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11. 37.5- 指きりのあと
とにかく、時間を潰したかった。あたしはあてもなく入った本屋で、フラフラと歩き回る。べつに、欲しい本やCDがあるわけじゃない。
ときどき、店員に変な目で見られている気がして、気を引き締める。足もとが頼りないのは、風邪で熱が37.5度もあるからだ。
でも、家で寝ているわけにはいかない。今日でなきゃ駄目なんだ。
そう、今日は、特別な日――のはずだった。
今から思えば、馬鹿馬鹿しくも感じる記憶。
「オレなぁ、来週引っ越すんだ」
小学校卒業が近づいて来たある日の夕方、一緒に遊んだ帰りの川原で、彼は言った。
「え……ほんとに?」
寝耳に水だ。幼稚園からの幼馴染みで、家も近所だから、毎日のように遊んだり、両方の家族でパーティーを開いたり――とにかく、家族の一人みたいに付き合ってたんだから。
いきなり家族の一員のように思ってた人がいなくなる。そう感じて、あたしは泣きそうな顔をしていたに違いない。
「全体会えなくなるわけじゃないんだから、そんな顔すんなよ。オレ、遠くに行くけど……三年後、また会いにくるから。これ、約束のしるし」
そう言って彼がくれたのは、一目でオモチャとわかる指輪だった。当時のあたしには少し大き過ぎたそれが、凄く価値のあるものに思えた。
それ以来、ときには包帯や手袋で隠しながら、ほとんどずっとその指輪をはめていた。この指輪をしている間は、彼と指切りをしているのと同じなんだ。そう思えたから。
そして、待ちに待った三年後が、今日。
約束の時間をを大幅に過ぎるまで、あたしは家で待ち続けた。あたしの家の場所は、ずっと変わっていない。きっと訪ねて来てくれる。そう思ってた。
なのに、彼は来ない。
そりゃそうだ。小学生のたわごとなんて、本気にしたのが間違いだったんだ。
歩き回るうちに、ふと我に返った。いつまでもこうしていたって仕方がない。
立ち止まった場所は、アキバ系の雑誌コーナーの前だ。雑誌の中の一冊の表紙に、『過去を振り切って』というフレーズが見えた。
とりあえず、今日が終わってしまえさえすれば、全部忘れて、なかったことにしてしまえばいい。そう思っていたけど、もう少しはっきり、思い出にさよならしよう。
本屋を出て、小学生のときによく通った道を歩く。
約束をしたあのときのように、夕日が土手の下の川原を染めていた。そこにひとつ、シルエットが浮かんでいる。
まさか。
信じられない……でも、近づくごとに、あたしは確信を深めていく。
――そうだったんだ。彼は昔から、大雑把なあたしとは正反対で、律儀だった。彼はずっと、約束をしたあの場所で待ち続けていたんだ。
やがて、向こうもこちらに気がついたらしい。振り返った顔に驚きが浮かび、それが嬉しそうな笑みに変わる。昔に比べて少し大人っぽくなってるけど、確かに面影が残っている。
ことばはいらない。あたしの小指には、まだあの指輪がある。
あたしは急いで、彼のもとに駆け寄った。
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12. 罪 - 闇の中
昼間の通り。若い刑事が若者たちに問いかける。
差し出されたのは写真。昨日、ただ指輪だけ身につけて、川へと飛んだ女の写真。
「知らない」
それだけが返される答。
女は詩の本を手に飛び降りた。しおりは投稿ページに挟んだまま。
くるくるくる 時がくる
忘れぬ思ひ 今は忘れ
詩に死にのがれぬ ×の夢
桜散るらむ 闇の中
本を開いて刑事は悩む。
その詩の投稿者の名、それは女のかつての恋人。
「投稿者に確認をとってくれ」
部下に声をかけ、何度も何度も詩に目を通す。
もう来たそら来た ふたつの流れ星
私をさらって 闇の中
短い、意味のわからぬ詩。最後の段落はこうだった。
契りを結んだ 闇の中
ともに行こう 闇の中
――翌日、女の同性の友人が自室で自殺。その恋人で女のかつての恋人でもある男は、つい先日事故死していた。
家族にも刑事にも、なぜ女たちが死んだかわからない。
ただ三人とも、それが義務のように、事切れる際は同じ指輪をはめていたという。
▲UP▲
13. 螺旋 - 白い塔
今年の夏は、ずいぶん気温が高かった。セミがミンミンとうるさいくらいに鳴き、できるだけ日陰を選んでいるのに、ちょっと外を歩くだけで、汗が滴り落ちる。
「今日はいい日和だな。最適とも言える気温だ」
彼はどこからか温度計を取り出し、嬉しそうに笑った。
公園に入って少し歩けば、わたしたちの前に、目的の建物が現われる。
「オレは、二重の塔がいいな」
言って、彼が受け取ったのは、色の違う重なり。
わたしのほうは、別の種類のものを注文した。目の前で、純白のものが螺旋を描き、積み重なっていく。
「シンプルだなー」
「これじゃないと、食べた気がしないもの」
歩きながら彼が舐めているのは、ワッフルコーンに二段重ねた、ジェラード。彼は、ミントとチーズヨーグルトを選んだらしい。
わたしが選んだのは、ソフトクリームのバニラ。
「この形、芸術的だと思わない? まさにアイスっ! 夏! って気になる」
「そうか? この形って、うん――」
わたしが手を腰に当てた拍子に、偶然、肘が彼のみぞおちに入った。
「っ――てぇ……ああ!」
思わず身を屈めた拍子に、彼の手の上のアイスクリームの一番上、ミントアイスが滑り落ちた。さわやかな青緑の塊が土の上で、べちゃっと潰れる。
「もったいねえ……」
彼は涙目になって、落ちたアイスの無事な部分でもすくえないかと、弁当箱を取り出そうとする。
「そんなはしたないことやめなさい。アリにでもやったと思っておくの……まあ、悪かったよ。うちに来たら、自家製アイス食べさせてあげるからさ」
わたしは毎年夏になると、ほぼ常に、冷凍庫にアイスを作っておいている。わたしの好みはソフトクリームだけど、家ではさすがに作れない。冷凍庫にあるのは、ジェラードアイスだ。
彼の表情が、一瞬で笑顔に変わる。
「ほんとに? 色んなところのアイス食べてきたけど、やっぱりお前の手作りに勝る物はないよな」
「そりゃどうも」
彼と並んで家に向かって歩きながら、わたしは、頬が熱くなるのを感じていた。
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14. きせき - 新しい軌跡
「せんせい、あたしも行くー! 置いてかないでー!」
ミアは必死に、ドアを叩いた。それを壊してしまえば先生と一緒に旅に出ることができると思い、思い切り叩いた。
しかし、まだ十歳にも満たない少女の小さな手は、ドアを壊すどころか、赤く腫れるばかりである。
「ミア、やめておくれ、怪我をしちゃう。先生も、きっといつか帰ってくるから」
宿屋の女将のことばに、嘘だ、とミアは思う。
先生は、旅が好きなのだ。本当なら、身寄りを失いさまよっていたミアを引き取ったりせずに、もっと早く旅に出たかったのだ。そうせずに三年間、一緒に過ごしてくれたことは感謝しているが、置いて旅に出てしまったことは本当に恨めしかった。
一緒に過ごす間、先生は旅先での話、旅で役に立つ知識などを、色々と教えてくれた。それを聞いているうちに、ミアも、先生に負けないほど旅が好きになっていた。
『いつか、あたしも旅に出たい』
そう言った少女に、先生は優しい目を向けて、
『そのときは、これがきっと役に立つよ』
と、地図をプレゼントしてくれた。
その地図を眺めながら、何度、先生と一緒にあちこちを旅する自分を想像しただろうか。
「旅は危険なんだよ。きっと、あの人もミアに安全なところで暮らしてほしいのさ」
数年間のミアの分の宿泊費を受け取っている女将は、なだめるようにそう言う。
ミアは地図を抱きしめ、心の中で、安全なんていらない、と叫んでいた。
五年の月日が流れ、少女は、長く働き、世話になった宿の女将に別れを告げた。女将は止めたそうにしていたが、ミアが一度言い出したことはどうやっても変えない頑固者だと知っていたので、弁当を持たせて送り出した。
「さて、まずはこの村かな」
広げたのは、先生にもらった地図だ。何度も広げたので少しくたびれているが、地図としての用を成すのに問題はない。
「水と食糧を調達しないといけない距離だ。ほかの選択肢はないね」
旅の知識は、先生に教えられ、あるいは先生が残していった本などから充分たくわえている。
ミアは旅をしながら、先生の足取りを追った。
「ああ、その人なら、だいぶ昔に来たよ。アマナの町に行くっていってたよ」
だいぶ昔のことだが、先生は必ず誰かに行き先を告げてから去って行くらしく、あとを追うには苦労しなかった。たまに遠回りをすることになるが、それでもしばらく情報を集めてると、次の行き先に辿り着く。
ミアは旅をしながら、道順を地図に書き入れていった。
先生の行方を追ううちに、さらに数年の月日が流れる。少女は、もはや熟練の旅人となっていた。
しかし、やがて、砂漠の町で、先生の手がかりは途切れた。
「やっぱり駄目か~……」
髪が汚れるのもかまわず、ミアは砂漠に大の字に寝転んだ。
どんなに先を急いでも、先生とミアの間には、旅立ちに五年という大きな壁が立ち塞がっている。広い世界で自由に旅をする一人の人間を捜すのが困難だということは、彼女も最初から覚悟していた。
それでも旅を続けるのは、それが楽しいからだった。急ぐ理由がなければ、もっとじっくり、旅を楽しめただろう。
早く、見つけないと。
今まで行ったことのない町を捜そうと、だいぶボロボロになった地図を広げる。
「あ」
地図が逆さまになっていた。
そこに、少しはみ出した線があるものの、文字列が浮いている。
『ここから先は、きみ自身の足で描きなさい』
地図に浮いた文章をさっぱりした気分で眺めながら、少女はようやく面白いいたずらに気がついたような表情で、しばらくの間、声を上げて笑っていた。
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15. シンドローム - 異星人歓迎会
人類が宇宙へ飛び出し五年ほど――。
ここ数年、宇宙管理局総合部多種族問題対策課は、それまでとは打って変わった忙しさに見舞われていた。
それというのも、急に地球外からの外来種に特定の症状が増えたからである。地球人には異変はなく、地球人と構造が異なる者ほど異変が顕著に現われるらしい。
「どうします、先輩。今度はピーマンを頭に乗せて阿波踊りだそうですよ」
「そうかあ……」
後輩の、内容に不釣合いとも思える深刻な声に、波口はデスクに足を乗せたまま、やる気のない返事をする。
「いっそ、お祭気分が味わえる惑星として地球の観光ポイントにしちゃったら? 本人は幸せなんだろ?」
「駄目です! 皆さん、色々な目的で地球にいらっしゃってるんですよ? 真面目にやってください!」
精一杯声を荒げる後輩をよそに、波口は、ああ、いつみてもこのコの色素の薄い耳にあのサファイアのイヤリングは合ってるなー、などと考えていた。
後輩は山吹色のワン・ピースの胸ポケットから、小型の端末を取り出してモニターをのぞく。
「今月に入ってもう十件です。一番多いのは温泉で組み体操だとか」
外来種族の異変は、何種類もの奇行だった。どれも直接命に関わるものではないが、地球に来て一日の間に発症し、地球を離れるまで続くという。
「最初の発症は四年前の九月。季節や月の共通点はありません。一度発症した者は、二度目は大丈夫なようです」
彼女は独自にデータをまとめていたらしく、端末から部屋の巨大スクリーンへ、様々なグラフをまとめた映像を転送する。
「場所的には、水辺が多いようですが、決定的な偏りと言えるかどうか、という程度です」
「ふーん……」
一応グラフに目を向けながら、波口は『海水浴場で水着でパイ投げ』という項目を見つけ、楽しそうだな、と思う。
「地球人が大丈夫ということは、肉体的に地球人にはない性質が関係しているとも思われます。現在、調査中です」
「じゃあいいじゃん」
やる気のないことばに、ふたたび後輩が青筋を立てて怒鳴るが、波口は意に介さない。
「そんなことより、どこか遊びに行こう。パイ投げでもしよう」
「まったく、先輩はいつもそうなんですから」
もう、仕事の時間も終わりだ。
あきらめたように溜め息を吐いてから、発症してこの惑星を去る異星人たちと同じように、後輩は少し疲れたような、楽しそうな顔をして言った。
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16. 涙 - ポチの思い出
あたしが小学4年生のころ、お祭に行って、友だちのあみちゃんと別れた帰り道のことだった。家はすぐ近くだから、それに電柱から吊るされたちょうちんが辺りを照らしていたし、暗い夜道もそんなに怖くなかった。
でも、さすがに妙な鳴き声を聞いたときには、一瞬、飛び上がりそうになった。
ただ、その鳴き声は『みゅーみゅー』という、小動物のような、可愛らしい感じのものだった。だから、どちらかと言えば臆病で泣き虫のあたしでも、逃げ出さずに、声の主を捜す気になったんだと思う。
「どこにいるの?」
辺りには誰もいない。静かなのが怖くて、あたしは声をかけながら、空き地の草むらを捜した。
すると、最初は草にまぎれてわからなかったけれど、緑の小さな生き物が見上げているのに気がついた。トカゲに似ているけれど翼があって、目は大きくて可愛らしい。
――竜の子どもだ!
そう直感して頭を撫でてやると、生き物は嬉しそうに、猫みたいにのどを鳴らした。
「うちにくる?」
ここに居たら死んじゃうかもしれない、と思ったあたしは、手のひらを差し出してみる。
「みゅー」
返事をするみたいに鳴いて手のひらに跳びあがった竜の子どもを、あたしは大事に浴衣の胸元に隠し、家に連れて帰った。
その後、あたしは竜に『ポチ』という名前をつけて、自分の部屋の押入れで飼うことにした。ペットを飼いたかったけれど両親が許してくれなかったこともあって、あたしは秘密のペットに夢中になった。
ポチは両親に見つからないように大人しくしていたし、家にあたししかいないときでないと鳴かなかった。とても賢くて、家の物を壊したりしないし、手がかからなかった。
ただ――ポチは、あたしが差し出したエサをまったく食べなかった。
お魚も、野菜も、お菓子も、ご飯も、こっそり隣の家の飼い犬から分けてもらったドックフードも食べない。無理に口に入れても飲み込もうとせず、吐き出してしまう。
竜何だから食べ物なんていらないんだ。そう思うことにしたものの、平気でいられたのは一週間くらいだった。そのあとは、目に見えてポチは痩せて、弱っていく。ピカピカだった緑の鱗はしおれて色も枯れ木のようになり、飛ぶこともできなくなっていった。
『もう10歳なんだから、泣くんじゃないの』と何度も言われていたけれど、ポチを拾って2週間くらい経ったころ、そろそろポチが死ぬんじゃないかと思えてきて、あたしはついに、段ボール箱の中で動かないで見上げているポチの前で泣いてしまった。
すると、急にポチが動き出して、自分の上に落ちた雫をなめた。
まるで魔法みたいな光景に、あたしは目を見張った。ポチがあたしの涙をひと舐めしたとたん、鱗は艶を取り戻し、全身に生気がみなぎっていくのがわかった。
「みゅー」
再び動くようになった翼がはばたき、あたしの肩にポチが乗ってくる。
あたしは嬉しくて、もっと一杯泣いた。ポチはそれを舐めて、もっと元気になっていった。
あたしとポチの秘密の時間は、長い間続いた。どうやら、他の人にはポチは見えないらしい。
ポチのエサには、一週間に一度、あたしの涙を舐めさせた。あたしはすぐに、悲しいときの涙や、たまねぎを切って無理矢理出した涙より、嬉しいとき、感動したときの涙のほうがポチにとってもおいしいらしい、と気づいた。だから、週に一度、感動するDVDや本を借りてきて見るようになった。
そして、そろそろ中学校も卒業するころ。
あたしは、通学中、突然倒れて病院に担ぎ込まれた。
詳しくは教えられなかったけど、家族や親戚が病室に集められ、お母さんやあみちゃんが泣いていて、きっともうダメなんだということはわかった。
少し朦朧とした意識の中で、頬に心地よい風を感じて目を向けると、窓が開けられていた。外は天気が良くて、山並みが薄緑に鮮やかに見える。
そこに、見覚えのある姿が現われた。窓から飛び込んできたポチが泣いている大人たちの間を縫って、あたしの頭の横に止まる。
ポチが消えて、少ししてお医者さんがやってきて、周りの人たちに、大丈夫だと告げた。
お母さんたちは今まで以上に泣いて、あたしも泣いた。
それ以来、竜の子どもに会ったことはない。
でも、あたしは相変わらず、毎週嬉し涙や感動の涙を欠かさないことにしている。
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17. 君は誰 - 逢いたいと思ふ心
義姉の小夜が土産に手鏡を買ってきたのは、ふた月余り前のことだった。
綺麗な細工がされたその鏡を、雪は一目見て気に入った。道中物売りから買ったという使い古しの何の変哲もない手鏡だが、目立たず且つ品の良い風情は、奥ゆかしい雪の好みに合致していた。
「雪どのはその鏡を手に入れて、ますますお美しくなられた。その鏡は、まるで雪どのそのもののようだ。控えめで上品で、それでいて常に人の役に立つ、可憐な花のようだ」
背後の机に置いた手鏡を目ざとく見咎めて、病床の母を診終えた若医者の稲村総八が褒める。
雪は自分が褒められたことよりも、手鏡を褒められたことが嬉しかった。そして、この人とならば一生添い遂げることができる、この人しかいないという胸に秘めたる思いを強くするのである。
「お上手なことです。この鏡、わたくしにはもったいない物ですわ」
振り向いて手鏡を手に取り、持ち上げてみる。
鏡の中の女の姿は美しく、その顔は喜びに輝いてすら見えるのだ。
しかし、即座に女の顔は引きつる。
その背後に座る若医者の顔が、まるで曇天の空のように暗い表情を浮かべていたのだ。今にも泣きそうにすら見える。
驚いて相手へ向き直ると、総八は見馴れた穏かなほほ笑みを浮かべていた。この医者は、滅多なことではその笑顔を崩したりはしないのだ。
ならば、見間違えなのか。
もう一度鏡を覗くと、確かに、総八は暗い表情をしている。間違いではない。
「いかがいたしましたか?」
「いいえ……何でもありません」
雪は作り笑いを浮かべ、手鏡を置く。
総八が帰ると、彼女は手鏡を眺め回し、幾度も表面に触れてみるが、仕掛けなどあろうはずもない。あれば、今までに気がついているだろう。しかし、あの表情は、確かに瞼の裏に焼きついている。
それでも、一日切りならば、一時の気の迷いと片付けていたかも知れぬ。だが、総八に鏡を向けるたび、その表情を目にすることになるのだ。
そればかりではない。母に鏡を向けると、実際とは少々異なる表情が映し出される。
もしや、これは心を映す鏡なのではないか。
鏡を前にするとき、己の心を偽ったりはしない。しかし、試しに己の表情を変えてみたところ、それは鏡の中を変化させはしなかった。
(では、なぜ、稲村さまはあのようなお顔を?)
その疑問の答は考えないようにしていたが、つい、手の空いた間に考えてしまう。そして、打ちのめされる。答など、わかりきっているのだ。
総八どのはわたくしを嫌っている。そう自覚したまま笑顔で今日も談笑するのは、やりきれぬような、深い哀しみと寂しさを想起させるものだった。手鏡の中の雪は、総八と同じような表情で相手と向き合っている。
しかし、そのような日々は、間もなく終わりを告げた。
「雪どの。あなたに言わなければならぬことがあります」
常日頃の優しい声音とは違う、厳しさのある声で口火を切ったそのことばに、雪は身を硬くする。だが、すでに覚悟はできていた。
しかし、総八の口をついて出たのは、彼女の予想とはまったく違う内容である。
「もっと早くに言うべきだったかもしれぬが……わたくしは江戸の叔父に呼ばれ、この町を去らねばならなくなったのです。母君のことは知り合いに頼んでおきますが、おそらくは、もはやお会いになることはかなわないでしょう」
「え……」
あなたとは一緒になれぬとでも言われたほうが、幾分か気が晴れたであろう。雪は、ただただ茫然とするだけだった。
「残念です。あなたとお会いすることは、わたくしにとって日々の糧だったというに」
総八は初めて、手鏡の中とまったく同じ表情を見せた。
数日の後、稲村総八は付き人とともに発っていった。それを雪は、まだ夢現のような気分で見送った。
以来、手鏡には泣き顔ばかりが映り続けた。病身の母に心配をかけぬよう、笑顔を心がけ続けていたというのに。
あれほど愛していた手鏡をほとんど手にしなくなってひと月、母が見かねたように、布団から顔を出して言った。
「雪、お前、あのお医者さまに会いに行っておいで。わたしも、自分の面倒くらい見れる。何かあれば、小夜に頼めばいい」
「何を言ってるの、お母さま。稲村先生は江戸にいるのよ。簡単には会いにいけないし、行ってどうすると言うのですか」
「お前、あの人を好いていたのだろう?」
母の慧眼に内心感服しながら、雪は笑った。
「好いかたではありますけど」
「隠さずともいい。あのかたも、お前を好いていた」
淡い期待が雪の胸を躍らせる。しかし、好かれてなどいない。鏡がそう告げていたではないか。
「何故わかるのです?」
問いかけると、今度は母が笑う。
「見ていればわかるもの。特別なことなど何もない」
そう言って、娘の嫁入りのためとせっせと貯めていたのであろう、銭を包んだ布を差し出す。
母のことばを信じよう。
手鏡を懐に入れ、身支度を整えて知人に小夜への伝言を頼むと、雪は早々に旅立った。
それから母のことばの事実が証明されるまで、二日とかからない。
「これほど運命と呼ぶべきことがありましょうか。あなたと別れねばならぬと知った日以来、わたくしはずっと、胸が潰れそうな思いであなたと会い、こちらに来てからも心が沈んでいたのです」
再会した総八はそう言って雪を迎え、心からの喜びを鏡の中にも表わした。
そして、二人がともに暮らし始めてひと月以上。手鏡の中の雪と総八は、毎日笑顔で暮らしている。
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18. 砂糖菓子 - 甘くとろける恋歌を
「昔、ヘンゼルとグレーテルのお菓子の家に憧れてたんだ」
そんなナツミのことばに対して作ってきたのは、クッキーや板チョコを組み合わせ、ちょっと生クリームや粉砂糖でデコレーションしてきただけの、手のひらサイズのお菓子の家だった。ハヤトは一般的な男子高校生で、あまりお菓子作りに興味があるほうではない。
それでも、ナツミのワガママだけは聞いてやろうと思っていた。彼女がただ一人の恋人で――明日に、手術を控えているから。
「どうだ、上手いか?」
病室の窓の外を眺めながら、少し心配そうに訊く。
その不器用そうな仕草に、ナツミはほほ笑む。もっとからかってやりたくなる。
「おいしいけど、もっと甘い物も欲しいなー」
相手が振り返るのを待って、悪戯っぽく笑う。
「ねえ、愛してるって言って」
「何だよ、いきなり」
「こんなときでもないと聞けないでしょ?」
無愛想で無口なほうのハヤトは、普段は決して口にしないようなことだ。それでも、入院中はどんなワガママもできるだけ答えてやろうと思っている彼は、少し赤面しながらベッドの上の少女に向き直る。
期待しながら、ナツミは待つ。
――たまには聞きたい。
「お前が一番大事だ。お前に元気になって欲しいし、ずっとそばにいて欲しい」
砂糖菓子より甘いことばを。
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19. 予定外の出来事 - 帰らざる日々
こうして故郷に帰るのは何年ぶりか。家を飛び出して、もう十年にはなるくらいだろう。
昔ながらの日本家屋は少し懐かしいけれど、今の俺にはずいぶん不釣合いに思える。髪も染めたし、革ジャンはこの和風の雰囲気には似合わない。
ただ、今の服装が飾り気のない黒尽くめなのは幸いかもしれない。さすがに、キラキラジャラジャラした格好じゃあいたたまれなくなる。目の前で顔に布を掛けられ横たわるオヤジには、何の未練もないが。
「ほら、お前も何か棺桶に入れるもの選べ」
兄貴がそう言うが、十年近く家を空けていた俺がオヤジの最近の好みなんて知るわけない。
「あとで、酒の一本でも買ってくるよ」
適当に答えて、窓際に座ってタバコをくわえる。葬儀屋がやってくるまでは、特にすることもない。俺はただ、オヤジの荷物から棺桶に入れる物を選ぶ、兄貴とおふくろを眺めていた。
オヤジが死んだのは一昨日。心不全だった。昨日報せを聞いたが、俺にとってはもうほとんど他人事だ。東京に出てミュージシャンになるという俺の話をオヤジは一蹴して、地元にいろと命令した。それに大人しく従う俺じゃあない。家出同然で東京に出て、五年後にやっと夢をつかんだ。
夢を叶えて数年後、家族をコンサートに招待したこともある。でも、オヤジだけは顔を見せなかった。
そっちがその気なら、と、縁を切ったつもりになってもう数年。顔を見たのも久々で、他人にしか思えない。とっとと葬式だけ済ましたら、東京に戻る予定だ。
「これ、どうする? 熱心に送ってた手紙だろ。でも、あて先は知らないし」
兄貴が荷物の中から、縁が金色の白い封筒を取り出した。それを目にした途端、俺は固まる。
兄貴が、それを読み上げる。
『いつも、楽しく聞かせていただいています。あなたの歌われる曲を耳にすると、生きる気力が湧いてきます。それに、コンサートでの挨拶など、ファンの方を大切にしていることが伝わってきます。
あなたのように心根の真っ直ぐなかたの歌は、これからも、たくさんの人たちに力を与えていくのでしょうね。
あなたを応援する私まで、それを誇りに思います。
これからも身体に気をつけて頑張ってください。応援しています』
「だって。歌手へのファンレターかな?」
「相手の名前はないの? しょうがないねえ。それも、棺桶に入れとくか。いつか、あの世で渡せるでしょ」
母が言うのを上の空で聞きながら、俺は何度も目にした封筒を見つめ続けていた。
その封筒は、俺がまだ東京に出て半年くらいの頃から――売れない下積み時代から毎月のように受け取ってきた手紙だ。街角で歌っているのを聞いたファンだという自己紹介から始まったそのファンレターは、挫けそうなときにも、ずっと俺を支えて、応援してくれた手紙だ。
差出人がわからないものの、いつか探し出して、礼を言おうと思っていたのに。
礼を言うべき相手は、ものこの世にいない。
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20. モノクロ - 生か死か
「それで、どうなってる? 例のアレは?」
朝早い時間帯のために、食堂にはほかの姿はない。モーニング・セットのコーヒーをひと口すすると、城木は何の警戒もなくそう切り出す。
私は一応、ちらりと周囲を見やる。カウンターの向こうの職員も、今は暇を潰すために奥の部屋へ姿を消している。
「ああ……今のところ順調だ。マウスによる実験でも問題はない。少なくとも生きてはいる」
声を潜め、深刻な声で告げる。
城木は哀れむような目を向け、しみじみと、「お前も大変だな」とつぶやいた。
「でも、奥さんは元気なんだろ?」
彼は元気付けるように言うが、私にとっては何のフォローにもなっていない。しかしまあ、しょせんは他人事だ。仕方がないか。
私はただ、溜め息交じりにうなずくだけだった。
それで多少はこちらの心境を察したのか、城木は気の毒そうに訊く。
「とりあえず生きてはいるって言ってたが……まさか、マウスが死んだことはないだろ?」
「ないさ。会社の貴重なマウスを死なせるわけないだろう。二度ほど、リトマス試験紙が強い酸性を示したことがある。その時点でやめたよ」
こんなことに会社の研究施設を使ったことが知れたらどうなることか。でも、私は確かめないわけにはいかない――命に関わることなのだから。
私たちは、それからしばらく無言だった。
城木が早い朝食を終え、席を立つ。空の食器が載った盆を抱える彼を、私はたぶん、恨めしげな目で見上げていただろう。
彼は苦笑し、
「ま、やっぱり妻にするなら料理の上手い女性ということだな」
そう言い残して離れていく。
私は懐から包みを出し、それを開けた。ゴム手袋を両手にはめ、慎重に銀色の蓋を取る。現われたのは、白いご飯と、鯖の味噌煮、トマトサラダなど、一見普通の弁当の内容。
それを一瞥すると、私は白い試験用紙をトマトサラダのソースに近づけた。
触れると一瞬にして、用紙は真っ黒に変わる。
「また駄目か……」
思わずつぶやき、肩をすくめる。
こんなに苦労するとは思わなかった――
破壊的料理を作る妻を持つことが。
▲UP▲