第三章 聖魔の鼓動


  六、虚空揺らぎし力


 大きく跳ね飛ばされた巨体が、どうと音を立てて地面に落ちる。
「ザンベルさんっ!」
 馬上から動揺した声を上げる少年騎士の前で、傭兵は、何とか上体を起こす。その額、そして右肩からは鮮血が流れ、金属製の肩当が引き裂かれていた。
「くそっ……全体が見えない壁で守られてやがる」
 狂気を呼ぶ悲鳴が止み、歌で対抗する必要がなくなったと見たシリスが治療用魔法の呪文を唱え、舌打ちするザンベルのもとに走る。
 リンファとロイエ、二人の魔術師は、攻撃用の魔法を用意していた。
 攻撃系神聖魔法の最高位のものでも通用しなかったのだ。魔法はまったく通用しないかのように思われるが、魔法の出番はないと判断するのは、より大きな攻撃力をぶつけてからでも遅くはない――魔術師たちは、そう考えたらしい。
 同時に、いくつもの魔法が放たれる。
「〈スートディザスタ〉!」
「〈フリーズレイ〉!」
 リンファが放つ緋の光は、滅多に見ることのできない、古代魔法。ロイエが放った蒼の光線は、水氷系攻撃魔法でも上位の、冷気の光だ。
 さらに、二人の魔法の解放に呼吸を合わせ、神官戦士たちが白い光を放つ。
 赤と青、白が周囲から伸びてザドムに向かい、交じり合って神秘的な薄紫の柱をつくり上げ、その内側にザドムを捉えた。
 光の柱と同じ色の髪を払いながら、ザンベルの治療を終えた吟遊詩人が立ち上がり、魔界より召喚された狂王を見上げる。
 かすかに見える巨大な輪郭が、身じろぎするように肩を振る。どうやら、何も感じていないわけではないらしい。
 しかし――
「これもダメか」
 余り落胆している様子ではないが、司祭長の溜め息交じりのことばがシリスの耳に届く。
 せめて、ザドムの身体を包む網にひびでも入っていないかと期待をかけて眺めていたものの、ザドムは攻撃を受ける前とまったく同じ様子でそこにそびえたっていた。
「魔法は効かないし、斬りつけても跳ね返される、か」
 司祭長の横で、アステッドが馬上から敵を見上げる。
「さすがはかつて邪神に仕えた狂王……ってところかも知れないな」
 その表情には、徐々に、緊迫した感情が広がりつつあった。
 優秀なフィアリニア軍の精鋭たちとはいえ、神話の時代を神々とともに戦った狂王は、今まで相手にしてきた者たちとは違い過ぎる。異質な存在、まさに、次元の違う場に身を置く存在だ。
 全軍の動ける者たちで力を合わせた魔法攻撃も通用しなかったことに、神官戦士たちの中にも、わずかに動揺が広がっていた。それでも、防御結界を張る集中は乱さず、負傷者たちの治療を担当する者も、ほとんど途切れることなく癒しの魔法を使い続ける。
「ふうん。さすがは魔界の魔族だね。頭を使う戦い方が必要かもしれない」
 魔法攻撃をあきらめ、少年魔術師が不機嫌そうに息を吐く。
「召喚士がいれば送り返すという手段もあったでしょうけれど……よほどの腕がないと無理ね。本体は魔界にあるのだし、もともと身体は死んでいるのだから、自然のものを使って窒息死させる、毒を使うのも無理。攻撃が通じないのだから落とす、潰すのも意味は無いし、攻撃手段がない今、埋めたり足止めしたりで時間を稼いでも無駄」
 リンファが考えながら、早口で現状を分析した。
「じゃあ、打つ手なしじゃねえか」
 ザンベルの声に、轟音が重なった。
 見上げる彼らの目に、大きな拳が映る。それが何度も振り下ろされて防御結界に当たるたびに、大地が揺れるような轟音と、バリン、という音が鳴った。拳が接触するたびに見える何重もの防御結界は、少しずつ枚数が減ってきているように見える。
「考えている間に潰されそうだな」
 ザンベルはつぶやき、少し刃がこぼれた大剣をかまえる。まだ、戦意を失ってはいないらしい。
「あんたみたいな考えなしで勝てる相手でもないけれどね」
 言って、反論するザンベルのわめきを聞き流し、ロイエは軍隊の中心部のほうへと目を向ける。そこにある姿は、彼と生き写しの少年のものだ。
「再度結界を! 遅れを取るな!」
 アステッドが司祭長の指示を、大声で何度も繰り返す。神官戦士たちは、自分の張った結界が消えたことを感じ取ると、再び呪文を唱え、防御結界を展開した。
 それでも明らかに、ザドムの破壊力が結界の展開される速さを上回っていた。
「持久戦じゃあ不利だぞ……
 指示が浸透すると、自らも防御結界を展開していたアステッドが、疲れた様子で、肩をすくめる。
 魔法も、無尽蔵に使い続けられるわけではない。精神を集中し、力を導き続けることで、精神を消耗していく。もう、神官戦士たちはだいぶ続けて魔法を使っている。
「できれば使いたくなかったけれど、ほかにどうしようもなさそうだね……
 目を細めてザドムを見上げていたレスター・クロークは仕方がなさそうに言い、右手に握る聖剣ゼナライザーを見下ろした。
 それと、ほぼ同時のことだった。
「方法はあるよ」
 竪琴を背負いなおしたシリスが、無感動な声音で言う。
「シリス……
 リンファの声は、まるで咎めるようだった。
 それに気がつくことなく、ザンベルと馬を降りたナシェルが身をのり出す。
「本当か! そりゃ、どうやるんだ?」
「師匠の素晴らしい作戦を是非聞きたいですっ!」
 賑やかに詰め寄る二人に、吟遊詩人は苦笑する。
「作戦じゃないんだ」
「魔法……だね」
 少年魔術師が、相手の言葉を遮るようにして告げる。
「それも、古代魔法だ。ついさっき、リンファが使ったような……ね」
「古代魔法?」
 聞き覚えのない単語に、ナシェルがきき返す。ロイエは一瞬、それに答える無駄な労力を使うべきかどうか迷うように間を置いたが、結局、面倒臭そうに再び口を開く。
「超魔法文明時代に開発されたと言われている、強力な魔法だよ。ほとんどは戦いの末に失われたらしいし、使うには膨大な魔力が必要だけれどね」
 彼は説明してから、怪しむような、奇妙な目でシリスを見る。
「その古代魔法なら、あいつの結界も破れる。あいつを倒すこともできるってことだね。まあ、ぼくは使命さえ果たせればいいから、どうやって倒してもかまわないけどね」
「オレはちょっと残念だけどな」
 大剣を鞘に戻し、ザンベルが大きな肩をすくめる。
 シリスは、竪琴をリンファに預けた。
「みんな、少し離れて」
 自らも距離をとりながら、楽器を手放した吟遊詩人が警告する。
 胸を躍らせて彼の様子を眺めていたナシェルや、高みの見物を決め込もうとしていたザンベルも、徐々に、何か普通ではない空気が凝り固まっていくのを感じていた。それに、今からやろうとしていることを本当は拒否したいようなリンファの表情に、ようやく気がつく。
 戦場で培ってきた勘に触れるものがあったのか、ザンベルは魔女を見た。
「その古代魔法ってヤツ……危険なのか?」
 声をひそめての問いに、リンファは素っ気なく、
「聞かないほうがいいことよ」
 とだけ答えた。
 間もなく、歌うような古代語の呪文が流れ出す。

 『虚空に流れし 秩序の源
  闇に歌うは 優しき鎖
  地に埋もれし 影と光
  重なり合うその狭間こそ
  源の力を導く標の道
  古の契約は歌う 終焉の名を
  我今こそ 約束の力に命ず』

 自らも呪文を唱え続けている神官戦士たちにも、収束していく力の流れが感じ取れるのか。周囲に、わずかにざわめきが生まれる。
 レスターやアステッドも、巨大な力の中心に目を向けた。
 シリスの差し出した手のひらの上に、〈黒いもの〉が生まれつつあった。常に輪郭を変化させるそれは、漆黒であることを除けば、たまに人里離れたところにある水辺に生息している魔物、ジェリーに似ている。
『我らが定めを成さんことを――〈バイオブラスト〉!』
 その手の上のうごめく闇が質量を増した。ザドムへ向けて生き物のように宙を這い上がるそれは、まるで巨大な黒い手のようにも見えた。
 あまりに異質な光景に立ちすくむ神官戦士たちの前で、家一軒すら押し潰しそうな大きさの手は狂王の胴をつかむ。
 音もなく、太い胴がえぐられた。巨体のどこからか狂気の悲鳴が上がるが、弱っているのかそれも力なく、人間たちの精神に冷や水を被った程度の衝撃しか与えない。
 それよりも、皆の目は、ザドムに向けられていた。
 赤黒く生々しい傷口から、白い無数の光の粒が舞い上がる。まるで雪のようなそれが、差し出されたままのシリスの手のひらに集まる。
 その間にも、すでに、ザドムの身に変化がおき始めていた。赤黒い、大きくえぐられた傷口の内部が、ボコボコと煮沸するように動き、やがて盛り上がった部分を破り、細長い虫のような筋がほかの盛り上がりまでをつなぎ、幾重にも重なり始める。目を背けたくなるような、おぞましい光景だった。
「再生するのか……?」
 誰かが、茫然とした口調で言う。
 誰もが動くことを忘れた中、レスターが急いで攻撃命令を出した。網目状の結界ごと胴をえぐったのだ。今なら、魔法も通じるはずだ。
 だが、フィアリニア軍から攻撃魔法が飛ぶ前に、吟遊詩人の再度の声が響いた。
『〈コアレイザー〉』
 〈黒いもの〉とは違う直線的な動きで、白い光の束が駆け抜ける。
 それは、ザドムの踝から上を消滅させ、その背後の草原に長い線を刻み、空へと抜けていった。
「やったか!」
 視界を大きく遮っていた姿がほぼ消滅し、ザンベルが歓喜する。
 それに応えるように、ほんのわずかに地面に張り付くようにして残ったザドムの一部がブルブルと震えた。
「おい、まさか……
 この状態からも再生するんじゃないだろうな?
 そうことばを続ける前に、フィアリニア軍の攻撃系神聖魔法の一斉射撃が、狂王の仮の身体を完全に消滅させる。
 それを見届ける前に駆け寄ったリンファが、崩れ落ちるシリスの身体を受け止めた。
 手首を取り、顔色を見て、厳しかった美女の表情はいくらか和らぐ。
「死ぬかもしれなかったってことか?」
 ザンベルのことばに、返事はない。本人も、返答を期待はしていなかったが。
 戦いは終わった。そうと知った神官戦士たちの間が、騒がしくなっていた。
 そのざわめきに消されそうな声で、ロイエの口から、つぶやきが洩れる。
「やはりそういうことか」
 それを、耳ざとく聞き咎め、ザンベルが振り返る。
「何がだよ?」
「まあ、あんたが気がつかないのは不思議じゃないけれどね。おかしいんだよ、古代魔法を使えるのは。旅人が偶然見つけても普通は使えないし、長年修行と経験を積んだ魔術師ならともかく、見た目は若い二人が二人とも使えるなんてね」
 ザンベルとナシェルには、そのことばの意図がわからない様子だが、リンファには、彼が言わんとすることが予想できたらしい。それでも、特に動揺もなく、彼女はただ、耳を傾ける。
 ロイエのほうも、肯定して欲しいがために話しているわけではなかった。
「不老の秘宝で力を得た生き神でもなければ、容易に扱えない魔法ってことさ」
「それじゃあ……人間じゃないってことか!?」
「それも、あれほど強力な魔法を使えるのは、おそらくアートゥレーサ様と同じ……
 古代神と呼ばれるものだ、ということは、さすがにザンベルとナシェルにもわかる。
 驚愕の視線を向けられたリンファは、ふっと息を吐いた。
「大したことじゃない。あなたたちと変わらないわ。不老の秘宝の力を得たのは、ロイエたちも一緒でしょ?」
「ロイエたちって……
 傭兵と少年騎士の視線が、魔術師二人の間を行き来する。
「これは、結構有名な話だもの。前の司祭長が、自分の子どもたちに不老の秘宝を使ったこと」
「ああ、そうだよ。そのために前司祭長は処刑され、レスターは獄中生活を送るはめになったんだからね。まあ、リーンもそうだけど、しょせんぼくらは半端者だけれどね」
 平然と言うそのことばに、ザンベルとナシェルは隅で手を取り合いながら、
「どうやら、この一角で人間はオレたちだけみたいだぞ。何か、肩身が狭いぜ」
「そうですね……師匠、ぼくたちも負けずに頑張りましょう!」
 声をひそめ、怯えたようにささやき合っていた。