非常に有益な本だった。これまで散在しているように感じられた丸山が追求したテーマ——荻生徂徠、福沢諭吉、ファシズム、政治学、現代政治に対する積極的な発言、天皇制、日本における思想史のあり方——などがどのように生まれ、発展し、どのように相互に関連しているか、ということが明瞭に整理されている。
とりわけ天皇制とそれを乗り越えられない日本の政治思想に対する批判が、生涯を通じて丸山にとって重要なテーマであったことがよくわかった。裏を返せば、土着の制度と、それを支える精神構造から独立するための「究極の価値」としての「個人の基本的人権」こそが彼が終生理想として追究していたものだった。
本書は、学者・丸山眞男の思想の発展と構造についてよく語っている。一方で、人間・丸山眞男については多くを語らない。
一部の人たちには生理的な嫌悪感を持たせる彼の知識人としての強い自覚や真のインテリと擬似インテリ、ないしは亜インテリとを二分する思考方法などが、丸山のどこに根を持っているのか。丸山は鶴見俊輔との対談で、鶴見に比べ自分が「はるかにドロドロした「前近代的」なもの」のなかで育ったと主張している。確かに、本書の冒頭に書かれている丸山の生育環境は特権階級的なものではなく、生活苦もあり、むしろ庶民的ではある。
では、彼の知的エリートの自覚はどこに由来するのか。そういうことをもっと知りたい。
また、戦中、丸山は応召されたときに士官とならず、特別待遇も拒み、あえて一兵卒になることを選んだ。戦後には被爆者手帳を受け取ることをせず、文化勲章も固辞した。そうした実生活での選択と丸山の思想のあいだにはどのような関連があるのか。私の興味は、そういうところへ向く。
丸山は東大闘争で深く傷つき、そのことが法学部教授を辞するきっかけになったと本書に書かれている。彼の暴徒学生たちへの幻滅と大衆への期待はねじれていなかっただろうか。そういうことも気になる。
本書は、丸山眞男に対する「イメージ」から生まれる毀誉褒貶が丸山思想の全体を理解していないがために生まれる誤解であることに気づかせてくれる。しかし、誤った「イメージ」が生まれる所以について深掘りはされていない。
上に書いたことが丸山思想に対する批判としてしばしば取り上げられる。しかし本書は、丸山が大衆や社会の底辺にいる人々を蔑んでいたわけではないことも指摘している。むしろ、労組幹部が労働貴族となり、リベラルや革新と呼ばれる人たちが彼らを見捨てていることを批判してもいる。
この点は、最近のアメリカ大統領選挙や兵庫県知事選挙を思い出してみても、非常に今日的問題と言える。格差が広がり中間層が崩壊する一方で、自称「リベラル」はエリート層になってしまい、社会下層が見えなくなっている。丸山がそうした構造を見抜いて懸念を持っていたことは本書に同意して指摘しておく意味があるだろう。
丸山は、「精神的貴族主義」を理想として掲げていて、知識人が大衆を「啓蒙」することを企図していたとはいえ、知識人によって大衆を「支配」することを理想とはしていなかった。そう指摘することもできるだろう。
しかし、指摘するだけでは単なる擁護にしかならない。彼の信念をもっと詳しく分析しなければ、その真意はわからないだろう。また、誤解している人たちを説得することもできないだろう。
現代において知識人という言葉はほとんど死語となっている。大衆化の波はかつては象牙の塔と呼ばれた大学にも及んでいる。その一方で、学問の細分化と専門化も進んでいる。社会の全体に対して希望を込めた批判的視点を持つことは誰にとっても非常に難しくなっている。
そのような時代にあって、常に知識人であろうと自覚し、努力し、行動し続けた人間・丸山眞男の姿勢から学ぶことはもうないのだろうか。学ぶことは少なくないと私は思う。
人間・丸山眞男から丸山思想を読み解くことはできないのだろうか。
たとえば、小林敏明『西田幾多郎の憂鬱』は、西田の生育史や家族との関係に彼の哲学の源泉を見出そうと試みている。今はまだ尚早なのかもしれないけど、将来、そのようなアプローチの研究が出てきてもいいのではないか。
その成果によって、知識人という言葉がもはや本当に意味のないものなのか、ということも明らかになるだろう。