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〈サンタモニカ〉号から見下ろす地上の風景は見慣れてるけど、広がる山脈というのもいいものだ。この山脈はほとんどが岩山でできていて、赤茶色の峰が連なる、古の雰囲気を感じさせる風景を構成している。
帽子を押さえながら下を覗くわたしの横に置かれた木箱上で、バロンが顔を洗っている。その仕草は、そのまんま猫のようだ。
それにしても、地上に降りたら暑いだろうな。空の上でも、空気がいつもより熱されているのが感じられる。地平線からだいぶ浮き上がってきた太陽は、気のせいか、昨日よりさらに大きくなってるように見えた。
「どうやら、遺跡へは飛び降りることになりそうですよ。覚悟はいいですか?」
「初めてでもないでしょ。平気平気」
操舵室でサラヴァンさんと話していたケーニッヒが、からかうような問いかけをしてくる。
〈サンタモニカ〉号は大きい。着陸できるだけの空間がないときに、今までにも何度か、低空飛行中に縄梯子から飛び降りて地上に降りたことがある。
地図からして遺跡周辺にも降りられる場所がなさそうなので、今回もそうやって飛び降りることになるってことは予想していた。ケーニッヒはそのことをサラヴァンさんと話していたんだろう。
「ほら、見えてきたみたいだよ」
赤い太陽を視界の端に捉えながら、地上に今までとは違った形を見つけて、わたしはそちらを見下ろす。赤茶色の四角と長方形を組み合わせたような建物群が、岩山の峰に囲まれている。
〈クラン・ディ・アリョーシャ〉の遺跡。アリョーシャ族の王さまの宮殿らしい。詳しいことまでは、まだわかっていないようだけれど。
普通はこういう遺跡にはおいそれと近づけないものだけれど、国の管理もこんな険しい山の中じゃ行き届いていない。出入り自由だ――出入りができるのなら。
「それじゃあ、行きますか」
合図用の発煙筒を懐にしまいながら、ケーニッヒがリュートを背負いなおす。
眼下では、どんどん遺跡が近づいてくる。ぐっと高度を落として、船が山の峰をいくつも越えるのを見るのは、何だか不思議な感じ。赤茶色の海の上を滑っているような錯覚に陥る。
さらに、船のスピードも緩やかになっていく。
「いつでも逃げられるようにしておくからな。気をつけろよ!」
窓からサラヴァンさんが顔を出して叫ぶ。
ほとんど歩くような速さで、〈サンタモニカ〉号は城門を越えた。
「あれ、バロンも行くの?」
縄梯子を放り投げて降り始めたわたしの肩に、ロバタナ族がしがみついてくる。
「さすがに、珍しい遺跡には興味を引かれるんだ」
耳もとからの返事を聞きながら、城壁と建物への出入口の真ん中辺りへ飛び降りる。赤茶けた埃が舞って、ちょっと咳き込む。
続いて、そばにケーニッヒが着地した。
〈サンタモニカ〉号は遺跡の上を舐めるように低空飛行したあと、ふたたび高度を上げて、ゆっくりと上空を回り始める。発煙筒で合図をしたら、すぐに迎えに来てくれることになっている。
船を見送ると、わたしは、遺跡の建物を見渡した。
ずいぶん、長い年月を経てきたのだろう、あちこちにひび割れが走っている。それでも、城壁や壁に刻まれた装飾やあちこちに見える像は、充分芸術的だった。
本の中でしか見たことのないような光景にしばらくの間、わたしは立ち尽くして見入っていた。
一方のケーニッヒは、何やらしゃがみこんで、地面を撫でている。
「どうやら、最近出入した人がいるみたいですね。二人……いや、少なくとも三人はいたはずです」
「……え、最近?」
我に返って、驚きの声をあげる。
だって、普通はここに来れないはずじゃないか。わたしたちと同じように、飛行船や気球のような手段を持っている人も、いないわけじゃないだろうけれど。
「たぶん、アリョーシャ族でしょう。何か、魔法の仕掛けがあるのかもしれません。この遺跡を見守る、ドーランに住む末裔たちだけが知る移動用魔法とか」
「へえ。当然、あんたは知らないよね」
「ええ、ドーラン出身じゃありませんので」
出入口の両開きの扉は、開けっ放しになっていた。わたしたちは並んで、王宮だったという建物内に入る。
そう、ここは王宮だったんだ。少なくとも、当時のアリョーシャ族にとっては行き来しやすいところだったはず。
それとも、魔法で空を飛んだり瞬間移動したりってことができて、魔法使いだから地形も距離も関係なかったのかな。
すっかり古代のロマンに浸っていたわたしを、足もとに飛び降りたバロンが引き戻す。
「知ってるにおいがするなあ」
クンクン鼻を動かしてたかと思うと、そんなことばを口にする。
嫌な想像が、脳裏を行き過ぎる。
「それって……イザナークで会ったあの二人ってこと?」
「そう」
薄茶色の目が、天井近くに並ぶ小窓から差し込む陽を反射して、きらりと光る。
「こんなところになんで……」
「さすがに、鉢合わせする可能性は低いとは思いますけど、警戒したほうが良さそうですね」
入ってすぐに広がる大きな広間の中央辺りで足を止める。
「ただ、ここに来れるということは、アリョーシャ族なんでしょうか」
「同族が魔法使ってるの見て、厄介なことにならないよう、ご親切に忠告するために追っかけてきたとか?」
「あれはそんな気迫じゃなかったよ。エサ盗られたみたいだった」
ケーニッヒの頭上という定位置によじ登りながら、バロンが否定する。確かに彼の言うとおり、イザナークで見た追っ手の気迫は、ただならないものがあった。
「とにかく、考えても仕方がないことはどうしようもないし、さっさとここで調べることを調べよう。どこに文字が刻まれてるんだっけ?」
この広間、左右に通路への入口、奥の左右から階段、奥の真ん中に大きな通路への出口と、行き先がたくさんある。
ケーニッヒは、例の地図の写しを取り出した。簡単だけど、遺跡の簡単な全体図くらいは載っている。
「奥に石板があると聞いていますから、おそらく真っ直ぐでしょう」
「じゃ、行こっか」
わたしは無駄に元気よく言って、真っ直ぐ続く奥の通路へ歩き出す。
余り生き物もいなそうな岩山に囲まれた、大きな古の宮殿だ。ちょっと不安になるほどの静寂に包まれている。声を出すと、幾重にも小さな山彦が返ってきてそれも不気味ではあるものの、無音よりマシ。
広間ほどではないけれど、通路も天井がかなり高い。神話の一節のような絵が彫り込まれている。これだけ長い通路の天井に彫り込むのは時間がかかるだろうな、とか、職人さんを雇ったならどれくらいお金がかかったんだろう、とか、色々な想像や推測が頭の中に浮かんでは消える。
「あれがそうみたいですね」
通路の終わりは、思ったより早く訪れた。
それぞれ形の違う冠を被る虎に似た獣が向かい合わせに立ち上がった絵と、その獣が掲げるような感じで石板が彫り込まれた壁が、行く手を塞ぐ。
近づいてみると、見たことのない文字が石板に連なっている。これがアリョーシャ族のことばか。
「今、アリョーシャ族の重大な秘密があきらかに」
妙に力のこもったバロンのことばに苦笑しながら、ケーニッヒは石板を読んだ。
バロンが言うほど大げさではないけど、わたしは妙に緊張してしまっているのを自覚する。わたしたちが最初、ってわけじゃないけれど、まだ一般的には知られてないことを知るっていうのは、やっぱり好奇心を強く刺激される。
「えー、関係ありそうなところだけ読みますね。この遺跡は太陽の民アリョーシャ族の一八番目の王、スカビヤ・ディ・アリョーシャによって建立された。アリョーシャ族は古来より、太陽を安定させる役目を持っていた……」
「太陽を安定させる?」
「待ってください、まだ読みますから……大昔の王が魔法使いをたくさん集めて太陽回廊を創りあげ、太陽神殿に封じた。アリョーシャの血を引く者が足を踏み入れたとき、封印は解かれる。ただし、みだりに訪れることなかれ。封印を解いて回廊の彼方へ至る瞬間、回廊の力の反動が地上に影響する」
そこまで説明すると、ケーニッヒは一旦、読むのをやめる。
わたしは、今までの情報を頭の中でまとめた。
「つまり……以前太陽に異状があったときは、アリョーシャ族が太陽回廊とやらを使って元に戻したってことね。その、太陽回廊……だかを封じた神殿の場所は?」
「書いてありますよ。北東の海辺付近の山だそうです」
海辺付近、ということばで、わたしは思い出した。そこは、わたしの故郷リギルの近くだ。
となると、封印を開くと地上に影響があるというのが気になる。まさか、町が吹っ飛ぶとかいうことにはならないよね……。
「んじゃあ、ケーニッヒが太陽神殿に行けば太陽は元に戻るのか?」
わたしが迷ってるうちに、バロンが核心をついたことを言う。
「それはわかりませんが……太陽を管理する魔法の使い方など、詳しい方法に続きがあるらしいんです。それが、この壁の向こうに」
と、ケーニッヒが指先で壁をつついた。コツン、と乾いた音がする。
扉じゃなくて壁。どこにも、ズレて開くような溝はない。この分厚い壁の向こうに行くなんて、どこをどう迂回すればいいんだろう。
「コレット、ここは一発……」
と、ケーニッヒは壁を殴る真似。
「オイ」
さすがに指が折れるだけだろう、それは。
「いやあ、実は、壁の向こうへの行き方は石板に書いてあるんです」
赤くなった頬を撫でながら言う。ということは、さっきのはわざとか。なぜこいつはいつも殴られるようなことを言うのだろう。
でも、二回連続で殴るのは面倒なので黙っていると、相手はなぜか少し残念そうに先を続ける。
「この先は王と王妃の間。中に入りたければ、その証を見せよ。聖獣の前に手をかざすのだ、だそうです」
王と王妃の証?
と、わたしが不思議そうな顔をしていると、
「ああ、こういう仕掛けって、王と王妃を真似ていれば大丈夫だと思いますよ。もともと、すでに亡くなっているご本人だけしか入れないなら意味がない仕掛けですし」
なるほど確かに……って。
ケーニッヒが王さま役で、わたしが王妃役ってこと?
「そ、そんなの本当にできるの? それに、わたしはアリョーシャ族でも何でもないんだよ」
「それは、大丈夫だと思いますよ。耳飾りの魔力に反応するでしょうから。まあ、ここでこうなったのは偶然ですけれどね。せっかく行ける条件がそろっているんですから、行ってみましょうよ」
確かに、彼の言うとおり。でも、照れくさいものは照れくさい。
ただ、覚悟を決めるしかないか。
同じく、覚悟を決めたのか、バロンが羽根付帽子から降りて地面に伏せる。
「ボクは行けないし、ここで待ってるよ。できるだけ早く戻ってきてよ」
そっか。王と王妃役しか、壁の向こうに行けないんだ。というか、待てよ、行ったとして、戻ってこれるのか?
まあ、行く方法があるんなら戻る方法もあるだろう。と、楽観的に考えることにする。
とか散々迷ってて、実は壁の向こうに行けなかったりして。
「それじゃあ、準備はいいですか?」
ケーニッヒの様子からすると、まず大丈夫みたいだけれど。
わたしは、彼が手をかざした聖獣と向かい合う、王妃の冠を被っているらしい聖獣に右手を向ける。
「行くよ」
埃臭い空気を深く吸い込み、自分を奮い立たせるように声を掛けたときには、もうすでに視界の中で、周囲が白い光に包まれ始めていた。
何か、温かくて柔らかい感触。
それに全身を包まれているような、心地いい気分でわたしはまぶたを持ち上げた。
まず目に飛び込んできたのは、装飾が綺麗な姿見だ。その中に映った自分自身に、わたしはびっくり仰天。
――な、何だこれええぇぇぇ!
あんまり派手派手でないのは幸いだけれど、身にまとうのは、淡い桃色のドレス。わたしのような庶民には一生縁がないはずの高価そうな服。金色のネックレスやブレスレットまで身につけている。耳につけたままの耳飾りがいっそう貧相に見えるくらいだ。
そりゃ、小さい頃は、絵本に出てくるお姫さまのドレスに憧れたりはしたけど、この歳にもなって絵に描いたようなお姫さまドレスを着るのは恥ずかしい。
それに、もとの服はどうした。誰が脱がせたっ!
少しの間、赤面しながら混乱する。でも、姿見でそんな自分の顔を見ていたら、何だか馬鹿らしくなってくる。
きっと、これもアリョーシャ族の魔法の仕掛けか何かだろう。それに、ここで一人で恥ずかしがってたって仕方がない。できることをしよう。
わたしは、ふかふかのソファーから立ち上がった。たぶん王妃の自室なんだろうけれど、ここは、綺麗な調度品が並べられた一室。床には高そうなじゅうたんが敷き詰められていて、埃ひとつ落ちていない。
窓から外を眺めてみると、灰色の山並みと空が見えた。普通の空間ではなさそうだ。
窓はどうやっても開かなかったけど、ドアは取っ手を回すと簡単に押し開けられた。ドレスのスカートは長いけど、裾を引きずるほどじゃない。歩いたり走ったりするのには問題なさそう。
部屋の外には、廊下が続いている。真っ直ぐ一本道。
「おーい、ケーニッヒー!」
声をあげ、早足で廊下を進む。あんなんでも、いないよりはいるほうがマシだ。
呼びかけながら、赤いじゅうたんの上を歩く。途中から、ほとんど駆け足になってた。
ここはついさっきまでいたはずの遺跡の中以上に静かだ。埃ひとつ落ちてないし、あそこよりは、人が生活していそうな雰囲気はあるんだけど……それだけに、生き物の気配がまったくないような静寂は息が詰まる。
廊下の壁には絵が掛けてあったりするけど、それを眺めるより、早くこの廊下を出たい。
「おーい」
呼びかけというより、自分を励ますための声。
それに、行く手から返事があった。
「コレット、ここです!」
小さな声だったけど、確かに耳に届く。やっと通路の出口が見えて、そこで白い人影が手を振っていた。
わたしがこんな格好してるだけあって、廊下を出たところでわたしを迎えたケーニッヒのほうも普段と服を変えていた。
白い、貴族か騎士の正装のようにも見える、上等そうな服。縁に青い模様が入っている。肩にかけたケープには、翼を広げた鳥に似た紋章。
「その紋章、あの男たちが着けてた……」
わたしが指さすと、彼も心得たようにうなずく。
「アリョーシャ族か、この王家の紋章でしょう。やはり、あの二人組もアリョーシャ族には間違いなさそうですね」
「それはそうとして、何でこんな格好……」
思い出して、わたしはまた、顔が熱くなる。
「ご先祖さまの前だから、それなりの格好をしろってことじゃないですか? よく似合ってますよ、コレット」
そんなことを言われると、ますます照れくさい。
一方のケーニッヒは普段と変わりなく自然体だけれど、それも少し優雅に見える。そのままどこの超一流の社交場に出してもおかしくないくらい似合っていたし、綺麗だった。
「さあ、お姫さま、行きましょうか」
そんな恥ずかしいことを言いながら、手を差し出してくる。
わたしじゃあ、全然お似合いなんかじゃないけど。それでもいい、覚悟を決めた。
「頼みますよ、ナイトさま」
芝居がかったセリフを口にして、相手の手を握る。
何か、結婚式みたい。そう思いながら、手を引かれるままに歩き出す。
わたしが出てきた廊下と、その迎えにあるおそらくケーニッヒが出てきた廊下のほかに、出入口はない。ただ、この部屋自体がかなり大きいらしく、奥が見えない。
部屋の奥は、緩やかな、短い階段になっている。段を上るうちに少しずつ、目的地が見えてきた。
王さまと、王妃のものらしい豪華な椅子。ふたつの椅子の間の少し手前に、青く光る球が浮いている。
「……何これ」
目的は、どうみても浮かんでいる球体だ。ほかに変わったものや、石板なんかはなさそうだし。
近寄ってみると球体は一抱えほどの大きさで、色鮮やかな水面を映し出しているように、表面が波うっている風に見える。
「魔力を感じます。古の魔法で創られたものなのは確かみたいですね」
言いながら、ケーニッヒが指先で、恐る恐るつついてみる。
すると、触れたところから波紋が広がった。その波紋の広がりに合わせたように、表面に黒い文字が浮かび上がってくる。
「アリョーシャ族の記録媒体、だそうですよ」
文字はやっぱり、アリョーシャ族のことば。ケーニッヒが読めないわたしのために読み上げる。
浮かび上がった文章はしばらくすると消え、別の文章が浮かんでくる。こうやって、たくさんの文章を記録しておいたり表示したりする記録媒体なのか。
「太陽の管理方法について。太陽回廊は、ある程度大きな魔力を持った者でなければ通り抜けられない。回廊は大き過ぎる太陽の力を制御するため、やはり大き過ぎる魔力を用いて創らなければならなかった。回廊を開くのは重大事のときだけでなければならない」
重大事、つまり、太陽に異変が起きたときか。それなら、今も充分、回廊を開く理由はあると言える。
「回廊ではその巨大過ぎる力のために、時空の歪みをも起こしている。太陽の管理者は覚悟を持って挑まなければならない」
「えっ、太陽を元に戻そうとすると、タダじゃすまないってこと?」
思わず口を挟むと、目は文字を追いながらも、ケーニッヒも浮かない表情。
「あとは具体的にどうするかについてで、それほど難しいことではありませんが……さっと行って、さっと帰ってこれるものではないようですね」
「そ、そっか。じゃあ、そんなこと、ほかの人に任せようよ」
わたしが軽い調子で言うと、彼は少しあきれたような目を向ける。
「コレット……人でなしですね。まあわかってましたけど」
「わかってたのかよ。……じゃあいいじゃない。ケーニッヒがどうにかなるくらいなら、誰かほかのアリョーシャ族の人にでも頼もう。いや、この情報を公開すれば、親切なアリョーシャ族の誰かが自分がやるって名のり出てくれるよ」
「コレット……」
早口でまくしたてるわたしを眺めていた彼の表情が変わる。少し驚いたような表情から、嬉しそうな笑顔に。
「もしかして……わたしのこと、心配してます?」
ギクリ。思わず、鼓動が速くなる。
「だ、誰がそんな……ただ、同じアリョーシャ族でもやっぱり自分の知らない人より知ってる人を守りたいと思うのが自然でしょ。厄介ごとには、関わらないのが利口だよ」
ケーニッヒは答えない。悩むように顎に手を当ててから、その手を球体に持っていく。
「とにかく、一旦、船に戻りましょう」
彼の指が球体の表面に浮かんでいた短い文字列に触れた瞬間、辺りが白い光に包まれた。
光がおさまると、わたしたちはいつもの服装で、赤茶けた壁に囲まれ、見慣れた黒猫を前にしている。
「あ、おかえりー」
バロンは少し待ちくたびれた様子で言って、ひょいひょい、とケーニッヒの頭上へ。
「それでさ、何かわかった?」
「まあ、色々とわかったことにはわかったんですけど……船に戻ってから話しますよ。それまでのお楽しみです」
とても、楽しめるような話じゃない。でも、わたしは黙っていた。
もう、この遺跡に用事はない。いつもなら色々探険したいと思うところだけれど、今はそんな気分じゃなかった。あとは外に出て発煙筒で合図をして、迎えに来てもらうだけ。
わたしたちは広間に引き返す。開けっ放しの扉から、山並みが見えた。
そのまま外へ出ようと歩き続ける――が、扉をくぐる前に手を引かれた。
「誰かいます!」
わけがかわらないうちに、引っ張られて引き返す。とっさに振り返ると、扉の向こうで地面に影が落ち、揺れた。
「待ちなさい!」
影に続いて姿を見せたのは、赤茶色の風景に溶け込みそうな姿。
「あいつらだ。こんなところまで追っかけてくるなんて」
バロンがあきれ気味に言う。
ケーニッヒはとりあえず、階段を駆け上る。当然それを追いかけてくる二人組。
階段を上りきると、廊下が続いている。左右に部屋が並んでいるけれど、逃走の手助けになりそうなものはない。埃を舞い上げながら、追い立てられるように直進して、曲がり角を右へ。
間もなく、広めの空間に出る。わたしは、隅に置かれた大きなツボに目を奪われた。
服が汚れるのもかまわずそれを脇に抱えたまま、ふたたび狭い通路へ。少し遅れて、連中も通路に入ってくる。
「コレット、階段です」
ここで投げれば足止めになるかと思っていたけれど、階段で上から投げるほうが効果的だ。ケーニッヒの声で思いとどまる。
狭い階段を、わたしたちは一気に駆け上った。そして、追いかけてきた二人組へ――
「どりゃあーっ!」
片手で思いっきり上からツボを投げ落とす。
ぜえぜえ言いながら駆け上っていた二人に、これは避けようがない。情けない悲鳴を上げて、ツボと一緒にゴロゴロと転がり落ちる。
あちこち打ちながら階段下まで落ち、重なって倒れる。それが呻きながら身を起こそうとしている間に、ケーニッヒは呪文を唱えていた。
「〈リーブル・ナウザース〉」
彼が指さすと、そこ――二人組のそばの床から緑の芽が顔を出し、あっという間に伸びて太い蔦になる。それが状況が良くわかっていないらしい男たちをからめとった。
「ひぃっ! 助けてくれ!」
「放してくれー!」
そんなことを叫ぶ二人に、わたしたちは背中を向ける。
ここは、建物の屋上の一角らしい。向かい側にも階段が見える。
「追っ手の脅威もなくなったことですし、ここで合図しましょう」
眩しそうに空を仰ぎ見て、ケーニッヒが発煙筒を取り出した。
「疲れたなー」
ケーニッヒの頭上で丸くなっているバロンが、膝に両手を当てて呼吸を整えてるわたしの気持ちを代弁する。
まあ、これからゆっくり休めるだろうし。
なんて思ったとき、あるはずのない音が耳に届く。
ケーニッヒもそれに気がついたのか、一瞬動きを止めてから視線を動かす。もう一方の階段へ。
コツ、コツ、という靴音が近づいてくる。
「追っ手はほかにもいたのか?」
バロンの声にも珍しく緊張の色があった。
ケーニッヒは呪文を唱えておくべきかどうか少し迷ってから、発煙筒の蓋に手をかける。いざとなったら、煙をめくらましにしてもと来た階段から逃げるつもりだろう。
今はただ、じっと向かってくる相手を待つ。
空気がやけに張りつめている。静か過ぎる静寂よりも、この靴音は不安を煽る。
やがて、階段から一人の人間が姿を見せ――
「アーリア……さん?」
わたしがぽつりともらしたことばが、周囲に降りた静寂を破った。