十、死神の使者
今まで見せていなかった、その本来の姿を現わしたような、暗黒街。荒々しい喧騒に満たされた街はいつもに増して暴走した雰囲気をまとい、慣れているはずのレナスですら、顔をしかめる。降り注ぐ雨も、焼け石に水といった様子だった。
黒いフード付コートを着込んだ二人の青年は、極力目立たぬよう、暗黒街の中枢に進んでいった。だが、いくら努力しようと、目的地が目的地である。進むにつれ、得物を手にうろんげな視線を向けてくる男の姿は増えてくる。
やがて、目的地のそばに辿り着くと、金属製の棒を手にした男が、行く手を阻んだ。
「この先に何か用か？」
おそらく、暗黒街の中心部にそびえる屋敷の主、カレト･ドーナントに雇われた用心棒のうちの一人だろう。男は雨に濡れながら、縁に傷跡が走った目でギロリと若者たちをにらむ。
「ああ。カレトの屋敷に用事があってな」
今は、誤魔化しても仕方がない。素直に答えながら、若い剣士の手は、マントの中で剣の柄に伸ばされている。
用心棒も、それに気づいている様子である。剣士の背後のもう一人の若者が同じく荒事への対抗手段を持っているということにも。
「いいだろう……おかしな真似はするなよ」
男は、無意味な闘争を回避することにしたらしい。
用心棒が道を空けると、周囲で密かに成り行きを見守っていた連中も、とりあえず見送る気配を見せる。だが、少しでもテリトリーへの侵入者が怪しい動きを見せれば、カレトの息がかかった者、カレトに自分を売り込みたい者、あるいはただ単に憂さ晴らしをしたい者などが、一斉に襲いかかるだろう。
「とりあえず一歩でやれる位置にいるのは八……九人か」
「追いかけてくる連中は、まとめて眠らせてやるさ」
「さすがに、この連中は呪歌を予想してないだろうからな。でも、屋敷の連中はわからんぞ」
「建物の中じゃ一度に全員が襲いかかって来ることはできない。玄関で呪歌を使って、眠らなかった連中は少し手荒な方法で意識を飛ばしてもらおうか」
背後を警戒しながら、黒づくめの二人は、間もなく平屋の黒い壁の屋敷に辿り着く。玄関の前に短い階段があり、その中段に、身長より長い棒を抱えた筋肉質な身体の男がうずくまっていた。
「……入るぞ」
レナスは小さく声をかけ、横をすり抜けようとする。
「ああん？」
男は作為的なほど怠惰な反応で、顔を上げ――
ゴッ！
その大きな身体が前方に折れ曲がり、階段の下の段に叩きつけられ、転がる。
「急ごう」
何食わぬ顔で、シリスがコートの内側から取り出していた槍を収める。
彼は、相手が棒の握りの部分をひねろうとした、そのわずかな動きを見逃さなかった。ひねると、隠し刃が飛び出してくるタイプの槍だろう。そうと気づくなり、コートの内側にかまえていた封魔槍を跳ね上げ、柄を相手の後頭部に叩きつけたのである。
「こんなことだろうと思ったが……もう手段を選んでないな」
苦笑しながら、レナスは刀を抜き、背後を振り向く。いくつもの不穏な気配の主たちが、今ははっきりとした殺気をともなって、姿を現わしていた。
先ほど二人の前に立ち塞がった男に、両手で投げナイフをもてあそぶ小男、胴を覆う鎖かたびらを着込んだ格闘家、重そうな分銅つきの鎖を振り回す髪の毛を剃り落とした男、曲刀をかまえた大男たち。
「頼むよ」
竪琴を取り出しながらシリスが言うなり、銀色の光が宙を横切った。
レナスが手にした刀がそれを薙ぎ払い、弾き飛ばす。甲高い金属音が鳴り、弾かれたナイフの切っ先が石畳に突き刺さる。
「オレは魔法は使えない。そっちこそ頼んだぞ」
向かってくる男たちをぐるりと見渡し、レナスは低い声で言う。
シリスは竪琴をかまえながらも、すぐには呪歌を使わない。玄関前の異変に気づいた屋敷の内部の者たちが、できるだけ近づいてくるのを待つ。
幸い、と言うべきか。窓から内部の見張りが一部始終を見ていたらしく、間もなく、屋敷の扉の奥がざわめき、扉は左右に開け放たれる。
同時に、竪琴の弦が弾かれた。
「ふっ！」
再びシリスを狙ったナイフを弾き飛ばすと、レナスは自ら一歩踏み込み、曲刀を手にした男を自分の間合いに入れる。刀は素早く突き出され、先端が太い腕に食い込む。生臭い血の匂いが、雨で湿った空気に溶け出した。
相手はうめき、曲刀を取り落とす。傷は、あと皮一枚分で骨に届くまでに至っている。
剣士たちが刃を組み交わす間に、歌声は流れ始めていた。シリスは弦が濡れて滑らぬようコートを傘にして、その下で弦を弾く。雨音に負けぬよう声を張り上げ、屋敷の扉の奥から飛び出そうとしていた男たちの耳にも届くメロディーを紡ぐ。
邪神の神殿での状況を思い出し、跳び退いて鎖分銅をかわしながら、レナスは耳を塞いだ。彼の目の前で、今まさに突進しようとしていた用心棒がバランスを崩し、巨体を横に傾けて倒れる。
それを皮切りに、カレトの屋敷の玄関にいる者たちは次々と倒れていった。戦いの技術を身につけた大勢の男たちが、その技を振るうこともできずに倒れていく。その光景に、レナスは一種の畏怖を覚える。
「平和的な解決法だな……使い方次第では、大きな暴力になるが」
刀についた血は、一瞬にして雨に洗い流される。レナスが苦笑して振り返ると、シリスは歌うのを止め、軽く咳き込んでから、竪琴と槍を持ち替えた。
「じゃあ、行こうか」
開かれたままの扉の周囲には、十人近い、武装した男たちが転がっていた。全員を縛るだけのロープもないので、二人はそのまま眠りこけている連中をまたぎ、屋敷内に侵入する。
「ここまで侵入されるのは想定してないはずだ。わざわざ金庫や地下を使うとは思えないな」
「どうしようもないよ。端から調べていこう」
溜め息交じりに言うと、シリスは小さめの玄関ホールから東にのびた廊下に向かい、端から扉を開けていく。
「待ち伏せに気をつけろよ」
念を押し、レナスは西の廊下に向かう。
シリスの〈子守り歌〉で眠らされた者たちが、この屋敷のすべての住人とは思えなかった。戦闘要員でない、頭脳労働者や女たちもいるだろう。何より、カレト自身の姿が少しも見当たらない。留守の可能性もあるが、周囲の静けさが、ただ二人の侵入者にはひどく不気味に思えた。
シリスは警戒もそこそこに、薄暗い燭台の灯が照らす廊下で、順にドアを開けていく。鍵はかかっておらず、部屋の半数は空き部屋で、残りの多くは個人用の部屋だった。ベッドと机、棚など、粗末な調度品が並ぶ。
特に怪しい部分はなく、ドアを閉じると、次のドアを開ける。
「これは……？」
窓も明かりもない部屋に、様々な雑貨や武器などが無造作に積まれていた。その山の中には、薬品らしいビンも見える。カレトの支配下にある盗賊や闇商人から手に入れたものだろう。
レナスを呼び部屋に入ると、吟遊詩人は短く呪文を唱え、
「〈ラスターライト〉」
差し出した手のひらの上に光の球を浮かび上がらせると、それを天井すれすれに飛ばし、道具の山を照らし出す。
それぞれの物体の形がはっきりすると、シリスはある一点で視線を留めた。
「ラベルを見りゃわかる。病気の特効薬もあるはずだ」
廊下を警戒しながらレナスが忠告する前に、シリスは動いている。彼は、ある薬ビンを手に取った。そのビンには、他のビンにないものがある。
コルクの横に挟まった、折りたたんだ紙を抜き取り、広げてみる。
「……『エーリャ公国バックナント市東区、ナード医院のレモンド医師へ。注文の薬はすべてそろえました。あなたの研究の成功を祈ります。大公さまが申し出を受けてくれると良いのですが。陰ながら応援しています』……もとは、エーリャ公国に送られるはずだったのか」
手紙を読み終えると、彼はそれを瓶とともに懐にしまう。手紙がカレトたちに見つかると、手紙にある住所の医者に被害が及ぶ可能性があるためだ。
「目的の薬だな。戻るぞ」
一瞬、シリスが即座に目的の物を手にしたことに疑問を持った様子だが、レナスはすぐに表情を引き締める。
「一応、代金を置いていこうかな」
懐を探るシリスに、グラスタの流儀になれた剣士は、呆れた視線を送る。
「それで、ここの連中に奴隷でも買わせるのか？ 盗賊連中に資金援助してやることはない」
「そうだな……」
「薬の本来の持ち主に会う機会があったら、払ってやることだ」
レナスは肩をすくめ、早足で玄関に引き返す。魔法の明かりを消し、シリスもそれに続いた。
玄関前の男たちは、相変わらず、いびきをかいて眠っていた。起きる気配もない者たちを再びまたぎ、二人は再び雨の中に歩き出す。
雨脚は、先ほどより少し強くなっているようだった。
「何だか、こっちも倒れそうだな……」
シリスは寒気を感じ、歩みを緩める。
先をゆくレナスが足を止めて軽く振り返ると、その耳に、かすかな破裂音が届いた。
剣士の目が、見開かれる。彼の右腕から一瞬、赤いものが散った。それもすぐに、雨に流される。
見た目には余り変化がなくとも、少し遅れて感じられた鋭い痛みは、幻ではない。左手で剣の柄を探り、後退しながら、相手を探る。
雨の向こうに、髭をたくわえた、金髪の背の高い男がいた。右手には、黒光りする筒に垂直になる形の柄がついた武器が握られている。北の大陸にそのような射撃用武器があるということは、レナスも聞いたことがあった。
「よけろ！」
青年の左右には、ボウガンをかまえ、剣を腰に吊るした男が四人、控えている。
シリスとレナスは左右に逃れた。矢が三本、その間を抜け、再び、雨音にかき消されそうな破裂音が響く。
「カレトのヤツ、裏口から抜けてやがったか」
推測しながら、少年剣士は左手に刀を握る。右腕は冷え切って、ほとんど感覚がない。
「〈エアボミング〉！」
シリスが、唱えていた呪文の力を解放する。爆風が立ち塞がる五人めがけて撃ちこまれた。
放たれた矢が吹き散らされ、用心棒たちが後ろに転倒する。だが、カレトは素早く身を伏せ、そのまま武器の狙いをつける。
「ち！」
舌打ちしながら、レナスはコートを投げた。水を吸ったフード付コートを着たままでは動きにくい。それに、相手の狙いを逸らしたかった。
同じく、シリスもコートを投げる。視界を妨げられたカレトはわずかに表情を歪め、石畳の上を転がってレナスの斬撃を逃れる。
「〈ボムフィスト〉！」
槍を手に駆けつけながらのシリスの魔法も、カレトは忌々しげに転がって避け、大きく間合いを取って立ち上がった。同時に、牽制のつもりか、狙いもつけずに金属の弾丸を放つ。
運よく、それは横に逸れる。立ち上がろうとしていた用心棒の一人を蹴倒し、カレトに向かおうとしていたレナスを、シリスが制して前に出た。
「はっ！」
突き出された槍を、カレトは無表情でかわす。
シリスは片足を引くと、腰を落として足払いをかける。抵抗もなく、男は転がった。オカラシア大陸性の武器もその手を離れて石畳を滑っていく。
「もう、勝負はついたはずだ。ここは黙って……」
何かが、金髪の男を見下ろす吟遊詩人に飛来した。
彼はほとんど無意識の反応で、マントでそれを打ち払う。特殊な素材でできたマントの表面に筋を作り、親指大の金属の塊が落ちる。
それに気づくこともなく、吟遊詩人は後ずさった。
「こんなものは序の口だよ、源竜魂の追求者よ」
カレトの両肩に、くぼみができていた。金属の塊は、そこから発射されたのだ。
その目からは白目がなくなり、赤一色に染まっている。手が形を変え、指が寄り集まり、鋭い剣となって伸びた。変身する魔物というのは存在するが、これほどグロテスクな変貌は、多くの冒険を重ねてきたシリスでも、そうそう目にする機会がない。
「何が……」
振り返らずに首を振るシリスの横からのぞき込み、レナスは絶句した。
カレトと呼ばれた人間の背中から、不恰好な、二対の黒い翼が突き上がる。
その黒く冷たい輝きを帯びた存在は、魔族というにもおぞましい姿で、ゆらりと立ち上がった。
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