第二章 光亡き街


  十二、籠の鳥の理由


 白い長衣をまとった女が、闇に向かって立っていた。その、長いブロンドが流された背中はどこか寂しげで、そして、凛々しくもあった。
 その背中を、シリスは不思議な気分で眺めていた。
「あの……あなたは?」
 そっと歩み寄り、声をかける。近づくと、女が美しい飾りのある曲刀を右手に握っているのが見えた。
「なっ」
 突然、刃が閃いた。女が身体を回転させながら、曲刀を背後に向けて振る。シリスは、とっさに背中から槍を跳ね上げ、両手に握ったそれで受け止めた。刃と槍の柄がこすれ、耳障りな金属音を響かせる。
 女が色白な顔を見せた。その顔に、見覚えがあるような気がした。
「オレはきみの敵じゃない……一体、ここはどこなんだ?」
 確信のないまま問いかける詩人に、細い腕に似合わない力で、女は槍の柄と組み合わせた刃を押し付ける。
「わたしは、行かなければいけない、彼の元へ……
 夢うつつのような調子で言って、女は跳んだ。見えない翼に支えられているかのように宙に静止し、全体重を刃にかける。
「何人殺してでも……
 女のささやきを聞きながら、膝をつき、その次の瞬間、シリスは横に転がった。曲刀が砂礫でゴツゴツした地面をえぐり、小石の煙を噴き上げた。
「もう、この手は多くの神の血で汚れている。例え、相手が罪なき者でも止まらないわ」
 地面に降りると、再び、女は曲刀をかまえる。
「邪魔するつもりはないよ。なぜ、戦わなければいけないんだ?」
 立ち上がって槍をかまえながら、吟遊詩人は女剣士と対峙した。
 女は、初めて表情を動かす。その表情は哀しげで、後戻りできない、差し迫った決意をにじませていた。
「世界が二つに分かれた……ひとつにするには、どちらかが滅びなければならないのよ!」
 曲刀を横にかまえ、彼女は突進した。一瞬にして、シリスの前に迫る。
 目の前に迫る刃のきらめきを凝視しながら、シリスは衝撃にそなえた。近づく銀の刀身に、その赤い瞳が映り――
 気がつくと、周囲の景色が変わっていた。視界に入ってきたのは、隅に蜘蛛の巣が張った、小さな天井。
「大丈夫ですか?」
 色白な、両目を閉ざした女の顔がのぞき込む。シリスは、その顔と曲刀の女の顔が、一瞬、重なって見えた気がした。
「ああ、なんとか」
 頭を掻き、身を起こす。頭がぼうっとしたまま室内を見回すと、毛布に包まれるように眠っているロイエと、そのそばでうずくまっているセヴァリーが見えた。
「あれ……他のみんなは出かけてるんだな」
「ええ。カレトさんが亡くなったようだし、情報収集と、買い物に。暗黒街の情勢の変化によっては、脱出経路も考えないといけませんし」
「そうか……そろそろ脱出の時期だね」
 フィリオーネとことばを交わしながら、シリスは這うようにしてロイエに近づいた。
 少年魔術師は、規則正しい寝息をたてていた。一見彼と同じくらいの年齢に見える〈千年の魔術師〉のほうは、目を閉じているだけにも見える。
 ほっとして壁に背中をもたれたあと、シリスは何か大切なことを忘れているような気がして、記憶を呼び返そうとした。そして、その記憶自体が、目覚めにつながっていないことを思い出す。
「なんだか……記憶が途切れているような」
「無理もありませんよ」
 フィリオーネが、苦笑交じりに口を開く。
「あなたは外から帰ってきた後、急に倒れてしまったのですよ。まあ、軽い風邪と疲労のようですし、その様子なら、もう大丈夫でしょう」
「そうか……
 吟遊詩人は意外な事実を聞かされたような顔をする。本人にそのときの記憶がないので、まるで他人事のような心持ちである。
 疑問が解けると、彼は壁を背にしたまま、何気なく部屋を見渡す。
 静かな時間だった。屋外からも音はなく、暖炉で揺れる火がパチパチとはぜる音だけが、時折響く。
 不意に、フィリオーネがその静けさを破る。
「シリスさん……前にも言いましたが、あの子を……ピーニを外の世界に連れて行っていただけませんか?」
 真剣な表情を向け、彼女は問うた。その、血のつながらない妹への思いの大きさに気づきながら、シリスはうなずくことができない。
「彼女は、今までにも一人で外の世界に出ているね。それでも、必ずここに帰ってくる……それは、彼女がここが帰ってくる場所だと思ってるからじゃないですか。あなたがここにいるから、ここを家だと思っている」
「やはり、わたしも外の世界へ行かなければならないのでしょうか」
 顔を伏せ、フィリオーネは溜め息を洩らす。
「フィリオーネさん。これからオレたちは南西の町に向かうことになるだろう。そこまで魔法を利用してあなたを連れて行き、知り合いに連絡してセルフォンの医者のもとへ送ることはできる……数日はかかるかもしれないけど」
 彼女を説得しようと、シリスは身を乗り出した。
「このままピーニと一緒に暮らしたいなら……あなたは、身体を治すべきだよ。あなたがいなくなれば、ピーニも悲しむ」
「わたしは……ここから出たくないのです。わたしが外界に出れば、多くの人が迷惑をこうむるでしょう。わたしはここにいなくてはいけない。わたしには、普通の生活は許されない」
「なぜ? あなたにも、外界の町で、普通の生活をする権利はあるはず。病気を治して、ピーニと一緒に、幸せな暮らしを……
 熱心に尋ねる詩人のことばに、病に侵された女性は、首を振る。
「わたしは、普通の人間ではないのです」
 赤い瞳を真っ直ぐ見て、彼女は言った。
 シリスは、表情を変えない。驚きの前に、まず、相手の言うことがはっきり理解できないような様子だ。
 そんな彼の顔を見て、唐突に、フィリオーネはほほ笑んだ。そして、その手を伸ばす。白く細い指が、吟遊詩人の頬に触れた。
「わたしの両親は、ヒトではなかった。あなたたちと、同じようなものかもしれません。しかし、母はその、人ではない存在をやめて……それ以来、わたしは長い間、父親と暮らしていました。それがわたしの、唯一の幸せな暮らしの記憶です」
「それで……お父さんは?」
「父は……母の面影を追い、ずっと魔法の研究を続けてきました。わたしは、いくら母のためとはいえ、他人を犠牲にはできません。だからわたしは、父のもとを出ました……そのままあの場所にいれば、父は、わたしの病気も他人の犠牲と引き換えに治そうとしたでしょう」
 ゆっくりとシリスが驚きを表わすのを認めながら、彼女は口もとのほほ笑みに、苦笑を濃くしていく。
「わたしが外界に出ると、父がわたしを迎えに来ます。父は、妄執に囚われている……平然と、周囲の人たちを傷つけるでしょう。それに、父以外の魔族の方がわたしを利用することもあり得ます……何より、わたしが、利用されるのが嫌なのです」
 無言で目を合わせるだけの相手に、フィリオーネは、再び柔らかいほほ笑みを見せた。
「ここが、わたしが唯一心安らぐ場所なのです。ピーニは、いつかわたしが説得することにします……あの子なら、わたしが死んだ後でも、一人でもやっていけるでしょう」
 暗黒都市グラスタ。
 危険で、暗くて、汚れた都市。そこに唯一の居場所を得た女性、フィリオーネ。
 いくら力を貸したとしても、どうしようもなかった。彼女がピーニと外界で普通の生活を取り戻すには、今のシリスらには使うことのできない、手間と時間が必要だった。
 無力さを感じてうなだれるシリスに、フィリオーネの手に続き、顔が近づく。彼女は相手の頭を両手で抱えるようにして、額を合わせた。
「哀しまないでください。わたしは、自分が知る精一杯の幸福を感じています。自分を頼り、力を貸そうとしてくれる人たちがいる。家族だと、友人だと思ってくれる人がいる。それはどこに住んでいるか、いつまで生きるかなんて関係なく、わたしは幸福なことだと思います」
「それはそうかもしれないけど……
 不意に、ドアが開かれた。
 どうやら、出払っていた一同が戻ってきたらしい――
 と、気づいてようやく、シリスは今の自分とフィリオーネの体勢を思い出す。
……あ」
 開かれたドアの向こうのナシェルとザンベルが、目を丸くしていた。一方、二人の間にいるリンファは、無表情に近かった。
「あ~……オレたち、邪魔だったかな?」
 凍りついたような沈黙を破るザンベルのことばに、一方のナシェルは、状況の意味が何もわかっていない様子で、感動したようにうなずく。
「いつの時代も、愛は美しい……ここは若い二人に任せましょう」
「いや、ちょっと待て、これはそういうことじゃ」
 ようやく金縛りが解けたように壁まで離れるシリスに、リンファがずかずかと歩み寄ってくる。
「あら……ずいぶん仲がよさそうね」
「こ、これはちょっとした成り行きでですね……
「成り行きなら、そういうことするの?」
「そうじゃなくて……これはあくまで友情の確認行動というか、なんというか……
 手を腰に当てて見下ろす美女に、シリスは必死で言い訳を並べ立てる。
 その状況に、不思議そうに顔を向けていたフィリオーネは、妹の声を聞いた気がして、ようやく事態が理解できたように顔を上げる。
「ピーニ、戻っているのですか?」
 彼女の呼びかけに、最後尾にいたピーニがしっかりドアを閉じてから、ベッドに歩み寄った。
「姉さん、安い保存食が手に入ったよ。このデカイのが一緒にいると、みんな進んでまけてくれる」
「誰がデカイのだ」
 ザンベルがたくましい肩をすくめながらも、さして気にした様子もなく、隅にどかっと腰を下ろして肉の串焼きにかじりつき始める。
「どうやら騒がしくなってきたようですね」
 壁際で、いつの間にか目を開けていたセヴァリーが、はっきりとした口調で言った。
「ゼピュトルは外ですか。ロイエももう大丈夫のようですし、わたしはそろそろ行かせてもらいますよ」
「セヴァリー……いつから起きてたんだ?」
 ようやくリンファの詰問から解放されたシリスの問いに、白い法衣の少年はいたずらっぽい笑みを浮かべ、
「さあ、いつでしょうね? ……では、またいずれお会いしましょう」
 シリスのぎょっとしたような顔を楽しげに見ながら、グラスタの小さな小屋を出て行った。

 グラスタの朝は、いつでも暗かった。
 その郊外の岩の切れ目を前に、シリス、リンファ、ザンベル、ロイエ、そしてナシェルの五人が、黒々とした街並みを眺めていた。彼らの視界の中心には、一人の少女と、一人の剣士が立っている。
 彼らがここに到着する前から、〈千年の魔術師〉と金色の聖獣の姿はない。昨夜のうちに、暗黒都市の周囲から脱出したのだろう。
「あんた、無茶するのはやめなよ」
 ピーニが年上ぶって言うと、少年魔術師、ロイエは肩をすくめる。
「いつもはあんなの無茶でもないよ。今回は運が悪かっただけさ」
「だといいけどな」
 となりから、ザンベルがロイエの頭を軽く小突いた。
「ところで……ナシェルは、本当についてくるの?」
「もちろんです、師匠! あなたとならどこまでも」
「まあ、自分の面倒を自分で見てくれるならいいけどね」
 困ったような顔のシリスと意気込む少年騎士を見て、リンファがそう結論付ける。
 徐々に、太陽が高くなり始めていた。それを見上げ、改めて、シリスはピーニを見る。
「ピーニ、きみには色々と助けられたよ。お姉さんを大切にね」
 言われるまでもない、という調子で、少女はうなずいた。
「あんたたちも気をつけて。何かあったら、いつでも依頼してよ」
 彼女は、今回かなりの依頼料を受け取っていた。当分は生きていくのに苦労しないだろう。
「レナスも、よろしく頼むよ」
 シリスが顔を向けると、マントに身を包んだ少年剣士は、真剣な目でうなずく。
「ああ……気をつけてな」
「それじゃ、また……行こうか」
 同行者に声をかけ、マントの裾をひるがえし、あるいは軽く手を振る。
「南西へ――」