石塔紀行(10) 
  層塔・宝塔・
  宝篋印塔・五輪塔
  
 中国・四国
   地方の石塔巡拝
 
 
   
 
藤井八幡宮(熊本県山鹿市)
 
石造宝塔 <如法経塔>
  
弘安六年 (1283) 鎌倉中期末 
 
 石造美術の面白さは多様だが、専門家ではない
小生共にとっては、旅で訪れた地方ならではの歴
史的遺構としての石塔が示す美しさを感じ取れれ
ばそれで良いと思っている。

 歴史的にも文化的にも、やはり中心となるのは
関西地区なのだが、大きな仏教文化の花が咲いた
大分の国東半島などを中心として、関西以西にも
魅力的な古い石塔が残されている。

 このページでは、便宜的に中国・四国、そして
大分を除く九州地区、に残る石塔を訪ねてみたい
と思う。
 近年、岡山や広島、今治などを探訪出来たのだ
が、他の四国地方や山陰、山口などは全く手薄だ
としか言えない。未完全な記事だが、何らかの御
参考になれば良いのだが、と思っている次第。
 
 
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  吉井宝塔
    
         岡山市東区吉井
     
   
 
 岡山市の最東端、吉井川にかかる備前大橋手前
にこの集落が在る。吉井川から倉安川へと取水す
るための「吉井水門」で知られている。
 水田地帯の珍しい水車などを見ながら、農家の
脇の畦道を歩いて行くと、雑木林の突き当たりに
この秀麗な石塔が目に入る。

 後鳥羽上皇の供養塔であるとか、足利尊氏の建
立した利生塔である、といった伝承が残っている
が、いずれも確証は無いらしい。

 相輪はほぼ完存しており、宝珠・請花・九輪・
請花が揃って露盤に載っている。均整の取れた良
い形であろう。
 笠は、屋根の四隅に三筋の降棟が彫られ、軒は
程よい厚さで両端に反りが見られる。軒裏に二重
の垂木型が意匠されているのは、優れた石工の仕
事であったことの証しとも言える。
 首部と縁板状の造り出しのバランスが良く、四
方に扉口の施された塔身軸部の大きさと見事に調
和している。
 基礎の四方には、輪郭を巻いた格狭間が意匠さ
れており、銘文は発見出来なかったそうだが明ら
かに鎌倉後期の特徴を十分に備えている石塔であ
る、と言えるだろう。
 現地の説明板には、高さ2m82、花崗岩製と
記され、旧吉祥院跡とされる。
 
 
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  大光院笠塔婆
    
         岡山市中区円山
     
   
 
 円山には、藩主池田家の菩提寺として、また臨
済宗の名刹として知られる曹源寺が在る。
 かつて塔頭であったこの寺院は、山門の左手奥
にひっそりと建っており、現在は日蓮宗のお寺と
なっている。

 笠塔婆は境内の右手奥に、小さな囲いを施した
一画に建っていた。
 全体の高さは約1m80で、笠塔婆にしてはず
っしりと座った印象を受ける。
 基礎は、三面に輪郭を巻き格狭間を彫りだして
おり、その上に二段の段型を設けている。
 方形の塔身部分の三面には「南無妙法蓮華経」
の題目が刻まれている。塔身の裏面には、日妙と
いう日蓮の孫弟子に当たる名僧の名と、康永四年
(1345) という南北朝前期の年号が見られる。
 笠は、屋根の傾斜は緩やかだが、軒の反りは強
く鎌倉末期の面影を残している。
 笠上部に露盤を置き、首部の付いた良い姿の宝
珠を直接載せている。
 笠塔婆は石塔として見ると、形状的には地味だ
が、細部を詳細に見れば、作り手が技巧を尽くし
た繊細な美しさや、時代が示す美意識の片鱗が
伝わって来て見飽きない。

 もう一基の笠塔婆、比丘尼妙善題目笠塔婆が大
覚堂に本尊として祀られている。
 応永十八年 (1411) 室町初期の作で、大理石製
の珍しい石塔である。
 
 
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  鼓神社宝塔
    
         岡山市北区上高田
     
   
 
 足守から足守川に沿って山へ分け入り、勝尾峠
へと向かう途中にこの集落がある。神社は集落の
手前に位置し、縣社二宮鼓神社と記した旗が立っ
ているので直ぐに分った。
 吉備津彦命など五柱を祭る由緒在る古社で、宝
塔は社殿の左奥の森の中に建っている。

 高さは4m15ほどもある巨大な宝塔で、国の
重要文化財に指定された堂々たる姿に思わず驚愕
してしまった。
 複弁反花座に載る基礎が見所で、写真で見る通
り、二区格狭間の中に向かい合うように二羽の孔
雀が、愛嬌のある姿で彫り込まれている。近江地
方に類例の多い意匠として知られる紋様である。
両側面には、蓮華紋様が彫られていて豪華だ。
 塔身軸部の正面に龕を穿ち、舟形に刳り貫いた
中に金剛界大日如来坐像を厚肉彫している。
 両側面には扉口が彫られており、背面に貞和二
年 (1346) 南北朝前期の年号が見られる。
 首部下には技術の限りを尽くしたような細工が
施され、縁板状や勾欄は豪華に装飾されている。
欄干など誠にリアルに彫りだされている。
 笠は、軒裏に垂木を彫り出し、屋根には三筋の
降棟を意匠するなど精巧極まりない。両端の反り
が大きいのは時代性なのだろうか。
 露盤に載る相輪は見事で、伏鉢・請花など相輪
のお手本のような作である。
 何もかもが完璧過ぎ、非の打ち所が無い事が非
としか思えぬほどの、何とも不思議な美しさを示
す宝塔である。
 
 
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  藤戸寺五重塔
    
         岡山県倉敷市藤戸町
     
   
 
 倉敷市の東南、源平の古戦場としても知られる
倉敷川沿いに位置する集落である。佐々木信綱の
伝説を基に書かれた謡曲「藤戸」の舞台としても
知られる。
 藤戸寺は8世紀初頭に行基が開いたとされる名
刹で、現在は真言宗の寺院である。

 石塔は本堂右手奥の小高い場所に建っており、
古塔が放つ独特の芳香が感じられる。
 相輪は細過ぎるので、一目で後補と知れる。
 基礎は低いが、背の高い塔身(初層軸部)には
輪郭の巻かれた中に、金剛界四仏が薄肉彫りされ
ている。各仏の名称は方位から推測するしかない
が、いずれもほのぼのとした情緒に満ちた彫像で
ある。
 各層の屋根はそれぞれが上の軸部と一体となる
彫り方で、適度な厚さのある軒は緩やかな反りを
示している。
 五層の屋根の幅の逓減率が自然なので、見るか
らに品位のある落ち着いた姿をしている。

 塔身東面の仏像(阿閦如来か)の下に、寛元元
年 (1243) という鎌倉中期の銘が入っているそう
だったが、肉眼では判然としなかった。

 各部の特徴が、いかにもこの魅力的な造立銘に
相応しい佇まいであることに感動した。
 
 
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  五流尊滝院宝塔
    
         岡山県倉敷市林
     
   
 
 前述の藤戸から少し南下し、玉野方面に向かっ
た蟻峰山麓一帯に、この広大な寺域が展開してい
る。
 ここは天台宗系の修験道総本山で、私たちが訪
ねた際も、山伏姿をした修験僧たちの回峰行に遭
遇した記憶がある。
 荘厳な熊野神社に隣接して、江戸末期に建てら
れた木造三重塔が聳え、さらに木立に囲まれた森
厳な一画に、この国の重要文化財に指定された石
造宝塔が祀られている。

 三区の剛毅な壇上基壇が設けられ、その上に宝
塔が載っている。いかにも高貴な意味合いを持っ
た石塔であることを示している。
 基礎は背面三区側面二区に格狭間が意匠されて
いるのだが、剥離が激しく判然としない。
 塔身正面に仏坐像が彫られているそうだが、こ
れも表面が剥離して定かには見えない。応仁の乱
の際の火災が原因だそうだ。
 首部に円環のような縁板状の造り出しがあり、
その下に天女が彫られているとの事だが、言われ
てみれば程度の確認しか出来なかった。
 軒裏に垂木型を彫り出し、微妙な反りを見せる
笠は、いかにも鎌倉中期とも言えそうな様式を示
している。
 相輪は一部後補だが、相対的に均整の取れた見
事な姿の宝塔で、銘文が無いのに重文に指定され
ただけのことはある、と感心したものだ。
 後鳥羽上皇の供養塔として鎌倉中期に造立され
たと言われるが、それに相応しい美しさと品格を
見せている。
 
 
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  王子権現社宝塔
    
         岡山県倉敷市児島下之町
     
   
 
 王子権現の前にコンビニの駐車場が出来てしま
っているが、見るからにこの村の鎮守のような規
模の社であった。
 社の右側、プラスチックの壁に囲まれた覆屋の
中に、この貴重な宝塔が保存されていた。前面だ
けだが開放されているので正面の撮影は可能だ。

 在銘の宝塔としては、常陸の祥光寺に次ぐ古い
もので、建仁三年 (1203) 鎌倉前期の銘が塔身に
彫られている。

 相輪は大らかな造りだが、当初のものかどうか
は不明である。
 笠は、屋根に膨らみがあり、緩い軒反りが古式
を示しているようだ。
 塔身は、細長い方形の四隅を面取りした珍しい
造りになっている。
 写真の塔身正面は南面で、宝塔出現の際の多宝
・釈迦の二仏並座の場面を表わしている。
 他の面は、プラスチックが半透明なため、鮮明
な映像は期待出来そうになかった。
 西面には釈迦如来(弥勒仏という説もある)の
坐像、北側には不動明王が彫られている。
 東面の阿弥陀如来坐像は、上部の天蓋によって
荘厳されているようで、その見事な彫りは特筆に
値するだろう。
 いずれも蓮華座に載った姿で表現されており、
平安後期の余風を伝えるような優雅な雰囲気を残
している。
 
 
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  堂応寺宝篋印塔
    
        岡山県倉敷市真備町辻田
     
  
 
 旧真備町の高梁川に沿った一帯で、里道から一
筋登ったあたりに堂応寺と呼ばれる地域がある。
かつて導応寺という寺院が建っていた場所なのだ
が、現在は小さな薬師堂が建っているのみで、目
的の宝篋印塔はその小堂前の路傍に建っていた。
 高さが3m25という大型の宝篋印塔で、相輪
から基礎までほぼ完璧に残っている。国の重要文
化財に指定された名品である。

 相輪は豪快な造りで、宝珠・請花・九輪・請花
・伏鉢が完備している。露盤は無く、笠の上六段
に載っている。
 隅飾は二弧輪郭付きで、微かに外側へ反ってい
るが、内側の肉付きが良過ぎてやや不恰好に感じ
られる。
 笠下二段で、塔身の四方には、月輪に囲まれた
金剛界四仏の種子が薬研彫りされている。剛毅な
塔にしては梵字がちまちまとまとまった感じがす
るが、これも時代性による表現が成されたものな
のだろう。
 上二段の基礎には装飾らしきものは一切無く、
南面に、正和三年 (1314) という鎌倉後期の年号
が彫られている。

 重量感に溢れた大型石塔だが、そこここに次の
時代へと美意識が変化していく変遷過程の中にあ
ったことを物語っているようだ。   
 
 
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  旧満願寺宝篋印塔
    
        岡山県倉敷市真備町辻田
     
   
 
 前述の堂応寺宝篋印塔の建つ場所からは、約6
00mほど行った水田地帯の真ん中に、同じよう
な雰囲気の宝篋印塔がポツンと建っている。
 かつて満願寺という真言宗の寺院が建っていた
跡で、高梁川の氾濫で寺は流されて壊滅したとい
う。江戸時代になってから、土中に埋没していた
この宝篋印塔が発掘され、現在のように祀られた
のだそうだ。

 相輪の構造は堂応寺のものと瓜二つであり、笠
は上六段下二段で、塔身には金剛界四仏の梵字が
彫られているところまでそっくりである。
 さらに、上二段の基礎に全く装飾が無い点まで
よく似ている。

 しかし、詳細に観察すると、少しづつ相違点が
見えて来て、造立年代は堂応寺塔よりはかなり下
がってくるのではないか、と思えた。
 相輪がかなり華奢になっており、力強さに欠け
るように見える。
 笠の隅飾が小さくなっており、輪郭のある二弧
という意匠は同じだが、外側への反り方が大きく
なっている。
 塔身の梵字がさらに小型化しており、鎌倉期の
豪快な筆致とは比較にもならない程繊細な表現に
なっている、などがその理由である。
 基礎側面に銘文らしき痕跡はあるが、全く読む
ことは出来ない。
 
 
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  本久寺九重塔
    
         岡山県和気町佐伯
     
  
 
 吉井川上流の佐伯集落の後方に在る大王山の山
麓に、広大な寺域を有する日蓮宗の寺院である。
桃山期天正年間に宇喜多忠家が、山上に在った真
言宗の密厳寺をこの地へ移転し日蓮宗寺院とした
ものであるという。

 山門を入ると正面が桃山建築の本堂だが、すぐ
左手にこの石造九重塔が建っている。
 密厳寺に在ったものが、寺の移転と同時に山か
ら下されたものである。

 雄渾な印象を受ける塔で、屋根の軒口が厚く両
端の反りが強いことが原因だろう。
 基礎は無地だが、塔身には顕教四仏の像容が舟
形に彫られた光背の中に、蓮華座に乗った姿で半
肉彫りされている。
 塔身正面には釈迦如来、それから時計回りに阿
弥陀如来、弥勒如来、薬師如来がそれぞれ彫り込
まれている。
 塔身に元亨二年 (1322) 鎌倉後期の年号が彫ら
れている。最下層の屋根の幅が小さいので、塔全
体がやや細長く感じられる。繊細な表現が見え始
めた時代の作品だと言えるだろう。

 基礎と塔身の間に入れられた無用な石、そして
相輪の替わりに載せられた宝篋印塔上部は、石造
美術を愚弄する無知な行為としか思えず、何でも
組み合わせてしまう安直さだけは是非廃絶させた
いものと考える。
 
 
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  本久寺五重塔
    
         岡山県和気町佐伯
     
   
 
 前掲の本堂の左手奥に庫裏があり、その前に写
真の石造五重塔が建っている。
 この塔も前述の九重塔と同様、旧密厳寺にあっ
たものを寺の移動に併せて下したという。
 塔身に九重塔と同時代の元亨四年 (1324) とい
う鎌倉後期の年号が彫られているが、各層の屋根
や軒の作風は九重塔とは明らかに違う。

 相輪は、伏鉢・請花・九輪が揃っているが、先
端部分の宝珠の下の請花が欠落している。
 各重軸部と屋根を別の石で積む様式で、屋根の
緩い傾斜や軒口の微かな反り具合から、落ち着い
た品格ある層塔であることが判る。
 三層目の屋根とその上の軸部だけが一石で出来
ているので、この部分だけは後世の補修だろう。
軒口の雰囲気も、心なしか違って見える。
 初層軸部(塔身)は、前述の藤戸寺五重塔に似
て背が高く、古式のイメージを伝えている。
 最も特徴的なのが軸部の四方仏で、舟形内に半
肉彫という手法は珍しくはないが、彫られた仏像
の組み合わせが希少なのである。
 いずれも蓮華座に載り、正面は薬師如来、左は
地蔵菩薩、背面は阿弥陀如来、右が十一面観音と
いう配列になっているのである。この塔が建立さ
れた時代の現世利益的な願望が、率直に表現され
たかのようで興味深い。
 
 
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  保月宝塔
    
       岡山県高梁市有漢町上有漢
     
   
 
 岡山自動車道の有漢インターの東側、直ぐ近く
の谷に保月という集落がある。村外れの丘の中腹
に、鎌倉期の貴重な石造美術三点を含む遺蹟が保
存されている。
 近隣の臍帯(ほそお)寺が管理をしているのだ
そうだが、石塔群の出自についてははっきりとし
ないようだ。
 この石造宝塔(二重塔)と、国の重要文化財に
指定された石幢と板碑、さらに五輪塔や板碑類が
林立する様は壮観である。

 この異形の石塔は、実は従来は石造宝塔であっ
たもので、相輪と笠そして基礎だけが本来の部材
で、塔身部分が失われて上下の軸部と中間の屋根
が入れられたものと思われる。他の層塔を再利用
したものだろう。上層の軸部には三尊図像が彫ら
れており、別材ではあるが良い彫像だと感じた。

 基礎には、三区を分けて輪郭を巻いてある。格
狭間は無いが、南面に両親等の菩提を弔う旨の偈
文と、嘉元三年 (1305) という鎌倉後期の年号、
そして大和伊派の石大工井野行恒の名が刻まれて
いる。
 笠は、屋根の勾配は緩やかだが、軒口の両端が
かなり強く反っている。笠裏に一重の垂木型と、
従来の宝塔の円形塔身首部を受けるための円形造
り出しが設けられている。
 相輪は、九輪の上部が割れているが、宝珠・請
花・伏鉢など完存して露盤に載っている。
 
 
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  保月石幢
    
       岡山県高梁市有漢町上有漢
     
   
 
 国の重要文化財に指定された貴重な石幢で、前
掲の石造宝塔と同じ一画に他の石造物と共に並ん
で建っている。
 石幢の事例はそれ程多くはなく、六面のものと
しては大聖寺(小川町)、普済寺(立川市)など
があるが、いずれも板碑状の板石を六角に組んだ
ものであり、このような六角に面取をしたような
幢身を持つ石幢は更に希少である。
 八面の事例も僅かだが見られる。

 方形の基礎の上に六角柱の幢身を建て、六角形
の笠を戴いている。笠の勾配は緩やかな波状で、
軒口の反りも上品で美しい。
 その上に載っていたはずの請花・宝珠に替わっ
て、小五輪塔の地輪を除いた部分が載せられてい
る。吹き出してしまう程滑稽な姿なのだ、という
ことに気付いて欲しいものである。
 六面の幢身にはそれぞれ、多彩な尊像や偈文が
彫られている。第一面には、弥勒を上段に、下段
には薬師・釈迦などの六尊の計七尊が彫られ、他
の五面には虚空蔵・不動などの五尊が一尊づつ配
されている。
 二重円光の中に半肉彫された諸像は彫刻として
も卓越した作品であり、偈文に見られる「従初七
日至十三年相当」という文字から、回忌に相当す
る諸仏が彫られたものと考えられる。ここから、
十三仏信仰が歴史的に形成されていった過程が想
定される、との説が有る。
 嘉元四年 (1306) の銘があり、宝塔と同じ井野
行恒の名が刻まれている。   
 
 
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  安蘇宝篋印塔
    
         岡山県美作市安蘇
     
   
 
 友人数名と湯郷温泉に滞在していた或る日、近
くに古い宝篋印塔が在ることを知っていたので、
無理矢理誘って出かけてみた。
 温泉から4キロほど行った田園地帯で、満開の
蕎麦の白い花と色とりどりのコスモスが私たちの
目を楽しませてくれた。
 路傍にさりげなく建っていたのは、長い間埋没
していた藪の中から、近年になって移転され祀ら
れていたからであった。
 見るからに端正な美しい宝篋印塔であり、相輪
から基礎まで損傷がほとんど無いのは、そうした
隠遁時代が長かったからなのであろう。

 相輪は均整の取れた太さで、伏鉢や請花も立派
であり、何より宝珠の形が良い。
 笠は、上六段下二段で、隅飾は輪郭の入った背
の低い三弧、ほぼ直立だが微妙に外側に反ってい
るようにも見える。
 塔身には金剛界四仏の梵字が刻まれ、基礎上二
段に載っている。梵字の表現がやや弱々しくなっ
ているのは時代性であろうか。
 基礎は壇上積式に意匠され、格狭間の中に近江
紋様として知られる開蓮華が浮彫されている。
 正中二年 (1325) という鎌倉後期の年号が読み
取れる。
 今彫ったばかりかと思えるほどの美しい花崗岩
の塔で、次掲の本山寺宝篋印塔と併せ、“美作”
という国名通りの美塔に会えたのだった。
 
 
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  本山寺宝篋印塔
    
         岡山県美咲町定宗
     
  
 
 かつては棚原町だったのだが、現在は合併で美
咲町と称している。久米南町との境界に近い金比
羅山麓に建つ、天台宗の名刹である。
 吉井川の支流、本山川の源流に位置する。

 境内に配置された諸堂は、国の重要文化財に指
定された本堂と三重塔を筆頭に、山寺に相応しい
雰囲気の中に桧皮葺屋根の美しい佇まいを見せて
いる。

 三重塔の前に、写真の宝篋印塔が囲いもなくポ
ツンと建っていた。この石塔も国の重要文化財に
指定された歴史的建造物なので、太っ腹と理解す
るか、或いは杜撰な管理とでも言うべきなのだろ
うか。石造美術愛好家にとっては、じっくりと見
学可能で有り難いことなのだが。

 基壇に複弁の反花座が設けられ、基礎には輪郭
を巻いた中に格狭間を刻む。中央に近江紋様の開
蓮華が、象徴的に彫られている。
 輪郭に刻まれた建武二年 (1335) 南北朝初期の
年号が読み取れる。
 塔身には金剛界四仏が意匠されているが、写真
の西面のみが弥陀の半肉彫となっており、他の面
は種子(梵字)で彫られている。
 彫刻の全てに生き生きとした表現が成されてお
り、鎌倉期の剛健さと南北朝の繊細さの両面が備
わっているように感じられた。
 笠は上六段下二段で、隅飾は輪郭の付いた二弧
になっている。
 太目の相輪が全体を引き締めており、まことに
完成度の高い“美作美塔”の一つであろう。
 
 
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  本山寺舎利塔
    
         岡山県美咲町定宗
     
   
 
 この珍しい石塔も、岡山県指定の重要文化財に
なっているのだが、前述の宝篋印塔のある三重塔
から、裏門(南門)へと通じる参道脇に唐突に置
かれている。
 柵に囲まれた写真を見たことがあるので、取り
払われてしまったのだろうか。
 この石塔の形式を一重塔と区分するべきか、前
掲の保月の事例のように石幢の一種と考えればよ
いのか判らない。
 いずれにせよ、事例がほとんど無い希少な石塔
と言える。似たような石塔を挙げるならば、京都
高山寺の如法経塔あたりであろうか。

 この石塔は、塔身内部に舎利器を収納する空間
が刳り貫かれているので、「舎利塔」と称してい
るのである。
 基礎・塔身・笠が六角形で成り立っており、特
に基礎は、六面全てに輪郭を巻いた格狭間が描か
れているのが素晴らしい。
 単弁の蓮座に載る六角塔身には、ほとんど装飾
は見られず、康永三年 (1344) という南北朝初期
の年号と願主覚清の名が刻まれている。この名前
は前掲の宝篋印塔にも名を留めている。
 笠の屋根に、宝塔には事例の多い三筋の降棟が
意匠されているが、六角の屋根というのは甚だ珍
しい。軒口の反りは、六角のためかややぎこちな
い。笠の上には、単弁の請花と形の良い宝珠が載
っている。

 境内の霊廟前にもう一基の宝篋印塔が在った。
室町初期の作だが、良い石塔であった。 
 
 
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  明王院七重塔
    
         広島県福山市草戸町
     
  
 
 16年の秋に機会を得て、厳島神社の能舞台で
演じられる友枝昭世師の観月能を観賞することが
出来た。折角の機会だったので、瀬戸内の石造美
術行脚を旅の計画に加えることにしたのだった。

 旅の初めは福山市からで、かねてより訪問した
かった明王院の建築(本堂・五重塔)と庭園見学
を事前にお願いしてあった。

 写真の七重石塔は、池泉庭園背後に建つ護摩堂
横に建てられている。渡り廊下からしか拝するこ
とができなかったので、残念ながら石塔の詳細を
見ることが出来なかった。
 しかし、植木の間から眺められる端正な造りの
笠や、半肉彫りの四方仏、笠上の露盤の造りなど
からは、南北朝に近い鎌倉後期の年代が想定出来
そうな名品であることが伺えたのだった。
 事前に調べてあった、石塔台座の六角形連弁を
見ることが出来なかったのも心残りだった。
 ここは通常は公開されない聖域であり、致し方
のないところではあった。

 書院東庭に配された平安期と思しき石造層塔の
残欠や、この地に在った草戸千軒町跡から出土し
た墓石群も興味深かった。
 
 
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  青目寺五重塔
    
         広島県府中市本山町
     
   
 
 福山市の西北に位置する府中市は、中国山地へ
分け入ろうとする山間の町である。
 市街地の中心からは約4キロ北の山腹に建つ小
さな寺で、青目は「しょうもく」と読む。

 寺宝収蔵庫の裏手に、崖地を背にしてこの五重
塔が建っている。日本広しと言えど、意外に石造
五重塔の存在は希少なので、しっかりとした古塔
に巡り合えるのは至上の喜びである。

 先ず気が付くのは、初層軸部(塔身)の背の高
さだろう。どっしりとした感じは、とても古風な
イメージに近いかもしれない。
 やや摩滅しているが、四面に胎蔵界四仏の種子
(梵字)が薬研彫りされている。

 各層の屋根を見ると、軸部と一体に作られてい
ることと、軒の厚さや反り具合が何とも大らかに
造られていることに気が付く。
 のびのびとした表現は、鎌倉後期以後の様式化
した事例とはかなり違いそうだったが、案の定案
内板によれば、基礎正面に「正応五年 (1292)」
という鎌倉後期でも当初の年号が刻まれているの
だった。
 相輪が失われているのは残念だが、全体に漂う
飛び切りの古塔ならではの、オーラのような雰囲
気が感じられて感動した。  
 
 
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  日吉神社宝塔
    
         広島県府中市本山町
     
   
 
 前述の青目寺からは至近の集落に、鎌倉期の石
塔が在ると聞き行ってみた。
 そこは神社の境内の外れで、やや小高い場所に
写真の宝塔が一基、不思議なほどさり気無く建っ
ていた。
 神社の沿革によれば、比叡山の日吉大社を勧請
されたものと伝えられるが、宝塔との関連は定か
ではない。
    
 全くの雨曝しの為か、塔身彫刻の存在も不明で
あり、基礎に彫られているはずの銘文も判読不能
だった。案内板によれば、基礎部分に「正和四年
(1315)」という鎌倉後期の年号が確認出来るそう
である。
 基礎には銘文が刻まれただけで、格狭間などの
装飾は無い。壺形の塔身にも、通常彫られる扉型
などの彫刻もなされていない。首部にも際立った
飾りは無く、全体に何とも清楚で純朴な印象が強
い。何らかの権威や、特定の目的などを主張した
石塔の多い中、純粋な宝塔の形そのものの美しさ
を示しているこの塔に愛着を覚えてしまった。
 笠の傾斜はやや急だが、厚い軒と両端の反りは
鎌倉後期という時代を如実に示している。
 相輪の上部が欠落しているが、堂々とした伏鉢
・請花などが、従来は見事な相輪であったことを
示しているようだ。
 
 
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  浄土寺宝塔
    
         広島県尾道市尾崎町
     
   
 
 瀬戸内海の望める小高い丘に建っているこの古
刹には、見逃してはならない石造美術の遺品が四
基残されている。この宝塔(重文)の他に、宝篋
印塔二基(重文)と五輪塔が並んでいる姿は誠に
壮観である。
 期待していた当寺の庭園が、余りにも植栽に覆
われ過ぎていてがっかりした直後だったので、こ
の海の見える場所に建つ石造宝塔には格別感動し
た記憶がある。

 一目見ただけで鎌倉期、それも重々しさの感じ
られる古いものであることが判る。
 笠の落ち着いた軒反り、屋根の比較的緩やかな
曲線、首部中程の堂々とした帯状の勾欄、中程が
微妙に膨らんだ塔身、扁平な格狭間の彫られた基
礎、などがこの宝塔の特徴であり、それが他より
抜きん出て美しい最大の要因でもある。

 塔身に弘安元年(1278)という鎌倉中期の制作年
代が彫られているそうなのだが、肉眼では良く見
えなかった。
 古石塔では常に問題視される相輪部分だが、こ
こでは露盤と宝珠しか無く、間の九輪が抜けてし
まっているようだ。   
 
 
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  浄土寺宝篋印塔
    
         広島県尾道市尾崎町
     
   
 
 当寺境内には、国指定重要文化財の宝篋印塔が
二基保存されている。
 写真はその内の一基で、戦術の宝塔と並んで境
内の最奥に位置している。
 一目見ただけで、誠に洗練された優美な宝篋印
塔であることが分かる。均整が取れていて、非の
打ち所がない石塔の見本のようである。

 形の良い格狭間が四面に彫られた繰形座上の基
礎、複弁の反花座、瀬戸内(越智地方)独特の連
弁の付いた請座などが塔の下部を構成している。
 塔身には、蓮華座に乗る月輪内に、金剛界四仏
の種子が薬研彫りされている。写真正面の梵字は
タラーク(宝生)で、他の面には時計回りでキリ
ーク(阿弥陀)、アク(不空成就)、ウーン(阿
閦)が彫られている。梵字の彫りは、鎌倉様式の
豪快さから室町の完成された様式美へと移行する
時期のようであり、落ち着いた力強さが感じられ
る。笠は上六段下二段で、隅飾は三弧で中の月輪
内に梵字を刻み、輪郭を取ってある。やや微妙に
反っているところは、時代性なのだろうか。
 相輪の美しさも完璧である。
 基礎に銘文が刻まれており、逆修追善を目的と
して「貞和四年 (1348) 南北朝前期」に建立され
たものと判る。
 
 
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  西国寺五輪塔
    
         広島県尾道市西久保町
     
   
 
 尾道市街からやや奥まった山麓に建つ、由緒正
しい歴史を持つ名刹である。8世紀天平年間に、
行基によって創建されたと伝えられる。
 山門をくぐり石段を上ると美しい金堂(重文)
が目に入る。本尊薬師如来に拝礼をし、大師堂の
脇から三重塔へと登って行く。

 高台に建つ木造三重塔(重文)敷地の奥に、目
的の石造五輪塔が保存されていた。周囲が柵で囲
まれているので、写真のアングルでしか見ること
が出来なかったが、高さ3mという大型石塔なの
で十分楽しむことが出来た。

 繰形の台座に地輪が乗っており、裾の幅が微か
に広がっていることで、どっしりとした安定感が
生まれている。
 水輪(塔身)はやや扁平な球形で、その大きさ
が地輪や火輪(笠)との均衡という意味では絶妙
な美しさを見せている。
 笠の軒の厚さ、両端の急な反り具合、そして堂
々とした風輪(請花)空輪(宝珠)の重厚さが、
典型的な鎌倉後期の特徴を示している。
 銘文や四方門種子など、一切の彫刻は見られな
いが、シルエットの見事さは超一級品と言えるだ
ろう。
 
 
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  福善寺五輪塔
    
         広島県尾道市長江
     
   
 
 国道の長江口交差点から山陽本線の裏側へ入る
と、右手に長い石段と秀麗な山門が見える。
 中世に丹花城という山城が築かれた高台で、天
正年間(16世紀)になってそこに浄土真宗の当
寺が建立されたのだった。

 目的の五輪塔は、寺背後の山腹に設けられた墓
地のほぼ中央に、写真のように二基並んで建てら
れている。
 手前が西塔、奥が東塔で、両塔共に繰形台座の
上に乗り、銘文や梵字一切の彫刻が見られない純
粋な石塔と言えるだろう。前述の西国寺五輪塔に
似ているかもしれない。
 一石で彫られた空・風輪、厚い軒口と両端の反
りが豪壮な火輪、四面共素面の地輪などが、両塔
の共通点だろう。
 かなり似ているが、よく観察すると、笠の大き
さに比して東塔の空・風輪がやや大きく、水輪の
形は東塔の方がかなり扁平である、などといった
差異に気が付く。
 しかし、いずれも鎌倉後期の特徴を示す傑作で
あることに変わりはない。
 城主だった持倉氏父子の墓だろうと伝えられて
いる。
 
 
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  光明寺宝篋印塔
    
         広島県尾道市東土堂
     
   
 
 千光寺山麓に位置する古刹で、創建は9世紀平
安期に遡るという。鎌倉末期に道宗によって現在
の浄土宗に改宗されたのだそうだ。

 目指す宝篋印塔は、本堂の東側の植栽の中に埋
もれるようにして建っていた。
 基礎は正面しか見えないが、どうやら四面共に
輪郭を巻いた中に良い形の格狭間が意匠されてい
る。台座は繰形で、これといった装飾は見られな
い素朴なものだ。

 塔身は上下に二段を配し、四面に蓮華座に乗る
月輪内の金剛界四仏の種子が彫られている。薬研
彫りとは言えない華奢な彫りで、かなり摩滅も進
んでいるようだった。正面の梵字はウーンで、阿
閦如来を象徴している。
 笠は上六段で、二弧で輪郭を巻いた隅飾が意匠
されている。中に梵字などの彫刻は見られない。
やや軽く外側に傾斜している。
 相輪は完全存しているが、扁平な宝珠や彫りの
浅い九輪など、やや様式化してしまった弱々しさ
が気になった。
 塔の前に看板が立っており、「浄土宗改宗道宗
上人、宝篋印塔、室町時代初期」と記されてい
るのだが、笠や基礎などに残る鎌倉期の名残から
推察して、南北朝後期としておきたいのだが。
 
 
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  万福寺宝篋印塔
    
         広島県尾道市西藤町
     
   
 
 この寺院が建つ西藤町は、山陽自動車道の福山
西インターに近く、尾道市の郊外最東端に位置し
ている。現在の宗派は浄土真宗である。
 写真で見るように、目的の宝篋印塔は本堂の向
かって左手のちょっと小高い場所に据えられてい
る。山手の墓地へと登って行く小道の、入り口付
近に当たっている。

 写真は光線の具合が悪く、陰が多いために至極
不出来だが、塔そのものは彫りの深い誠に均整の
取れた傑作であった。
 上の部分に大胆な彫りの複弁反花を載せた基礎
には、輪郭を巻いた格狭間が裏面以外の三面に意
匠されている。裏の素面に銘が彫られており、貞
和三年(1364)という南北朝中期の年号と大工行信
という作者の名が確認出来て貴重である。
 四方に金剛界四仏の種子をを彫った塔身、上六
段下二段の笠、輪郭を付けた二弧の中に蓮華に載
った月輪をあしらった隅飾など、一部に破損が見
られるものの、全体のシルエットは完璧と言える
ほど整っている。
 相輪の彫りも見事だが、伏鉢が欠落しているの
が残念である。
 ここでも、尾道地区の石造文化のレヴェルの高
さに圧倒されてしまったのだった。
 
 
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  下千堂三重塔
    
       広島県尾道市御調町下千堂
     
   
 
 かつての御調郡御調町なのだが、現在は合併し
て尾道市御調町となっている。
 或る資料からこの石塔の存在を知ってはいたの
だが、御調町に在るとしか判らなかった。
 ナヴィで千堂を調べ、いきなり訪ねてみたがの
どかな田園地帯が続くのみで、それらしい寺院や
お堂は見当たらなかった。数人の住人に尋ねてみ
たが、石塔など誰も知らないと言う。
 途方に暮れて田んぼの畔から向かいの山裾を見
ると、掘立小屋のようなお堂らしき建物の屋根が
見えたので行ってみた。大当たりだった。

 そこは雑草が生い茂る荒れ果てた辻堂で、かつ
ては集落の集会場として使われたような痕跡が見
られたが、既に宗教的な意味は失われているよう
だった。
 見るからに苔むし古色蒼然たる雰囲気が嬉しか
ったのだが、各層の軒の厚さや微妙な曲線、両端
の反り上がり具合などからは、鎌倉後期から南北
朝といった年代が想定された。しかし、それ以前
に、洗練という言葉とは真反対な、朴訥とした造
形に出会えたことが、ようやく探し当てた喜びを
増幅させてくれたのだった。
 塔身に刻まれた金剛界四仏種子の梵字の彫りか
らは、鎌倉期の剛毅さは完全に消えており、地方
性を考慮しても、時代は南北朝まで下がるのでは
ないかという結論に達したのであった。  
 
 
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  薬師寺七重塔
    
       広島県尾道市因島原ノ町
     
   
 
 薬師寺の在る原ノ町は生口島に属すのだが、何
故か島の東の一部が隣の旧因島市となっている。
現在は因島も瀬戸田も尾道市に合併されている。
 生口島の東南に当たるこの地は、後述の御寺な
どと同じ温暖の地で、南斜面を利用した柑橘類の
栽培が盛んである。

 正面の石段を上ると、山門脇に建つこの石塔が
目に入る。すっきりとした秀麗な七重の石塔で、
寺の解説によれば、蒙古襲来を撃退した北条氏と
叡尊や忍性の律宗への信仰が強まり、その布教を
祈念して建てられた供養塔とのことであった。

 正和四年 (1315) 鎌倉後期に建てられた石塔で
あり、全体にほぼ完存する秀麗で貴重な遺構と言
えるだろう。
 基礎には輪郭を巻いた中に格狭間を彫り、塔身
には金剛界四仏の種子が刻まれている。梵字の彫
りは、この時代にしては華奢で、同じ鎌倉後期で
も次掲の光明院塔に比べると、鎌倉の豪快さはか
なり失われてしまっているようだ。
 それでも、笠や相輪の優美さは見事で、軒の反
りや厚さには鎌倉後期の特徴を十分に見ることが
出来る。屋根の裏に一重の垂木型が彫り出されて
おり、繊細な美意識も感じ取れる。笠の幅の逓減
率も理想的で全てが美しいのだが、優等生だがや
や個性に欠ける、といった評価が出来るのかもし
れない。  
 
 
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  光明坊十三重塔
    
      広島県尾道市瀬戸田町御寺
     
   
 
 生口島の東南側に位置する「御寺」という集落
の高台に建つ寺院で、天平時代に聖武天皇の勅願
によって行基が建立したと伝わる真言宗の古刹で
ある。

 石塔巡拝を重ねていくと、出会った途端に理屈
抜きに感動を覚える時がある。本物だけが放つ独
特の神々しさ、オーラの様な有無を言わさぬ説得
力にひれ伏してしまうのである。
 光明坊の十三重石塔を訪れた時は、正にそうし
た希代の傑作に出会った瞬間であった。

 8m以上もある大型の塔だが、全てに均整が取
れ、しかも鎌倉期の豪壮な特徴を見事に表現した
姿にすっかり見惚れてしまった。
 塔身には深い薬研彫りの金剛界四仏種子が配さ
れ、各層の屋根は厚い軒と両端の豪快な反りが、
鎌倉後期らしさを示している。先端へ行くほど小
さくなる屋根幅の逓減は見事で、これも鎌倉期の
大きな特徴である。
 永仁二年 (1294) 鎌倉後期、忍性の作と伝わる
が、基盤部分に「大工心阿」の名が彫られている
らしい。後述の三原市宗光寺七重塔にも、その名
が確認出来る。
 
 
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  地蔵院宝塔
    
       広島県尾道市瀬戸田町沢
     
   
 
 生口島の中心である瀬戸田の港近くに宿をとっ
た。国宝の向上寺三重塔と、平山郁夫美術館を訪
ねるのが目的だった。
 地蔵院は“おまけ”だったが、それにしてもこ
の寄り道は貴重な鎌倉期の宝篋印塔との出会いを
作ってくれた散歩だった。

 瀬戸田の集落の北側にある小さな寺院だが、背
後の墓地は壮大で、古くからの惣墓だったのでは
ないだろうかと思われた。
 一目で古い宝篋印塔だと判るが、周辺にも中世
の石造物と思われる五輪塔や宝篋印塔が置かれて
おり、周囲の空気を引き締めている。
 複弁反花に載る基礎の三面に、輪郭を巻いた中
の格狭間が彫られている。上部の曲線の力強さが
鎌倉期を表しているように思えた。
 基礎上二段に載る塔身には、月輪の中に金剛界
四仏の種子が彫られている。写真でもはっきりし
ない程の繊細な彫りで、格狭間の美しさに比べる
と不釣り合いなのだが、これはやはり時代性なの
かも知れない。かなり時代は下がる、ということ
だろう。
 上六段下二段の笠、輪郭を巻いた二弧の隅飾に
は小さいが月輪の中に梵字が彫られている。
 破損してはいるが、相輪は堂々としている。
 鎌倉末期から南北朝へ移行する頃、と勝手な推
察をしていた。
 
 
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  宗光寺七重塔
    
         広島県三原市本町
     
   
 
 三原市の中心部に近い高台に建つ曹洞宗の寺院
である。桃山時代の特徴を伝える堂々たる四
 脚山門を入ると、小早川隆景が建立しただけに
引き締まった雰囲気が山内に満ちている。

 七重石塔は境内の一画に、小石仏群と共に建っ
ている。長い歴史の中で、火災など数々の被災を
受けたことが、相輪の喪失、笠や塔身の破損から
伺える。
 各層の笠は軒の緩やかな曲線や両端の反り具合
が比較的穏やかである事から、鎌倉の中期から後
期に制作された事を想定させてくれる。
 塔身には月輪内に金剛界四仏の種子が彫られて
おり、写真の右側面の梵字キリーク(阿弥陀)の
左側に「大工心阿」の名が刻まれている。前述の
瀬戸田光明坊十三重塔と同じ作者であることが判
る。右側が破損しており、おそらくはそこに年号
が入っていたのだろうと思われるが、建立は永仁
年間 (1293~99) と推定されている。
 塔身の背面(南側)にはタラーク(宝生)が彫
られているはずなのだが、火災が原因で剥落して
しまったそうだ。
 基礎には、輪郭を巻いた中に、形の良い格狭間
が彫り込まれている。
 相輪の付いた姿を想定すれば、いかに優れた七
重塔だったかが容易に思い描かれる。
 
 
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  米山寺宝篋印塔
    
        広島県三原市沼田東町
     
   
 
 三原市の西、沼田川の南の納所という山間に建
つ、この地の豪族小早川氏の菩提寺である。
 寺院の伽藍からは少し離れた一画に、一族歴代
の墓塔とされる宝篋印塔二十基が並ぶ光景は圧巻
だった。近江徳源院の京極家墓所を初めて見た時
の感動を思い出していた。
 前後二列に各十基づつ並んでおり、鎌倉から室
町期に至る形式の宝篋印塔ばかりである。

 写真は後列左端に建つ塔で、塔身正面に彫られ
た銘文から元応元年 (1319) 鎌倉後期に建てられ
たものと判る。「一結衆敬白、大工念心」とあっ
て、特定の墓塔ではなく惣墓としての供養塔であ
ったことが考えられる。
 二十基のうちこの塔のみが、国の重要文化財に
指定されている

 完全存する相輪、上六段下二段の笠、ほぼ直立
する輪郭付二弧の隅飾、種子などの彫りは無いが
均整の取れた大きさの塔身、上部に複弁反花を載
せ輪郭を巻いた中に格狭間を配した基礎など、鎌
倉後期という円熟した時代の特色を示す好例とい
えるだろう。
 塔全体の立ち姿がとても優美ではないか。

 ちなみに、二十番目の宝篋印塔は、戦国時代の
小早川隆景の墓塔とされている。
 
 
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  護国寺笠塔婆
    
         山口県防府市本橋町
     
   
 
 防府市の北側、佐波川の堤防近くに建つ曹洞宗
の寺院である。一般的には、種田山頭火の墓所が
在り句碑が建っている山頭火所縁の寺としてのほ
うが著名かもしれない。

 山門を入って直ぐ左手に建っている写真の笠塔
婆は、近年になって別の場所から移築されたそう
だが、余り類例を見ないとても貴重な遺構である
と思う。
 貞永元年(1232)鎌倉前期という年号が、裏面に
記されている。

 写真は正面と右側面のものだが、正面には阿弥
陀三尊の種子(梵字)が平底彫りで、蓮座に載る
線刻の月輪無いに陰刻されている。彫りは浅く、
地を黒色に塗ってある。上部はキリーク(弥陀)
右はサ(観音)左はサク(勢至)で、連珠文の輪
郭が巻かれている。
 下部には堅連子や三つ巴文などが配されるとい
う、凝った意匠が施されている。

 左右側面には線彫り五輪塔が彫られ、各輪に大
日法身真言(上からケン・カン・ラン・バン・ア
の梵字)が彫られている。
 裏面には、胎蔵界曼荼羅である中台八葉院の種
子が同様の手法で彫られている。大日/アーンク
を中心に、四如来と四菩薩の種子が花弁のように
配されているのである。
 
 
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  源久寺宝篋印塔
    
         山口市仁保下郷
     
   
 
 山口市の北東、仁保川の北側に建つ曹洞宗の禅
刹である。開基は源頼朝の家臣であった平子(た
いらご)重経という人だそうだ。
 山門へと至る参道脇に大賀蓮を移植した池があ
り、その中島の様な場所に写真の宝篋印塔が祀ら
れていた。

 二層の基壇に載る基礎は四方共無地で、その上
に載る複弁反花には特徴的な珍しい意匠が施され
ている。それは、複弁の中に小さな突起が彫り出
されていることである。そして更に、もう一段を
設けて塔身を載せている。

 塔身は四方共に無地なのだが、なぜかこの地方
の宝篋印塔には無地が多いように感じられてなら
ない。どういう理由があるのだろうか。

 笠は上六段下二段で、段の高さが下から上へと
逓減していくという、大層手の込んだ意匠となっ
ている。重経の墓碑という言い伝えがあるそうだ
が、塔は鎌倉後期と思われ時代がやや合わない。
だが、そこにはそう言われるだけの格別な造作が
成された、荘厳された石塔であることだけは確か
なようだ。
 隅飾は二弧で、輪郭を巻いた中は無地、ほぼ直
立している。
     
 相輪は完備しているが、上部の宝珠と請花は後
補と見るべきだろう。 
 
 
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  凌雲寺跡宝篋印塔
    
         山口市吉敷字中尾
     
   
 
 山口市の西北、吉敷(よしき)と呼ばれる一帯
の更に奥、中尾と呼ばれる地区が在る。
 室町時代後期に大内義興によって開基された凌
雲寺の跡が保存されている。壮大な石垣が山間の
草原の中に残るのみだが、その一画に義興の墓と
伝えられる宝篋印塔が建っている。

 何とも端正で整然とした石塔で、どう見ても南
北朝前期は下らない秀麗塔であり、室町後期の義
興とはかなりの年代差が生じる。墓説は伝承で、
凌雲寺以前の古塔が伝わったものと思われる。

 塔身は無地だが、基礎には輪郭を巻き、中に格
狭間を陰刻し、正面だけに開蓮華文様を浮彫して
ある。基礎上には、複弁反花が意匠されている。

 笠は上六段下二段で、隅飾は二弧、輪郭を巻い
た中は無地で、やや外側に反っている。このあた
りは南北朝らしい特徴である。
 相輪はほぼ完存しており、最上部の宝珠や下部
の伏鉢などが特に見事である。

 この宝篋印塔が大内氏とどのように関わってい
たのかは全く不明だが、城郭を兼ねたこの寺の遺
跡では、強者どもの夢は忘れ去られ、爽やかな風
が草むらをざわつかせるのみであった。 
 
 
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  大山祇神社宝篋印塔
    
        愛媛県今治市大三島町宮浦
     
   
 
 “しまなみ海道”の生口島は広島県だが、隣は
愛媛県の大三島である。島の西側には宮浦港が在
り、集落の奥に山の神、海の神、戦の神としての
信仰厚い大山祇(つみ)神社が鎮座している。
 境内の右手奥に、写真のように三基の大型宝篋
印塔が並んで建っており、その存在感は強烈だっ
た。
 三塔共に相輪は完備、上六段下二段の笠、三弧
輪郭付の隅飾が共通している。
 相輪の先端、請花部分が中央塔のみ下向きの反
花になっている。
 塔身は中央塔の正面だけに梵字バンが刻まれて
いるが、これは金剛界大日如来を象徴する種子梵
字である。他の二塔の塔身は無地のままとなって
いる。
 中央塔の塔身の下に、迎蓮受座上の方形請座が
設けられている。この地方に多く分布する「越智
式」と呼ばれる様式である。
 基礎は、中央塔と右塔(西塔)に複弁反花と輪
郭を巻いた格狭間が意匠されている。
 左塔(東塔)基礎は上二段と四方無地であるが
銘文が刻まれており、文保二年 (1318) 鎌倉後期
の年号と大工「念心」の名が確認出来る。先述の
米山寺宝篋印塔と同じ作者ということになる。他
の二塔も作者は不明だが、同じ鎌倉後期と推定さ
れる。
 
 
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  万福寺宝篋印塔
    
        愛媛県今治市大三島町口総
     
   
 
 大山祇神社の在る宮浦から、県道大三島環状線
を西南に6キロ程走ったあたりが口総の集落であ
る。寺の境内では新築の本堂が輝いて見えたが、
目的の宝篋印塔は奥まった納骨堂の横に建てられ
ていた。
 遭難した高貴な稚児を祭ったとされる伝説の残
る墓塔として、稚児岬に在ったものを当寺へ移築
したものだそうだ。移築の際に、幼児の骨片が入
った古備前の骨壺が出たそうで、伝説が事実とし
て立証されたという。宝篋印塔は骨壺と共に、市
の文化財に指定されている。

 相輪は、九輪の途中で割れてしまっているが、
堂々としたものだったようだ。
 上六段下二段の笠、二弧の輪郭付隅飾は様式的
だが、隅飾がやや外側に傾斜しているのは南北朝
以降の年代を示しているようだ。
 塔身には、うっすらと梵字らしきもの、特にキ
リーク(阿弥陀如来)が確認出来るので、金剛界
四仏の種子が彫られていると思える。彫りの浅さ
も時代を示す特徴だろう。
 基礎は輪郭を巻いた格狭間がおおらかで、上下
に複弁反花を配した格別の意匠かと思われる。稚
児の“高貴な身分”を示す証しの一つかもしれな
い。いずれにせよ、南北朝期の比較的形の良い宝
篋印塔だと言えるだろう。
 
 
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  善福寺宝篋印塔
    
         愛媛県今治市宮窪町友浦
     
   
 
 しまなみ海道を行くと、大三島からは伯方島、
大島を経由して今治市へと行くことが出来る。
 宮窪町は大島の北東側の町で、友浦は東海岸の
フェリーも付く要衝の地となっている。
 集落の南側に善福寺が建っており、地元では薬
師堂と呼ばれているようだ。
 宝篋印塔は国の重要文化財に指定された貴重な
石塔で、写真のように柵に囲まれているので、柵
抜きでの撮影はかなり制限されてしまった。
 ちなみに、各種の資料では「友浦宝篋印塔」と
して紹介されている。

 重文に指定された完璧な宝篋印塔の遺構で、書
道で言えば“楷書の美しさ”とでも言えると思え
るほど整然とした佇まいである。

 相輪が完備しており、笠は上六段下二段で、輪
郭付二弧の隅飾はほぼ垂直である。
 塔身には、胎蔵界四仏種子の浅い薬研彫りが施
されている。写真の梵字は、左がア(宝幢)右が
アク(天鼓雷音)で、他の二面はそのまま半時計
回りで、アン(弥陀)アー(開敷華王)である。
 上に二段を配した基礎には、輪郭を巻いた格狭
間が彫られている。背面は無地になっていて、嘉
暦元年 (1326) 鎌倉後期の年号が彫られている。
 
 
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  乗禅寺宝塔
    
         愛媛県今治市延喜
     
   
 
 本堂背後の石段上に、土塀に囲まれた一画が在
り、何とそこには全て国の重文に指定された石塔
がΠの字型に十一基、きら星の如く並んでいたの
だった。
 宝塔は二基あるが、写真の塔は左列最奥のもの
で、十一基中で小生が最も気に入ったものだ。
   
 きりりとした相輪は、この宝塔が優れた美意識
の持主によって造られたことを立証しているよう
な美しさだ。
 笠の降棟は三本線で彫り出されており、軒の反
りと共に緩やかな曲線を描いている。軒先下には
二重の垂木型が彫られており、心憎いばかりだ。
 塔身軸部は無地の円筒形で、首部には縁板状の
作り出しが彫られている。
 相輪・笠・首部・塔身の形状や大きさのバラン
スが絶妙である。

 塔身の下に円形の単式蓮弁の蓮座が意匠されて
おり、熊本・藤井八幡宮の宝塔などに類例は有る
が珍しい事例と言える。
 輪郭を巻いた基礎には、くっきりと格狭間が彫
り込まれていて印象深い。
 年号等の銘文は彫られていないが、軒の反りの
落ち着いた様など、古武士の様な風格に満ちてお
り、制作されたのは鎌倉後期以前、つまり中期と
するのが正しそうだ。   
 
 
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  乗禅寺宝篋印塔
    
         愛媛県今治市延喜
     
   
 
 前述の宝塔の他に、この一画には宝篋印塔が五
基、五輪塔が四基、整然と並んでいる。まるで、
石造美術の傑作展、といった風情だ。この内のど
れでも一基在るだけで、その寺の誇るべき宝とな
るだろう。
  
 写真は、Πの字の向かって右側最初の五輪塔と
宝篋印塔である。特に宝篋印塔は凛とした立ち姿
が魅力で、小生が一番気に入った塔だった。
 基礎背面に正中三年 (1326) 鎌倉後期の刻銘が
あるそうだが、確認は出来なかった。
 鎌倉期らしい剛毅な相輪が完存しているのが嬉
しい。九輪上部に折れた痕跡が有るが気にならな
い。笠は、上六段下二段で、輪郭付二弧の隅飾は
やや外側に反っている。
 塔身の四方には、胎蔵界四仏の種子が彫られて
いるのだが、かなり摩滅していて薬研彫りの美し
さは見られない。
 基礎は上二段とし、三方に輪郭を巻いた格狭間
が意匠されている。鎌倉期らしい良い形の格狭間
であろう。

 この左隣に建つ宝篋印塔は、基礎上の複弁反花
と越智式の方形請座が特徴だ。
 時間を忘れて、どれだけの時間ここに居たのか
も分からない。石造美術の密集する伊予を代表す
る石塔群である。
 
 
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  野間神社宝篋印塔
    
         愛媛県今治市神宮
     
   
 
 延喜の乗禅寺から南へ数キロ行った神宮(かん
のみや)に在る神社で、大宝年間(八世紀初頭)
に創祀されたと伝わる由緒深い古社である。

 荘重な境内の本殿裏に、鉄柵に囲まれてこの重
量感に満ちた宝篋印塔が保存されている。

 写真でも判るように、相輪は江戸時代に後補さ
れたものだ。立派だが違和感は拭えない。
 上六段下二段は型通りだが、大きな三弧の隅飾
が特徴だろう。輪郭の中に月輪を配し、その中に
金剛界大日の種子バンが彫り込まれている。やや
外側に傾斜しているが、豪胆な鎌倉気質を残して
いる。
 塔身四面にはやや小さめな梵字が彫られている
が、金剛界四仏の種子で、塔全体の迫力には不釣
り合いな程弱々しい。写真の梵字は、東面のウー
ンで阿
如来を象徴している。
 低い基礎には輪郭を巻いた格狭間が彫られ、上
部に下向きの繰型座を置き、その上に越智式の繰
型請座を配している。これは余り優れた意匠とも
思えないのだが、この地方特有の荘厳方法なのだ
ろう。
 梵字ウーンの両脇に銘文が刻まれており、元享
二年 (1322) 鎌倉後期の年号が確認されているそ
うだが、はっきりとは確認出来なかった。
 
 
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  覚庵五輪塔
    
         愛媛県今治市野間
     
   
 
 神宮から山一つ隔てた谷間には、まるで隠れ里
のようにひっそりと穏やかな野間の田園風景が広
がっていた。
 覚庵の集落に鎮座する日吉神社の前から、田の
畦道を少し南へ歩くと、田圃の中に石柵に囲まれ
た二基の五輪塔が見えてくる。
 緑濃い野山や田圃を背景にして建つ姿は、墓塔
や供養塔といった暗いイメージとは正反対の、モ
ニュメンタルな彫刻作品のような明るさを持って
いる。素晴らしい光景だった。

 二基の五輪塔は、大きさが微妙に違うものの、
宝珠(空輪)半球形(風輪)笠屋根(火輪)塔身
(水輪)基礎(地輪)のそれぞれはとても良く似
ている。
 梵字や銘文など一切の表記が見当たらないのだ
が、ふっくらとした空輪、やや傾斜のある笠(火
輪)と、軒の程良い厚さと両端の反り、そして水
輪の微かに扁平だが膨らみのある球体など、鎌倉
後期から末期頃の様式だろうと想定した。
 五輪塔全体が載る切り石造りの基壇がとても立
派であることから、この地の言い伝えのような貴
人夫妻の墓塔とも考えられるが、全くの無銘とい
うのは不自然だろうと思う。地域で共有した何ら
かの供養塔、または惣墓的な存在だったのかもし
れない。
 
 
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  馬場五輪塔
    
         愛媛県今治市野間
     
   
 
 馬場は、前述の覚庵からは至近の集落で、住宅
の並ぶ空き地のような場所に、写真のような五輪
塔が祭られている。
 全体の形は先ほど見てきた覚庵の二基の五輪塔
に、とても良く似ているように感じた。
 詳細に観察すると、宝珠の形が微かだが筒形に
なっていること、その下の風輪が幅広の扁平形で
あること、水輪の球形が裾で微かにすぼんでいる
こと、など微妙な違いに気が付く。
 火輪の屋根のゆるやかな傾斜、軒の厚さと両端
の反り具合はとても似ているだろう。

 地輪(基礎)の高さも若干違うようだが、最大
の違いは、右側面に銘文が刻まれていることだっ
た。資料によれば、「志者、為亡妻紀氏女、乃至
法界平等利益之故也、嘉暦元年 (1326) 願主紀氏
□春」と刻まれているそうで、亡妻を弔い地域の
平安を祈念した供養塔であったことが判る。
 さらに特徴的なのは、塔全体が繰形台座の上に
載っていることであろう。尾道の西国寺五輪塔の
項でも御紹介したのだが、この荘厳の方法は大和
様式の蓮台にも似た格別の様式と思われる。建立
した紀氏が、この地では有力な身分であったこと
をそれなりに示しているのだろう。
 この野間の地に、鎌倉後期の優れた石造美術が
集中した不思議の背景に何があったのだろうか。
 
 
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  長円寺跡宝篋印塔
    
         愛媛県今治市野間
     
   
 
 前述の馬場から山手に入って行くと、周辺は野
菜等を栽培する段々畑が広がる丘陵地帯になる。
 かつて長円寺が建っていた跡地に、現在は写真
のような大型の宝篋印塔が一基、ポツンと残され
ている。
 周囲の金網など風情にはかけるが、3m60と
いう高さの迫力は圧倒的だった。
 宝珠・請花・九輪・請花・伏鉢が完璧に残る相
輪は見応えがある彫りだった。
 上六段下二段の笠には、やや大きめの隅飾が配
されている。三弧で中は無地の輪郭を付け、反り
は無いほぼ垂直ながら微妙に傾斜している。
 塔身には梵字などは彫られていないが、背面に
のみ銘文が刻まれていて正中二年 (1325) 鎌倉後
期という年号を読み取ることが出来る。
 塔身の下には、尾道以来この地方で事例を見て
きた越智式と呼ばれる繰り型請座が意匠されてい
る。何度見ても、然程優れたデザインとは思えな
いのだが、地方色の面白さと解釈するべきなんだ
ろうと思う。
 基礎は大型の塔に比して、不釣り合いな程背が
低いのだが、輪郭を巻いた中に見事な格狭間を刻
み込んである。上部には越智式を受ける繰型を載
せている。
 この野間地区は乗禅寺も含め、石造美術愛好者
にとっての「極楽浄土」と言えるかもしれない。
 
 
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  満願寺宝塔
    
         愛媛県今治市朝倉町
     
  
 
 満願寺は今治市と合併した旧越智郡朝倉村に在
る真言宗の寺院で、絶景の町を見下ろせる山腹に
建っている。
 本堂へと登る長い石段の途中、右手の平地に石
塀に囲まれて、写真の宝塔が二基の七重石塔の右
側に並んで建っている。

 野太い相輪が塔全体の佇まいを引き締めて、そ
の存在感を強めている。
 穏やかな傾斜の屋根、品格の感じられる軒の厚
さと両端の反りが何とも美しい笠。首部の繰板上
には更に勾欄を彫り出している。
 塔身には、通常見られる扉型や鳥居などの彫刻
は無く、素地の上の四方に金剛界四仏の種子が刻
まれている。彫りは浅く、梵字の印象は薄い。
 塔身下に円形の単弁式反花座が彫られているの
が特徴だが、先述の乗禅寺にも同様の事例が見ら
れた手法である。こちらの方がやや背が低いかも
しれない。
 基礎は立派な繰型座に載っており、側面には輪
郭を巻いた中に形の良い格狭間を意匠している。
 年号等の銘文は見られないが、全体的に洗練さ
れた均整感で統一されており、やや様式化される
兆候が伺えるので、鎌倉後期から末期にかけて制
作されたものと推察できる。
 隣接する七重石塔二基も、同時代のものと思わ
れた。
 
 
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