んだ奇妙な悲劇が重なり、日記では例外的に王朝物語風のヒロインのように描かれる。そして、高松宮宣仁が次第に有栖川宮の継承者としての自覚を強めることは、有栖川宮嫌いの徳川派にとって脅威だった。徳川派と陸軍は共謀していた。 ☆ H |
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旧天神小学校 七座神社前から撮影 -エピローグ- ☆父秀之は晩年天神荘に関連づけられる出来事を二度話した。 ―天皇が二ツ井の営林署に来て自動車に乗るとき、ひざが悪いので、板を斜めに入口にわたして、それを歩いて入った。 二ツ井駅前で見たことか、営林署で見たことか、分からない。その営林署が七座営林署のことだとは、知らなかった。そして、天神荘が七座営林署の建物だったことも。 もうひとつは、祖父母の仏壇間の壁にかけられていた古い仮面の話。それは長谷川木工所の職人、黒沢集落出身の黒沢さんが彫った面だが、戦争で中国に行って帰らなかった。死んだと聞いたときはみんな泣いた。みんなに好かれた美男子だったということだ。しかし、面はそういう顔ではない。 忘れないために言うと、天神荘があった麻生集落は当時七座(ななくら)村の一部だった。 七座村は小繋、麻生、下田平(げたひら)、増沢、今泉、前山、黒沢の7集落で構成されていた。七座とは北斗七星のことだが、歴史的な由来は小繋にある約2000年前に建てられた七座神社で、7世紀後半安倍比羅夫が船などを奉納したと日本書紀に語られている。俗に天神様と呼ばれる。しかし、終戦後1955(昭和30)年の合併で七座村は三つに分裂して、小繋と麻生、下田平が二ツ井町に、増沢が合川町に、今泉と前山、黒沢が鷹巣町に編入された。 天神荘は1994(平成6)年合川営林署が二ツ井町に譲渡した。町は平成9年に国登録有形文化財に登録したが、老朽化という理由で平成17年に町総合発展計画で解体を決定したという。二ツ井町を編入した能代市も、同じ決定を下した。 天神荘は、こうして2008年秋住民の反対運動もむなしく取り壊された。 ☆ H |
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