子どもとことば、岡本夏木、岩波新書、1982 |
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『幼児期』(岩波新書、2005)につづいて手に取った岡本夏木の新書。読み終えて、言葉について、これまで私なりに気づいたり考えたりしてきたことがすっきり整理された気がする。 これまで考えたことはどれも断片的で、互いに矛盾する内容もあった。本書は、そうした思いつきの間にある、気づいてなかったつながりに補助線を引いてくれたり、一見すると矛盾するような考えの位置づけや、順位づけをしてくれた。 本書は『幼児期』と同様、直接的には子どもを対象にしながら、大人を含んだ人間全体に関わることが書かれている。言葉をかえれば、大人の中に残っている「子ども」を見つめなおすことを、岡本は促している。 この本のもう一つの特徴。本書は、ことばについて書かれていながら、言葉の重要性を指摘するのではなく、むしろ現代社会でゆがんで過度に肥大化している言葉への期待を解体する。読み進むにつれ、言葉に対して抱いている常識や思い込みが何度もひっくりかえされる。 転覆は大きく三度ある。まず、岡本は言葉を不特定多数の人に自分の気持ちを伝える道具であるという見方を否定する。言葉は、大切な人と経験を分かち合うためにある。大切な人、子どもにとっては親や保育者とともに過ごした時間は、言葉で確認しあうことで共有される。伝達ではなく、共感が言葉の基本。 ところが、言葉は相手と共感するためにあると同時に、自分自身に向けられるものであると岡本は指摘する。言葉は、自分自身を理解するためにある。 ことばが、その公共性において「外なることば」として機能しうるとともに、その「私」性において「内なることば」として機能しうるという、まさにこのことにおいてことばは個人と社会をつなぐ点に位置するのである。そして子どものことば獲得の過程のなかにその源を見出したいと思うのである。(「Ⅱ‐3 人間におけるシンボル」) 相手との共感から生れる言葉は、自分自身に戻り、自分の感情や意志や行動を定義し、構成し、動機づける。 言葉はしかし、すべてではない。これが第三の、もっとも大きな転覆。言葉は人間の生活のごく一部でしかない。あるいは、ふだん言葉といっている狭い世界よりも、人間の言葉はずっと広い。 岡本自身が整理している彼の言語観のまとめ。言葉についてどう心がけて生活したらいいのか、書かれていることは、大人にもあてはまる。
ここに掲げられた項目は、文章を書く心構えにも言える。そして、私がブログ上のトラック・バックやコメントなどの機能がどうしても好きになれない理由もここに書かれている。コメント欄や掲示板の言葉は、相手に向かうふりをして、相手と経験を分かち合うこともせず、また自分自身を省みることもせず、不特定多数に見せる目的ばかりに強く傾いている。 確かに言葉には情報を伝達する機能があり、インターネットはその機能を主な原動力として成長してきた。その一方、自己表現や情報発信という常套句の陰で、人格のない言葉が不特定多数に向けてばらまかれる事態にもなっている。 発信者が匿名か筆名か、はたまた実名か、そういうことが問題なのではない。問題は、言葉が名前をもつある人間から名前をもつある人間に向けられているか、その相手との共感を通じて、経験の共有をめざしているか。 岡本の考えに従えば、言葉は「内なることば」として機能するとき、はじめて「外なることば」として機能する。このことは、『幼児期』でも「言葉に対する誠実さ」という言葉で強調されていた。自分自身に立ち返らない言葉が氾濫する現代のすさんだ状態を、岡本は「言語行為の死滅」とまで言う。 自分に誠実な言葉を使っているか。それ以前に、誠実な言葉が自分のなかから生み出されるような、豊かな生活をおくっているか。言葉は思想であり、思想は生活であり、生活は日々の暮らしであるということは、この質問を毎日自問することを意味する。 言うまでもなく、この言葉は、誰よりも私自身に向けられている。 |