どこか遠くから、ざわめきが聞こえた。長い夢の世界から引き戻されるのを感じて、少年は安心すると同時に不安を抱く。次に彼を包む世界が、今までいた場所よりも安全で心地よいとは限らない。いや、確実に、対面しなければいけない悲しみと虚しさ、取り戻せない過去の記憶が突きつけられる。それから逃れていられる夢の中のほうが、楽だろうか。今の彼は、自らの問いに答えることができなかった。
彼は、考えないことにする。近づいて来る現実を、止めることはできない。
明るい光が、まぶたを通して届いた。拡散していた意識のピントが合う。
『……い……は……』
遠くで、声が聞こえる。大きくなってくるざわめきから抜け出したように、その美しい声は、優しく、はっきりと耳に届いた。懐かしさがこみ上げる。その声を持つ者に心当たりはないというのに。
ノイズの波が何度か耳をかすめた後、美しい女性の声は、明瞭にことばを伝えた。
『思い出して……約束を。故郷を。守るべきものを。あなたの想うままに進めば、必ず辿り着ける……』
新しい世界への不安。
少年はそこに、わずかだけ、心強さが加わったような気がした。
「ヒルトくん? ヒルト・フェイスアレイくん……」
声は、耳もとからだった。それに急かされるように、ヒルトは目を開ける。眩しいほどの白に、思わず目を細め、慣れるのを待つ。
視覚を取り戻す前から、そこが病室であることは予想がついていた。大きめの個室で、窓から暖かそうな光が射し込んでいる。クリーム色のカーテンがそよ風に揺れていた。
「あ……」
白衣の男と、淡い桃色のナース服の女性がのぞき込んでいた。何を言うべきかわからず、ヒルトはとりあえず、小さく声を上げてみる。それはわずかにかすれていたが、のどに異常はないようだった。
心配そうだった女性は表情を和らげ、少年にほほ笑みかける。胸元の識別カードに、『ユリス・ワーフト』という名前が記されていた。
「おはよう、ヒルトくん。気分はどうかしら?」
ユリスが覗き込むと、ヒルトはのどの調子を確かめ、声を出した。
「ええ……悪くないです。あの……今は、いつですか?」
状況に慣れてくると、様々な疑問が頭の中に浮かぶ。そして、最後に見た現実の光景がフラッシュバックした。ギラギラと輝く太陽と、ぼやけた空が。あれは、学校帰りに友人たちと別れた直後のことだった。
ユリスは、わずかに表情を曇らせる。
「驚かないでね……。あなたは、1ヶ月以上も眠り続けていたのよ。最初は、過労や日射病かと思われていたのだけど……」
ナースに視線を向けられて、医師がことばを引き取った。
「3日たっても起きないんで、様々な検査を行ったよ。しかし原因は不明だった。脳にも異常はないし、お手上げだったんだ。しかしまあ、原因はやはり、あのウイルス事件だったんだろう」
「ウイルス事件?」
「ああ。何か、妙な夢は見なかったかね?」
ヒルトは、覚えているいくつもの夢を思い返した。他にも、様々な夢を見たような気がする。しかし、印象に残っているのは、最後に耳にした、あの声だ。
「ええ……確かに、色々妙な夢は見たような。それより、その、これからぼくはどうなるんでしょうか?」
「とりあえずは、検査だね。それからリハビリやカウンセリング、問題がなければ一週間足らずで退院できるだろう」
どうやら、意外に早く解放されそうだと知って、ヒルトはほっとした。1ヶ月近くも学校を欠席していることが不安なのだ。エルソンの第3級学校は間もなく夏休みだが、その間も含めて、遅れを取り戻さなければならない。
その心境を察してか、ユリスが口を開く。
「色々、知りたいことがあるでしょう。知りたいことがあったらシグナを呼んで。どうすればいいかもシグナが説明してくれるわ。ここしばらくの間に、公共施設のオンライン環境はずいぶん進歩したから」
「はあ……」
見回すと、壁にモニターが埋め込まれていた。マイクやスピーカーも壁に仕込まれているのだろう。
「しばらくは、自分の身体の感覚を思い出すのに時間をかけるといい」
「起きたばかりだから無理はしないでね」
そう言い残して、医師とユリスは出て行った。まだ他人に気を使う余裕がないヒルトは、内心その配慮に感謝する。
1人になると、ベッドに手をついて慎重に身を起こす。痺れたように力が入らない手足に苦心しながら、ベッドを降りてふらふらと窓に歩み寄った。
心地よい風が頬を撫でる。窓からの景色で、ヒルトは自分が入院しているのがエルソン中央病院であることを理解した。岡の上にある病院の3階の窓からは、自然と科学が調和した神秘的なまでの美しい街並みを眺めることができた。
半透明な空中回廊と行き交うエアカーの列の向こうに、見慣れた建物が見えた。今は、授業中の時間だ。ヒルトは思わず溜め息を洩らす。
「……シグナ?」
いつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。失った時間を取り戻そうと、ためらいながらも声をかける。
彼が知っている限り、惑星エルソンの地上でシグナと話すには、時間や場所の制限があった。彼はシグナ・ステーションに何度も行ったことがあるため、シグナのことはよく知ってはいたが、惑星を出ることのない古いエルソン人のなかには、最高と呼ばれる管理システムとことばを交わしたことのない者も多い。ヒルトも、地上で呼びかけるのは初めてのことだった。
彼の戸惑いをよそに、相手は即座に応答した。
『やあ、ヒルト。ずいぶんと久しぶりだね。気分はどう?』
「ああ、大丈夫だよ」
記憶にあるのと変わりない声に安心しながら、モニターに近づいて電源を入れる。ニュースが流れていた。
「ぼくが眠っている間、何か変わったことはあった?」
『ああ、色々あったよ。さしあたり、きみに関わりのあるところから説明しよう。あとは、勉強のことが気になるんだろう?』
シグナ・ステーションの保安部員として働くのがヒルトの夢だった。そのためには、体力だけでなく、学力も必要となる。
シグナはまず、ウイルス事件について説明した。ウイルスが散布され、感染者が奇妙な夢を見るという事件については、今も調査中である。ファジッタのトラム研究所の者たちが制作したという証言があるが、首謀者は行方不明のままだ。関係者の裁判が始まるのは早くて1ヶ月後だろう。
次に、人工知能は時間を考えずに彼と交信可能だということを解説する。エルソンを取り巻く気候の変化と、交信を中継する人工衛星の配置の完成、ビーム通信システムの進歩などにより、可能となったという。ヒルトも外界との交信を進歩させるための人工衛星配置計画が長年に渡り進められていたことと、それに関わりシグナが惑星ネットワーク全体を管理するという話も出ていたことは知っていた。今は、公共施設のみ、シグナとの直接対話が可能になっているという。
『他の事件などは後回しにしよう。ヒルト、きみの友人たちは3日に1度は見舞いに来ていたよ。きみが目覚めたと知って、みんなそろそろやってくるだろう』
「ええ……」
ヒルトは、困ったように自分の格好を見下ろした。白い寝巻き姿は、友人たちと会うには恥かしい。だが、着替えを持ってきてくれる者がいないので、病院側が用意したもので我慢する他なかった。
手鏡を見ながら髪を撫でつける彼に、間もなく、シグナが告げる。
『お客さん3名』
トントン、とドアがノックされた。
「ど、どうぞ」
慌てて鏡を置いて、ベッドに潜り込む。
シグナがロックを外し、ドアがガチャリと開かれた。入ってきたのは、どれも見覚えのある顔だ。
「ヒルト! 大丈夫?」
栗色の髪の少女が、花束を手に歩み寄ってきた。その背後には、黒髪の少女と背の高い少年が顔をのぞかせている。
「ああ、心配ないよ、リンネ。レミもゼンも、ありがとう」
「おお、元気そうでよかったな」
同級生の少年は頭をかき、ぶっきらぼうに答えた。リンネは抱えてきた花束を花瓶に活ける。
「みんな元気かい? 何か変わったことはあった?」
「ええ、ヒルト以外はみんな元気よ。変わりないわ」
レミがベッドの端に腰を下ろし、顔に苦笑を浮かべて言った。
「でもよかった、起きてくれて。リンネなんて、もう目を開けてくれないんじゃないか、ってずっと心配してたんだから」
「ちょ、ちょっとレミ、何言ってるの」
机に花瓶を置いたリンネが振り返り、レミに非難の目を向ける。その頬は赤く染まっていた。ヒルトは優しいほほ笑みを浮かべる。
「ありがとう、リンネ」
「いや……その……」
リンネは困ったように口ごもり、照れ隠しのように透明なケースに入ったディスクを突き出した。思わず受け取ってから、ヒルトは首を傾げる。
「授業の内容よ。勉強の役に立てて」
「……ああ、そうか。ありがとう」
再び笑顔で礼を言う彼から視線をそらし、リンネは小さく、どういたしまして、と答えた。それを、レミとゼンがおもしろそうに眺めている。
それから、彼らは他愛のない話をして時間を過ごした。学校での行事や、級友たちとの日常。いつもと変わりない、談笑する普通の若者たちという光景。
楽しい、何気ない時間はいつの間にか過ぎていき、気がつけば、窓の外は夕焼け色に染まっていた。
「ヒルト、もう寝坊するなよ」
「わかってるよ」
ドアを開けるゼンに、ヒルトは苦笑を向けた。
レミがゼンの後に続き、最後尾になったリンネが、1度振り返る。何を言うか、それとも言うべきかどうか、迷っている顔だ。
少し口ごもった後、彼女は言った。
「早く、戻ってきてね……その、色々話したいこととか、あるんだから」
そう言うなり、ヒルトが答えるのも待たずにドアを閉める。
それを見送りながら、ヒルトはほっと息をついた。花瓶に活けられた蒼い花を見ながら、彼は自分のよく知る日常が戻って来た安心感に浸っていた。
やがて、思い出したようにディスクを見る。この病室にもそれに収められた情報を読み取るリーダーが備付けられている。
「シグナ、勉強の手伝い、してくれるね?」
人知を超えた知識と思考速度を持つコンピュータは、教師の役目を引き受けることも多い。
『ああ、いいとも。何でも訊いてくれたまえ』
シグナはふたつ返事で承諾した。
夕食を挟んで、ヒルトは学習の遅れを取り戻すのに熱中した。
夜が深まると、夏の近づくこの季節でも、日によっては肌寒い。冷たい風を感じて、彼は窓が開いていることに気づく。
『ヒルト、あまり無理をしても頭に入らないだろう。今日はこれくらいにしたらどうだね』
立ち上がったそこに、シグナが天井のスピーカーから声をかける。
「ああ、そろそろ眠くなってきたし」
窓に手をかけたとき、自然に視線が街並みに向かった。
夜闇の中、街は色とりどりの光に彩られている。その中でも目立つのは、上空を照らす2条の蒼い光だ。それは、降りてくる航行機を誘導する、宇宙港の、標のひとつである。
少しの間、ヒルトは降りてくるシャトルのほうを向くその光に見とれた。光に導かれて金属の塊が降り立つのは、神秘的で美しい光景だった。
「ぼくも、いつかシグナ・ステーションで船を迎えたり、見送ったりできるかな。色々な種類の船が見られるのが楽しみだね」
『だから、ステーションの職員を?』
「ああ。それだけじゃないけどね。人の命を守る仕事に憧れるっていう理由もある。でも、やっぱり仕事には楽しみもなきゃ。ルータを身近で見られるのは特権だと思うよ」
窓を閉め、カーテンをかける。ヒルトがベッドに戻るまでの間、沈黙が降りた。
『ヒルト……』
シグナが、珍しくはっきりしない調子で声をかける。いつもなら必要な時に即座に話すはずだと思い、ヒルトは首を傾げ、相手のことばを待った。
『ルータは、いないよ』
それがどういう意味か。すぐには理解できない。
「……どういうことだ?」
『ルータは、もういない。そう……人間のようにわかりやすく言うと、〈死んだ〉んだ』
シグナは抑揚のない口調で言う。
意味を理解しながらも、ヒルトは信じられなかった。信じたくなかった。
何かの冗談だろう?
そう言いたかったが、冗談のはずが無いことも知っている。シグナが、そんな悪い冗談を言うはずがない。兄弟のように認識していた相手が死んだなどという冗談を。
詳しくきいていいかどうかすらためらわれるが、彼はきかずにはいられなかった。
「その……どうして? なんで、そんなことが……」
『原因は、今も判明していない……突然、ルータの記憶データと精神機構プログラムが消滅した。船は、セントラル・ステーションにあるよ。中身のない、入れ物だがね』
どこかおもしろがるような『入れ物』ということばに、ヒルトは何も言えなくなる。
ベッドに潜り込みながら、彼の耳は、シグナの独り言のようなつぶやきを捉えていた。
『まるで鉄の棺のように……』
翌朝、朝食後の検診を終えたヒルトは、ユリスに外出許可を求めた。ユリスは医師と相談して、午前中の検査終了後に条件付で許可を出す。
「そんなに外の空気が恋しいのかしら?」
「家のことも気になるし、着替えが欲しかったので……」
とりあえず倒れたときの服に着替えて、同行することになったユリスに応じる。倒れたときに持っていたカバンも、そのままの状態で保管されていた。
ユリスも、普段着に着替えている。シックなワンピースのスカートに、丈の短い上着がよく似合っていた。
受付の前を通り過ぎ、玄関に出ると、エアタクシーがすでに待機していた。空は青く晴れ渡り、新鮮な空気に混じった花の香りが鼻腔をくすぐる。まだすべてのつぼみが開ききってはいないものの、辺りの花壇は何色にも塗り分けられていた。
ヒルトは白い大きめの上着の裾が汚れているのに気づき、軽くはたいた。大人の女性らしいユリスと並んでいると、この格好ではますます子どもっぽく見られないかと思い、内心恥かしい気分でタクシーの後部座席に乗り込む。
タクシーは2人の客を乗せると、ふわりと浮き上がった。ほとんどのエアタクシーは運転手がいるのが普通だが、これは安価な無人タクシーである。エルソンの公共交通関連システムは現在シグナによって監視されており、安全面で問題はない。
空中回廊や他のエアカーを避け、行き交う人々の頭上を超えながら、エアカーはエルソン宇宙港の南西にある、アパートに挟まれた一軒屋の玄関先に降下した。
1階建ての、小さいが小奇麗な家だった。壁にはレンガ模様が塗られ、大きな窓にはレースのカーテンがかかっている。窓際に小さな植木蜂が3つ並んでいて、そのうちのひとつは枯れかけていた。
「あっ、水やらないと」
ヒルトはタクシーから降りると、慌ててドアに駆け寄り、肩にかけたカバンのなかをまさぐってカードキーを取り出した。カードリーダーを通すと、ガチャリとドアのロックが外れる。
「きれいなお家ね。でも、掃除とか大変でしょう」
「ええ。掃除は1日がかりですよ」
壁にかけられた絵画や写真で飾り付けられた玄関には、薄く埃が積もっていた。それを濡れた雑巾で軽く拭いて、放ったらかしだった植物に水をやると、室内を見回していたユリスに声をかける。
「あの、お茶を入れるのでどうぞ座ってください。確か、珍しいハーブ・ティーがあったはず」
荷物を置いてカウンターの向こうのキッチンに向かうヒルトを見送り、ユリスはテーブルについた。
彼女は、家庭的なヒルトに思わず表情を崩しながら、室内を眺めた。壁にはめられた大きなテレビモニターに、広いキッチン。窓からの光が、あたたかくなかを照らす。
明らかに、家族で暮らすことを目的として造られた家だ。
そして、その目的を果たせない家だった。
「何か珍しいものでもありました?」
ヒルトがカップを載せたトレイを運んでくる。清涼感のあるいい香りが漂ってきた。
「いいえ……ただ、公共サービスを頼んでおけばよかったわね。水遣りや掃除してくれる無料サービスがあるの」
「そうですか。でも、やっぱり自分の持ち物を触られるのって、ちょっと抵抗ありますからね。もうすぐ退院できるし、大丈夫ですよ」
彼はほほ笑み、緑色の液体が入ったカップをテーブルに置いた。
見たことのない色をしたお茶が入ったカップを手にして、ユリスは深呼吸した。独特の香りが鼻をつく。
「ちょっと苦いですけど、身体にいいそうですよ」
笑って、ヒルトはお茶をすすった。ユリスはそれを見ながら、ひと口含んでみる。
「本当ね……身体に良さそうな味」
「でしょう?」
顔を見合わせて、2人は笑った。
「そろそろ、支度しないと。ユリスさんも、ずっと病院を空けられないでしょう」
「それより、あなたがドクターに怒られるでしょう」
苦笑混じりに言われて、ヒルトは慌てて支度を始める。久々に自室に帰ると、着替え用の服、そして学習用のディスク、好きな音楽や映像が収められたディスクを見繕ってカバンに入れる。
机の引き出しを漁っているうちに、彼は白い、金属製の短い棒のようなものを見つけた。
それは、レイブレードの発動機だった。特別な許可のない者は所持できないもの。保安部員を志望するヒルトは、数ヶ月前に訓練を終えて許可を取得したばかりだった。
許可証と発動機を上着の内ポケットに入れる。発動機は、父の形見でもあった。机の上の写真立ての中でほほ笑む家族に気づき、彼はそれも、カバンの中に入れた。
「忘れ物は……なし、と」
部屋を見回して、彼はつぶやいた。
そのとき、辺りが赤く染まった。
「え――?」
赤い光は、一瞬で消える。
窓に目をやったヒルトは、宇宙港のそばから炎が燃え上がっているのを見た。炎と黒煙は、空高く立ち昇っていた。