バスに関する記念碑
道路脇や街角、公園など、様々な場所に石碑や記念碑が存在します。それらは、何かの歴史に関連して設置されている場合が多く、道路の開通であったり、文化の発祥であったり、企業の創立であったり、様々なものを記念しているようです。そんな記念碑の中に、バス事業に関連するものが、ほんの少しではありますが存在することを知りました。同じ交通事業でも、鉄道や道路などの開通記念碑と比べるとその数は少ないようですが、全国から探し出してみることにしました。
事業・会社の発祥 | 国産乗合バス誕生の地 (広島県) |
省営バス発祥の地 (愛知県) |
関東 省営バス発祥の地 (千葉県) |
京阪バス発祥之地 (京都府) |
発祥(京阪宇治交通) (京都府) |
頸城バス発祥の地 (新潟県) |
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上松線乗合自動車発祥の地 (長野県) |
会社創立百周年記念碑 千葉交通 (千葉県) |
京都市営交通事業記念碑 (京都府) |
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路線の発祥 | 園篠線発祥之地 (兵庫県) |
国鉄バス開通十周年記念碑 (千葉県) |
バス開通の記念碑 (兵庫県新温泉町) |
バス運行開始記念碑 (佐賀県鳥栖市) |
バス運行記念碑 (熊本県芦北町) |
地獄めぐり遊覧バス発祥の地 (大分県) |
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跡地 | 浜松市営バス跡 (静岡県) |
騎西自動車待合所跡 (埼玉県) |
埼玉自動車車庫跡 (埼玉県) |
国鉄バス営業所跡 (北海道士幌町) |
「バス専用道」を偲ぶ (奈良県) |
飛翔 (茨城県) |
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トロリーバス跡 (東京都江戸川区) |
山羽虎夫工場跡 (岡山県) |
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その他 | 菅健次郎君頌徳碑 (滋賀県) |
句碑 佐藤良二 (愛知県) |
千里浜なぎさドライブウェイ (石川県) |
日本最初の国産乗合バス誕生の地
横川駅「レトロバス広場」
撮影:広島市(2016.1.1)
写真は、そのレトロバスモニュメントの手前の舗道に埋め込まれたレリーフ。
撮影:広島市(2016.1.1)
日本で最初のバスというと、1903(明治36)年に京都で二井商会が運行したバスを日本バス協会では最初としていますが、これは6人乗りであり、通常10人を超える定員のものをバスの基準とした場合、12人乗りのこちらが最初になるという解釈です。また、京都のそれはアメリカからの輸入車でしたが、こちらはエンジン以外は国産ということで、「国産」を強調した表現になっています。
レトロバスモニュメントの解説文
明治38年(1905年)2月5日、日本最初の国産乗合バスがここ横川で誕生しました。翌々日の新聞は、次のように報じています。
「横川・可部間自動車交通事業はいよいよ開始の機全く熟したるを以て、一昨日午後3時より山陽線横川駅前なる自動車停車場に於いて開業式を挙行したり」
この日本最初の国産乗合バスは、エンジンはアメリカ製ですがその他はすべて国産で、ボディは総ケヤキ造り、タイヤはバス用が間に合わず乗用車用のバルーンタイヤを使用していました。横川・可部間約15kmを片道運賃24銭(馬車は15銭)、12人乗りで営業を始めましたが、1トンを超える重いボディとでこぼこ道でタイヤがもたず、わずか9か月で営業を停止しました。
しかし、この当時のチャレンジ精神は100年目を迎える今日まで受け継がれ、広島のテクノロジーの礎となって今も息づいています。
こうした先人たちの功績を後生に語りつぐため、私達はここに乗合バスの記念モニュメントを製作しました。
(以下、省略)
レトロバス広場と出会いの広場
JR横川駅前広場には、このレトロバスに関するものが多数みられます。
レトロバスを格納する建物は、クラッシックな作りです。
次がレトロバスをかたどった看板のようなもの。表面に剥がれが出ており、趣旨はよく分かりませんが、国土交通省と三篠地区青少年健全育成連絡協議会の名前があります。
最後は広島電鉄の路面電車の電気ボックスだと思われますが、レトロバスの物語をイラスト入りで解説しています。
可部駅「モニュメントの広場」
撮影:広島市(2016.1.1)
形はほとんど横川駅のものと同じですが、「国産」の文字がないことと、バスが逆を向いていること、「レトロバス復元の会」の文字があることなどの違いがあります。
広場には、このバスのプレートのほかに、可部の名水を津田式ポンプで汲み上げ、切妻屋根を模した流水塔から流れ出るモニュメントを中心に、鋳物で作られた大羽釜と五右衛門風呂があります。
撮影:広島市(2016.1.1)
省営バス発祥の地
撮影:瀬戸市(2015.1.11)
1930(昭和5)年12月20日に岡崎−瀬戸記念橋−多治見間、瀬戸記念橋−高蔵寺間に初めて運行が開始された省営バス(鉄道省が運営するバス=現在のJRバス)の記念碑が瀬戸記念橋駅跡に建てられています。
上部の写真は、現在リニア鉄道館に保存されている国鉄バス1号車の登場時の写真です。
昭和5年の省営バスの創業時から平成16年8月まで、最古のJRバス駅舎であった瀬戸記念橋駅がここに建っていました。写真の説明
1号バス
昭和5年12月20日 岡崎−多治見間に登場した省営バス
関東 省営バス発祥の地
撮影:館山市(2015.1.17)
関東地方の省営バスが1933年に館山の地で運行を開始したことから、その80周年にあたる2013年に記念碑が建立されました。
石にはめ込まれた盤面には、かつて北倉線(安房北条−千倉間)で運行した省営バスと、最新型の「房総なのはな号」(東京−館山・安房白浜間)の写真が載せられています。
昔の省営バスの写真は、車両の途中で段差がついたパノラマバス風の外観です。最新の高速バスは三菱「エアロエース」。
昭和8年1月20日関東地区で最初の省営バスがこの館山の地で運行を開始した。
この鉄道省直営のバス事業は、昭和24年以降は国鉄バスとして一貫して地域輸送を担い、昭和63年国鉄改革により設立されたJRバス関東に承継された。現在、同社館山支店は、この地域輸送のかたわらこの地と東京を結ぶ高速バス路線を運営し、大いなる発展を見ている。
JRバス関東設立25周年、省営バス開設80周年の年に当たり、有志相図りこの地に記念碑を建立し、省営バス、国鉄バス、JRバスを通じて培われた伝統と挙績を永く顕彰する。
京阪バス発祥之地
撮影:京都市(2015.1.24)
京阪桃山ビルの前に建てられた「京阪バス発祥之地」の石碑。京阪バスの前身の桃山自動車が1922年にここで創業したということのようです。
建立年の1987年はこのビルが建てられた年で、バス事業の面影がなくなることからこの碑を建てたのだと推察します。碑の部分に書かれた名前と説明板の部分に書かれた名前は異なります。いずれも京阪電気鉄道の役員の名前ですので、建立主体は京阪電気鉄道だと思われます。
京阪バス株式会社の前身桃山自動車株式会社は、大正11年7月20日中野種一郎を発起委員長とする発起人13名により資本金5万円でこの地に創立され、自動車11両を以てハイヤー営業を開始した。
大正13年10月28日社名を京阪自動車に改め、同年15年1月1日から京阪電車伏見桃山駅−桃山御陵下間0.8粁の乗合バス営業を開始した。昭和21年10月30日京阪電鉄は京阪自動車の全株式を取得、その後の京阪沿線のバス路線網拡充の基をなした。
同47年4月1日創立50周年を期して社名を京阪バス株式会社に改めた。
昭和六十二年五月 式地 晧
発祥
撮影:宇治田原町(2015.1.24)
現在では京都京阪バスとなっている京阪宇治交通の発祥の石碑です。大きく「発祥」とだけ書かれており、一見何だか分かりませんが、裏面に碑文が書かれています。恐らくかつてここには本社があり、その敷地内だったのだと思われますが、現在では空き地となっており、バス会社の面影はありません。
郷土の発展を願い、細谷長太郎 藤永萬太郎 山本重郎兵衛 島本徳次郎4氏により、宇治田原自動車商会が設立され、大正11年(1922年)10月1日、この地から岩山〜青谷〜大久保〜宇治間のバス運行が開始された。
その60周年に当り創業の地に碑を建て、先覚の志を継ぐことを誓うものである。
昭和57年10月
京阪宇治交通株式会社
頸城バス発祥の地
撮影:上越市(2015.2.21)
頸城自動車が、かつての事業発祥の地に建てた記念碑。
同社の前身である頸城鉄道の終点だった駅舎を本社として営業を開始、その後も同社の営業所として使われてきましたが、分社により東頸バスに移管する際、発祥の地であることを記す碑を建てたということのようです。
碑の上に、説明板が掛けられています。
記念碑のこと
この地、浦川原でマルケーのバスは誕生しました。
東頸城郡では当社に先立って大正9年の松代自動車をはじめ5業者が路線ごとにバスを経営していましたが、当社もバスの直営を決定し、この場所にあった当社の頸城鉄道終点浦川原駅の2階に自動車部を開設、昭和4年に浦川原〜直江津間18.0粁の営業許可を得て8月1日から1日4往復の運転を開始、ついで同年10月28日には浦川原〜高田間23.5粁の運転を開始しました。
そして第2次大戦下のバス会社統合、戦後の急成長を経て当社は上越一円にバス網をめぐらしましたが、時代が移りバスを取り巻く環境も変わって、浦川原以東の乗合バスは今年から新しく発足した東頸バス株式会社に移管することになりました。この時に望み当社バス発祥の碑を建立しその淵源を偲ぶものであります。(写真は昭和4年の浦川原駅前、幌つきの乗合バスが並ぶ)
平成8年10月1日
上松線乗合自動車発祥の地
撮影:松本市(2015.2.21)
長野県の上田と松本を結ぶ目的で設立された上松(じょうしょう)自動車株式会社の発祥の地の記念碑。結果的にこの会社のバス路線は松本から東筑摩郡までで、上田までは到達しなかったようです。
同社は1930(昭和5)年に設立されましたが、戦時中の1941(昭和16)年に松本自動車に合併され、その後松本電気鉄道となっています。
[沿革]碑文(裏面)
- 上田〜松本間鉄道敷設計画
大正十年五月 市川儀勝翁等が中心となって松本嶺間人会を組織し上田〜松本間に鉄道敷設を計画したが実現に至らなかった。- 上田〜松本間乗合自動車運行
その後昭和に入り乗合自動車運行事業を申請(昭和三年四月)右のように許可を得、昭和五年 上松自動車株式会社を設立 当地に本社を置き営業を開始した
長野県指令収第13,296号
松本市大字北深志下横田町1393番地
市川儀勝
昭和三年四月十七日付願 乗合自動車
営業・件許可スmシ左記命令事項遵守スベシ
昭和四年三月廿日
長野県知事 千葉了
松本市社会教育課撰文
“第二線路”開道100年と
会社設立60年を記念して
市川廣徳
石工永田松規
会社創立百周年記念碑 千葉交通株式会社
撮影:成田市(2015.1.17)
千葉交通が創立100周年を記念して建てた記念碑。同社は成宗(せいそう)電気軌道として1908(明治41)年に千葉県初の電車の運行を開始しています。この電車は第二次世界大戦中に廃止となり、その後バス専業会社となりました。記念碑は、電車の起終点である成田駅前と宗吾霊堂に建てられています。
バス事業についても触れられていることと、同社が現在バス専業会社となっていることから、ここで取り上げることにします。
千葉交通は明治四十一年十一月、成田山新勝寺と宗吾霊堂を結ぶ成宗電気軌道(株)として設立されました。県内初の電車として明治四十三年に成田山門前〜成田駅前間、翌年に成田駅前〜宗吾間が開業しましたが、昭和十九年に太平洋戦争の資材提供のために廃線となり、以降、バス事業会社として現在に至っています。イラスト説明文
この度、会社創立百周年を迎えるに当たり、成宗電車に名残のある当地に記念碑を建立します。
平成二十年十一月十六日
成宗電車
千葉県で最初に走った電車
- 名称・・・会社創立百周年記念碑 千葉交通株式会社
- 所在地
1.千葉県成田市花崎町
2.千葉県成田市宗吾
- アクセス
1.京成本線「京成成田」駅中央口より約30m
2.・京成本線「京成成田駅中央口」より千葉交通バスで約20分「宗吾霊堂」より約10m
・京成本線「宗吾参道」駅より約1km - 目印
1.京成成田駅前バスホーム上
2.千葉交通バス回転場所脇 - 建立年
2008年11月16日 - 設置者
千葉交通株式会社
この情報は、2015年1月現在です。京都市営交通事業記念碑
撮影:京都市(2015.1.24)
京都市営バスみぶ操車場の建物脇に建てられている小さな石碑。1912(明治45)年にここを起点に市電が開業したことから、創業70周年を記念して建てられたそうです。
碑の裏面の説明書きに、1928(昭和3)年に事業開始した乗合自動車についても書かれていることから、ここで取り上げます。
現在、営業所建物に隣接した場所にありますが、周囲にはエアコンの室外機などがあり、記念碑としては目立たない存在になっているようです。碑文京都市営交通事業は明治四十五年六月十一日、壬生車庫前−千本丸太町−烏丸丸太町−烏丸塩小路間及び四条西洞院−四条小橋間の開始によりその歩みを始め、昭和三年五月十日に乗合自動車事業をも開始した。
軌道事業は昭和五十三年九月三十日限りで廃止したが、昭和五十六年五月二十九日には地方鉄道事業(地下鉄烏丸線)を開始した。
創業七十周年を記念して事業発祥のこの地に記念碑を建てる。園篠線発祥之地
撮影:篠山市(2015.1.24)
省営バスが1934(昭和9)年に山陰線園部から福知山線篠山口を結ぶ路線として開通させた園篠線(えんじょうせん)の記念碑が、本篠山駅跡地ちかくにあります。西日本JRバスが2002年に路線を廃止した後に、建てられたようです。
上部に鉄道省、国鉄、JRの各マークとバスのイラストが描かれています。JRのところに書かれているバスの絵は、ちょっと時代よりも古い形をしています。
下部には1984(昭和59)年時点の路線網が書かれています。数多くの支線が引かれていたことが分かります。国鉄バス開通十周年記念碑
撮影:多古町(2015.1.17)
右書きで「国鉄バス開通十周年記念碑」と書かれた大きな石碑です。表裏ともに細かい字がたくさん書いてありますが、特に表側の文字はだいぶ読みにくくなっています。(注1)
おもて面に「この碑が建てられたわけ」と題して、長文が書かれています(下欄に要約文)。裏面には、この碑を建てるに当たっての協賛者名42名と、発起人21名の名前が書かれています。
記念碑の周りには、鉄道の枕木を使ったような柱が何本か立てられており、その出所も気になります。碑文(要約)明治44年にこの地に軽便鉄道が開通し、大正14年に広軌に改装(1067mmのいわゆる狭軌のことと思われる:筆者注)されたが、大戦の影響で廃止されることになった。これを受けて、地元貴族院議員らの働きにより、国営バスが運行されることになった。昭和19年1月、国営バスの盛大な開通式典が行われた。
その開通から10周年を迎えるに当たり、記念碑を建立することになった。バス運行開始記念碑
撮影:小松春樹様(鳥栖市 2015.4.25)
1971年3月で河内小学校が廃校になった時、河内までバスの運行がその条件となっており、4月よりバスが運行を開始したことを示す記念碑が建てられました。写真でいうと左側の小さいほうがそれです。
右の大きい石碑は、「河内小学校跡地碑」で、1971年の廃校後、1983年に解体となった際に建てられた記念碑。
ここには現在も西鉄バスが乗り入れて来ています。碑文昭和46年3月廃校。同時にバス運行を条件とし、同年4月よりバス運行開始す
河内町民「地獄めぐり遊覧バス」発祥の地
撮影:別府市(2018.10.17)
1928(昭和3)年に亀の井バスがこの地で日本初の遊覧バスの運行を開始したことを記念して、郵便局が設置した記念碑。当時のバス発着所と思われる写真も添えられています。
油屋熊八(1863-1935)は亀の井バスだけでなく、別府温泉や湯布院などの観光振興に尽力したそうです。別府駅前には油屋熊八の像があり、別府公園の「油屋熊八の碑」には写真入りで「日本で最初のバスガイド」の説明があります。碑文亀の井バスの創立者・油屋熊八は、昭和三年、日本初の「女性バスガイド」と「遊覧バス」を発案、そのコースの沿線で流川情緒や史跡名所を美文調で説明した若い女性ばかりのバスガイドは、旅行者にすごい人気を博した。
地獄めぐりは 亀の井バスよ
乗ればニッコリ 乙女の車掌
名所解説 節 面白ふ
唄う車内の 和やかさ浜松市営バス跡
撮影:浜松市(2015.1.11)
1986(昭和5)年11月30日に事業廃止となった浜松市営バスの跡地に石碑が建てられています。
浜松市営バスは、1936(昭和11)年8月に事業を開始し、3回目の移転で1957年にこの場所に移転したそうです。現在、跡地は市営の公園になっています。碑文昭和11年8月1日 旭町1番地において事業開始
昭和13年1月8日 板屋町137番地の1へ移転
昭和17年3月25日 上池川町145番地の1へ移転
昭和32年1月25日 和地山町58番地へ移転
昭和61年11月30日 民営移管により事業廃止騎西自動車待合所跡
撮影:加須市(2015.1.17)
加須市の前身の一つである騎西町に存在したバス会社、騎西(きさい)自動車の待合所跡に建てられた説明看板。
看板には、大正から昭和初期のものと思われる乗合自動車の写真も載せられています。
騎西町が加須市に合併されたのが2010年なので、それ以降に建てられたもののようです。碑文明治の終わり、ここで乗合馬車の営業が始まった。「トテトテ、トテー」とラッパを響かせ、十人ほどの客を乗せた馬車が加須・菖蒲・鴻巣へと走った。
そして大正九年。町内の有力者が中心となり騎西自動車株式会社を設立、ここにバスの待合所が置かれた。
大越・羽生・久喜・行田はもとより、大宮や川越方面へも運行を拡大、一大ターミナルとして活況を呈した。
昭和十年頃、現東武鉄道株式会社への権利譲渡により廃された。埼玉自動車車庫跡
建て替え前
撮影:farewell song様(埼玉県 2015.3.28)
東武バス越生出張所跡地に建つ記念碑。当初、「埼玉県商工団体パワーアップ支援事業」で建てられた木製の記念碑でした。
(情報提供:farewell song様)建て替え後
撮影:farewell song様(埼玉県 2017.6.18)
2016年に新しい記念碑に建て替えられました。新しい記念碑には、隣りに「越生の乗合自動車(バス)」と題した写真と説明板入りの大きな碑も併設されています。
(情報提供:farewell song様)
撮影:farewell song様(埼玉県 2017.6.18)
碑文(右側の碑)昭和初期、熊谷市の埼玉自動車が建てた乗合自動車車庫跡。
≪後、東武に併合≫碑文(左側の碑)越生の乗合自動車(バス)
大正2年(1913)年、梅園村大満(現越生町大字大満)の埼玉県議会議員山崎啓蔵(のち梅園村長)らは西武自働車株式会社を創立し、越生−川越間の乗合自動車の運行を開始した。運賃は五十五銭で1日5往復、埼玉県における路線バス営業の嚆矢である。
昭和初年、馬車から転換した越生自動車商会が、越生−飯能、越生−小川、越生−黒山の路線を開設、同4年(1929)には、武州自動車株式会社が、梅園(津久根)−越生−川越を1時間半、片道五十銭で開業した。
同じころ、埼玉自動車株式会社(本社熊谷町)も黒山−川越間に参入し、当所に営業所を開設した。昭和14年に買収されて東武自動車株式会社の越生出張所となり、昭和52年に坂戸に移転した。平成10年まで、越生駅−黒山線は同社が運行していた。
平成28年3月
越生町教育委員会士幌町史跡 国鉄バス営業所跡
撮影:士幌町(2016.6.12)
士幌町史跡(34)として平成元年度に指定された国鉄バス士幌営業所の跡地です。
道路脇に看板が一つ立っているだけで、どの範囲が史跡に指定されているのかはよく分かりません。近くにある「士幌町史跡(22)国有鉄道士幌駅跡」は交通公園となって、駅舎、ホーム、貨車3両が保存されており、史跡の体を成しているのに対して、バスの方の扱いは残念です。碑文昭和23年(1948年)へき地住民対策として省営自動車士幌営業所を開設、新田線、下居辺線定期バス運行開始、その後佐倉−帯広線、北十勝本線、本別線、高島線、勇幌線等、開通合計6線延べ13往復を運行、同46年7月をもって全面廃止、同年翌月から代替として町有バスを運行。
士幌交通公園(士幌駅跡)
国鉄士幌駅跡地を公園化した士幌交通公園は、国鉄バス営業所跡から南へ300mほどの所にあります。
士幌駅舎がそのままの姿で保存され、駅ホームには車掌車と有蓋貨車が保存されています。
「国鉄士幌線をしのぶ」という看板があり、国鉄士幌線の生い立ちに加えて、国鉄バスが運行を開始し、廃止され、町有バスに変わったことにも触れられています。「バス専用道」を偲ぶ
撮影:五條市(2018.6.24)
2014年にバス専用道の廃止の際に建てられた碑。
元々は奈良県五條市と和歌山県新宮市を結ぶ国鉄の鉄道線である五新線として計画されたものの、鉄道の開通には至らず、1965年から五條〜城戸(じょうど)間で国鉄バス専用道として活用されていました。
国鉄バスの廃止後は、地元の要請で奈良交通が使用していましたが、専用道としての優位性がなくなるなどで、使用が中止されたものです。碑文「バス専用道」を偲ぶ
先人の労苦を偲び
その偉業に感謝するとともに
更に郷土の発展を念じ
この碑を建立する飛翔
撮影:牛久市(2015.1.17)
1985年の科学万博(つくば85)の際に万博中央駅が置かれたことを記念した大型の記念碑。万博中央駅は科学万博終了後に閉鎖されましたが、同地に新設された「ひたち野うしく」駅前広場にこの碑が建てられています。
碑文の中に、日本初の連節バスによるシャトルバスについて触れられているため、ここで取り上げます。碑文かつてここに万博中央駅があった。
国際科学技術博覧会“科学万博−つくば'85”が、筑波研究学園都市で開催されたのは、一九八五年であった。我が国の科学技術のメッカ筑波研究学園都市、及びわが茨城の名を内外に高からしめるため、竹内藤男県知事、横田栄一県議会議長らが中心となって運動した全県民の熱意が、実を結んで実現したもので、「人間・居住・環境と科学技術」のテーマのもと、科学の先端技術を駆使して出展されたパビリオンは、国内、国外から八十を数えた。
三月十七日から九月十六日までの六ヵ月間の開催期間中に、会場を埋めた観客は二千万人を超える盛況で、このうち三百八十余万人が、牛久町大字中根字鳴神、原田、兎谷津地内に、臨時に設置された常磐線万博中央駅を利用した。
万博中央駅の敷地面積は九.八ヘクタールに及び、さらに幅員三十四メートルの学園西大通り線が延伸され、万博中央駅から西大通りを通して会場まで、日本で初めて連節バススーパーシャトルが運行し、観客輸送の主役を担った。
万博中央駅はまさに、科学万博−つくば'85の表玄関としての役割を果たし、牛久町の面目を遺憾なく発揮した。世紀の祭典成功の一翼を担った“万博中央駅”の栄光を称えるため、ここに碑を建立して、永く記念とするものである。今井街道(トロリーバス跡)
「一之江境川親水公園」
撮影:江戸川区(2022.12.17)
1952年に開通し、1968年に廃止された東京都交通局のトロリーバス101系統(上野公園〜今井間)が、江戸川区の今井街道を走っていたことから、その沿線にモニュメントが作られました。
その中心となるのが、「一之江境川親水公園」で、今井街道側の看板塔のガラスケースの中に、トロリーバスのブロンズ像も置かれています。
もっとも、写真で分かる通り、トロリーバスが開通する前に運行されていた「城東電車」(1942年より東京市電)とセットになっています。 城東電車は20形でしょうか。トロリーバスは、富士重工のR7型のスタイルをうまく表現しています。撮影:江戸川区(2022.12.17)
公園を一歩入ったところに城東電車の境川の橋梁と線路が保存されています。
この説明板には実物の写真があります。城東電車は都電カラーの1500形のようです。これは車両も色も1960年代のものなので、この路線の写真ではないようです。トロリーバスは100形(104号)で、5両しかなかった形式の貴重な写真です。
左の石碑は城東電車の説明ですが、最後にトロリーバスにも触れられています。説明文城東電車とトロリーバス
(筆者注:「無軌軸電車」は「無軌条電車」の誤記と思われます)
城東電車は大正2年に創立し、江戸川線は大正14年に東荒川〜今井間で開通しました。車両が一両で「マッチ箱電車」と呼ばれたり、発車合図のベルの音から「チンチン電車」と呼ばれ、昭和27年まで運行していました。
城東電車廃止の翌日より、無軌軸電車(トロリーバス)が走り、昭和43年までの約17年間運行されていました。
トロリーバスはレールのない電車で、屋根についた集電装置で架線から電力を得て走っていました。碑文一之江境川親水公園地誌
城東電車
城東電車は私営の路面電車で、明治44年(1911)3月、当時の本所区錦糸町と瑞江村大字上今井の間に敷設の許可がおり、大正6年(1917)12月に錦糸堀−小松川間が開通、大正10年1月には水神森−大島間が開通しました。そして、大正14年12月に東荒川−今井橋間が開通し、翌大正15年3月には小松川から西荒川までが延長されて、東荒川との間には連絡バスがはしりました。
昭和17年(1942)年に東京市の市電となり、翌年の都政施行によって都電とよばれましたが、昭和27年に東荒川−今井橋間は廃止され、上野公園−今井間を走った都内初のトロリーバスにかわりました。
この路線は、昭和43年から都営バス路線として今も運行されています。
平成8年4月 江戸川区「松江公園」
撮影:江戸川区(2022.12.17)
少し離れた「松江公園」にも、城東電車の線路が保存されており、そこにも説明板があります。
ここの城東電車は400形のようです。トロリーバスは一之江境川親水公園と同じ写真です。説明文都電の走った町−松江
大正14年(1925)、松江公園の北側を城東電車が走りました。たった一両の小さな電車です。ゆったりとした速度で今井橋と東荒川を結び、さらに西荒川から錦糸堀まで通じていました。昭和17年(1942)には東京市経営の「市電」になり、翌年「都電」となりました。
やがて昭和27年に今井〜上野公園間に東京で初のトロリーバスが開通すると、今井橋〜東荒川間の都電は廃止されました。そのトロリーバスも、昭和43年には姿を消しました。
このレールは、松江を走った都電の思い出を込めて設置しました。今井街道
はなみずきロード
しらさぎ通り
松江大通り商店街
トロリーバス101系統が走っていた今井街道の歩道には、敷石にトロリーバスのイラストが入ったタイルが見られます。
商店街区ごとに異なる敷石だったので、一之江駅に近い所から順に並べてみました。モデルとなった車両は、いずれも100形の更新後の姿で、富士重工R11型ボディです。
色ははなみずきロードの緑色が実物に近いようです。スタイルはしらさぎ通りのものがリアルで、101という車番まで入っています。撮影:江戸川区(2022.12.17)
しらさぎ通りの電気ボックスには、敷石と同じイラストが描かれています。
101号の車号は101系統であることからの選択かも知れませんが、親水公園の説明板も含め、少数派の100形がこれだけ露出しているのが、この場所の面白いところです。山羽虎夫工場跡
撮影:岡山市(2023.4.28)
岡山市が歴史案内看板整備事業の一環で建てた「岡山歴史のまちしるべ多言語版」のC18番がこれ。
国産自動車の第1号を製作した山羽虎夫(やまばとらお)の工場跡地です。
製作した自動車は「山羽式蒸気自動車」と呼ばれ、10人乗り。この時代の「自動車」=「乗合自動車」であることから、国産バスの第1号車ともいえる車両です。
なお、「国産自動車創生者 山羽虎夫翁」像は、岡山城にありましたが、2023年5月にこの近くの京橋に移設されています。碑文山羽虎夫(1874−1957)は、この地で電機工場を営んでいましたが、森房造(もりふさぞう)と楠健太郎(くすのきけんたろう)の依頼を受け、明治37年(1904)4月「山羽式蒸気自動車」を製作、翌月に試運転を行いました。
タイヤのトラブルにより、実用化には至りませんでしたが、これは、我が国で車体からエンジンまで全てを純国産で製作した自動車第1号でした。菅健次郎君頌徳碑
撮影:甲賀市(2015.1.11)
地元水口出身の管健次郎(かんけんじろう)氏の頌徳碑。
管氏は鉄道省に就職し、省営自動車創設の重責を担い、欧米での研究の後、省営自動車路線を開通させました。特に滋賀県では全国3番目の省営バス路線である亀草線(亀山〜草津間)を1932年に開通させました。
しかし、1946年4月に52歳の若さで病死したことから、翌月にこの碑が建てられたようです。
裏面には40人に及ぶ発起人の名前が書かれています。碑文(要約)管健次郎略歴
明治28年5月6日、甲賀郡岩根村の水口藩士菅家に生まれる。膳所中学校、第五高等学校を経て大正10年東京帝国大学法科を卒業し、鉄道省に奉職した。学才に優れると共に講道館柔道七段を授けられる文武両道であった。
大正12年両国運輸事務所営業主任のとき関東大震災に遭い、寝食を忘れて食料と難民の輸送に献身し、その重責を全うし、翌13年に千葉運輸事務所長となると顕著な業績が認められ、在外研究員となり昭和3年米国に渡り自動車運輸の重要性に着眼し、2年有半の欧米視察の後、省営自動車開業の任に当たり、昭和5年、岡崎多治見間の開通を見た。その後、自動車課長になり、全国4,300kmの路線を建設した功績を認められ、満鉄交通監督官となった。その後華北交通会社の自動車局長となり、昭和19年に日本に戻ると、帝国薪炭統制会理事に就任し自動車燃料界にも献身した。
終戦後母国再建のため代議士に立候補することを決意するが、病に侵され昭和21年4月1日、52歳で永眠した。句碑 佐藤良二
撮影:名古屋市(2015.1.11)
元国鉄バス車掌の佐藤良二氏が、太平洋と日本海を桜で結びたいと名金急行線の沿線に荘川桜の木を植え続けたことが美談として語り継がれていますが、その句を刻んだ碑がジェイアール東海バス本社前に建てられています。
隣りには、1966年に植えた一号桜とその碑が建てられています。「荘川桜の実生」と刻まれています。
(佐藤良二氏に関する記念碑は他にもあるようですが、JRバス敷地内にあるこの碑を代表として掲載します)碑文(句碑)この地球の上に
碑文(記念碑)
天の川のような
美しい花の星空を
つくりたい
花を見る心が一つになって
人々が仲良く暮らせるように
佐藤良二太平洋と日本海を桜でつなごう
千里浜なぎさドライブウェイ
撮影:羽咋市(2018.9.2)
砂浜を車が走れることで有名な千里浜なぎさドライブウェイの終点に立つ石碑の一つ。
このドライブウェイが知られるようになったきっかけは、一人の観光バス運転手だったという記載がありました。ということで、バスに関する記念碑に加えてみました。碑文「千里浜なぎさドライブウェイ」
の名が全国的に知れ渡ったのは
そんなに昔のことではない。
三十数年前、一人の観光バス
運転手が、広々とした波打ち際を
思いっきり走れたらと、空バスを
試走させたのがデビューに
つながった。注意事項とお願い
- バスに関する記念碑を網羅する情報はありません。ほかにご存じの方の情報をお待ちしています。
- バス事故などに関する慰霊碑類は除外しています。
- 地図は、別窓でGoogle mapが開きます。Google mapやブラウザのバージョンによって、表示に不具合がありましたが、2018年8月時点で一旦修正しました。
(注1) 加藤佳一(2014)「つばめマークのバスが行く」P.44によると、第二次世界大戦による資材確保等のため不要不急の鉄道の休止が行われ、その代行輸送を国鉄自動車が担当することになったという。1944年に成田鉄道多古線が休止されたことにより、国鉄バス多古線八日市場〜成田間が開業している。 - 設置者