星々の照らす宵闇の中。
静見が動くのに合わせたように間髪入れず、桐紗が跳ね起き、足場にしていた屋根を蹴った。わずかな音を立てただけの踏み込みで、大きく跳躍する。
行き先の方は静見に合わせるつもりもなく、彼女は傀儡の気配が生まれた方向へ一直線に進む。傀儡の気配はあちこちに四散したようだが、それを追うこともない。
――あたしには、見当がついてる。きっと、あそこだ。
迷いなく駆ける桐紗には、念糸を利用しても、なかなか追いつけない。静見は途中で足を止めて、懐から三枚の呪符を出した。短冊状に切った白い和紙に、彼自身が文様を書き付けた物だ。
それを宙に放ると、呪符は瞬時に姿を変えた。現われた長い身体を持つ白い龍は、静見の使役する式神の中でも上位のものだ。
「傀儡を狩れ」
それだけを命じて桐紗を追う術者の頭上で、式神たちは傀儡の気配を追って三方向に散っていく。
それに先んじたところで。
「……やっぱりか」
長くはない無言の追跡の末桐紗の口から洩れたつぶやきは、その一言だった。
草が伸び放題の庭に、それを封じるような塀。昼間よりずっと不気味さを増した、二階建ての家。
美佐子が最初に、傀儡を目にした場所。
閉ざされた錆びついた門を、桐紗は無理矢理開いた。きしんだ音をたて、黒い門の間に人ひとり分の隙間ができる。
建物内に混沌とした気配を感じながら、石畳の上を歩く。玄関まで続くそれはほとんどがひび割れ、半ば隙間から生えた草に埋もれていた。
懐から流突の木片を取り出し、握りこみながら、慎重に歩を進める。追いついてきた気配を後ろに感じながら、彼女はそっと玄関のドアノブへと手を伸ばす。
刹那、気配が弾けた。
建物全体の気配の塊から、大きなものが剥離して落下する。屋根から少女の背後へと飛び降りたそれは、もはや見慣れた姿だ。
「こいつ……」
白い巨体を見上げて言いかけ、こちらを向いた顔のひとつの口に赤い光を見つけた瞬間、桐紗はとっさに横に跳ぶ。光線が石畳をやすやすと砕いた。
「桐紗、先に行け。儂もすぐに追う」
傀儡の融合体を挟んだ向かいから、静見が声を上げた。
それに、彼からは姿の見えない少女が声を張り上げて答える。
「あたしがここに残った方がいいんじゃないのー? いくら術で強化したところで、人間が光線を避ける、ってのは難しいでしょ」
「だから、儂も自分で戦うつもりはない」
間をとるようにして後退してから、静見は浴衣の懐に手を入れる。
それを取り出すなり投げ放つ。先ほどとはまた別の種類の二枚の呪符だ。
「青龍、朱雀」
闇に鋭く響いた呼びかけに答えるかのように、空気が震える。澄んだ、美しい鳴き声が重なった。
宙をひらめく呪符から転身した炎をまとった赤い鳥と、鏡のように滑らかな鱗に包まれた青い龍が、空中を白い巨体に向かっていく。
映画でも見ているかのような光景に桐紗は少しの間、呆気にとられたように立ち尽くしていた。
「これが伝説にある聖獣召喚ってやつ……? 派手というか、さすがというか、何というか……」
「早く行け。もう、我々が来ていることは敵に知れている」
目は召還した聖獣に向けたまま膝をつき、少しだけ声に焦りをにじませている静見を一瞥し、桐紗はドアを開ける。
その背中を見送りながら、静見はじっと、その身にかかる重圧に耐えていた。
――さすがに、式神三体と聖獣二体を使役しながらでは戦えぬか。
動かない彼を赤い光線が狙い撃つが、庇った青龍が自らの身体でそれを散らし、朱雀が翼をはばたき炎を散らしてさらに撃とうとしていた顔を焼き落とす。
傀儡の強固な皮膚も、聖獣の圧倒的な破壊力と強度の前には意味を成さない。倒すのは時間の問題だ。
だが、その時間こそが問題だった。
――急がねば……。
すでに傀儡狩りの襲撃を知っているであろう神代裕一が、何をするかわからない。向こうには人質がいるのだ。今は美佐子を傷つけるつもりがないとしても、実際に追いつめられたときにはどうなるか。
ほんの束の間とはいえ、ただ待つことしかできない身を歯がゆく思いながら、彼は傀儡の融合体を、その向こうにある建物を見つめ続けた。
土足で玄関から続く廊下を駆け、桐紗は正面にあるドアを開く。
広がるのはリビングらしき一室だ。中はがらんとしていた。人の姿はもちろん、調度品も何もない。長らく放置されていた古いリビングそのものだ。
ほんの一瞬、彼女の目に幻のような部屋の風景が重なって見える。それも、ふっ、と小さく口もとに浮かんだ笑みと一緒に、すぐに消えた。
「隠れていてもわかるよ。言っとっけど、傀儡狩りや傀儡に銃なんて通用しないからね。無駄なことはやめな」
彼女の呼びかけを、素直に受け取ったものか。四方にあるドアから十人ほど、黒いスーツの男たちが現われる。どの男たちもサングラスに隠された人相は不明だが、大柄で体格が良く、腕力に自身がありそうな風体だ。
そして、正面のドアからは見覚えのある男。
「へえ……あんたがそうだったの? 浪根裕一さん?」
いくつもの銃口を向けられながら少女が緊張感なく言うと、一見人が好さそうにも見える青年は苦笑した。
「覚えてもらえているようで光栄だね。ついでに、邪魔をしないでもらえると、こちらとしてはありがたいんだけどな」
「美佐子ちゃんの平穏無事な生活を邪魔してるのは、あんたでしょーが」
「それはどうかな?」
苦笑が、少し形を変える。
「美佐子の平穏無事な生活を乱しているのは、きみたち傀儡狩りじゃないのか? きみたちと一緒に暮らしているから、余計なものを見たり聞いたりする」
「あんた何言って……全部、あんたが差し向けたものじゃないの!」
「本当に、全部がそうだと言えるのかい?」
青年の余裕のあるほほ笑みは、桐紗の心にも、わずかにさざなみを立たせる。
――本当に、全部が全部、そうだのか。
美佐子が初めて傀儡を見たとき、あれは、桐紗当人がそう言った通り、一緒にいたために襲われたのではないだろうか。
その夜に傀儡と出会ったのは、静見と一緒に歩いていたせいではないか。
倉木デパートで出会った傀儡たちも、裕一が支配するものとは限らないのでは――。
そう考えたのはほんのわずかの間だ。
だが桐紗のためらいを、注意がそれた一瞬を見逃さず、取り囲む男たちが引き金を引いた。
「ち」
舌打ちしながら身を捻り、同時に流突を短刀の姿に変え、振るう。
刹那の所作で、ほとんどの銃弾は逸れた。だが、一発が左腕を貫通する。
「容赦ないね」
ことばとは裏腹に声に動揺や苦痛の色は無く、ただ苦笑してさらにことばを続けようとし、口を閉ざす。
こもったような小さな声だが、確かに彼女の耳には届いていた。
「何があったの、裕一さん! ここ、開けて! 桐紗ちゃんいるの?」
奥の部屋に捕らわれているらしい。桐紗の目は、真っ直ぐ声のする方向に向けられる。
「邪魔だ!」
流突の刃が少女を中心に横薙ぎに大きく弧を描く。すっぱりと両断された拳銃に驚く男たちにかまわず、ドアへ突進する。
最後の砦のように立ち塞がる裕一が、呪符を放った。
「傀儡か!」
吐き捨てるようなことば。
白い姿が三体、睨みつける少女と男の間に並ぶ。
「あの融合体を足止めされるとは意外だったけれどね……こちらも、それなりの準備はさせてもらったつもりさ」
「あたしらの実力を見誤ってないといいね!」
片手で斬りかかる桐紗に、傀儡たちは退くことなく突進する。
刃が、白く滑らかな皮膚に当たった。カチリ、という乾いた音だけを残して、ふたたび互いが大きく離れる。
――皮膚強化型か……。
それだけではない。三体とも、腕から刃を突き出している。
流突だけではどうしようもないということは、充分思い知らされていた。
――でも、一度は倒した相手だ。
懐に手を入れ、石を投げ放つ。石は高熱をまとい、傀儡の皮膚を溶かした。
「そらっ! 一匹目」
皮膚の裂け目をめがけ、刃を振り下ろす。
だが、帰ってきた予想外の手応えに目を見開き、黒衣の少女は大きく跳び退いた。
彼女の前で、傀儡の裂けた皮膚が再生する。