序章 炎と闇の中



 気がつくと、シリスは闇の中に立ち尽くしていた。
 ぬるりとした妙な感触に両手を持ち上げてみると、手のひらが朱に染まっていた。鉄のような独特の臭いが鼻をつく。見下ろすと、ブーツのかかとまで血の海につかっていた。
「夢……か」
 手のぬるりとした感触をリアルに感じながら、彼は今知覚している場所が夢の中であることを確信していた。眠る前までどこにいたのか、彼ははっきりと覚えていた。
 ざわめきが耳をかすめ、振り返る。
 街並みがあった。炎が、逃げ惑う人々ごと、朱に染まった街並みを舐める。揺らめく炎の向こうから、怒号と悲鳴の混じったものが風に乗って届く。
 街の上空、炎のように逆立った赤毛の男が、三日月刀を手に、人々を追い立てる。浅黒い顔に浮かんだ表情は、侮蔑を含む、悦楽の笑み。
「逃がさないぜえ! 無駄だ無駄だ!」
 老若男女が悲鳴を上げ、半ば崩壊して燃え上がった街の外へと必死に走る。だが、門に辿り着くたび、目の前に黒ずくめの男の姿が立ち塞がるのだ。この街は武術が盛んらしく、果敢に戦おうとする者もいるが……実力差が大きく、戦いにもならない。
「ベルオブ、殺しを楽しむのは感心できないな。我々の使命はあの方の配下を増やすため、確実に人間たちの息の根を止めることだ」
 長いエメラルドの髪をなびかせ、二刀流で舞うように立ち回りながら、長身の男がたしなめる。赤毛の男はそれに対し、わずかに笑みに苦笑の色をにじませた。
「まったく、堅いな、シルベットは。どうやったって、ゾンビの質に変わりはないだろ。それに、向こうも派手にやってるみたいだぜえ」
 返り血を浴びた頬を舐め、ベルオブは後ろを振り向いた。先ほどから連続して爆発が起こっているそちらの上空には、虚ろな目をした金髪の美女が浮いている。その指先から放たれた赤い光線が、無差別に地上を焼いた。凄惨さを増していく光景を眼下にしながら、なお、美女は無表情だ。
 その様子を見上げながら、シリスは、美女の顔をどこかで見たことがあると思い、記憶の海を探っていた。
 しかし、夢が闇に還るまで、求めるものを手に入れることはできなかった。