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空にはいつになく生温い空気が漂っていた。
もうすぐ昼だ。太陽が普段より力強く輝いていることもあって、空の上はちょっと明る過ぎるくらいに明るい。これでも、サラヴァンさんの話じゃ、普段より低空飛行しているそうなんだけれど。
〈クラン・ディ・アリョーシャ〉の遺跡を出た〈サンタモニカ〉号は今、北東に向かっている。
「やれやれ、どうも、ご迷惑をおかけしまして……」
タオルで埃まみれだった顔を拭ってそう言ったのは、あの、二人組の一方。フードを取ると白髪の人の好さそうな男の人だった、イジマさん、という名前の人だ。
「いいえ、こちらこそ勘違いしてしまって」
「手荒な真似をするつもりはなかったのですが、つい必死になってしまったんです」
二人組のもう一方は、まだ若い。茶色の髪の青年、ローダスさんだ。
二人とも、べつに怪しい集団の一員とか犯罪者でも何でもない。アーリアさんと一緒にアリョーシャ族の歴史について研究しているという、仲間だったそうだ。
それでも、バロンはちょっと胡散臭げに二人を眺めている。
「ボクは何か腑に落ちないな。何でそんなに、必死に捕まえようとしてたのさ?」
「それは、本当に必死だったからよ」
アーリアさんが迷惑そうなバロンを撫でながら答える。
「一刻も早く、太陽を元に戻せるアリョーシャ族を連れてくる必要があったの。太陽回廊は不安定だから、入ってから出るまで、時間がかかることもあるし。わたしたちは長い間あちこち探し回ったわ、我々と同族で高い魔力を持つ者を。でも、なかなか見つけられなくて……それがようやく、見つけられたんですもの」
「ってことは、やっぱりケーニッヒを太陽回廊に行かせるつもり?」
思わず、少し棘のある声を出してしまう。
行き先を太陽神殿に向けているのは、アーリアさんの意志でもあり、ケーニッヒの意志でもあるし、反対する理由もなかったから黙っていた。
だけど。
「アリョーシャ族の末裔なら、誇りに思うことはあれ、恐れることはないはずよ」
彼女はそう言って、木箱に座るケーニッヒに目を向ける。
ケーニッヒは笑っていた。
「……そうですね」
断れるわけないじゃない。
一刻も早く、数少ない、条件に合ったアリョーシャ族の魔法使いをこれからまたすぐに捜し出すことなんて不可能に近いし、太陽がこのまま巨大化したらろくなことにならないのはわかってるんだし。
アーリアさんもその仲間も、ケーニッヒに期待している。事情を知れば、世界中の誰もが彼に世界の未来を救ってくれるように期待するだろう。いや、実際に知れば強制するかもしれない。
だけど。
「ほんとにそれでいいの?」
思わず口をついて出たことばは、本心だった。
イジマさんとローダスさんが不思議そうにこちらを見る。でも、ケーニッヒには意味は伝わった。それだけでいい。
「わたしはあの遺跡で、太陽がこのまま巨大化すればどうなるのかを目にしました。食べ物はなくなり、人々は病に倒れ、海は干上がり、やがてすべて焼き尽くされるでしょう。それは、わたしも困ります」
少し苦笑してから、表情をほほ笑みに戻す。
「誰かがやらなければいけないことです。やらなければ、わたしも、コレットも、ほかの皆さんも地上で暮らしてはいけなくなる」
「そう」
口では返事をしても、納得なんてしてない。
ほかにどうしようもないのも頭じゃわかっている。でも、なぜか悔しくて、悲しくて、ケーニッヒを見つけてしまったアーリアさんたちが許せなくて、わたしは色々な感情に混乱しながら茫然としていた。
「それにコレット。太陽回廊に行ったらわたしは死ぬとか、そういうわけではないでしょう」
わたしの考えが読めているように、彼は付け足す。
でも、それにさらに、アーリアさんがしてほしくなかった補足をした。
「確かに、太陽回廊で命を落としたりはしないわよ。ただ、本人にとってはともかく、周りにとっては死んだも同然、っていう考え方はできるかもしれないけど」
太陽神殿は、飾り気のない、みすぼらしい印象の建物だった。
山の上の広い野原に、円形の大きな神殿が建つ。ただそれだけの建物なので、特に詳しく調査されるでもなく、場所が場所なので観光名所とかになるわけもなく、『非常に古い建物』とだけ認識されている遺跡だった。
どうにか〈サンタモニカ〉号が降りるだけの場所はあったので、神殿のそばに着陸すると、全員が神殿に向かう。滅多に船を離れないサラヴァンさんも無言でついてきた。
空は相変わらず雲ひとつなく、太陽は毒々しいほど赤く燃えている。
「回廊の開き方は、遺跡で見てきたわよね。かつて大勢の魔法使いの力を結集して創られた回廊ですもの、ほとんどのことは、仕掛けのほうでやってくれるの」
神殿の柱の間から中へ入ると、床の中央が円形にせり出している。ここが回廊の出入口だろうか。
でも、そんなことより気になっていたことがあった。
「それで、どういう意味なんですか。死んだも同然って」
詳しいことは、神殿についてから。彼女はそう言った。アーリアさんの言う『詳しいこと』に、わたしの質問の答が含まれていたはずだ。
アーリアさんはこちらを一瞥してから、少し息を吐いた。言いにくいことを言おうかどうか迷っているように見える。
でも、彼女は言わなければいけない。みんなが静かに彼女のことばを待っている。
覚悟を決めて、彼女は語り始めた。
「太陽回廊は時空が不安定なの。だから、できるだけ早く行かなければならない……というのは言ったわね? それでも、太陽の異変が起こってから回廊を抜けるまで時間がかかり過ぎて手遅れになっては意味が無いから、行きはある程度、制御されているの」
太陽の管理者だけに、太陽の異変にできるだけ確実に対処することに重きを置いて、回廊を作ったというところだろうか。
でも、行きは制御されてる、ってことは……。
「回廊を創ったとき、帰りを制御するだけの魔力が間に合わなかったの。もともと、行きを安定させるだけでも困難だったから……」
「安定してないと、どうなるんだい?」
わたしの足もとから、バロンが目を向ける。
アーリアさんの表情が、わずかに沈む。
「いつ帰ってこれるかわからない。即座に帰れるか、一週間後か、一年後か、あるいは数十年、数百年、それ以上かかるかも。本人にとっては、一瞬なんだけどね……」
そうか。
周りが生きている間には帰ってこれない可能性が高い。だから、死んだも同然か。
チラッと見ると、ケーニッヒは平然としていた。たぶん、予想はついていたんだろう。死なないにしても、笑えるような状況にはならないって。
わたしも、そう予想はついていた。でも、はっきりことばとして耳にすると、予想していた以上に重い。
「ここでお別れですね」
わたしの感じる重さになんて気がつくこともなく、あいつは涼しい顔で言った。
「本当なら、一曲〈別れの歌〉でも披露するところなんですけれど、自分が湿っぽい別れをするのは苦手でしてねえ。かといって、〈愉快な踊り子〉でお別れもなんですし」
「お前らしいな」
サラヴァンさんが仕方なさそうに笑う。そして、大きく息を吐いた。
「何だか、壮大なことになっちまったが……一緒に旅ができて楽しかった。お前も達者でな」
「ええ。サラヴァン船長、あなたもお元気で。空の旅は楽しかったですよ」
ほほ笑むケーニッヒの足元に、妖精ロバタナ族が擦り寄る。
「なあ、ケーニッヒ。ロバタナ族は数百年以上生きるんだ。できるだけボクが生きてる間に帰ってきてよ」
いつも自由気ままなバロンの声も、少し寂しそう。
ケーニッヒは苦笑しながら、黒猫の頭を撫でた。
「それができるのなら、そうしたいところですが」
そして、顔を上げたとき、彼の目がこちらを向く。
もう、覚悟を決めなきゃいけないんだ。
でも、たった二年だけど、家族よりずっと、毎日一緒にいたのに。この二年ほどの間、色々あったけど楽しかった。それには、ケーニッヒが一緒だったからっていう理由も大きかった。
それもここでお別れ。彼はきっと、別の時代に帰って、わたしの知らない人たちと残りの人生を過ごしていく。
わたしたちは彼にとって過去の存在になる。
それが、納得できなかった。
「……これ」
そう言って差し出したのは、耳飾りの一方だった。
「その……お守りになるっていうから、一応持っていって」
わたしの手のひらの小さなほら貝型の耳飾りを、大事そうに受け取ってハンカチに包みながら、ケーニッヒは少し寂しそうに笑った。
「これを持っていれば、コレットのことを忘れられなそうですね」
「何よ。忘れたかったの?」
忘れたかったんだろう。彼はわたしたちとは別のところに行く。わたしたちとの記憶は、これから先邪魔になるかもしれない。すっきり忘れたほうがお互いのためだ。もう二度と会えないんだから。
それでもわたしは……忘れたくなかった。忘れられたくもなかった。
「わたしは、忘れないから。あんたがいつ戻ってきてもいいように……待ってるから。わたしが生きてる間に戻ってくる可能性だって、なくはないんでしょう?」
だから。
「待ってる」
それがわたしの覚悟だった。
真っ直ぐ、彼の目を見つめる。彼もそれを正面から受け止める。
待ち続けること。それはわたしの我がままだけれど、それくらいは許して欲しい。
ケーニッヒは仕方なさそうにほほ笑んでいた。
「コレットは頑固ですからね……この耳飾り、大事にしますよ。お礼に……あなたに最後の魔法をかけてあげましょう。祝福の魔法です」
『最後の』なんて言わないで欲しいと思ったけれど、彼はすぐに呪文を唱え始めたので、わたしは何も言えなかった。
ケーニッヒが魔法を使う。一瞬、目の前が真っ白になったけど、見た目に変化はない。
「祝福の魔法……ね」
「いずれ、わかるかもしれません」
苦笑して、彼は背中を向ける。
床の中央にある出っ張りが、淡い光を放っている。たぶん、そろそろ回廊が開くんだ。
「あなたたち、できるだけ早く、遠くへ逃げなさい。回廊が開けば強い力の波動が起きるわ」
アーリアさんがとても悲しそうな顔でわたしたちを振り向く。
「お姉さんたちは残るのかい?」
バロンが訊いた。
もしかして、アーリアさんたちはここに残って、命を落とすつもりなんじゃあ……?
そんな視線に気がついてか、彼女は表情を、安心させるようなほほ笑みに変える。
「わたくしたちは、回廊の開放と封印を見届けるためにここに残るの。でも、大丈夫。わたくしたちアリョーシャ族は守られるから」
どうやら、死ぬようなことはないらしい。
「それじゃあ、我々は……」
と、目を細めて、サラヴァンさん。回廊の出入口の封印が、どんどん光を濃くしてきている。アリョーシャ族は守られるとしても、アーリアさんの話からして、わたしたちは守られないんだろう。
「皆さん、急いで。気をつけて行ってください」
ケーニッヒが声を掛け、サラヴァンさんが駆け出す。それに、バロンも続いた。
「ケーニッヒ……」
わたしも神殿の外に走り出して、柱の間から一度、振り返る。
「お元気で」
彼はいつものようにほほ笑んでいた。
それが少し寂しげに見えたのは、わたしの希望だったのかもしれない。
「それじゃあ、また」
さよならは言わない。再会のための挨拶を残して、わたしは細かく振動し始めた大地を駆けた。
大地は不気味な鳴き声を立てて、空は空気が張りつめている。
準備を終えて飛び立った〈サンタモニカ〉号は、滅多に出すことのない最大速度で低空飛行していた。向かう先は海岸のほう。海なら、もし墜落しても被害が少なくて済むだろうという考えだ。
「なあ、コレット。船室に入ってたほうがいいんじゃないか?」
帽子と一緒に抱えられたバロンが、腕の中で声を上げる。
わたしはなぜか吹きすさぶ強風の中にいたくて、船室ではなく甲板に座っていた。目は、ぼうっと神殿のほうへ向けている。
わたしは我に返って、バロンを見下ろしたあと、また神殿の方向を見た。いや、目を向けるだけでなくちゃんと視た。
「……光ってる」
ポツリとことばが洩れる。
つられて、バロンも首を伸ばしてそちらを見た。
「おわぁぁっ!?」
強風に負けない大声が響いた。
神殿の方向、地平線から、奇妙なものが顔を出していた。光の線が縦横無尽に走った、網のようなもの。中に、たぶん神殿を包み込んでいるのだろう。
それに、淡い光が網から漏れ出している。網は、まるでその光を封じ込めるようにしているけれど、抑え切れないのか、見る見る破裂しそうに押し広げられていく。
網が破られたら、回廊の力の波動が爆発するってこと?
「船室に入ろう!」
頭の中のごちゃごちゃを、生存本能が上回った。強風に足をとられながら、木箱やタルや柱を支えに船室をめざす。
でも、ドアに辿り着く前に、後ろで轟音が聞こえた。
「うわ……!」
光が爆発する。世界を染め上げていく。
ただ、それだけだ。何の痛みもなく、世界が背後から光に染め上げられ、光の壁が通り抜けていっただけ。
あれ、これだけ?
などと思ったのも束の間、
「つかまれ!」
窓からサラヴァンさんが叫び、とっさに柱にしがみつく。
光より遅れてきたのは、凄まじい爆風。〈サンタモニカ〉号自体がグイと押される。端にあったタルがひとつさらわれて、船から転がり落ちていく。
わたしの身体が浮き上がり、足が床につかない。必死に腕に力を入れ、バロンも必死にわたしにしがみつく。爪が立てられてちょっと痛い。
幸い、船は地上に激突することなく、サラヴァンさんの操縦で体勢を立て直す。
凄い風ではあったものの、通り抜けるのは一瞬だ。
でも、わたしは胸の中を冷たい風が通り抜けて、それが何か大事なものを奪っていったのを感じた。
「コレット、どうした?」
バロンが困ったようにわたしを見上げる。
木箱やタルがメチャクチャに転がっている甲板の上にへたり込んだまま、わたしは涙がとまらなかった。
「何でだろ……助かったのに」
自分でも、理由がよくわからない。別に、泣きたいことなんてないはずだ。なのに、あとからあとからあふれてくる。
わたしの前で、バロンがおろおろと、落ち着きなく歩き回っていた。
やがて、涙はおさまる。変だな、と思いながら服の袖で目もとを拭う。なぜか、世界が寂しくなったように感じる。
「あそこ、コレットの故郷じゃない?」
呼ばれて、我に返った。
船の端から地上を見渡すと、海岸が近づくのが見えた。街並みはわたしが知っているものとほとんど変わりない。ただ、爆風の影響か、建物の一部や船が吹き飛ばされているらしい。少しは、怪我人も出ているかもしれない。
寄るのは気まずいと思っていたけれど、さすがに、この状況を見せられると心配になる。それに、誰かがいつか、故郷に一旦戻るように勧めていたような気がした。
「だいぶ無理したからなー。修理のため、しばらくリギルに寄るぞ。コレットも、家族を安心させてやりな」
と、サラヴァンさん。
確かにこの状況じゃ、家族も心配しているかもしれない。元気な顔を見せるくらい、してもいいだろう。怒られないといいな。
「へえ、コレットはあそこで育ったんだ。いいところじゃない。おいしそうな魚がとれそうだし」
バロンは一目見て、リギルが気に入ったらしい。
〈サンタモニカ〉号は海辺から少し離れた、郊外に降下し始める。懐かしい街並みがどんどん近づいてくる。
「それに、コレットはあそこでケーニッヒに会ったんだよね」
わたしは、そのことばの意味がわからなかった。
「誰に会ったって?」
「だから、ケーニッヒに」
「誰、それ?」
わたしが訊くと、バロンは一瞬黙り、目を見開いて、まるで威嚇するように尻尾を立てる。たぶん、驚いてるんだろう。
「誰って……さっきまで、一緒だったじゃないか!」
わたしには、相手の言うことが信じられない。一体、誰と一緒だったって言うんだろう?だって、そんな名前の人に出会った記憶なんて、まったくないんだから。
わたしが戸惑い、バロンがまたおろおろしている間に、船は静かにリギルの郊外に着陸していた。操舵室のドアが開いてサラヴァンさんが姿を見せると、黒猫は慌ててそちらに一直線。
「ちょっと、サラヴァンもコレットに言ってやってよ! ケーニッヒのこと、知らないって言うんだよ!」
サラヴァンは顔色を変えて、こちらを見る。
わたしには、わけがわからない。
「ちょっと、二人とも、誰の話をしてるの?」
本当に、二人とも何かおかしいなあ。
「悪い冗談……を言っているようには見えないな」
サラヴァンさんは肩をすくめ、険しかった表情を、少し悲しそうなものに変えた。そして、足もとを見下ろす。
「これがたぶん……最後の魔法、だったんだろうよ。これがコレットのため、ってことか」
「何でそうなるのさっ!」
「覚えていられるのも辛かったのかもな」
バロンに答えて、どこか遠く、空の向こうを見る。そこにはただ、赤い太陽が浮かんでいるだけだ。
二人が何を話しているのかはわからなかった。ただ、わたしは耳飾りが片方ないことに気がついて、どこでなくしたんだろう、少し寂しい気がしたのはこれのせいか――と思う。
でも、心のどこかで、それだけじゃない寂しさというか、ぽっかり穴が空いたような虚しさがあることにも気がついている。
空の旅に出てから初めて、わたしは少しだけ、家に帰りたい、と思った。
エピローグ
〈サンタモニカ〉号がリギルに降りて一週間。
この一週間の間に、爆風で散らばった家の破片やら木の枝やらもだいぶ片付けられ、町は平穏を取り戻しつつあった。
空も、太陽がこれまで以上に巨大化することはないようだ。と言っても、三日目以降は空は雲に覆われ、太陽が見えないけど、曇っていること自体いい兆候だ、とサラヴァンさんが言っていた。
サラヴァンさんとバロンは、船で寝泊りしている。毎日様子を見に行ってるけど、リギルの人々の中に協力してくれる人もいて、だいぶ修理は進んでいた。
それで、わたしはというと、実家の雑貨屋に帰った。家は窓が割れたりはしたものの、それほど被害はなかった。わたしの部屋も、ほとんど出てきたときのまま。
家族も、あんまり変わっていない。妹の身長がだいぶわたしに追いついてきたくらい。
両親は、細かいことは何も言わずにわたしを受け入れてくれた。お祖父ちゃんは、「生きていてくれただけで良かった、心底安心した」と言ってうんうんうなずいていた。この状況じゃ、まず安心したところで、細かいことをきいたりする気になれないのかもしれない。
それとも、わたしが半分魂が抜けたようになっていたから、怒る気にもなれなかったんだろうか。
そう、わたしは、ちょっと気が抜けていた。何だか、大事なものがあるのにそれには気づくことができないような、虚しい気分だった。
だから最初の数日は、ほとんど自分の部屋で過ごした。でも、もともと外で過ごすのが好きだから、外を歩き回って残骸の片付けの手伝いなんかをするようになった。昔の知り合いに会ったりもする。
「ほんと、久々よね、コレット。どうだった、広い世界は?」
外の世界に憧れていたわたしを知る女友だちが、浜辺に散った木片を拾ってゴミ袋に放りながら質問する。
「んー、色々あったよ。美味しいものもあったし、危ない目にもあったし、楽しいことも、ほかのことも、色々」
「カッコイイ人いた?」
「まあ、そうでない人がいれば綺麗な人もいるかな」
わたしが適当に答えると、彼女は興味津々で顔を寄せてくる。
「恋人とか、できたんじゃないの?」
何かが頭の中をよぎった。幻みたいな、曖昧な何か。
「まっさかー」
最近良くあるそれを、わたしは気のせいだと思った。
でも、友人は、わたしの答を謙遜だと思ったらしい。
「それじゃあ、なんで耳飾り、片方ないのさ」
言われて、自分でも違和感を感じる。これ……誰かにあげたんだっけ?
片方だけになっても、なぜだか外せずにいた。外したら、虚しさがもっと大きくなりそうだった。
「どっかでなくしたの。それより、仕事仕事」
片付けに集中しようと身を屈めたとき、顔見知りのおじさんが少し離れたところで大声をあげる。
「おお、今日はこの辺で切り上げようぜ! 空模様が怪しいからなあ!」
そのことばで見上げると、空には、太陽がおかしくなってからは見たこともない光景が広がっている。厚い雲が敷き詰められていた。
ゴミをまとめると、わたしはほかのみんなと一緒に家路につく。
もう少しで辿り着くという頃、ポタポタと、水滴が落ちてきた。
見上げると、久々の雨はどんどん落とす雫の量を増やす。
それがわたしの中の何かを溶かしていく。
雨は好きだ。そう思った瞬間に。
――なんで、忘れていたんだろう。
そうだ、わたしは忘れていた。あの神殿を出て少ししてから今までずっと。二年ほど前から、ほとんどずっと一緒にいた相手を。
ケーニッヒ。
思い出した、何もかも。
虚しさは、埋められるなり別の虚しさに変わる。もう会えない、死んだも同然。
わたしは雨の中を歩き回った。窓から不思議そうにこちらを見る顔もあるけれど、そんなのはかまわなかった。いくら泣いても、雨が涙を流してくれる。
しばらく歩き回ると、少しだけ冷静になる。
ケーニッヒは死んだわけじゃない。生きて、ちゃんと帰ってくる。百年後か、千年後かもしれないけれど。
それでもいいじゃないか。彼が元気で、幸せに生きてくれるのだと思えば、もう死んでしまったと思うよりはずいぶんマシだ。
気がつけば、だいぶ歩き回っていた。脚が痛くて、人の目のない、街外れの木の下に座り込む。
冷たさも余り感じない。長い間ぼうっとしていた。
やがて、しとしと降り注ぐ雨の中、地面に円形の影が落ちる。傘だ。誰かが傘をさしかけてくれているらしい。
「お嬢さん、風邪をひきますよ」
言われて、相手を見上げる。
少しして、ようやくわたしは相手の声色を、ことばの意味を認識する。
傘の下の見慣れた笑顔がわたしの記憶の中のものと重なるまでかかった時間は、ほんの少しだった。
〈了〉