「突然お呼びだてしてしまってすみません。……実は、どうしても月彦さんにお話ししておかねばならない事がありまして」
 真田家の応接間。ペルシャ絨毯の上に鎮座している重厚なガラスのテーブル。それを挟む様に置かれた革張りの三人掛けのソファに腰掛けて、月彦は白耀と対峙していた。目の前のテーブルにはいつのまにか紅茶の入ったティーカップが二人分置かれているが、手を伸ばす気は起きなかった。
 ごくりと、月彦は生唾を飲む。
「…………恐らくですが、月彦さんは大きな誤解をされてます」
 白耀は慎重に、言葉を選ぶように切り出した。いつも春風のような笑みを浮かべて止まないその顔は、いつになく真剣そのものだ。
「俺が……一体何を誤解してるっていうんだ……?」
「菖蒲とのことです」
 さらりと白耀は答えた。しかしその言葉は見えない触手となって、月彦の心臓を捕らえ、ギリと締め付ける。
「あ、菖蒲さんの……こと……?」
 一体全体何のことやら。まるで心当たりがない――そのように装うとして、月彦は失敗した。場を取り繕うためだけにティーカップへと手を伸ばすが、その取っ手が巧く掴めない。
 かつて無いほどに、手が震えているからだ。
「やはり、月彦さんは誤解をされています」
 くすりと、白耀は柔和な笑みを浮かべた。
「月彦さん、僕は全てを知っているんです」
「へ……?」
「月彦さんと菖蒲が、どのような関係なのか。何をしているのか、僕は全てを知っています」
 ダンッ。――まるで、ギロチンの刃が振ってきたような衝撃に、月彦は意識を失いかけた。
「ですが、安心なさってください。僕は月彦さんを責めるつもりも、恨むつもりもまったくありません。……いえ、むしろ感謝をしていると言ってもいいくらいです」
「かん……しゃ……?」
 まるで海の中にでも居るかのように、視界がぐらぐらと揺れる。目の前の男が一体何を言っているのか解らない。月彦は全身に脂汗を滲ませながらも、いついかなる方向から攻撃を受けても対処できるように、体をやや前傾、体重をつま先の方へと集める。
「月彦さんが勘違いなさったのも無理はありません。確かに人の世の常識では、既に恋仲にある男女に横槍を入れるというのは、あまり褒められたことではないのでしょう。……ですが、それは我々の常識には当てはまらないのです」
「え……え……? ど、どういうことだ……?」
「我々にとって、不特定多数の異性と関係を持つというのはごく当たり前のことだと申し上げているのです。つまり、菖蒲と月彦さんが肉体関係を持ったからといって、そのことを月彦さんが恥じ入る必要は全く無く、また僕が気分を害することも無いということです」
「ほ、本当……なのか? 本当に…………」
 尚も、月彦は信じられなかった。今までずっと気に病んできた案件が、まさかこんな形で解決するとは夢にも思っていなかったからだ。
「はい。そもそも元を正せば、僕と菖蒲の喧嘩が原因という話ではないですか。そのせいで長らく月彦さんにご迷惑を――いえ、負担をかけ続けてしまったことを、今ここでお詫びします」
 そう言って、白耀はテーブルに手をつき、ふかぶかと頭を下げる。その段階で漸く、月彦は目の前の男が報復の前哨として笑ってみせているわけでも、罠にはめるつもりで紳士的な対応をしているのでもないということを知った。
「ま、待て……白耀、頭なんか下げないでくれ! 本当に、本当に……菖蒲さんとのことは恨んでないんだな? 俺を、許してくれるんだな?」
「許すもなにも、事はそういう問題ですらないのです、月彦さん。……申し訳ありません、もっと早くに相談していただければ、気に病むことなど何もないのだと、お教えできたのですが……この件を菖蒲から聞いたのがつい最近のことでして」
 申し訳ありませんと頭を下げる白耀に、月彦は目眩にも似た安堵を覚えた。そう、全ては許された――否、そもそも気に病むことすら無かったのだと。
「よか……った。……本当に、なんだ……そうだったのか……」
 安堵のあまり、月彦は両目から涙が溢れるのを止められなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「…………さま! 父さま、起きて!」
 ゆさゆさと体を揺さぶられて、月彦は俄に意識を覚醒させた。
「えっ……あれ……真央……?」
 白耀は――と口にしかけて、ハッと気がつく。
 そう、全ては夢だったのだということに。
「父さま、大丈夫?」
「ん、あぁ……だ、大丈夫、だ……」
 目元を拭う。どうやら実際に涙を流していたらしい。それを見た真央がびっくりして起こしたのだろう。
「ま、真央……俺、何か寝言を言ってなかったか?」
「寝言……?」
 心当たりがないとでもいうように、真央は小首を傾げる。月彦はホッと一息をついた。
「…………そうか、全部夢だったのか……」
 そして、絶望した。


 
 

 

 

 

 

『キツネツキ』

第五十二話

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 



 その日は、何一つ身が入らなかった。授業の内容はもとより、休み時間に友人達と何を話したのかすら、まったく頭に残らなかった。
(……今日は、すぐに帰って……横になろう)
 朝起きた瞬間から、酷い倦怠感が全身を襲っていた。何もする気が起きず、月彦は帰りのHRが終わるなりそのまま幽鬼のような足取りで教室を出た。
(…………我ながら、都合のいい夢を見たもんだ)
 とぼとぼと昇降口へと向かいながら、月彦は大きくため息をつく。確かに、夢の内容通りになれば、どれほど救われることか知れない。実際、ちらりと「本当にその可能性もある」と思って、朝の登校時にそれとなく遠回しに真央に聞いてみたりもした。が、返って来た答えは月彦の絶望を深めるものだった。
(……そもそも、本当に不特定多数の異性と関係を持つのが当たり前なんだったら、真央があんなに嫉妬しまくるわけがないんだよな)
 そして、菖蒲が自分たちの関係を白耀に隠すいわれもないということになる。考えれば考えるほどに、夢の内容のように都合の良い解決はしないのだということを思い知った。
 昇降口で靴を履き替え、校門を出る。早く帰って横になりたい――しかし走る気は起きない。出来れば台車の上にでも横になって、誰かに引っ張ってもらいたいとすら思いながら、月彦はとぼとぼと家路を辿る。
「やあ、月彦さん」
 そんな月彦の耳に、その声は雷鳴のように鋭く響いた。ギョッとして顔を上げると、そこには夢の中で見た顔が立っていた。
「良かった、丁度今から伺おうと思ってたんです」
「えっ……うちに……?」
「はい。どうしても月彦さんと二人だけで相談したいことがありまして」
 そう言って、白耀はまるで母親のように――妖艶な笑みを浮かべた。



 白耀につれられて入ったのは、以前菖蒲とのデートの件で相談をされた喫茶店だった。木材をふんだんに使った床や壁、そしてテーブルや椅子にいたるまで、焙煎されたコーヒーの香りがしみついているような店内には他の客は居らず、月彦は白耀に促されるままに二人用のテーブル席へと腰をおちつけた。
(……あぁ、俺は今日……ここで死ぬんだな)
 椅子へと腰を下ろし、背もたれにもたれかかりながら、月彦は漠然とそんな事を考えていた。きっと朝のアレは遠回しな予知夢だったのだろう。但しその内容は正反対であり、自分はきっと今から白耀に引導を渡されるのだろうと、半ば投げやりに考えていた。
 何か、白耀に注文を聞かれた気がしたが、月彦は自分が何と答えたのか解らなかった。恐らく白耀に任せる――そんな答えを返した気がするが、既に頭が今日という日を生き抜くことを諦めており、目の前に出されるのが猛毒の杯だろうが溶けた鉄だろうが変わりはないとすら思い始めていた。
「……月彦さん、大丈夫ですか?」
 そんな月彦の様子をさすがに見かねたのだろう。店員に注文をするなり、テーブルに身を乗り出すように言った。
「ああ……問題ない。ちょっと疲れが溜まってるだけだ」
 無駄話はいらない。早く楽にしてくれと月彦は思ったが、眼前の男はあくまで獲物を嬲ってから仕留めたいらしい。その辺、母親にそっくりだと自嘲の笑みが浮かぶ。
「そうですか……もしよろしければ、滋養のあるものなどを後で店の者に届けさせましょうか」
「いや、いい。それより早く本題に入ってくれ」
 白耀は一瞬何かをくちにしかけて止め「はい」と頷いた。
「お疲れの所にこのような相談をするのは不謹慎だとは思うのですが……月彦さん、正直に申し上げます。僕はもう、堪忍袋の緒が切れました!」
 だんと、白耀は怒りを露わにして右拳をテーブルへと叩きつける。このいつも微笑を絶やさず、温厚が服を着ているような白耀がそこまで怒りを露わにするという事がもう、全ての露見を物語っていた――少なくとも、月彦にはそう思えた。
「…………そうか。解った。……白耀が望むようにしてくれ」
 俺はどんな償いでも甘んじて受ける――そう言外に含むように、月彦は背もたれへと体重をかけ、瞼を閉じる。
「は……? 月彦さん、あの……」
 そんな月彦に、白耀は呆気にとられたような声をかける。
「ま、任せると言われましても……」
「何だ、白耀。お前に男を嬲る趣味があるとは思わなかったぞ」
 苦笑。まさか白耀は、紺崎月彦の処遇を紺崎月彦自身に決めさせるつもりなのだろうか。
「待って下さい、月彦さん。何か勘違いしておられませんか?」
「勘違い……?」
 月彦の脳裏に、ふと今朝の夢の中での白耀とのやりとりが蘇る。まさか、本当に――そんな淡い月彦の希望を打ち砕いたのもまた、白耀の言葉だった。
「僕が月彦さんにご相談したいのは、“あの女”への報復の手段についてです」
「あの女……って……まさか……」
 問いただすまでもない。この思慮深い男が“あの女”と呼ぶ相手は、この世にただ一人しか居ないからだ。
「今までは、たかが害獣のすることだと見逃してきました。しかし、由梨子さんにまで迷惑をかけたとあっては、見過ごすわけにはいきません!」
「由梨ちゃんに……? そういや、こないだそんなこと言ってたな」
 白耀が渡した香り袋を真狐がすり替えた件については、由梨子からも真央からも話は聞いている。
 ――が
(でも、俺が聞いた話じゃ、由梨ちゃんは特別怒ったりしてなかったはずだが……)
 無論それはあの由梨子のことであるから、内心では怒っていても笑顔で済ませただけなのかもしれない。
「いえ、そもそも……今まで見過ごしてきたのが間違いだったのでしょう。事前に僕が対処しておけば、由梨子さんに嫌な思いをさせてしまうことも無かったに違いありません」
「ま、待て……白耀。その話は俺も一応聞いてるけど、由梨ちゃんは本当に復讐を望んでるのか?」
「…………それは……いえ、間違いなく由梨子さんは望んでいないでしょう。しかし、月彦さん! 僕はもう黙っていることが出来ないんです!」
 どうやら白耀にとって、自分に対する嫌がらせの類いは我慢が出来ても、自分の元に身を寄せている由梨子が被害に遭う事は我慢ができないらしい。この義理堅い男の事であるから、ひょっとしたら由梨子の保護者を買って出たからには、その身を守る義務があると思っているのかもしれない。
「……ですが、正直な所……あの女に知恵比べで勝てる自信が無いのです。どれほど考えても、あの女を罠に嵌める方法が見つからないのです」
「…………てことは、つまり……俺が呼ばれたのは……」
「はい。是非とも、月彦さんに知恵を貸していただきたいのです」
 途端、フッ……と、月彦は両肩から力が抜けるのを感じた。
(なんだ……菖蒲さんの件じゃなかったのか……)
 予知夢でも、虫の知らせでもなかった――実際には何一つ解決していないにもかかわらず、月彦は心から安堵した。
「……力を貸して欲しい――って言われてもなぁ。頼りにされてるところ悪いが、俺も正直アイツの悪知恵には勝てる気がしないぞ?」
「そんな……でも、月彦さんならば……!」
「力になれなくて悪いな、白耀。そりゃあ俺だって、アイツに一泡吹かせられるものなら吹かせてやりたいが――………………いや、待てよ」
 ハッと、脳裏に閃光が迸る。
「そうだ、この手なら……」
「何か、いい手を思いつかれたのですか!?」
 白耀がテーブルの上に身を乗り出し、両目を輝かせながら尋ねてくる。
「……わからん。が、少なくともただ俺たち二人で知恵を絞るよりはマシな結果になる筈だ」
「どういうことですか?」
 怪訝そうに尋ねてくる白耀に、月彦は意地の悪い笑みで返した。
「あの女の事を恨んでるのは、俺たちだけじゃないってことさ」



「――というわけで、是非ともまみさんの力を貸して欲しいんです」
 一通りの説明を終え、月彦は目の前に置かれた湯飲みへと手を伸ばす。熱々のお茶を少量だけ口に含み、喉の渇きを潤しつつ、月彦はテーブルを挟んだ先に居るまみの様子を伺う。
 喫茶店で白耀から真狐をとっちめる手助けを求められた際、月彦が真っ先に思い出したのがまみの存在だった。あの性悪狐をこらしめる助っ人として、これ以上身近でかつ頼もしい相手は居ないと。月彦は喫茶店で白耀と別れるなり、意気揚々とまみの元を尋ねたのだった。
(本当は白耀と一緒に頼みに来たかったけど……)
 妖狐と妖狸。それでなくとも、白耀とまみは多少ながらも因縁がある。ここは自分一人で交渉に来るのが最善だと、月彦は判断した。
 まみは突然訪ねたにもかかわらず笑顔で迎えてくれ、そのまま居間へと通され、茶と茶菓子まで出してくれた。しかし、その笑顔は月彦が事情を説明するにつれて、次第に渋いものへと変わっていった。
「………………気に入りまへんな」
「へ……気に入らない……?」
「気に入りまへんえ」
 まみもまた湯飲みを持ち、茶を啜り――小脇に置かれた栗饅頭(月彦が土産に買ってきた)を手に取り、あむぐとかぶりつく。
「あんさんも知っての通り、確かにうちはあの女のことは良う思とりまへん。苦い思いさせられたんも一度や二度やありまへんわ」
 でも――と、まみは言葉を句切る。
「なんぼあの女が憎らしゅうても、大勢で寄ってたかっていうんは気に入りまへん。そないなこと、うちは絶対に手を貸しまへんえ」
 やるなら1対1で、正々堂々とやれ――まみは言外にそう言っていた。そして、また一つ。栗饅頭に手をつける。
「いやでも、それはまみさんだから言えることですよ。俺や、俺に助けを求めてきた友達の力ではちょっと……」
 さすがに、手助けを求めてきたのが妖狐――それも真狐の息子であるということは伏せた。妖狐と妖狸という互いの立場を鑑みれば、そこをバラすのは時期尚早だからだ。
「そないにはなから諦めて、人様の力あてにするんも気に入りまへんな。まずはあんさんらだけで手を尽くした上で、どうもならん時に初めてうちの所に来るんが筋どっしゃろ」
 気に入らない――その言葉を体現するように、どうやらまみは少なからず気分を害しているらしい。ぴりぴりと、肌を刺すような独特の空気に、月彦は全身が硬直するのを感じた。
「そもそも、仕返しいうもんは人様の力借りてするもんやありまへんえ。自分の力だけじゃ出来ん言うんなら、そもそもやらんならよろし」
「で、でも……まみさん!」
「珠裡が」
 月彦の言葉を切るように、まみは言葉を挟む。
「あんさんの娘に仕返ししたいー言うてきた時も、うちは手を貸しまへんどしたえ。そのうちが、あんさんの仕返しには手を貸すいうんは、珠裡に対しても筋が通りまへんやろ」
「それは……………………確かに、まみさんの言う通り、です」
 肩を落としながらも、月彦は納得せざるを得なかった。確かに珠裡がまみに泣きついた時、まみが復讐に手を貸さなかった時、なんと分別のある人物だろうと真央と二人で驚嘆したものだ。真狐とは大違いだと、話のわかる相手であると。そのまみに対して、自分たちの場合だけは仕返しに手を貸して欲しいと頼むのは、確かに筋違いであると思える。
 菖蒲の鈴の件でも、まみには世話になっている。出会いこそ決して良好な形とは言えなかったが、少なくともあの性悪狐とは比べものにならないほどに話のわかる相手であるのは間違いない。そのまみが手を貸せないというのなら、大人しく引き下がるべきなのだろう。
 そんな月彦の“納得”が伝わったのか、フッ……と。まみの周囲に張り詰めていた空気が緩む。微笑を湛えながら、皿に盛られていた最後の栗饅頭を手に取る。
「まずは、あんさんらだけでやってみなはれ。それでどうしても歯が立たんいうときは、ちょこっとだけ手助けさせてもらいますえ」



 


 

「…………うーん、アテが外れちまったな……。白耀になんて言やーいいんだ……」
 大船に乗ったつもりで全部俺に任せてくれ――少なくとも、喫茶店の前で白耀と別れる際、それに近しいことを月彦は言っていた。必ずあの女に吠え面をかかせてやる、ギャフンと言わせてみせるから、安心して任せてくれと、自信たっぷりに。
(…………まさか、まみさんに断られるとは)
 月彦の予想では、まみならば二つ返事で話に乗ってくる筈だった。あの性悪狐を懲らしめる為ならそれこそいくらでも協力すると言わんばかりに。
(……でも冷静に考えてみたら、そういう人じゃないんだよなぁ)
 厳密には人ではなく狸なのだが、そこに拘っても始まらない。そしてまみの言い分――珠裡の仕返しにも手を貸さないのだから、月彦のそれにも貸さないというのは確かに正論のように思える。
(…………でも、多分だけど……本心ではまみさん、手伝いたかったんじゃないかな)
 あくまで筋が通らないから手伝えないと言っただけで、まみ自身としては性悪狐成敗に参加したかったのではないだろうか。その本音がチラリと見えての、最後の一言だったように、月彦には思えるのだった。
「……つっても、やっぱり最初は俺たちだけで何とかしないといけないんだよなぁ………………うーん、アイツを嵌める方法か……」
 実のところ、まみには断られたが、他にも“手伝ってくれそうな相手”の心当たりはあったりする。が、一人は手伝ってくれる可能性もあるが、下手をすると自分も恨まれている可能性がある為躊躇いを禁じ得ず、別の一人は手伝ってくれるかもしれないがその後の“お礼”に何を要求されるのかが怖くてやはり踏み切れない。
(そうだ、いっそ真央なら……)
 普段はいい子になれいい子になれと、ひたすらに性悪狐の芽を摘み続けてきたが、その潜在力たるや月彦自身計りかねる程だ。そんな真央に全力で悪巧みをさせた場合、一体どれほどの事が出来るのか、興味が無いと言えば嘘になる。
(……いやでも、これは賭けだな。そんなことをやらせて、もし真央がヤバい方向に目覚めちまったら取り返しがつかなくなるぞ)
 最悪、母親と組んで悪辣の限りを尽くす可能性すらある。そしてその場合、真っ先にオモチャにされるのは恐らく――否、間違いなく……。
「……やっぱりダメだ。真央に手伝わせるのはリスクがでかすぎる…………やっぱり俺と白耀だけでなんとか――」
 考え事をしながら、時折独り言まで呟きながら、月彦は夜の街を練り歩く。直接家へと向かわなかったのは、特に理由があってのことではなく、何となく歩き回っていたほうが良い考えが浮かぶのではないかという漠然とした予感に従ったに過ぎない。
 そうして夜の街を徘徊し続け、シャッターの降りた店ばかりが並んだ道を抜けた先で、はたと。
 月彦は、見覚えのある屋台の明かりを目にした。
(あれ……?)
 ふと、頭の奥がむずむずと疼く。確かに見た事がある屋台だった。しかし一体どこで見たのか――漠然とした親近感に引き寄せられる形で、月彦はフラフラと屋台へと歩み寄る。
(ああそうだ、確かあの時に――)
 脳裏に蘇る屋台の記憶――同時に、月彦の目の前で屋台の前の椅子に腰掛けていた背広姿の男が立ち、暖簾を潜るようにして去って行く。特に考える間もなく、月彦は半ば反射的に男と入れ替わりに席へと座っていた。
「へいらっしゃい!」
 同時に聞こえた、なんとも威勢の良い声。それは、月彦の知っているスキンヘッドに捻りはちまきをつけた男の声ではなかった。
「あっ」
 という声は、果たしてどちらの口から漏れたのか。続きの言葉は、月彦の方が早かった。
「みゃ、みゃーこさん!?」
「あーーーーっ! つっきーだぁ! つっきー、ひさしぶりーーーーー!」
 ぐつぐつと煮えるおでん鍋の向こうで、町村都は文字通りぴょんと跳ね上がった。
「えっ、ちょっ、ええええっ、どうしてみゃーこさんが…………」
「えへへー、アルバイトなのだ!」
 えへんと、都が腰に手を当てて胸を張る。
「アルバイト……みゃーこさんが?」
「うん! おっちゃんにスカウトされた!」
「な、なるほど……」
 恐らくは、前回おでんを食べさせてもらった時の縁で、バイトに雇われたということなのだろう。
(……人の良さそうなおっちゃんだったからなぁ)
 都を見ていて、何となく放っておけないと感じたのではないだろうか。そういう気持ちは月彦自身よくわかる為、ろくに名前も知らないおでん屋の親父に親近感を抱いてしまう。
(……でも待てよ、こういう屋台とかやるのって、調理師免許とかそういうのが必要なんじゃなかったっけ……)
 はて、それとも必須なのは食品衛生責任者の方だっただろうか――気にはなるが、都に尋ねても恐らくまともな答えは返って来ないだろう。
「てゆーか、みゃーこさん……寒くないの?」
「えぇー? 暑いくらいだよぉー。ほら、汗びしょびしょ!」
 確かに、都の言う通りだった。おでん鍋の向こうに立つ都は上はグレーの半袖シャツのみという出で立ち。それも袖を肩口まで巻き上げ、尚暑くてたまらないとばかりにTシャツは所々汗を吸って変色さえしていた。腰には黒の前掛けのようなものをつけているが、その下は恐らくいつものスパッツだろうと、月彦は推測した。
(ていうか……下着透けてるし……)
 汗を吸ったTシャツ越しに、うっすらとブラの線が見えてしまう。野生児のような都でも、ちゃんとブラはつけているんだなと感心する反面、その向こうに隠されている弾力に富んだ乳の感触を思い出して、つい喉を鳴らしてしまう。
「ね、ね、つっきー何たべる? 本当は1こ100円で売らなきゃいけないんだけど、つっきーは特別に全部タダでいいよ!」
「だ、ダメだよみゃーこさん、いくらアルバイトだからってそんなこと勝手にやっちゃ……」
 月彦は周囲を見回し、都の雇い主の姿を捜す――が、見つからない。
(そりゃあ、店番くらいはみゃーこさん一人でも大丈夫かもしれないけど……会計はさすがに別の人がやらないとマズイんじゃ……)
 都の学力については、直接成績表を見たわけではない。――が、少なくとも同級生に指を指して笑われるレベルであることは、愉快ではない経験の一つとして頭に刻まれている。
(大丈夫なのかな……)
 不安だが、面と向かって計算問題を出題するわけにもいかない。ならば、身をもって確認するのが最も無難でかつ安心出来る方法ではないか。
「んと、じゃあ……ガンモドキと大根、あとタマゴもらえる? ちゃんとお金も払うから」
「えぇー、ホントにいいのにぃ」
 むーっ、と不満そうに唇を尖らせながらも、都はひょいひょいと慣れた手つきで菜箸を操り、小皿にガンモドキと大根、卵をとって月彦の前へと置く。
「ありがとう、みゃーこさん。うん、凄く美味しそうだ」
「つっきー、お酒飲む? お酒もあるよ!」
「いや、お酒はいいよ。ていうか、まだ飲んじゃいけない年だから」
「じゃあじゃあ、瓶ラムネ飲む?」
「……もらおうかな」
 と言った時にはもう、瓶ラムネの栓が抜かれていた。……しかも歯で。
「はいっ。冷えてて美味しいよ!」
「あ、ありがとう……」
 都の手から瓶を受け取り、口をつける。凍えるような寒さの中だが、おでん鍋の熱気のせいか、その冷たさが苦になるということはなかった。
「ん、ガンモドキすごく美味しいね。大根もほどよく煮えて、汁が染みて美味しい!」
「うん! おっちゃんのおでん、すごく美味しい!」


 


 どうやらこのおでん屋は、自分が思っていた以上に人気スポットらしいということを、月彦は時間の流れと共に増えていく客達で思い知った。とはいえ、屋台そのものの前に設置されている椅子には、どう詰めても大人三人ほどしか座れない。それはすぐに一杯になってしまい、それでも尚増える客に対応する為に、都は客が増える都度ビールケースをひっくり返した椅子を屋台の周りに設置し、座らせていた。
(……凄いな、大人気じゃないか)
 見た所、客は皆男。それも仕事帰りらしい背広姿のサラリーマン風の男達から、いかにもガテン系といった筋骨隆々の男達まで。年齢層はやや高めだろうか。職種こそばらつきがあるものの、皆が皆親しげに都に声をかけている様はなんとも微笑ましいものだった。
「……凄いな、みゃーこさん」
 媚びているわけではなく、あくまで素の姿でここまで愛されるというのはある種才能ではないのだろうか。一生懸命任された屋台を切り盛りしようとする都の姿は、中年男達の(特にガテン系の方々の)胸を打つらしい。月彦の隣に座っている熊のような体格の髭面大男などは、都に酒を注いでもらいながら「うちの娘はもう三年以上口も利いてくれねぇのに……」と涙まで流していた。
 完全に自分が場違いのように思えて、早いところ席を立ちたいのだが、肝心の都が忙殺されていていつまでも会計を済ませることが出来ない。いっそ千円札一枚置いておつりはいいからと立ち去る手もあるが、それでは当初の目的である“ちゃんとお金のやりとりが出来ているか”を確認することが出来ない。
 さながら、略奪を終えた山賊の宴のような様相を呈しているその場の空気に馴染めず肩身の狭い思いをすること小一時間。漸く酒も食べ物も行き渡り、汗びっしょりになった都がおでん鍋の前へと戻って来た。
「お疲れ様、みゃーこさん。大忙しだね」
「うん、いまくらいの時間が一番忙しいの。つっきーごめんね、話したいこといっぱいあるけど、お仕事中だから」
 額の汗を拭いながら、にぃと都は笑顔を浮かべる――が、さすがに接客に疲れているのか、その笑顔には疲労の色が窺える。
「おーい、都ちゃーん!」
「あい! ちょっと待ってねー!」
 そうこうしているうちに、またお呼びがかかり、都はおでん鍋の前から消えた。やれやれと月彦が肩を下げながらため息をついていると、不意に野太い声が聞こえた。
「ボウズ、あんた都ちゃんの知り合いなんか?」
 唐突に話しかけてきたのは、隣の熊男だった。ギョッとしつつも、月彦は笑顔を返す。
「はい、都さんは姉の同級生なんです」
「まさか、彼氏か?」
 男は髭も逞しいが、負けじと眉毛も生い茂っていた。その黒い針金のような眉の下から、威嚇するような眼光を向けてくる。気がつけば、熊男のさらに向こう側でちびりちびりと飲んでいる無口な初老男も、興味深そうに視線を向けてきていた。
「い、いえ……! 彼氏なんかじゃないです!」
 肯定でもしようものなら、その瞬間熊男に首の骨を折られそうで、月彦はそう答えるしかなかった。
「そうか。なら、いい」
 熊男は短く言って、興味を無くしたように目の前の大根へと箸を伸ばす。そこで再び都がおでん鍋の前へと戻ってきた。喉が渇いたのか、瓶ラムネを取り出すと歯で栓を開けてぐいぐい飲み始める。
「いい飲みっぷりだ!」
 そんな都を前にして、熊男と初老男が手を叩いて笑う。えへへと、照れ混じりに都が笑顔を返す。
(……いい“職場”じゃないか)
 少なくとも、スーツを着て書類のコピーをとったり茶を出したりするようなOLの真似は都には合わないのではないか。そういう意味では、天職ではないかとすら思える。
「……みゃーこさん、おあいそいいかな。そろそろ帰らなきゃ」
「あっ、つっきーもう帰っちゃう?」
「うん。お客さんまだまだ増えそうだし、俺も帰ったら晩ご飯あるから、あんまり食べられないしさ」
「んじゃ、食べた分は都のおごりでいいよ!」
「そういうわけにはいかないよ。ちゃんと払うって言っただろ?」
 むーっ、と都は唸るも、やむをえなそうに前掛けのポケットからメモ帳を取り出し、それを片手に電卓を打ち始める。
「んーと、400円になります!」
 月彦が千円札を手渡すと、都は一度それを受け取り、そして再度電卓を弄り、600円を返してくる。
「ありがとう、みゃーこさん。とっても美味しかったよ」
 積もる話は都がバイトじゃない時にしよう――そう思って、席を立つ。どうやら狙われていたらしく、入れ替わりにするりと、別の男が席に座り、改めて都の人気ぶりを痛感する。
(……会計もちゃんと出来てるみたいだし、よかったよかった)
 計算の度に電卓を仕様するのは、苦手分野で万に一つでもミスをしないようにという、都なりの責任感の表れだろう。あの愛されっぷりなら、仮にミスをしたところで客も黙って許しそうだが、そこに甘えようとしないところが、都が愛される所以なのかもしれない。
「つっきー! つっきー! 待って!」
「ん? どうしたの、みゃーこさん」
 屋台を去り、五〇メートルほど離れたところで、息せき切って追いかけてきた都に呼び止められた。
「屋台離れて大丈夫なの?」
「大丈夫じゃない! だけどつっきー、どうしてきららのお見舞い来ないの?」
「姉ちゃんの見舞い……?」
 月彦は記憶を探る。言われてみれば、最近霧亜の病室に足を運んでない気がする。
「きららね、最近つっきーが来ないから寂しいって言ってたよ!」
「え…………………………姉ちゃんが?」
「うん! つっきーに会いたいーって。きららに会いに行くと、つっきーの話ばっかりしてるよ!」
「………………。」
 それは嘘だ――と否定しそうになって、口を噤む。
(……あの姉ちゃんが、そんなこと言うわけない)
 もし本当に言っているのだとしたら、それは紺崎霧亜の形をした別の何かだ。そのことにかけては、月彦は何よりも確信がある。
「……………………そっか。わかった、明日にでも、学校の帰りに顔を出してみるよ」
「ほんと!? ありがとう、つっきー! きららも凄く喜ぶ!」
 ぴょんと飛びはねながら声を上げるなり、都は短く別れの言葉を言って大急ぎで屋台の方へと戻っていった。
「…………みゃーこさん、本当に姉ちゃんのことが好きなんだな」
 その後ろ姿を見送って、月彦もまた帰路につく。先ほどの都の言葉は、都なりの方便――気を遣っているのだと、月彦は解釈した。
(多分、俺と姉ちゃんがあんまり仲良さそうに見えないから、みゃーこさんは気を遣ってくれてるんだろうな)
 霧亜が自分に会いたがっているなどという話を鵜呑みにするほど、月彦は自分の罪について無自覚ではなかった。
(姉ちゃんが俺に会いたがってる――か)
 それが真実であれば、どれほど良いか。たとえ都の方便であると解ってはいても、月彦は心が俄に沸き立つのを抑えきれなかった。



 翌日、学校が終わるなり、月彦は霧亜の病室へと向かった。半死人のようにダレて過ごした昨日とは対照的に、ソワソワと浮かれっぱなしの半日だった。始終頭の中は見舞いのことでいっぱいになり、そんなことはありえないと解っているのに、都の言葉が本当だったらどうしようと、要らぬ心配ばかりしながら午後の授業をやりすごした。
(……そういや、前に姉ちゃんと会ったのはみゃーこさんの引っ越しの日か)
 久々に姉に会えると思うだけで、うきうきと足が浮き立ち、スキップを始めてしまいそうになる。本来ならば、都に促されるまでもなくもう少し頻繁に病室に通いたいのだが、大した用も無く病室を尋ねてもいたずらに姉の機嫌を損ねるだけであるということを、月彦は学んでいた。
(でも、みゃーこさんに促されてっていうんなら、姉ちゃんに対する面目も立つしな、うん)
 あとは、ハシャギ過ぎないように気をつけねばと。月彦は病室の前に立ち、深呼吸をして息を整え、ノックをする。
「姉ちゃん、入るよ」
 断って、そっとドアを開ける。ドアの前に立っている衝立の影からそっとベッドの方を覗き込んで――真っ先に見えたのは、黒いスパッツのお尻だった。
「あっ、つっきー! 昨日ぶり!」
「やっ、みゃーこさん」
 ベッドの傍らで、来客用の椅子に座った都がぶんぶんと手をふってくる。月彦も軽く手を振って挨拶を返す。
「ほらほら、きらら! つっきーが来たよー!」
「都、声が大きい」
 そんなに大声で言わなくても聞こえてると言わんばかりに、霧亜は相変わらず月彦の方を見もせず、背もたれごと上体を起こしたベッドの上で新聞紙を広げていた。新聞を読んでいる――わけではない。霧亜の手の中には赤いリンゴと、そして果物ナイフが握られていた。リンゴは霧亜の手の中でみるみる赤い皮をそぎ落とされ、あっという間に赤い耳のウサギへと早変わりする。霧亜はそれら赤い耳の兎たちを大皿の上に並べると、都の方へと差し出した。
「きらら、ありがとー!」
「ちゃんと手を拭いてから食べるのよ」
「うん!」
 都は霧亜に差し出されたウェットティッシュ箱からぼっしぼっしとティッシュをむしり取り、丁寧に手を拭いて赤いウサギ達を囓り始める。そんな仲むつまじい二人の姿を見て、月彦はつい爪を噛みたくなってしまう。
(……俺の、姉ちゃんなのに)
 都を突き飛ばし、霧亜が剥いたリンゴを奪いたくなる衝動を抑えに抑え、月彦は深呼吸を繰り返す。そんな月彦のギラついた目に気がついたのか、都が小首を傾げながら月彦の顔と自分が手にしている皿を交互に見る。
「つっきーも、リンゴ食べる?」
「ダメよ、都」
 月彦は、返事をする間を与えられなかった。
「都の為に剥いてあげたんだから」
「でもでも、きらら……」
「ダメ」
 さながら、保母さんと保育園に預けられた幼児のようなやりとりだった。都は迷った挙げ句、霧亜の言葉を優先し、しゃくしゃくとリンゴを囓り始める。
 そんな都を見届けてから、霧亜が視線を月彦の方へと向けた。
「……それで、何の用?」
「あ、いや……ええと……」
 月彦はそれとなく、都がフォローを入れてくれるのを期待したが、都は月彦の困窮に気づいているのかいないのか、しゃくしゃくとリンゴを食べ続けている。
(……ほら、やっぱり姉ちゃんが俺に会いたがってるなんてあり得ないんだ)
 大した用も無いのに会いに来れば、こういうことになる。初めから解っていたことなのに、何故自分は来てしまったのだろう――
「ほ、ほらっ……みゃーこさんのことがあってから、一度も来てなかったからさ。久しぶりに姉ちゃんの顔が見たくなったんだ」
 イラッ――姉の周りに、そんな不穏な空気がモヤのように立ち上るのを感じる。月彦は全身の産毛でその気配を敏感に察知し、俄に後退った。
「きらら、おかわり!」
 そんな月彦の窮地を救ったのは、都の一言だった。空になった皿を差し出し、無邪気に笑う都の姿に、霧亜はフッと笑みを零す。
「しょうがないわね」
 霧亜は傍らの紙袋から新しいリンゴを手に取り、果物ナイフで向き始める。都もまた、霧亜がリンゴの皮を剥いている姿に見入るように、ニコニコと笑顔を浮かべていた。
(くっ……そぉ…………)
 悔しいが、入り込む余地がない。霧亜と都、二人だけで、世界は完成されてしまっているのだ。無駄だと知りつつも、月彦は心の単分子刀を手に切り込みたい衝動に駆られるも、実際には行動に移せない。移したところで、姉のひと睨みだけで腰砕けになってしまう未来が容易く見えるからだ。
(俺の姉ちゃんなのに……)
 ぐぎぎと、歯ぎしりする。都のことはもちろん嫌いではないのだが、もう少し遠慮してもいいのではないかと思う。まるで見せつけるようにイチャイチャされては、さすがに心穏やかではいられない。
(…………まさか、この光景を俺に見せつけるために……)
 呼びつけたのではないかとすら、考えてしまう。もちろん都の性格を考えればそんなことはあり得ず、ひとえに嫉妬に狂った男の妄想以外何物でもないのだが、やはり心穏やかではいられない。
 せめてもの反抗として、月彦もまた来客用の椅子を手にベッドの傍らへと移動し、着席する。一瞬霧亜に睨み付けられたが、月彦は目を逸らし気がつかないフリをすることでなんとかやりすごした。
 霧亜と都はそのまま、月彦など存在しないかのように二人だけでイチャイチャを――月彦の目にはそう映っているが、世間一般的にはただの日常会話だったりする――続け、それは都が退室するまで続いた。
「きらら、つっきー、またねー!」
「またね」
「またね、みゃーこさん」
 都が病室から出て行く――と同時に、ずしりと。病室内の空気が三割増しで重くなるのを感じた。がさがさと音がするのは、霧亜がリンゴの皮ごと新聞紙を丸めているからだった。それも、霧亜がゴミ箱に捨ててしまえば、再び室内は無音――正しくは、空調の音だけの世界へと戻される。
(……姉ちゃん)
 ちらりと、月彦は霧亜に悟られないよう、姉の尊顔を盗み見る。あくまで視界に月彦を捉えないよう努めているのか、ぷいと窓の外へと目をやっている姉の横顔は本当に綺麗だった。光り輝いてさえ見えるほどに。
(あれ、でも……姉ちゃん、ちょっと痩せたんじゃないか)
 それとも、最近顔を合わせていなかったからそう感じるだけなのだろうか。薄い赤のチェックのパジャマに身を包んだ姉の姿が、一回り小さくなったようにすら感じるのも、久しぶりに見たからなのだろうか。
(……飯とか、ちゃんと食ってるのかな…………聞きたい、けど……)
 聞いたところで、教えてくれるわけがない。お前が心配するようなことじゃないと頭ごなしに叱られるのが目に見えている。教えてくれないに決まっている質問を投げかけて、いたずらに姉の機嫌を損ねるくらいなら、黙っているほうが機嫌を損ねない分得だ。
 しかし、感情というものは、損得で割り切れるものではない。
「ね、姉ちゃ――」
「都は、ちゃんとやれてるみたいね」
 月彦のそれよりも、数段強い、切るような言葉遣いだった。潰されたと、月彦は直感した。
「…………うん。俺も昨日行ってきたけど、みゃーこさんおでん屋でアルバイトしてたよ。すげー繁盛してた」
「日に日に客が増えてどんどん大変になってるって、都も困ってたわ。その分時給も上げてもらってるらしいけど、そんなに大変なら、時給に見合っているかどうか一度見に行った方がいいかもしれないわね」
「大丈夫……じゃないかな。みゃーこさんの雇い主のおっちゃんは俺も会ったことあるけど、人を騙して楽して儲けようってするようなタイプの人じゃなか――」
「あんたに人を見る目があるとは思ってないわ」
「そ、それに……みゃーこさんだって子どもじゃないんだからさ。騙されてるかどうかなんて、自分で判断できるんじゃないかな。あんまり過保護なのも、どうかと思うけど」
「都に嫉妬してるの?」
 グサリ。言葉の槍でものの見事に心臓を貫かれ、月彦は硬直した。
「ち、ちが……」
 言葉が出て来ない。真実を否定することを許されない。姉の鋭い言葉が、その眼光が、絶対神のように従順な僕であることを、弟に要求する。
(……ちくしょう……悔しいけど、やっぱり姉ちゃんには敵わない……)
 姉が黒と言えば、白いものでも黒く見えるように努力しなければならないのが弟という存在なのだと、身に染みる。
 ふうと。霧亜が小さくため息をつく。それは月彦にとって、心底呆れられたという証左に他ならなかった。自分の立場も弁えずに、一人前に嫉妬しているのかと鼻で笑われたほうが、まだ気が楽だったかもしれない。
 だから。
「……そういえば、この間。千夏ちゃんが来たわ」
 その呟きが、自分に向けられたものだということに、月彦はしばしの間気がつくことが出来なかった。
「えっ……?」
 顔を上げ、霧亜を見る。相変わらずの、弟を視界に入れない――入っていたとしても、絶対にピントを合わせたくないとでもいうかのような、窓の外へと目をやったまま、霧亜は言葉を続けた。
「幼なじみの千夏ちゃん、昔はよく一緒に遊んでたでしょ」
「もちろん千夏は知ってるけど、でもどうして千夏が姉ちゃんに?」
「さぁ。特に用事があったわけじゃなかったみたいだけど」
 長居をすることもなく、話も世間話程度のものだったと、霧亜は付け加えた。
「千夏が……」
 ありえない――ことではない。昔からよく紺崎家に出入りしていた千夏は、当然霧亜とも面識がある。霧亜が入院したという話を聞き、たまたま近くを通りかかったついでに顔を出した――ということならば、十分ありうることだ。
「とてもいい子ね。久しぶりに話をして、改めて思ったわ」
 言いながら霧亜は体を倒し、ベッドの脇に置かれている紙袋からリンゴを一つ手に取る。もしかして剥いてくれるのかな――という月彦の予想は当たらなかった。霧亜はただ、虫食いでも捜すように、その手の中でリンゴを撫で摩る。
「付き合うなら、あの子にしなさい」
「つ、付き合う!? 千夏とか!?」
 予期せぬ言葉に、月彦はつい声を裏返らせてしまった。
「少なくとも妙子ちゃんは止めておきなさい。いい子だけど、あんたに甘すぎるわ。付き合ったら、二人ともダメになるわよ」
「ちょっと待ってくれ、さっきから何言ってんだよ!」
「ただの忠告」
 短く言って、霧亜は唐突にリンゴを放り投げてくる。
「わっ、と、とっ」
「あげるわ。都が持ってきてくれたけれど、ちょっと多すぎるから」
 さらに2個、ひょいひょいと放り投げられ、月彦は危うく落としそうになりながらも辛くもキャッチする。
「真央ちゃんの分と、母さんの分」
 付け足すように言って、霧亜はふうと背をベッドに凭れさせる。まるで、全ての体力を使い切ったと言わんばかりに脱力しきったその姿に、月彦は言いしれぬ不安を覚えた。
「……なぁ、姉ちゃん。…………入院、まだ長引くのか?」
「そうね。もしかしたら死ぬまで長引くかもしれないわね」
「冗談でもそんな事言うなよ、縁起でもない……」
 ギリと、月彦は奥歯を噛み締める。そもそも、一度は決まった退院が伸びたのはあの双子達のせいなのだ。一度は静まった筈の怒りが、再度燃え上がるのを感じる。
「……少し眠るわ。昨夜、あまり眠れなかったから」
 呟いて、霧亜はそのまま瞼を閉じる。遠回しに出て行けと言われたのだと、月彦は察した。
「…………わかったよ、姉ちゃん」
 おやすみ――最後の一言は心の中だけで呟いて、月彦は室内の明かりを落とし、病室を後にした。


「つっきー!」
「うわっ、みゃーこさん、帰ったんじゃなかったのか!?」
 霧亜の病室を出て、ロビーへと降りてくるなり、唐突に物陰から都が飛び出してきた。大声と取られかねないその声に、ロビー内に居た看護士や患者達から一斉に目を向けられ、月彦は慌てて都の手を取り、正面玄関から外に出る。
「……みゃーこさん、ああいう場所で大声出しちゃダメだよ」
「ごめんね、つっきー。あっ、リンゴ!」
「あ、これ? 姉ちゃんが食べきれないから少し持って帰ってくれってさ」
 小脇にかかえた三つのリンゴを見るなり、都が僅かに表情を曇らせる。
「きらら、リンゴ食べてた?」
「いや……俺が見てた限りじゃ食べてなかったけど」
「そっか……」
「あでも、姉ちゃん別にリンゴ嫌いじゃないし、さっきはたまたま食べなかっただけで、お腹が空いたら食べてくれるよ、きっと」
 なんといっても、都が差し入れたリンゴなのだ。あの霧亜が蔑ろにする筈がない――月彦はそう思うのだが、都の表情は晴れなかった。
「……きらら、最近全然お腹空かないって言ってた」
「えっ……」
「だから、リンゴなら食べられるかなって……」
「みゃーこさん……」
「どうしよう、つっきー。きらら、ご飯食べないと死んじゃう!」
「お、大げさだって……お腹が空かない人なんか居ないんだからさ。たまたま、みゃーこさんがお見舞いに行った時が、ご飯が終わったばっかりとかで、食欲がないってだけだよ」
「そうなのかな……」
「みゃーこさんは心配しすぎだよ。姉ちゃんは骨折で入院してるだけなんだからさ。大丈夫、すぐ良くなるって」
「きらら……本当に大丈夫?」
「大丈夫、絶対に大丈夫だから」
 単純に、都が心配性――というわけではないのだろう。相手が霧亜だから、都はこれほどに心配しているのだ。
(……正直、妬けるんだよなぁ)
 恐らくは、二人の立場が逆であっても、同様に霧亜は都のことを心配するだろう。“あの霧亜”とそこまで通じ合っているというのが、月彦には歯噛みしたくなる程に羨ましかった。
(多分、姉ちゃんに取り入って利用しようとか、好かれる為に媚びようとか、そういった“裏”が無いからなんだろうな)
 月彦の知る限り、霧亜ほどその手の下心に敏感な人間は居ない。逆を言えば、そういった下心が皆無で純粋に自分を慕うからこそ、霧亜も都を受け入れているのかもしれない。
(…………ホント、こんないい人なのに、どうして本当の家族と巧くいかなかったんだろう)
 如何に都が純粋で可愛らしくても、万人にそれが通じるわけではないということだろうか。よりにもよってそれが実の家族であったことが、都にとっての最大の不幸なのかもしれない。
「……そうだ、みゃーこさん。今日はこのあとバイトあるの?」
「今日は……んーと、んーと、ちょっと待ってね、つっきー」
 都はブルゾンのポケットを漁り、メモ帳を取り出してぱらぱらとめくる。どうやらスケジュールを確認しているらしい。
「今日、は、大丈夫!」
「そっか、じゃあさ、久しぶりにうちで一緒に晩ご飯どうかな? きっと母さんも真央も喜ぶよ」
「晩ご飯! …………ハンバーグ?」
「はは、一応母さんに頼んでみるよ」
 といいつつ、あの母親のことであるから、案外頼む前からハンバーグを作り始めているのではないだろうか。今までの経験から、月彦はどうにもそんな気がするのだった。
「えへへー」
「……? みゃーこさん?」
 葛葉のハンバーグが食べられることがよほど嬉しいのだろうか。並んで紺崎家へと向かう道すがら、都は何かを思い出すように笑顔を零した。
「つっきー、今日は来てくれてありがと!」
 見舞いに、と言いたいのだろう。月彦もまた笑顔を返した。
「俺の方こそ、ありがとう。みゃーこさんが誘ってくれたおかげで、俺も行きやすかったよ」
「きらら、早く良くなるといーね!」
「そうだね。……本当に」
 不安が顔に出ない様、微笑みながら。月彦は切に願わずにはいられなかった。



 
 

「あら、じゃあ都ちゃんは今おでん屋さんなのね」
「しかも、スゲ−人気なんだ。めちゃくちゃ美味しいから、真央、今度一緒に食いに行くか?」
「うん! 私、おでん大好きっ」
「えへへーっ、マオマオとつっきーなら、いつでも大歓迎だよ!」
 いつになく賑やかな紺崎家の食卓。それぞれの皿には当然のようにハンバーグが並んでおり、都の皿だけ三つものハンバーグが重なるように盛られていた。
(……母さん、カンが良すぎなんだよなぁ)
 というのも、都を連れて帰宅した時にはもう、真央と葛葉が夕飯の支度を始めており、しかも夕飯の献立はハンバーグだったのだ。しかも、まるで都が来るのを見越したように分量も多めであり、その結果が都だけハンバーグ三倍盛りという現状なのだった。
「そんなに美味しいなら、私もついていっちゃおうかしら」
「……みゃーこさんにお持ち帰りにしてもらうから、さすがについてくるのは止めてよ……」
「あらあら。。……都ちゃん、おかわりはまだあるから好きなだけ食べなさいね」
「ねえねえ、都さん。都さんもやっぱりおでん好きなの?」
「うん? 都はおでん好きじゃないよ?」
 けろりとした顔で、都は即答した。
「え……みゃーこさんはおでん嫌いなの?」
「嫌いじゃないけど、好きでもないよ? でもでも、その方がいいかも?」
「その方がいい……? どうして? みゃーこさん」
「だって、大好きだったら、都が食べたくなっちゃう」
 あぁ、と。月彦は都の答えに納得した。あむ、と都はハンバーグを箸で二つに切り、その片方を一口で頬張ってしまう。
「んぐ、んぐ、美味しい! 都はおでんより、おばさんのハンバーグのほうが大好き!」
「ふふ、ありがとう、都ちゃん」
「わーい! 都ね、おばさんのハンバーグだったら百個だって食べられるよ!」
「あら。じゃあ、本当に百個食べられるか試してあげようかしら」
 ふふふと葛葉が笑い、都も笑う。真央もつられて笑い、最後に月彦も笑った。
(…………良かった。みゃーこさん、元気出してくれたみたいだ)
 そして、葛葉も。もしかしたら真央も。空席のない夕飯をいつになく楽しんでいるように、月彦には見えた。


「じゃあ、そろそろ寝ようか。お休み、みゃーこさん、真央」
「おやすみー!」
「おやすみなさい」
 月彦が部屋の明かりを消し、絨毯の上に敷いた布団の中へと潜り込む。そして本来ならば月彦と真央が寝るはずのベッドのほうには、都と真央が寝る形になっていた。
(……まさか、泊まることになるなんて)
 晩飯に呼んだだけの筈が、あれよあれよと泊まる流れになってしまい、月彦は暗い室内で苦笑してしまう。言い出しっぺは月彦でも都でもなく葛葉であり「折角だから」の一言で都に泊まっていくように切り出し、都も二つ返事でOKしてしまったのだった。
(ま、いいか。みゃーこさんだし)
 都は、いつかのように三人川の字になってベッドに寝ることを望んだが、前回さすがに狭かったということで、月彦だけが布団を持ち込んで別に寝ることになった。
「んっ、やっ……」
 暗い室内で、不意にそんな甘い声が月彦の耳を撫でる。聞き違うはずも無い、愛娘の嬌声に、月彦はがばっと体を起こした。
「うりうり〜っ、マオマオの体やーらかくてきもちいい!」
「だ、ダメ……都さっ……あんっ」
「こ、こら! みゃーこさん何やってるんだよ! ふざけてないでちゃんと寝ないと、真央も俺も明日学校あるんだから!」
「むー……」
 不満そうに唸りながら、都が真央から離れる。やれやれと、月彦もまた布団の中へと戻った。
(……みゃーこさんって、ひょっとして……)
 “その気”があるのだろうか。そういえばと、月彦は思い出した。先ほどの入浴時、都は真央と共に入ったのだが、その時も浴室のほうからきゃあきゃあと真央の悲鳴が響いていた。ただその悲鳴も心底嫌がっているわけではなく、擽ったくて上げてしまうような類いの悲鳴であったが故に、月彦も深刻視はしなかったのだが。
(……でも、風呂から上がった時にはもう、真央ぐったりしてたもんな)
 どうやら都は真央の体がお気に入りらしい。それも性的な意味ではなく、さながら赤ん坊が毛の感触が好きというだけで飼い猫の尻尾をいじくり倒すような、そんなノリなのだ。悪気が無いとはいえ、そんなこんなで体のあちこちを弄られ続けては真央としても堪ったものではないかもしれない。
「ねえねえ、マオマオ……耳触ってもいーい?」
「み、都さぁん……だ、だめ……ぁぁっ……」
「こーら、みゃーこさん! ふざけてたら寝れないだろ!?」
 めっ、と。月彦は再度体を起こし、都に注意を飛ばす。次何かしたら都が“下”だと仄めかすと、都は掛け布団に肩を埋めて大人しくなった。
「ううぅ……父さまぁ……」
 助けて――口にはしないが、暗闇の中月彦を見る真央の目にはそういう光があった。しかし月彦は静かに首を振る。
「マオマオ、ごめんね」
 恐らくしゅんと肩を縮こまらせているであろう都の呟き。
「都、いつも一人で寝てるから……ちょっと興奮しすぎちゃった」
「都さん……」
「みゃーこさん……」
 望んだ形ではなかったが、場がしんと静まりかえる。都も、さすがにもう“悪戯”はしないのか、真央の悲鳴が聞こえることもなく、程なく誰かしらの寝息が聞こえ始め――ることはなかった。
「どうして――」
 不意の、都の呟き。月彦は最初、都が寝言を言っているのかと思った。
「マオマオは、つっきーのこと、“トーサマ”って呼ぶの?」
「えっ……」
「うっ……」
 痛いところを突かれたようなうめき声が二人分、重なった。それがおかしかったのか、都がくすくす笑った。
「ねえねえ、マオマオはどうして“トーサマ”って呼ぶの?」
「そ、それは……」
 答えに窮しているような、真央の声。真央が耳と尻尾を見せてもさして動じなかった都だが、はたして血のつながった親子であるという話までしてしまっていいのだろうか――月彦は悩んだ。
「わかった、みゃーこさん。その質問には俺が答えよう」
「わくわく! 教えて、つっきー!」
「真央がどうして俺のことをそう呼ぶのか、それは――」
「それは?」
「…………秘密だ」
「えええーーーー!」
「ごめん、みゃーこさん。これは内緒の話なんだ」
「知りたいー! 知ーりーたーいー!」
 じたばたと。布団を叩くような音。月彦は小さくため息をつく。
「……俺も教えたいけど、ダメなんだ。姉ちゃんに口止めされてるんだ」
 えっ、という声が、二人分。どうやら真央も驚いたらしい。
「きららが? どうして?」
「俺にも解らない。だから、どうしても知りたいなら、姉ちゃんに教えてもらってくれ」
 月彦は、問題を霧亜に丸投げした。きっと霧亜ならば、巧く説明してくれるだろうという期待と、都とのイチャイチャっぷりに妬けたから、ささやかな報復のつもりでもあった。
「ごめんね、都さん。……私も、姉さまに言っちゃだめって言われてて……」
 どうやら真央も、月彦の案に乗っかるつもりらしい。安堵のため息混じりにそう付け加えた。
「わかった……今度、きららに聞いてみる」
 都が呟くように言って、室内に漸く静寂が戻った。やれやれと、月彦もまた肩まで布団をかぶり、そしてうつらうつらと。夢の国に片足を突っ込みかけた時だった。
「ねじねじ!」
 壁を震わせるほどの大声で、唐突に都が叫び、がばっと掛け布団を撥ね除けて体を起こした。
「ね、ねじねじ……?」
 今度こそ、都が寝ぼけて寝言を言っているのだろうと、月彦は思った。そうでなければ、自分が寝ぼけて都の言葉を聞き違えたのだろうと。
「つっきー! ねじねじ採りにいこ!」
「みゃーこさん……ねじねじって……何?」
「ねじねじ! マオマオも一緒に行こ!」
「ねじねじ……?」
 あぁ、そうだ。みゃーこさんはこういう感じの人だったと、月彦は大あくびをしながら噛み締めるのだった。


 


「…………っていうワケで、折角だから由梨ちゃんも一緒にどうかなって思ったわけなんだ」
「えっと……すみません。先輩、説明をしてもらっても、よく解らないんですけど……」
 土曜日の朝。天気は快晴。月彦は真央と、真央を通じて誘った由梨子との三人で駅前に集まっていた。月彦は自前の白ジャージにリュック、真央もまた月彦のものと色違いの薄い黄のジャージにリュック、そして由梨子は黒のハットに濃緑のジャケット、茶のハーフパンツに黒の着圧タイツ、ピンクのレッグウォーマーに白と灰のトレッキングシューズといった出で立ち。一応申し訳程度にバックパックも背負っており、その格好を見るに「行き先は山で良いんですよね?」という由梨子の疑問が聞こえてくるかのようだった。
「あれ、真央はなんて説明したんだ?」
「んとね、父さまと、姉さまの友達の都さんと一緒に山にねじねじを採りに行くから、由梨ちゃんも一緒に来ない?って」
「はい、そう聞いたんですけど…………すみません、先輩。“ねじねじ”って何なんですか?」
「いや、それは俺も解らないんだ。みゃーこさんがそう言ってただけで、どんなものなのかは……」
 ただ、とても滋養があるものらしいということは、都の舌足らずな説明でも理解出来た。思考がぽんぽん飛んでそれに合わせて話も飛んでしまうのが都の困った所ではあるのだが、ようは霧亜に滋養のいいものを食べさせてやりたいらしいということが解れば、月彦としては協力こそすれ反対など出来ようはずも無い。
「まぁ、採れる場所とかはみゃーこさんが知ってるらしいし、とりあえずみゃーこさんちに行ってみよう」
 本当は、都も含めて駅前に集合という形にしたかったのだが、一カ所にジッとしているということが苦手な都と駅前で待ち合わせるということに一抹の不安を覚え、一度三人で集まってから都を呼びに行くという形にしたのだった。
(……あとは、由梨ちゃんはまだ面識ないし……)
 それにひょっとしたら、霧亜の友人ということで由梨子は苦手意識を持っているかもしれない。その辺りのことを鑑みて、ファーストコンタクトは慎重にしたほうがいいと月彦は思っていた。
(まぁ、由梨ちゃんもみゃーこさんもどっちも優しい子だし、きっとすぐに打ち解けてくれるとは思うんだけど……)
 思ったようにはなかなかいかないのが人間関係というもの。ひょっとしたらウマが合わないかもしれないと不安を覚えながらも、月彦は二人を伴い、都の住むアパートへと歩き出した。

「あーーーーっ! つっきーーーー、待ちくたびれたよぉーーーーー!」
 そんな都の甲高い声が聞こえたのは、アパートの敷地内に入るか入らないかの所だった。既に準備万端で背にリュックを背負い、足踏みまでしていた都が待ちかねたように駆け寄ってくる。
「お、おはよう、みゃーこさん。遅くなってごめん」
 腕時計に目をやると、時刻はまだ九時前。駅前での待ち合わせが八時半、都のアパートには九時までにはいくという約束だったから、実際には時間通りなのだが、都は随分前から支度して待っていたらしい。
「はじめまして、都さん。宮本由梨子といいます、今日はよろしくおねがいします」
 由梨子が一歩前に歩み出て、ぺこりと丁寧に辞儀をする。
「はじめまして! 町村都だよ、よろしくーーーー!」
 都はそんな由梨子の手を取り、ぶんぶんと力強く振る。由梨子は呆気にとられるように目を丸くし、まるで長縄飛びの縄のように右手を振り回されていた。
「……都さん、その格好でいくの?」
 と、訝しげに尋ねたのは真央だった。上は黒のタンクトップに迷彩柄のベスト、下は同じく迷彩柄のカーゴパンツという出で立ち。いつものスパッツ一丁よりはマシだろうが、問題は上が半袖どころかまったくの袖無しなところだった。
「……寒くないんですか?」
 それは、寒がりを自称する由梨子らしい質問だった。実を言えば月彦も真央や由梨子と同様の疑問を抱きはしたのだが、口にはしなかった。
「だいじょぶ! 体動かせば、暖かい!」
 都はきっとそう答えると思ったからだ。由梨子は信じられないといった目で真央を見、真央は困惑するような目で由梨子を見、そして噴き出すように笑った。
「まぁ、みゃーこさんが大丈夫って言ってるんだから、大丈夫なんだろう。準備も出来てるみたいだし、そろそろ出発しようか」
「そう……ですね。………………いいなぁ」
 小声でぽつりと由梨子が呟いたのを、月彦は聞き逃さなかった。きっと寒がりな由梨子としては、この寒空の下、袖無しシャツで平気という都の体質が羨ましくて仕方ないのだろう。
「そういえば、都さん、ねじねじって何処で採れるの?」
「山!」
 真央の問いに、都は右拳を天に向かって突き上げながら、短く答えた。
「都が、ねじねじがいっぱい生えてる山に案内するよ! みんなちゃんとついてきてねー!」
 言うが早いか、都が駆けだしてしまい、月彦を含めた三人は慌てて後を追わねばならなかった。



 それはきっと、都なりの気遣いではあったのだろう。都が本気で走れば、瞬く間にその姿を視界から消してしまうことは、月彦は身をもって知っている。だから、いわゆるジョギングのようなペースで都が走っているのは、自分たちを気遣ってのことだということは解る。
 解るのだが――
「ね、ねえ……みゃーこさん……いつまで走るの?」
 息も絶え絶えに、月彦は聞かずにはいられなかった。既に都のアパートを出発してから三十分ほどが経過し、その間ずっと大通りに沿って、しかも荷物を背負ったまま走り続けているのだ。後ろを見ると由梨子はまだ少し余裕がありそうだが、長距離走が得意ではない真央はもう今にも倒れそうになっていた。
「んーと、あと2時間くらいー?」
 汗ひとつかかず、けろりとした顔で返してきた都のとなりで、月彦は危うく転びそうになった。
「す、すとっぷ! みゃーこさん、ちょっとすとーっぷ!」
 月彦は直ちに都の足を止めさせ、十メートルほど離れていた由梨子と真央が追いつくのを待った。真央は月彦と都に追いつくや、たちまちその場に膝から崩れ落ちてしまった。
「みゃーこさん、まさかその“ねじねじ”が採れる山まで片道2時間以上も走っていく気だったの?」
 都は小首を傾げながら、こくりと頷く。なっ、と絶句したのは由梨子だった。
「ま、待って下さい! その場所って、バスとかじゃ行けないんですか?」
「うーん、道はあるけど、都はバスとかよくわかんないから」
 てへ、と都は照れるように頭を掻き、舌を出す。
「…………わからなかったら、俺に聞いてくれればよかったのに。とにかく、片道2時間も走っていくなんて、俺も含めて絶対無理だから……みゃーこさん、その目的地の山って、方角的にはどっちなの?」
「んーと……あっち!」
「……てことは、ほぼ国道沿いか。それなら多分、バスでかなり近いところまでは行けるよ。…………真央、大丈夫か?」
「うん……大丈夫……」
 大分呼吸が整ってきたのだろう、真央が弱気な笑顔を見せながら、辛くも立ち上がる。
「マオマオ、ごめんね。都、ゆっくり走ってたつもりだったんだけど……」
「確かにペースは遅めだったけど……ほら、みんな荷物もあるし、やっぱり走って移動はキツすぎるよ」
 月彦は周囲を見回し、バス停を捜す。幸い徒歩数分の地点に進行方向に沿った路線バスの停留所を見つけ、次の時間をチェックしていると、都が一人浮かない顔をしていた。
「みゃーこさん?」
「ごめんね、つっきー。やっぱり都は走って行くよ」
「どうして? あっ、ひょっとしてお金持ってきてないとか? それなら大丈夫、みゃーこさん一人分くらいの交通費くらいなら、俺が余分に持ってきてるからさ」
 このような事態を予想していた――わけではないのだが、葛葉が出がけに真央と二人分の小遣いをくれたことを、月彦は密かに感謝していた。
(…………ていうか、母さんが小遣いをくれるってことは、だいたいその小遣いが必要な展開になるんだよなぁ)
 実母ながらその慧眼には恐れ入ると――偶然だとは思うのだが――月彦は薄ら寒いものすら感じざるをえない。
 しかし、月彦の言葉に、都は小さく首を振った。
「お金も持ってきてないけど…………自動車は酔っちゃうから」
「あぁ……そういえば……」
 先日の不動産屋の車に乗った時も、都は具合が悪そうにしていたと、月彦は思い出した。
「でも、みゃーこさんが居ないと道も解らないし……うーん……」
 せめて最初から徒歩での移動だと解っていれば、家から自転車を持って来ることも出来た。真央も由梨子も自転車ならば、都の移動速度についていくことは出来ただろうが、さすがに今から家まで戻って自転車をとってくるというのは、時間的にもかなりのロスだ。
「……みゃーこさん、その車酔いって……どうしても我慢できないかな?」
 なんとか都が耐えられる所まででいいから、バスで移動したいという旨を、月彦は伝えた。都もやはり気が進まないのか、随分と悩んでいた。
「あの、先輩……」
「ん、どうしたの、由梨ちゃん」
「酔い止めのお薬なら、一応少し持ってますけど……これじゃダメですか?」
 そう言って、由梨子が開封済みの酔い止めを掌に載せて差し出してくる。月彦は快哉を上げてそれを受け取った。
「おおっ、由梨ちゃんナイス! よく持ってたね!」
「私もバスとかだとけっこう酔っちゃうんです。電車は平気なんですけど……」
 多分、バスの匂いが苦手なのだろうと、由梨子は困ったように笑う。
「とにかく、ありがとう。……みゃーこさん、由梨ちゃんが酔い止めくれたから、これを飲めばバスに乗っても気持ち悪くならずに済むよ!」
「……お薬?」
 月彦が差し出した酔い止めを受け取りながら、都は露骨に表情を曇らせた。
「……苦い?」
「苦くない苦くない! カプセルだし、噛まなきゃ味なんかしないよ!」
 言うが早いか、月彦は背中のリュックから水筒を取り出し、コップになる蓋にお茶を注いで都へと差し出す。
「騙されたと思って、一粒飲んでみて。噛まないように注意して」
 都は茶の注がれたコップと薬をそれぞれ右手と左手に持ち、見比べるように交互に見た後、えいやと薬を口の中へと放り込んだ。そして茶で流し込み、ふうと一息。
「これで、気持ち悪くならない?」
「三十分くらい待ってから乗れば、大丈夫だと思います」
 都の質問には由梨子が答えた。それをきっかけとしたかのように、二人が話し始めるのを見届けて、月彦ははたと。思い出したように真央へと視線を向けた。
「…………? 真央、どうした?」
 由梨子の影に隠れるように立っていた真央は、月彦の視線に気づくや、曇天のような顔をぱっと、慌てて作り笑顔へと変えた。
「なんでもないよ。父さま」
「そ……っか。……真央も、気分が悪くなったりしたら、すぐ言うんだぞ?」
 真央は頷き、まるで月彦から逃げるように都と由梨子の話に加わった。
「………………真央?」
 小首を傾げる――が、楽しそうに話を続ける三人の姿に、さして気に留めることでもないだろうと。月彦は再び時刻表へと視線を落とすのだった。



 都の案内の元、バスで移動すること一時間半。さらにバスから降りて歩くこと三十分ほどで、目当ての場所へと到着した。
(…………早めにみゃーこさんにストップをかけて良かった。本当に良かった)
 バス停を降りた時点でそこはもう完全に山の中であり、さらにヘコみや擦った痕だらけのガードレールに沿って山を登り続け、そのガードレールの切れ目から舗装のない獣道のような細道へと入っていく。季節が季節であるから緑も少なく歩きやすくはあったが、これが夏場であればこんな細道など両側から生い茂る葉に覆い隠されて見えなくなるのではないかと、月彦は思った。
「みゃーこさん、まだ山の中に入っていくの?」
「うん、もうちょっと!」
 どうやら、目的地はそう遠くはないらしい。都の言葉に、一列縦隊ぎみについてきている由梨子、真央もホッと顔を綻ばせていた。そのまましばし都の案内のままに歩き続けると、まるで行く手を遮るように金網のフェンスが見えてきた。フェンスにぶら下がっている看板には“私有地につき〜”といった文言が書かれており、まさかここを越えるのかと。月彦が不安混じりに都の様子を伺ったが、都は特に動揺した様子もなく、フェンス沿いに歩き続け、出入り口と思われる扉状になった金網にかけられていた南京錠を、ポケットから取り出した鍵であっさりと外してしまった。
「みゃ、みゃーこさん!? なんでそんな鍵持ってるの!?」
「……?」
 都は、手にしている鍵と、月彦の顔を交互に見る。眼前の月彦が何故驚いているのかが解らないといった具合に小首を傾げてから。
「ここ、じーちゃんの山なの。都はじーちゃんと友達だから、いつでも遊びに来なさいって鍵をもらったの!」
「じーちゃん、って……みゃーこさんのおじいちゃん?」
「都のじゃないよ。猟師のじーちゃん!」
「えっと……つまり、赤の他人だけど、友達になったおじいちゃんってこと?」
 こくこくと、都は頷く。
「なるほど……つまりここはそのおじいさんの私有地で、みゃーこさんは出入り許可証をもらってるようなものってことか」
 都の言うねじねじというものが一体何なのかはまだ解らない。が、少なくとも土地の持ち主と都が懇意であるならば、後々トラブルになるようなことも無いのではないか。
(……良かった。実はちょっとだけそこが不安だったんだ。…………けど)
 気にかかるところが全く無くなったわけではない。月彦はその気がかりを口にした。
「でもみゃーこさん、みゃーこさんはそのおじいさんに山に入ってもいいって言われたかもしれないけど、みゃーこさん以外の人を連れて入ってもいいの?」
「だいじょぶ! じーちゃん、都の友達ならいいって言ってた!…………と思う」
 最後、やや不安げに都は言った。
「でもでも、つっきーたちならじーちゃんも絶対ダメって言わない! 怒られないから絶対大丈夫!」
「わ、わかったよ、みゃーこさん……それならいいんだ」
 同じく顔に不安を滲ませている由梨子と真央を安心させるように、月彦は笑顔を零し、都に伴われてさらに五分ほど進んだところで、今度は小さな山小屋が見えてきた。
(いや、山小屋っていうよりは……)
 倉庫の方が正しいと、月彦は思い直した。トタン屋根の正方形状をしたそれは丁度民家の庭先にあるくらいの大きさで、その引き戸にも南京錠がかかっていたが、都は同じ鍵であっさりと外し、引き戸を開ける。
「んーと……あったあった! コレ! つっきー、マオマオ、ユリユリ、これ! ねじねじを採る道具!」
 都が中から持ち出してきたのは、なんとも奇妙な道具だった。1メートルほどの木の棒の先に金属製の刃がついているのだが、これが鍬とも鋤とも違う、奇妙な付き方をしているのだ。
「これが……ねじねじ採りの道具……?」
 都に手渡された道具を、月彦はまじまじと見る。木の棒の先端の刃は、まるで鍬の先を垂直ではなく平行方向に取り付けたような形をしており、突き刺す以外の使い道が想像できないのだ。
(まさか、ねじねじって……熊とかそういうんじゃないよな)
 常識的に考えれば、素人が4人、得物持ちとはいえ熊猟などあり得ない。が、言い出しっぺが都であるだけに、月彦はまさかという思いを捨てきれなかった。
 隣に居る真央も、道具の使い道が想像つかないのだろう。月彦同様に小首を傾げていた。が、ただ一人、由梨子だけは道具を手にしたまま顎先を摘むように眉を寄せ続け、そして不意に。
「あぁっ!」
 と、手を叩いた。
「都さん、ねじねじって、ひょっとして………………自然薯のことですか!?」



「自然薯……って、由梨ちゃん、どうして解ったの?」
「この道具です。同じものをどこかで見た事あるって、さっきから思い出そうとしてて……それでやっと、祖父が自然薯掘りに使ってる道具だって思い出したんです」
「なるほど……みゃーこさん、みゃーこさんが言ってたのって、自然薯のことなの?」
「じ……ね……?」
「えーと……こう、土の中に埋まってて、折れやすくって、栄養があって、とろみがあって、美味しい芋じゃないの?」
「それ! ねじねじすっごく美味しい! 力出る!」
「……みゃーこさん。それはねじねじじゃなくて自然薯って言うんだよ。じねんじょ、じ、ね、ん、じょ」
「じ、ね、………………ねじねじ?」
「いや…………ま、いっか」
 そういえば、都は霧亜の名前もうまく発音できず、結局この年まできららと呼び続けてしまったのだ。とりあえず意味は通じるようになったから、無理に正式な名前で呼ばせることもないかもしれない。
「まぁ、なんにせよ何を採りに来たのか解って良かったよ」
 つまり、都は霧亜の為に自然薯を採りに行こうと言いたかったのだ。怪我の治りが遅い霧亜には、自然薯の栄養はきっと助けとなることだろう。
「……父さま、自然薯ってなぁに?」
「ん、そうか、真央は知らないのか。……んー、なんて言えばいいのかな」
「長芋みたいなものですよ、真央さん。ほら、家庭科の調理実習で使ったじゃないですか」
 あっ、と真央が声を出す。どうやら思い出したらしい。
「トロトロで、手が痒くなるお芋さん!」
「それだ、真央。……ただ、自然薯掘りかぁ……聞いた話じゃ、すっごいキツいんだよな……」
 自分はいい。しかし女子である真央や由梨子はどうなのだろうと、月彦はそこが気にかかった。姉の為という大義名分がある自分とはちがい、二人は霧亜の為にそこまでするいわれはない。ましてや、由梨子は霧亜を怨みこそすれ助けたいなどとは思っていないのではないだろうか。
「ねじねじ採り、大変! だけど、とっても美味しい! きららも、きっと喜ぶ!」
「みゃーこさんは大丈夫そうだね。……ただ、由梨ちゃんと真央はもしキツかったら、途中で休憩してていいからさ」
「……私も、自然薯掘りは初めてですけど、かなり大変だって聞きました。でも、これもいい経験ですから、出来るだけ頑張りたいです」
「私も、お見舞い行けないから……だから、頑張るよ、父さま!」
「そ……っか。……んじゃ早速、って言いたいところだけど、もう昼近いし、一端昼飯にしない?」
 月彦の提案に反対する者は誰も居なかった。



 都の話では小屋の近くに河原があるとのことで、少し移動してそこで昼食をとることになった。昼食はそれぞれ持参した弁当を食べる――わけなのだが、月彦は都と一緒に出掛けるならと。葛葉が持たせてくれた大量のハンバーグ(加熱済み)が詰められたタッパウェアを持ってきており、逆に都はこれまた大きなタッパーいっぱいに大量のおでんの具を入れてくるという、なんともアウトドアらしくない様相を呈した昼食となった。
「ハンバーグ! ハンバーグ!」
 葛葉のハンバーグを前に、都は両手を足下の岩につき、両足だけでぴょんぴょんと跳ねるようなよくわからない興奮を露わにし、一人小屋へと駆け戻っては一抱えほどもある鉄板を手に戻って来た。かと思えば再度小屋へと駆け戻り、今度は小鍋を手に戻って来て、そのどちらも川の水で丁寧に洗い、慣れた手つきで竈を組んではどこからともなく薪と枯れ草を集めてきて、ライターどころかマッチすら使わず、石を擦り合わせただけであっさりと火を熾してしまった。
(すげぇ……めっちゃ手慣れてる……)
 都が何をするとも言わず、一人でてきぱきとやってしまう為、手伝う隙すらなかった。そうして熾した火に鍋と鉄板をそれぞれかけ、鍋には都がタッパーでもってきたおでんが入れられ、鉄板には葛葉のハンバーグが並べられていく。
「ハンバーグもおでんもイッパイあるから、みんなで食べる! 食べないと元気でない!」
「はは、そうだね。……じゃあ遠慮無くもらうよ」
 恐らく、自分が率先して動かなければ、由梨子、真央も食べにくいだろうと思い、月彦は箸を伸ばし、ぐつぐつと煮立っているおでん鍋から大根を取り出し、一端自分の弁当箱の蓋へとうつして軽く冷ましてから口をつける。
「うん、美味しい! ちょっと柔らかくなっちゃってるけど、味が染みてて美味しいよ」
「マオマオも、ユリユリも、遠慮しない! で、食べて!」
「じゃあ……すみません、いただきます」
「私も……」
 やや遠慮がちに、真央も由梨子も箸を伸ばし、おでんを弁当箱の蓋へととる。
「本当、美味しいですね」
「うん、都さんのおでん、すごく美味しい」
「えへへー。都のじゃなくておっちゃんのだよぉ。じゃあじゃあ、都もおばさんのハンバーグ食べちゃう!」
「あ、待って、みゃーこさん。一応ソースとか塩こしょうとかも母さんにもらってきてるから、良かったら使って」
「わぁ! ありがと、つっきー!」
 都は月彦の手から調味料類の入った小さなタッパーを受け取り、割り箸で温め直されたハンバーグをつまんではそれらで調味し、うまうまと頬張っていく。
「……まさか、アウトドアでおでんを食べることになるとは思いませんでした」
 持参した弁当と、都が持ってきたおでんとを交互に口に運びながら、由梨子が苦笑混じりに言う。
「俺もさすがに河原でおでんは初めての経験だけど、これはこれで乙だなぁ」
「暖かいから食べるとぽかぽかするね、父さま」
 四人、環になっての昼食。結局都は月彦が持ってきたハンバーグ二十個の殆どを一人で食べきってしまった。というのも、都はおでんの他に自前の弁当は用意しておらず、かといっておでんも別に好きではなく……ということで、ある意味では自明の結果だった。

 昼食の後は談笑混じりの小休憩の後、全員で片付けをして、余分な荷物を一端小屋へとしまった。その後、自然薯掘り用の道具――山芋掘りを二本と、自然薯を運搬する為の背負い籠を持って、再出発した。
「そういえば……みゃーこさん。自然薯が生えてる場所とか解るの?」
「わかるよ。葉っぱを見れば、わかる」
 都は自信満々に胸を反らし、そして早速に足を止め、地面を指さした。
「そこ! 埋まってる!」
「えっと……ここ、かな?」
「うんうん。あっ、こっちも生えてる!」
「んじゃこっちは俺と真央が掘るから、そっちはみゃーこさんと由梨ちゃんで掘るって感じでいこうか」
 山芋掘りを二本しか持ってこなかったのは、一人で最後まで掘りきるのは難しいだろうと判断してのことだ。――恐らく、都ならば一人でもやりきれてしまうのだろうが。
「わかった! ゆりゆり、頑張ろう!」
「はい。よろしくおねがいします、都さん」
「よし、こっちも頑張るか。真央、サポート頼むぞ」
「うん!」



 まずは慎重に、自然薯のツルが埋まっている場所の周りの土をどかすように掘り進めていく。
(自然薯って、確か折っちゃダメなんだよな……)
 とはいえ、それは“売る場合”の鉄則ではなかっただろうか。自然薯自体が一度折ってしまえば忽ち切断面から腐敗が始まり、食べられなくなるというわけではないだろう。ひとえに見栄えの問題であるなら、それは必ずしも守られねばならない事柄ではないように思える。
(……でも、姉ちゃんに食べてもらうものを、ボッキボキに折っちゃうってのも、な)
 もちろんそれもすり下ろした状態で出せば、霧亜には解らないだろう。しかし霧亜に出す食べ物をそのようにぞんざいに扱うこと自体、姉に対する冒涜であるように思えて、月彦は絶対に折らないぞという覚悟の元、慎重に土を退けていく。
「あっ、父さま、だんだんお芋さんが見えてきたよ!」
「真央、危ないからあんまり身を乗り出さないようにな。あと、芋を触る時は持ってきた軍手をつけてからにしたほうがいいぞ。大丈夫とは思うけど、山芋だから触るとかぶれるかもしれない」
「大丈夫、ほら、ちゃんとつけてるよ、父さま」
 真央は月彦に向けて掌をつきだし、ぐーぱーしてから、邪魔にならぬように体を引いた。月彦は改めて山芋掘りを突き立て、土を掻き出すようにして掘り下げていく。
(……っ……これ、キツくないか)
 首にかけたタオルで汗を拭い、ちらりと都の様子を見る。さすがに慣れたもので、既に自然薯の周りは深い穴となりつつあった。男として負けられないと、月彦はよりいっそう力を込めて山芋掘りを振るう。
「すまん、真央。少しだけ休憩する」
 作業の辛さを知ってしまっては、真央にバトンタッチするわけにもいかない。月彦は山芋掘りを杖代わりにするようにして体を休め、呼吸を整える。その間、真央は少しでも掘り進めようとするかのように、折れた木の枝を使って自然薯の周りの土を削るように掘り続ける。
「とれたー! 見てみてつっきー! おっきいよ!」
「おお……すごいな、みゃーこさん。大物じゃないか……」
 都が掘り出したのは、ゆうに1メートルを越える自然薯だった。かたや、月彦と真央が掘っている自然薯はといえば、まだ30センチほど姿を見せているに過ぎない。
「つっきー、代わる?」
「いや、いい。大丈夫、俺もちゃんと掘り出すからさ。みゃーこさんと由梨ちゃんは新しいのを捜しててよ」
「私、ほとんど見てただけですよ。……都さん、その籠、私に持たせてください」
 せめて、運搬係はやりたいということなのだろう。由梨子は進んで自然薯用の籠を背負い、都が丁寧に自然薯を籠の中へといれる。
「じゃあじゃあ、つっきー! 都たち、あっちで掘ってるからー!」
「りょーかい、俺たちも掘り出したらすぐ合流するよ。…………さぁ、真央。慌てず急いで、丁寧に掘り出すぞ」
「うん、父さま。…………あっ」
「……? 真央、どうし――だっ」
 突然、月彦は後頭部を強打され、危うく掘った穴に落ちそうになる。辛くも踏ん張ったところに、ぼとぼとと足下に何かが落ちる音がした。
「父さま、大丈夫?」
「大丈夫、だが……なんだこれ……桃……?」
 足下に落ちているのは、二つのひしゃげた桃だった。月彦はそのうちの一つを掴み、矯めつ眇めつしながら辺りを見回し、最後に真上を見上げた。
「………………真央、これが落ちてくる所見たか?」
「ごめんね、父さま。落ちてくるのは見えたんだけど、驚いちゃって……」
「あぁ、止めて欲しかったとか、そういうわけじゃないんだ。…………桃の木なんて、無い……よなぁ」
 辺りにはそれこそ視界を埋め尽くすほどに木々で埋め尽くされている。が、桃の木らしい木はただの一つも見当たらなかった。
(…………待てよ、確か前にも……)
 突然桃が後頭部を直撃したことがあったことを、月彦は思い出した。訝しんでいると、真央がぽつりと呟いた。
「ひょっとしたら……母さまかも」
「真狐! ………………やりかねないな」
 あの女のことだ。自然薯掘りをしている自分たちをどこかから盗み見ていて、こっそり邪魔をしてやろうという魂胆なのかもしれない。
「そういえば……母さま、人間が苦労して掘った山芋を盗んだり折ったりするのが楽しいって、前に言ってた、かも」
「………………真央は真似をするんじゃないぞ?」
 あの女の悪態をついても始まらない。月彦はひしゃげた桃を投げ捨て、気を取り直して作業を再開させる。
(…………ん、真狐……?)
 はて、何かを忘れている気がする――が、これ以上あの女のことで作業が遅滞してしまうのが我慢出来ず、月彦はあえて思考を封鎖する形で、己を自然薯掘りマシーンと化すのだった。


 自分もやってみたいという真央に時折山芋掘りを渡しての休憩を挟みながら、どうにかこうにか一本を掘り出した時には、都と由梨子のペアは既に三本目を掘り出し終わっていた。月彦も負けじと、都に次の自然薯を見つけてもらい、掘り進めるが――
「あっ」
 焦るあまり、半ばほど露出したそれをポキリと折ってしまった。泣く泣く土に残された分も掘り出すが、折れた自然薯ほどみすぼらしいものは無い。その時にはもう都と由梨子は七本目を掘り終えており、さすがにもう十分だろうということになった。
「……全然手伝えませんでした」
 自然薯の入った籠を背負ったまま、由梨子はしょんぼりと肩を落としていた。
「ごめんね、ユリユリ。ユリユリもねじねじ掘りたかった? じゃあもう一本掘る? 今度は都が見てるよ!」
「いえ、大変そうだっていうのは見ててよく解りましたから……多分、私じゃ時間かかりすぎちゃうと思います。見てただけですけど、すごく楽しかったですよ」
「まぁ、確かにいい経験にはなったかな。…………なんていうか、全身余すところ無くめっちゃ疲れた感じだよ」
「私、ちょこっとだけしか掘ってないけど、すっごく大変だった。都さん、あんなにいっぱい掘るなんてすごい!」
「えへへー、都はね、体を動かすことは得意なんだよー」
「……いや、もはや得意っていう次元じゃないよーな……」
 半ば原始人じみている――とまで言えば、さすがに失礼だろうか。
「つっきーもマオマオも、真っ黒! 泥だらけ!」
「それを言うなら、みゃーこさんも…………あれ?」
 そこで月彦は気がついた。自分と真央は、確かに全身泥まみれだが、都は靴や軍手こそ汚れているが、逆を言えばそれ以外の場所はろくに土すらついていなかった。つまりは、それだけ動きに無駄が無いということなのだろうか。。
「…………まぁいいや。とりあえず自然薯も掘れたことだし、日が暮れないうちに帰ろうか」
 月彦は腕時計の文字盤へと視線を落とす。時刻は三時過ぎだが、山の夜は早い。早めにバス停まで戻らなければ、最悪帰り道を見失うかもしれない。
「そうですね、荷物も小屋に置いて来てますし、早めに戻りましょう」
 由梨子の言葉に真央も頷き、来た道を引き返し始める。
「みゃーこさん、俺たちも帰ろう」
「うん! きらら、喜ぶかなぁ……」
「きっと喜んでくれるよ」
 なんといっても、都が自分の手で掘ってきた自然薯だ。あの霧亜がぞんざいに扱うわけがない。
(……自然薯掘りのキツさは、姉ちゃんだって知ってるはずだ。多少無理してだって食べてくれるさ)
 しかも、他ならぬ都が採ってきたものだ。そして伝え聞く自然薯の栄養が本物ならば、薬になりこそすれ毒には絶対ならないはずだ。それはイコール霧亜の退院が早まるということでもある。
(……それに、なんだかんだでみゃーこさんと由梨ちゃんも良い感じに仲良くなってくれたみたいだし)
 そっちの収穫も、決して無駄にはならないと、月彦は見ていた。月彦の見たところ、都はまだまだ危うい。ふとしたきっかけで居なくなってしまうのではないかと、見ていてハラハラさせられるのだ。しかしそれも、都にとって仲の良い相手を一人でも多く作る事で防げるのではないだろうか。
 月彦はちらりと視線を向ける、丁度今も由梨子と都が話している所だった。
「えっ……頂いてもいいんですか?」
「うん! 9本あるから、3本はじーちゃんにあげて、つっきーとマオマオとユリユリが1本ずつ持って帰って、あとはきららの分!」
「みゃーこさん、俺と真央は二人で一本でいいよ。だからその分はみゃーこさんが持って帰りなよ」
「都はいいの、食べたくなったら自分で掘る!」
「じゃあ、おでん屋のおっちゃんにあげたら? きっと喜ぶと思うよ」
「おっちゃん! 忘れてた! じゃあ、つっきーの言う通りにする!」
 アハハと山中に笑い声が木霊する。やはり、来てよかったと、月彦はしみじみ思った。これならばもう、都は二度と行方を眩ませたりは――
「……? みゃーこさん?」
 はたと、月彦は足を止める。先ほどまで自分の前を歩いていたはずの都が足を止め、無数の木々に埋もれたある一点を注視していたからだ。
「何を見て――」
 言葉が、止まる。山の奥、寒さに身を寄せるようにそそり立つ針葉樹林の合間からこちらを見ているもの。都は魅入られたように、“それ”を凝視しているのだった。
(やっべ……)
 背筋が凍る。その動物と山で遭遇することがどれほど危険なことであるか、月彦は知識としては知っている。だが、実際に目にしたそれは月彦の想像よりも遙かに巨大で、ある種の荘厳さすら身に纏っていた。
「イノシシだーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!」
 体の硬直は、都のそんな快哉で解けた。同時に都はイノシシめがけて一目散に駆けだし、そんな都の挙動にパニックを起こしたように、イノシシもまた一目散に逃げ出した。
「なっ、ちょっ、みゃーこさん!?」
 木から木へ。まるで野生の猿――もしくは忍者のように飛び移りながら都はイノシシを追い、あっという間に月彦の視界から消えてしまった。呆気にとられる月彦の後ろから、がさがさと草木をかき分ける音が近づいてきた。
「あの、先輩……どうかしたんですか?」
「都さんの声が聞こえたけど……父さま?」
「……由梨ちゃん、真央……悪いけど、二人だけで小屋のあった所まで帰れるか?」
「多分、大丈夫だと思いますけど……先輩、一体何があったんですか?」
「みゃーこさんが、イノシシ追いかけて居なくなっちまった。心配だから、探しに行ってくる」
 えぇっ、という声が二人分重なって聞こえた。
「父さま、ダメ! イノシシってすごく強いんだよ? 危ないよ!」
「解ってる。だからみゃーこさんが心配なんだ。大丈夫、俺もさすがにそこまで無茶はしない。日が落ちる前にはみゃーこさんを捜し出して、小屋まで戻るからさ」
「でも、先輩!」
「そんでもし、万が一日が落ちるまでに俺が戻らなかったら、二人だけで一端家に帰ってくれ。くれぐれも警察とかには連絡しなくていいから」
 その場合も、明日中には必ず帰ると、月彦は繰り返し、念を押すように言った。
「大丈夫だって、ちゃんとその前に小屋に帰るからさ。それに、こうみえて俺は山での遭難についてはスペシャリストなんだぜ? 真央なら、俺が言ってる意味、解るだろ?」
「父さま……」
 真央は何かを言おうとして、しかし自分にはそれを言う資格がないとでもいうような、そんな思いとどまり方をしていた。
「何があっても、みゃーこさんと一緒に無事に帰るから、二人とも言う通りにしてくれ」
「………………わかりました、先輩。でも、明日のお昼になっても先輩からの連絡が無かったら、その時は警察に連絡しますから」
「……しょうがないな。じゃあ、なんとしてもそれまでにみゃーこさんを見つけないとな」
 もう大丈夫、二度と都は居なくなったりはしないと思った矢先にこれだ。とはいえ、前回とは事情が違う。
(みゃーこさんのことだ、無事ならきっと戻ってくる。でも、もしもどってこなかったら……)
 そんなことになったら、姉ちゃんに殺されてしまう――心の中だけで呟いて、月彦は二人に背を向け、都が消えた方角へと歩き出した。



 この時点で、月彦は既に二つのミスを犯していた。一つは、殆ど手ブラに近い状態で都を追い始めたこと。せめて小屋までは真央達と一緒に戻り、そこで一度自分の荷物を手にしてから都を追うべきだったのだ。そしてもう一つのミスは、そもそも都を追いかけようと思ったことだった。
(…………由梨ちゃんと真央には威勢の良いことを言ったが……)
 右手には、せめて武器の代わりにと、山芋掘りを持ち、時にはそれを杖代わりにしながら、月彦はただひたすらに都の消えた方角へと歩き続けていた。
「みゃーーーーこさーーーーーーーーーーーーーーーん!!!!」
 時折声を張り上げて名を呼ぶが、返事は無い。ただただ、木々にこだまして消え入るだけだった。そうこうしているうちに今度はみるみる日が暮れ始め、月彦は焦りを覚えながらも都の名を呼びながら彷徨い歩くことしか出来なかった。
「ちくしょう……みゃーこさん、一体どこまで追いかけていったんだ」
 すぐに追いつける――などとは、微塵も思っていなかった。しかし、イノシシ追跡に飽きた都がはっと我に返り、その時に声が届けば、都の方から戻って来てくれるのではないかという期待はあった。が、どうやらそれは甘かったらしい。
「えっ……ちょっ……」
 不意に頬を打った冷たい雫に、思わず天を見上げる。気のせいであって欲しいという思いをあざ笑うように、一つ、また一つと、雫が降り注ぎ、パラパラと音を立て始める。
「マジかよ……くそ、雨合羽もリュックの中か!」
 一端小屋まで戻るか――そう思って、背後を見て愕然とする。自分なりに、木々の枝振りなどを記憶しながら歩いてきたつもりだった。しかしそこには、まったく見覚えの無い、まっさらな森が誕生していた。
 もはや月彦は完全に遭難状態だった。着ているジャージの他に、持ち物といえば汚れた軍手に汗を拭く用のタオルとポケットティッシュにあめ玉が二つ。到底雨を凌げるようなものはなく、月彦は周囲を見渡し、葉の生い茂る常緑樹を――雨宿りが出来そうな場所を捜す。が、そうそう都合良く見つかるわけもなく、いけどもいけども葉を落としきった骨のような木々の森を歩き続ける羽目になる。やがて全身がぐっしょりと雨に濡れ、それによって体温が奪われ、気がつくと歯を鳴らしながら肩を抱くように歩いていた。こんなことならば下手に動かず、せめて太い枝のある木の下ででも雨が止むのを待つべきだったかと後悔に後悔を重ねていた時だった。
 視界の遙か先に、月彦は山小屋のような影を見つけた。



 ひょっとしたら、由梨子と真央の待つ山小屋に帰り着けたのかという淡い希望は、記憶にある小屋とは明らかに違う丸太組みのシルエットによって否定された。しかしそれでも住人が居れば――居なくともせめて雨露が凌げればと、月彦は最後の力を振り絞るように走り、丸太小屋の入り口へとたどり着いた。
 人の気配は無かった。この上さらに鍵までかかっていたら万事休す――そう思いながら、素人が適当に取り付けたような、なんとも手応えの怪しいドアノブを捻り、引く。幸い鍵はかかっておらず、何の抵抗もなくドアは開かれた。月彦は中を覗き込み、間違いなく誰も――“何”も居ないことを確認してから、中へと入った。
(明かり、明かり……明かりになるようなものはないか)
 もう夜の帳がおちかけている。幸い小屋にはガラス窓があり、そこからまだ微かに日の光が入り込んではいるが、やがてそれも途絶えるだろう。それまでに何とか明かりをつけなければと、月彦は小屋の中を彷徨い歩き、そして実は捜し物はずっと目の前にぶら下がっていたのだということに、日が落ちる寸前になってやっと気がついた。
 殆ど視界が聞かない中、月彦は小屋の隅にある作業台の上からマッチ箱を手に取り、小屋の中央にぶら下がっているランプに火を入れる。ぽっ、とたちまち小屋の中が明かりに包まれ、月彦は二度目の安堵の息を吐いた。
「ふぅーーーー………………あとは、服を…………絞るしかないか」
 意を決してジャージと下着を脱ぎ捨て、小屋の外で絞る。幸い、小屋の中には丁度洗濯物を干せるようなワイヤーが対角線上に張られており、月彦は下着だけは身につけ、そこにジャージとTシャツを掛けて干すことにした。
「〜〜〜〜っっ……寒い、けど……さすがに小屋の中で焚き火をするわけにはいかない……よなぁ……」
 丸太小屋には電気は来ていないらしい。暖房器具の類いも見当たらず、せめて何か着替えのようなものは無いかと、凍えて足踏みをしながら小屋の中を見回す。先ほどマッチを拝借した作業台の上にはカナヅチやら金やすりやらが置かれているが、寒さを凌ぐ役には立たなそうだ。机の反対側には壁に密着してベッドが置かれ、その上には毛布が一つ。他にはロープやら手斧やら廃タイヤやら研磨布らしきものやらといったものがごちゃ混ぜに部屋の隅に寄せられていた。
「着替え……はないかぁ…………いっそロープを体に巻き付けて服の代わりに…………って、俺はバカか!」
 寒さは、思考力と判断力を奪うのだろうか。月彦はばちんと己の頬を大きく叩き、ベッドの上に無造作に置かれていた毛布をマントのように羽織り、そのまま身を屈めてベッドの上に座り込む。毛布はほこり臭く、ベッドもまたほこり臭かったが、この際贅沢など言えるわけがなかった。
「うううーーー、寒い、寒い、寒い……寒いけど、毛布があればなんとか……あとは服が乾けば…………」
 ガチガチと歯を鳴らしながら、月彦は小屋の中に干されたジャージを見上げる。本当ならば、焚き火でも熾してその熱でさっさと乾かしてしまいたいのだが、床も丸太を半分に切って平らに組んだものであり、何度も頭を過ぎるその考えを月彦は無理矢理に封じねばならなかった。
(……なんか、懐かしいな。そういやあのときもこんな風に毛布にくるまってたっけか)
 ふと、矢紗美とのデートの帰りに車が立ち往生し、雪に閉じ込められたことを思い出す。あの時は矢紗美と一緒であり、別段それほど心細いとは感じなかった。
(…………矢紗美さんを振った天罰……だなんて思いたくはないけど……)
 今の状況を、他人のせいにするのは間違っている。どう考えても準備不足、そして判断力不足が招いた、自業自得の状況ではないか。
「………………俺も、真央たちと一緒に帰るべきだったのかなぁ」
 今にして思えば、それが最も良い決断だったように思える。しかし、それで都が無事一人で帰って来ればいい。が、もし万が一のことがあった場合、自分は二度と姉の前に顔を見せることが出来ないだろうと、月彦はその“万が一”を想像して寒さとは別の意味で震えた。
「みゃーこさん、今頃何してんのかなぁ…………」
 案外、都もあっさりと引き返していて、真央や由梨子らと合流していて、捜す者と捜される者が逆になっているかもしれない。だとすれば、とんだピエロだと、月彦は紫色の唇をくっと歪めて自嘲する。
「……………………ってっ、寝るな! 寝るな! 寝たら死ぬぞ!」
 そのままうつらうつらと瞼を閉じてしまいそうになり、月彦は慌てて頬を叩く。ついでに寒いときは体を動かせば暖まるという都の言葉を思い出し、ベッドから飛び出して下着一丁でスクワットなどをやってみるが、体が温まる前にバランスを崩して尻餅をついてしまい、やむなく断念する。どうやら寒さのあまり、体をうまく動かすことすら出来なくなっているらしい。
 月彦は大人しく毛布にくるまり、さらにあめ玉を頬張りながら、体温の回復を待つことにした。
「……ちくしょう、ひょっとして……俺はここで死ぬのか……」
 もしかしたら、死の危険は意外と近いところまで来ているのではないか――月彦は漸くにして、そのことを自覚した。日は完全に暮れ、雨は尚も降り続いている。夜になれば、気温はさらに下がるだろう。火を熾すこともできない室内もまた、当然気温が下がっていく。毛布という原始的な防寒具一つで、果たして朝まで耐えることが出来るのだろうか。仮に朝まで耐えたとして、ここが一体何処なのかも解らず、自力で山から脱出出来るのだろうか。
(………………虚勢はらないで、日が暮れても帰らなかったらすぐに警察に連絡してくれって、言うべきだったか……)
 今更ながらに、月彦は後悔していた。が、しかしあの場はああ言うしかなかったことも、痛感していた。
(…………前の時にも、随分迷惑かけちまったらしいからなぁ……)
 もしまた捜索隊などの世話になってしまったら、下手をすると「またお前か、いい加減にしろ!」と怒鳴りつけられるかもしれない。そんな愚にもつかない考えばかりがぐるぐると周り、最終的には死ぬ前に、一度だけ揉むことが出来るのなら誰のおっぱいが良いかというような最悪極まりない妄想に耽っていた時。
「あれれー? 明かりがついてる!」
 月彦は救いの女神の声を聞いた。


「その、声、は……みゃーこさん!?」
「えっ、つっきー!?」
 驚きの声と共に、小屋の中に入ってきたのはずぶ濡れになった都だった。しかし月彦にはその姿が、白いヴェールを身に纏った女神のように見えた。
「みゃーこさん! 良かった! 無事だったんだね!」
 冗談抜きに感激の涙を浮かべながら、月彦は毛布を投げ捨てるや都に抱きついていた。
「わっ、わっ、つっきーダメだよぉ、つっきーもびしょびしょになっちゃう」
「そんなのどうだっていいよ。良かった、本当に良かった……」
 都の無事もさることながら、少なくともこれで一人寂しく死ぬことはなくなったということも、月彦の感激を強めていた。
「ていうか! みゃーこさん、今までどこ行ってたんだよ! 勝手に居なくなったりしちゃダメじゃないか!」
 そして、ひとしきり再会の感激に噎び泣いていると、頭も次第に冷静になる。月彦は都から離れ、毛布をマントのように纏うや、こんどは照れ隠しのように声を荒げた。
「えへへ……ごめんね、つっきー。イノシシがいたから、捕まえようと思って」
「捕まえるって……みゃーこさん、イノシシなんて素手で捕まえられるものじゃ……」
「素手じゃないよ! 追いかける途中で石を拾って…………ほら!」 
 と、都が差し出したそれは一見ナイフのようにも見える――そして歴史の教科書の中でしか見た事が無いような――いわゆる打製石器だった。恐らくは、追いかける傍ら良い感じの石を拾い、それをさらに他の石に叩きつけ、鋭利な刃物状に加工したのだろう。
(やってることがますます原始人じみてるんだけど……)
 しかし、都の今までの生活を鑑みれば、逆にそれが自然なのかもしれないと思い直す。そう考えれば、イノシシを見た瞬間のあのハシャギっぷりも幾分は納得がいくというものだった。
「……で、結局イノシシは捕まえられたの?」
「えへへ…………逃げられちゃった」
「……まぁ、しょうがないね。とにかく無事で良――」
「でもでも、ほら! ウサギは捕まえたよ!」
 と、今度は2匹のウサギの死体を、耳を握る形で誇らしげに突きつけられ、月彦は口を“い”の形に引きつらせながら仰け反った。
「う、うさぎ……捕まえて、どうするの? みゃーこさん……」
「食べる!」
「食べ……」
 その瞬間、まるで食べるという単語に反応したかのように、ぐぅぅ、と腹が鳴り出した。都にも聞こえたのだろう、にぃ、と満面の笑顔を浮かべる。
「つっきーもお腹ぺこぺこ? 一緒に食べる?」
「えーと…………ちゃ、ちゃんと調理してくれるのなら……」
 いくら都でも、まさか捕まえた兎にそのままかじりつきはすまい。すまいと思いたいが、もしかしたらという懸念は拭いきれない。
「大丈夫! ちゃんと美味しくする! つっきー、待ってて!」
「あっ、ちょ、みゃーこさん!?」
 言うが早いか、都は兎を手にしたまま小屋の外へと飛び出していってしまった。さすがに後を追う体力は月彦には無く、今度という今度は大人しく、都を信じて待つ他なかった。

 どうやらこの小屋は、都が“じーちゃん”と呼ぶ人物の炭焼き小屋らしかった。都は最初からこの小屋の場所を知っていて雨宿りに来たわけであり、当然のことながら帰り道も知っているとのことだった。
「で、みゃーこさんこれは一体何……?」
「だんごじる!」
 小一時間ほどして戻って来た都は、その手に両手持ちの鍋をかかえていた。丸太小屋の中には火を使えそうな場所はないが、外にはあるということなのだろうか。一端小屋の中に鍋を置き、再び外に出て戻って来た都の手には木の皿とスプーンが2つずつ握られていた。
「はい、つっきーの分! あったまるよ!」
「あ、ありがとう……みゃーこさん」
 木皿に移された液体を、まじまじと見る。ホカホカと湯気をたてるそれは、様々な根野菜と肉団子が一緒に煮られたスープの様だった。月彦は恐る恐るスプーンでスープを掬い、味見をしてみる。
「あっ……美味しい……かも」
 基本は塩味。しかし肉団子や根野菜のダシが効いているのか、疲れて冷え切った体にはこの上ないご馳走に思える味だった。月彦ははふはふと口の中を火傷しそうになりながらかきこんでいく。
「この肉団子って、もしかしてさっきのウサギ?」
「うん。骨と一緒に叩いて叩いて、おだんごにすると美味しい!」
「確かに……へぇ、こんな味になるんだ……」
 何故だか、ちらりとラビの哀しそうな顔が脳裏を過ぎるが、今は非常時と割り切り、かぶりを振って幻影を打ち消す。結局月彦は三杯ほど掻き込み、ふうと一息をついたところで――
「ぶっ」
 と、危うく食べたものを噴き出しそうになった。
「みゃ、みゃーこさん! ちょ、ダメだって!」
「んに?」
「びしょ濡れで服を脱ぎたいのはわかるけど、せめて一声かけてよ! そしたら俺も後ろ向くとか、一端小屋の外に出るとかするからさ!」
 カーゴパンツを脱ぎ、さらにベストを脱ぎ、その下に来ていた半袖のシャツまで脱ぎかけていた都は、月彦の言葉がわからないとばかりに首を傾げる。
「いやほら、みゃーこさんは女性で、俺も一応男なわけで……」
「……あぁっ!」
 と、そこまで説明してようやく都は月彦が言わんとすることが解ったとばかりに声を上げた。
「ごめんね、つっきー。食べてる途中なのに」
「いや、そういう問題じゃなくって……」
 別に食事中に目の前で脱衣されたから気分を害したわけではないと、月彦は何度も言葉を換えて説明する。
「つまりその、女の子は……ていうかみゃーこさんは二十歳だから女性なわけだけど、男の前でそんな風に……お、おっぱいを……」
「…………?」
 月彦が喋っている間にも、都は脱衣を続け、既にスパッツ一丁に――どうやらカーゴパンツの下に穿いていたらしい――なってしまっていた。いつも身につけている琥珀の首飾りがランプの光を受けて微かに煌めき、否が応にも胸元へと視線が吸い寄せられる。小麦色の、なんとも健康的なハリの良い肌を水滴が伝い、月彦はいけないと思いながらも凝視するのを止められない。
(っ……う、わぁ……みゃーこさんってやっぱり、おっぱい結構あるよなぁ……)
 その質量たるや、十分巨乳と言えるたわわさだ。それ以外の場所がギュッと引き締まって見えるだけに、その巨乳っぷりが尚更引き立って見え、気を抜けばうっかりと手を伸ばしてしまいそうになる。
(アスリートっぽい体つきしてるのに、なんでおっぱいだけ……)
 神の悪戯か悪魔の罠か。いや、間違いなく悪魔の罠の方だろう――そんなことを思いながら、生唾まで飲んでしまう。
(……っ、やばい! こんな美味しそうなおっぱいを見せ続けられたら、頭がどうにかなっちまう!)
 月彦は一端器をベッドの上に置き、半乾きの自分のジャージの上着を都に突きつけた。
「と、とにかく……これ、まだ乾ききってないけど、みゃーこさんこれ着てて!」
「つっきー?」
 小首を傾げながら、都はしぶしぶ言われた通りに袖に手を通す。
「ごめん、乾いてないから冷たいかもしれないけど……ちゃ、ちゃんと前も締めて!」
 下はスパッツのみ。上はジャージだが、隙間からヘソとおっぱいがチラリと見えている状況は、ある意味素っ裸よりも危険だと。月彦は強引にジッパーを押し上げる。
「あっ、そっか! 都が着てたほうがすぐ乾く! つっきー頭いい!」
「……違うんだけど、それでもいいや」
 やれやれとベッドに腰をおちつけ、月彦はスープの残りを平らげる。都も随分腹を空かせていたらしく、鍋にたっぷりとあった“だんご汁”は二人で全て平らげてしまった。



 肉体的にも、状況的にも瀕死の状況であったが、都との再会によってそのどちらも改善された。さらには、都はどこからともなく小型のダルマストーブまで持ち込んできて、室温の改善という快挙までやってしまった。
「ほんと、みゃーこさんと会えて良かったよ。俺一人だったら凍え死にしてたかもしれない」
 ただ、都が暴走さえしなければそもそもそのような状況にもならなかったのだが、そこについては自分の判断も甘かったと、月彦は都を恨むつもりは全く無かった。
「ごめんね、つっきー。都、イノシシのお肉大好きだから、夢中になって追いかけちゃって……マオマオとユリユリ、大丈夫かな?」
 ダルマストーブをつけているとはいえ、すきま風の勢いも侮れたものではない。月彦は都と共にベッドの上で毛布をポンチョのように巻き、壁に背をつけ横並びに体育座りしていた。
(……みゃーこさんって、やっぱ体温高いな……代謝がいいのかな)
 都と接している体の左側が、ぽかぽかと暖かいのだ。逆に都にしてみれば冷たいと感じているのだろうが、幸い都はそれを苦にするようなことは言わなかった。
「一応、真央と由梨ちゃんには先に小屋に戻って、日が落ちる前に俺たちが戻らなかったら先にバスで帰っててって言っておいたよ。だから多分、今頃は家に帰り着いてると思う」
「そっか……本当にごめんね、つっきー」
「はは……まぁ、出来れば今後はもう一人で勝手にどこかに行かないようにしてね」
 都は都なりに、暴走を悔いて落ち込んでいるのだろう。そんな都にこれ以上口やかましく注意するのはさすがに心が痛んだ。
「あとは、みゃーこさんと無事合流出来たって伝えられればいいんだけど……みゃーこさん、この小屋って、さすがに電話はないよね?」
「うん。電話は、じーちゃんちまでいかないと無い」
「……ちなみに、そのじーちゃんちに行くとしたら、どのくらいかかるの?」
「じーちゃんち、都のうちより遠いよ?」
「………………そっか…………」
 山を所持しているからといって、その側に住居を構えているとは限らないということだろうか。
「じゃあさ、ここから一番近い、舗装された道までならどれくらいかかる?」
「一生懸命走って一時間半くらいかなぁ? でもでも、つっきーと一緒だと、三時間以上かかると思う」
「…………なんかごめん」
 足手まといで――今度は月彦がヘコむ番だった。
(……さすがにこの雨の中、みゃーこさん一人走って道路までいってもらって、助けを呼ぶっていうのは……男として情けなさ過ぎるよなぁ……)
 それどころか、さすがにこの冷たい雨に晒され続けるのは、都といえども危険なのではないか。やはりここは、せめて夜が明けて天候が回復するまでここに居るのがベストに思える。
「……くそーっ、俺が携帯もってりゃなぁ……」
 このような場所では、携帯も通じにくいかもしれない。しかし絶対に通じないとも限らない。電話一本かけられれば、せめて真央と由梨子の不安の種だけでも消し去ってやることが出来るというのに。
「つっきー……ごめんね」
「……みゃーこさん、そんなに何回も謝らなくていいよ。むしろ、俺のほうこそごめん」
 月彦は考えを改めた。都にしてみれば、弱音や愚痴に類する言葉を口にされるだけで、責められているような気分になるに違いないからだ。
「そ、そういえば、さっきの肉団子のスープ、すごく美味しかったよ。みゃーこさんが料理できるなんて、ちょっと意外だった」
「えへへ、ありがと、つっきー。肉だんごはね、ウサギもおいしいけど、リスもおいしいんだよ?」
「リス!? みゃーこさんリス食べたことあるの?」
「うん。皮を剥いてね、こん棒で骨といっしょにていねいに叩くの。さいしょは骨とお肉を分けてたんだけど、ちっちゃな動物は骨ごと叩いた方が美味しいって、教えてもらったの」
「教えてくれたのは……“じーちゃん”?」
「うん! でもここのじーちゃんじゃなくって、北海道の方のじーちゃん!」
「…………みゃーこさん、そんな所にまで知り合いがいるんだ」
 行方不明になっていた間、一体どこまで彷徨っていたのだろう。そのバイタリティにはもはや尊敬の念すら抱いてしまう。
(みゃーこさんならきっと、無人島とかに漂着しても一人で生き抜けそうだ)
 数年も経てば、現地のサルを従えて島のボスになっている可能性すらあるのではないか。男として、都のたくましさは学ぶべきところが多いかも知れない。
「ん……?」
 そんなことを考えていた月彦の耳に、奇妙な音が届いたのはそんな時だった。
「なんだ、何の音だ……?」
 むー、むーと唸るようなその音には何となく聞き覚えがあった。そう、確かあれば、部屋にいるときに真央の携帯が――。
「あっ、都のかも!」
 都が毛布を跳ね上げ、ぴょんとベッドから居りるなり、ワイヤーにかけられていたベストのポケットを探り、目を疑うようなものを取り出した。
「きららだ。もしもしー?」
 都は細かく振動するそれのボタンを押し、耳へと当てる。
「うん、うん。きらら、今日はお見舞い行けなくてごめんね。ちゃんと晩ご飯食べた! うん、今日はバイトは無いよー」
「ちょっ……みゃーこさん、それ……」
 一体全体目の前で何が起きているのか、月彦は己の目を疑った。都はそのまましばし話を続け、三分ほどで通話を切ると何事もなかったように上着のポケットへと携帯を入れ、月彦の隣へと戻ってきた。
「みゃーこさん!」
「わわっ、つっきーどうしたの? 怖い顔になってる!」
「怖い顔にもなるよ! 今のはいったいどういうこと!?」
「ほえ??」
「ほえじゃなくて! みゃーこさん携帯持ってたの!?」
「うん! きららがね、おうちに電話が無いからーって、買ってくれた! だけど、絶対、ぜったいぜったいぜったいぜーーーーーーーったい無くすなって言われたの。都がどこにいても絶対に繋がる電話だから、ぜったいぜったいぜったいぜったいぜったいに無くしちゃダメって」
「…………みゃーこさんが姉ちゃんに携帯を買ってもらったっていうのは解ったよ。……………………じゃあさ、それを使えばうちにも、真央達にも連絡できるじゃないか!」
「…………………………あーーーーっ!!!」
 惚けていたわけではなく。もちろん意図して黙っていたわけでもなく。ガチでど忘れ(?)していたのだろうと、都のことを知っている月彦は泣き笑いのような顔になりながらも察していた。
「でもでも、都はマオマオの番号知らない!」
「それは……そういや俺も知らないけど……でも家の番号くらいは解るからさ。とにかく家に電話できれば、後は母さんを通じて真央と由梨ちゃんにも連絡してもらえるから」
「わかった!」
 都はぴょんとベッドから飛び出し、携帯を手にベッドから戻ってくる。
「はい、つっきー」
「ありがとう、みゃーこさん。……これ、随分しっとりしてるけど、大丈夫なの?」
「きらら、“かんぜんぼーすい”って言ってた! 海の底に持っていっても大丈夫だって」
「……そっか、じゃあ借りるよ、みゃーこさん」
 姉のことだ。都の行動力を鑑みて、とにかく頑丈な携帯を見繕って持たせたのだろう。流行のスマイルホンタイプではなく、オーソドックスな折りたたみ式携帯電話にしたのも、恐らく使いやすさ重視のためだ。
 月彦はうろ覚えの自宅の番号を押し、発信ボタンを押す。数回の呼び出し音のあと、おっとりとした母の声がして、思わず落涙しそうになる。
「……もしもし、母さん? えっと、落ち着いて聞いて欲しいんだけど――」


 真央はまだ家には帰っていなかった。月彦は自分の状況を簡潔に説明し、そしてすぐに真央の携帯へと連絡するよう葛葉に頼み、通話を切った。数分後、葛葉からの折り返しの電話で無事真央に安否が伝わったことを知って、ホッと肩を落とした。
「良かった……母さんが真央に連絡してくれたってさ」
 都もまた安心したのだろう、先ほどよりもくったくのない笑顔を浮かべた。
(今回のことは……地味に姉ちゃんにも感謝だなぁ。みゃーこさんが携帯持ってなかったら、もっと大事になってたかもしれない)
 勿論、朝になり雨が上がれば、都の案内で家には帰り着けるだろう。しかし、その頃には下手をすると捜索隊が組まれているかもしれなかったのだ。
(……いくら俺が大丈夫だから警察に連絡はしなくていいって言ったって、心配だろうしなぁ……)
 立場が逆であれば、それこそ気が気でないことだろう。
「あとは、夜が明けて雨が上がれば、みゃーこさんは帰り道解るんだよね?」
「うん! 大丈夫! 今度は一人で居なくなったりしない!」
「はは、また置いていかれたら今度こそ本当に俺だけ死んじゃうかもしれないから、頼むよみゃーこさん」
「うん! 頼まれた!」
 都が頷き、そして。
「………………。」
「………………。」
 不意に、沈黙が訪れた。
(……あれ?)
 何かを言おうとして、巧く口が回らない。人里離れた丸太小屋の中で、片や下着一丁片やスパッツに男物のジャージの上着のみという出で立ちで、ベッドの上で一枚の毛布にくるまって身を寄せ合っている状況。そのことにたった今気がついたとでも言わんばかりに、月彦は緊張し始めていた。
(これって……実は、結構マズイ状況なんじゃ……)
 先ほどまでは、それこそ都のぷるるんおっぱいを目にしても、他に気がかりな事やらなければならないことが山積みで、それどころではなかった。しかしいざ命の危険が去り、家族への安否連絡もできたとなっては、途端にむらむらとこみ上げてくるものを感じるのも事実。
(いやでも、さすがにそんな、節操のない……)
 何となくではあるが、事に及ぼうとすれば、都は嫌とは言わないんじゃないかという予感が、こみ上げてくるムラムラをよりいっそう強めていた。むしろ都も言い出せないだけで、本心ではそういった行為を求めているのではないかとすら、考え始めていた。
(……そうだよな、初めてするわけでもないんだし……)
 仮に都にその気がなくとも、強引に迫ればそのまま押し切れるのではないだろうか――うずうずと、徐々に気持ちが高ぶるのを感じる。次第にそれは抑えがたく、身を焦がさんばかりに強くなる。
「みゃ、みゃーこさん! 俺っっ――」
 いざ、都に襲いかかろうとした、その時だった。ベッドの上に置かれたままになっていた都の携帯が、突然むうむうと唸りだした。
「あっ、つっきー! 電話!」
「わ、わかってるって……何だろう、また母さんからかな」
 水を差された――そんなことを思いながら、携帯を手に取る。表示された電話番号を見せると、都はふるふると首を振った。
 ということは、この電話をかけてきたのは――月彦は通話ボタンを押し、受話器を耳に当てた。
『父さま! 大丈夫!?』
「やっぱり真央か……すまん、心配かけちまって……俺は大丈夫だ。みゃーこさんも一緒に居る」
『良かった……由梨ちゃんに代わるね』
 数秒間が空き、『もしもし』と由梨子の声が聞こえた。
「由梨ちゃんか、ごめん、なんか変なことになっちゃって」
『とにかく、無事で良かったです。先輩達は今どこに居るんですか?』
「えーと……山の中の、炭焼き小屋らしいんだけど、俺はどこなのかよくわからない。みゃーこさんは解るみたいだから、夜があけて雨が止んだらみゃーこさんと一緒に帰るから、心配しなくても大丈夫だよ」
『そうですか……私と真央さんは今まだバス停の所です。先輩達が無事だって解りましたから、これから帰ろうと思います』
「そっか……ずいぶん待たせちゃったみたいでごめん、由梨ちゃん。今度何か埋め合わせするからさ」
『ふふ、あんまり期待しないで待ってますね。真央さんに代わりますね』
 また、数秒の間。
『もしもし、父さま?』
「おう、とにかく俺たちは大丈夫だから、真央も気をつけて由梨ちゃんと一緒に帰るんだぞ?」
『うん。……父さま?』
「ん? 何だ?」
 何か言いたいことでもあるのだろうか。どうにも真央の言葉の切れが悪い。
『え……っと、今、都さんと一緒に居るんだよね?』
「ああ、そういうことか。みゃーこさんに代わろうか?」
 てっきり、都の元気な声も聞きたいと、そういう意味だと月彦は理解した。が、真央はすぐさま否定した。
『ううん、そうじゃなくって…………………………やっぱり、何でもない』
「えっ、お、おい……真央!」
 ぶつんと、通話が切られる。首を傾げながら、月彦は携帯を耳から離した。
「……何だったんだ?」
 一体、真央は何を言おうとしたのだろうか。かけ直して聞いてみようかとも思ったが、見た所都の携帯のバッテリー残量はあまり豊富とはいえなかった。この先、どんな緊急事態になるとも限らない。命綱である連絡手段は、出来うる限り温存したほうが良いだろう。
(……何なら、帰ってから直接聞いたって良いしな)
 そういえば、真央は昼間から時々様子がおかしかった。その辺を帰ったら――
「つっきー、良かった! マオマオもユリユリもお家に帰る!」
「あ、あぁ……そうだね、二人とも今からバスで帰るってさ」
 都さえ居なくならなければ、四人で仲良く帰れたのだが、そこはもう言いっこなしだと、月彦はぐっと言葉を飲み込んだ。
(……うーん、さっきまでみゃーこさんとシたくてシたくて堪らなかったけど……)
 完全に水を差された形だった。いざ今からコトに及ぼうにも、由梨子や真央の姿がチラチラと頭を過ぎって、集中できそうにないのだ。
「……つっきー?」
「あぁ、いや……なんでもない……」
 適当に誤魔化した――つもりだった。しかしじーっ、と都の不審そうな目に、月彦は慌てて適当な理由を考えねばならなかった。
「そういえば、さ。みゃーこさん、それいつもつけてるけど、大事なものなの?」
「……これ?」
 都が、ジャージの襟の下に隠れていた琥珀の首飾りを引っ張り出す。そう、と月彦は頷いた。
「えへへ、これはね、昔きららにもらったの! 都の宝物だよ!」
「綺麗な琥珀だね。…………そういや、姉ちゃん昔集めてたなぁ」
 小さな木箱にしまわれた大小様々な琥珀を、何度か霧亜に見せてもらった記憶がある。霧亜もまだ幼かった頃の話だから、あれは買ったものではなく、どこかから拾ってきたものなのだろう。
(あれ、でもあの箱……最近見ないな……どうしたんだっけか……)
 押し入れの奥にでもしまっているのだろうか。
(集めるのに飽きて捨てた……ってのも考えられなくはないけど……)
 はてなと、引っかかるものを感じつつも、月彦は深く考えることを止めた。幼い頃は持っていたが、いつの間にか行方が知れなくなった物など、他にいくらでもあるからだ。
「あっ、そーだ、つっきー。服もう乾いたみたいだよ!」
 都は首飾りをジャージの下にしまうや、思いだしたように毛布を跳ね上げ、躊躇いもなくジャージを脱ぎ出した。
「わっ、わっ」
 ぷるんと、いかにも弾力のありそうなコーヒー牛乳おっぱいが顔を覗かせ、月彦は慌てて手を広げてその部分が見えないようにと伸ばしつつ、その実、指の間からしっかりガン見しながらジャージを受け取った。
「つっきー、干してたのも大分乾いてるよ!」
「そ、そう……良かった……」
 目が泳ぎ、干してあった衣類などより都のお尻のほうへと視線が吸い寄せられる。スパッツ越しにくっきりと浮き出ている下半身のラインは、おっぱい星人である月彦にすら、生唾を飲ませる程だ。そのラインだけで、これほど“丈夫な子供をたくさん産んでくれそう”と感じさせられる女性は初めてであり、恐らくそれはただの予感などではなく事実なのではないだろうか。都を見ていると、生物として、人間の牡としての責務を果たさなければという焦りにも似た衝動すらわき起こるのだ。
「つっきー? 服、着ないの?」
「えっ、あっ、き、着るよ……もちろん、風邪ひくといけないしね!」
 惚けている間に、都はスポーツブラにシャツをしっかりと纏っていた。どうやらベストとカーゴパンツだけはまだ乾ききっていないのか、それとも屋内では着る必要がないということなのか、靴下や靴と共にまだ干しっぱなしになっていて、都は素足のままベッドの上へと上がり込んでくる。そんな都を、いつになくドキドキと高鳴る胸を押さえながら、月彦もまた惜しみつつもジャージの上下と、その下に着ていたシャツを身に纏う。
(……なんていうか、ちょっと生乾きの匂いがするけど……この際贅沢は言えない、か)
 きちんと洗剤で洗ったわけでもなく、雨に濡れたものをただ絞って干しただけなのだ。清潔度という意味ではまったくもって改善されていないのだが、それを嘆くことができるような状況でもない。
「…………どうしよ、つっきー。すること無くなっちゃったね」
 一枚の毛布に二人でくるまっての体育座り。不意にぽつりと呟いた都の一言に、月彦はどきりと胸を弾ませた。
(……みゃーこさん、それは“お誘い”なのか!? “アレ”をしたいっていう意味と捉えていいのか!?)
 一度は真央の電話で水を差されたものの、再び沸々と性欲が首を擡げてくる。が、それでも尚軽々に飛びかかれないのは言わずもがな、都は霧亜の友達であるという牽制が効いているからだった。都をあまりにも自分に都合の良いように扱おうとすると、霧亜のバチが当たる気がする辺り、月彦の中で紺崎霧亜という存在はもはや神格の域に達していると言えた。
「ねえねえ、つっきー! 何かお話して!」
 しかし、そういった悶々と恐々の狭間で悶え狂うような月彦の懊悩は、都の一言で霧散した。
「お、はなし……?」
「うん! きららはね、二人きりのときはいつも都が退屈しないようにって、お話してくれてたよ!」
「姉ちゃんが……」
 そういえばと、月彦は都の部屋で見た、霧亜が書いたという絵本を思い出していた。ひょっとしたら霧亜自身はそういった創作をするのが趣味で、友達の都にだけ、自分が作った話を聞かせていたのではないだろうか。
「…………ごめん、俺は姉ちゃんみたいに、みゃーこさんが退屈しないような話なんて出来ないよ」
 勝手に都の体に発情し、或いは都も同じ気持ちなのではないかと妄想していた自分の浅ましさに、月彦はまともに都の方を見れなくなる。
(俺って奴は……)
 ゆだっていた頭に、再び冷水をかけられたような気分だった。同時に、こんなにも純真無垢な都を、例え都の許しがあっても手を出すべきではないと確信した。
 そんな月彦の手を、毛布の中でもぞもぞと移動してきた都の手が、そっと握りしめてくる。
「じゃあ――」
 それは、都らしくない。なんとも辿々しい口調。月彦が都の方へと目をやると、今度は都の方が逃げるように顔を背けた。
 代わりに、ぎゅうと。手が、指を絡めるように握られる。
「……お話じゃなくって…………つっきー、都と……えっち、する?」



 聞き違いかと思った。しかし、そっぽを向いたまま耳まで赤くしている都を見て、聞き違いではないと確信した。
「え……と……みゃーこさん?」
 冷えた筈の頭が、ふつふつと沸き立つのを感じる。ソワソワと心まで浮き立たせながら、月彦は都の横顔を注視する。
「……ぁっ……ごめん、つっきー………………都ね、何か、ヘンなの」
「変……?」
「さっきからね、胸の奥がざわざわってして、そわそわってして、落ち着かないの……」
「それは……」
 実は自分もだとは口にしかけて、止める。
「つっきーが近くに居ると、心臓がどきどきしちゃって、ヘンな感じになるの……」
「えーと、みゃーこさん、それは……多分、別に変なコトじゃ……」
 異性と密室に二人きりでいれば、誰でもそうなるものだと説明すべきだろうか。それとも、“誰でも”はならないと説明するべきだろうか。
(みゃーこさんは多分、そういうことを気にする人の筈だ)
 自分だけが変なのではないか。自分だけ人とは違うのではないか――都の屈託のない笑顔の裏には、そういったコンプレックスが根強く残っているであろうことは、想像に難くない。
 故に「大丈夫だよ、みゃーこさん。そうなっちゃうのが普通だから、何もおかしくないんだよ」と言うのが、最も都の不安を取り除けるベストな言葉なのだろう。しかしそこに己の下心が乗っかってしまう気がして、月彦はなかなか口にする事が出来ない。
(みゃーこさんを騙してヤっちゃうみたいなことだけは、したくない……けど)
 ここは男として、むしろ言葉ではなく体で不安を無くさせてやるのがベストではないかという意見が、下半身という野党から提案され、しかも可決されつつあったりする。先ほど、都には手を出すべきではないと決意を固めた側からこれであるから、月彦は我が事ながら泣きたくなる。
「え……っと、みゃーこさん。みゃーこさんは、一応二十歳で、成熟した女性なわけで……成熟してるってことは、ようは赤ちゃんが産めるってことで……」
 言いながら、果たして自分は何を言おうとしているのだろうかと混乱しそうになる。
「で、人間もやっぱり生き物だから、子孫を残したいっていう本能はあるわけだから、こんな風に密室で男と二人きりになった時にそういう気持ちになるのは全然変じゃないし、むしろそれが普通なんだよ、みゃーこさん」
 これで伝わっただろうか。もっと巧い言い方があったのではないだろうか――そんな月彦の不安は、都の頭の周りを取り囲んでいる大きな?マークによって肯定されていた。
「よ、ようするに……男の人と二人きりのときに、エッチしたい〜って気分になるのは、全然変じゃないんだよ、みゃーこさん」
「でもでも、おでんのおっちゃんとか、じーちゃんとかと一緒の時は都、そういう気持ちにならないんだよ?」
「いや、それはむしろなってたら困るよ」
 月彦は苦笑を浮かべる。
「そういう誰とでもエッチをしたくなる女の人は、“ビッチ”って言われて、すごく軽蔑されるからね。みゃーこさんはそんな風になっちゃだめだよ?」
「……つっきーとえっちしたいって思うのは、いいの?」
「…………えーと……」
 月彦は、答えに窮した。
(……それを俺に訊くのは、ちょっと酷だよ、みゃーこさん)
 良い、と答えることは簡単だ。しかしそんなことを言おうものなら――何故かは解らないが――霧亜にバチを当てられる気がして、月彦は頷くことが出来ない。
「それは、ものすごく難しい問題だから、すぐには答えられないよ」
「むずかしいの?」
「うん、凄く難しい。一度家に帰ってじっくり考えてからじゃないと」
「うー……」
 誤魔化されていると察したのか、都が途端に不満そうな唸り声を上げる。
「つっきー、いじわる」
「い、意地悪……じゃないって! 俺は、みゃーこさんの為を思って……」
「つっきーも、都のおっぱいジロジロ見てた!」
「……っ……!」
「………………おっぱい、見てた」
 じぃ、と。責めるようなジト目を向けられ、月彦は苦笑いしか返せない。
「そ、それは……だって、みゃーこさんが俺の目の前で着替えるから……」
「………………つっきーじゃなかったら、つっきーの前じゃなかったら、都も、あんな風には着替えないよ」
 そしてぷいと、顔を背けてしまう。そのくせ毛布の下で右手はしっかりと月彦の左手を握りしめたままだったりする。
「つっきーは……都が初めてえっちした男の人だから、だから特別なの」
 そして拗ねるような、怒るような口調で、独り言のように呟く。
「みゃーこさん……」
「つっきーは、えっちしたくないの?」
 またしても酷な質問。純真無垢な黒い目が、心の奥まで見透かそうとするかのように、上目遣いに覗き込んでくる。
「したくない……わけが、ないじゃないか……」
 その答えが、岐路だったのかもしれない。ハッとしたように、都が月彦の顔を見た。
「じゃあ、シよ?」
 ずいと。体重をかけるように都が体を押しつけてくる。
「ダメだよ……みゃーこさん……ちょっ……」
 ぐいぐいと都に押される形で、月彦は体を倒され、完全に仰向けの姿勢にされる。
「つっきーと、えっち、したい……」
 譫言のように呟き、都が馬乗りになってくる。まるで逃がさないぞと言わんばかりに、ギュッと両足で腰を挟み込まれる。右手が、都の左手と。左手が、都の右手と。それぞれ指を絡めた状態で、ベッドへと押さえつけられる。
「だ、ダメだって……みゃーこさ――」
 形だけの拒絶の言葉は、都のキスに吸い込まれた。



 


 ほんの2,3秒ほどの、短いキスだった。唇を離すや、都は恥ずかしそうに頬を染め、えへへと笑った。
「つっきーと、キス、しちゃった」
 地肌の色が色であるから、都が頬を赤らめているのは注視しなければ解らない。が、気づいてしまえば、これはこれで愛らしいものだった。
(ていうか……みゃーこさんって、意外と積極的、だよな……)
 気がついてみれば、都に押し倒され、唇まで奪われるという状況。ひょっとしたら、本能型の都は性欲そのものは強い方なのかもしれない。
「つっきぃ……」
 都が瞳を潤ませ、再度唇を重ねてくる。ちゅっ、ちゅっ、と音を立てながら吸い、ちろちろと小さく舌を出しては、唇を舐めてくる。
「んっ、ンッ…………ちゅっ……」
 熱く湿った鼻息がくすぐったく、その控えめなキスがもどかしいと感じ始める。都の両手の拘束を外し、逆に押し倒してやりたくなる――が、どれほど力んでも、都の手を外せない。
「あむっ……ンッ……んんっ……」
 くねくねと体をくねらせながら、都はキスを続ける。舌の動きは徐々に大胆に、唇の中にまで入り込んでくる。月彦も次第にそれに応じ、自らの舌を都のそれへと絡ませる。
「ン、ぁ……つっきぃ…………ぁんっ……ンンッ……!」
 ぎゅうううっ――都の太ももとふくらはぎに挟まれた下半身が、痛いほどに締め付けられる。それは同時に、都の脚力の凄まじさを物語ってもいた。
(あぁ……そうなんだよな。……みゃーこさんって、締まりがスゴくって……)
 “前回”を思い出し、ムクムクと寝た子が起き始める。“アレ”をもう一度味わいたいと、両腕にさらなる力が籠もる。
「つっきぃ……つっきぃ……ちゅっ…………ン、ふっ……ぁふ……」
 それはもう、食らいつくようなキスだった。唇と唇を×字を描くように斜めに密着させ、互いの舌と舌を絡め合いながら唾液を啜るような、乱暴なキス。
「ふぁぁ…………から、だ……あつい、よぉ…………」
 れろんっ――銀色の糸を引いて、都が堪りかねたように唇を離し、上体を起こす。同時に両手を月彦の手から離し、シャツの裾を掴んで一気に脱ぎ捨てる。
「これ、も……」
 譫言の様に呟き、スポーツブラも脱ぎ捨て、ベッドの外へと放る。ダルマストーブをつけているとはいえ、室内の気温は決して高いとはいえない。にも関わらず、まるで衣類を脱ぎ捨てると同時に、全身の汗腺からフェロモンが汗に溶けて発散されたのではないかという程に、月彦は理性という壁が一気に突き崩れるのを感じた。
「あんっ」
 両手が、まろび出た都の胸元へと、吸い寄せられるように伸びる。弾力に富んだ乳肉を、両手でぐにいっと揉むと、都は両手を中途半端に折り曲げ中空に漂わせたまま、ビクンと体を硬直させた。
「ぁっ、ぁっ、ぁっ……だ、だめ、だよぉ……つっきぃ……ぁっ、ぁっ……」
「……さっき、俺がダメだって言ったときは、みゃーこさんはキス止めなかったよね?」
 もはや苦笑すら交えて、月彦は両手でぐにぐにと都の両乳を揉み捏ねる。それは何とも不思議な弾力と言ってよかった。大きさという意味では、都よりも大きな乳房はいくつも揉んできた。が、弾力という点では、都に類似するものすら心当たりが無いのだ。
(これは……握力がつきそうだ)
 肌のハリの問題なのだろうか。決して堅いわけではなく、ましてや人工物が入っているわけでもなく。紛れもない天然物で、この弾力――希少なおっぱいと言わざるをえない。
 そう、おっぱいにはそれこそ文句など微塵もないのだが。
「…………みゃーこさん、その首飾り、ちょっと外さない?」
「え……? どう、して……?」
 揉む手を止めると、都は小首を傾げながらとろんとした目で見下ろしてくる。
「いやほら、おっぱい触るのにちょっと邪魔だったりするし、激しく動いたりすると目とかに当たったりするかもしれないしさ。危ないよ」
「ぁぅ……でも……これ、みゃこの宝物……」
「無くさないように、きちんと枕の下に置いておくからさ。……みゃーこさん?」
 月彦が手を差し出すと、都は渋々首飾りを外し、躊躇いながらも差し出してきた。月彦は言葉の通りに、枕の下へとまるで隠すようにしまった。
(……これでよしと。なんか、姉ちゃんに睨まれてるみたいで落ち着かなかったんだよな)
 琥珀が、霧亜由来のものだと知ったからだろうか。ランプの光を受けて琥珀が煌めく度に、霧亜の鋭い視線にも似たものを感じて身が竦む思いだったが、これで心置きなく都の胸を触ることができる。
「じゃあ、続けるよ、みゃーこさん」
「う、うん……つっきぃ……ぁっ……あんっ……!」
 力を込めて強く揉むと、忽ち都は喉を見せるように仰け反り、声を上げる。
「あっ、ぁっ、あんっ……あんっ……つっきぃ……」
 さらに揉み続ける。都はくねくねと、焦れったげに体を揺らし、時には腰を曲げ時にはのけぞり、喘ぎ声は徐々に大きなものへと変化する。
「だめ、だめ…………つっきぃにおっぱい触られると、じゅんってしてきちゃう……」
 ダメ、とは言いつつ、都の両手はWを描くように肘を曲げた状態で止まったままだ。それは全然ダメじゃないということを、勿論月彦は知っている。培った経験をフルに活かし、もっともっと“じゅん”となる様、都をトロけさせていく。
「あっ、アッ……つっきぃ……もぅ、ゆるしてぇ…………」
 都がそこで初めて、月彦の手首を掴んだ。しかし引きはがすことはなく、力なく握ったまま、やはり揉まれるままになっている。月彦はくすりと笑い、両手の親指の腹と人差し指の第一関節で、先端部分をくりくりと転がすようにしてやる。
「っっっあアッ! ンッ!」
 ビクッ――都は落雷でも受けたように背を逸らし、甲高い声を上げた。はぁはぁと肩で息をする都の両胸をさらにこね回し、そして忘れた頃に先端部を転がし、何度も、何度も声を上げさせる。
「あふ、ぁっ、あんっ……つっきぃ……だめぇ……みゃこ、もう、がまんできなくなっちゃう……」
 気がつくと、あれほど痛烈に体を挟んでいた都の下半身から力が抜けてしまっていた。これが好機だと判断して、月彦は体を起こし、逆に都の体をベッドへと押し倒した。
「つ、つっきぃ……? あンッ……!」
 目をぱちくりさせる都の胸へと、舌を這わせる。そのままれろれろと先端部を舌先で転がし、唇をつけ、吸う。
「ンンッ……!」
 吸いながら、逆側の乳房も忘れず丹念に愛撫し、揉み捏ね、先端を指で転がす。都が焦れったげに腰をくねらせるのを衣擦れの音で感じ取りながら、月彦はそれまで我慢し続けた鬱憤を晴らすように、コーヒー牛乳プリンを堪能した。
「つっきぃ……切ないよぉ……」
「……みゃーこさん?」
 ちゅぱ、と乳首から唇を離し、都の顔を見上げる。潤んだ瞳は目尻に涙すら浮かべており、テラテラと光沢を放つ唇からは湿った吐息。
「もう……おっぱいだけじゃ、足りないよぉ……」
「……じゃあ、みゃーこさんは、どうしてほしい?」
 先ほどの、都の質問の仕返し――というわけではないが、月彦は純粋な興味で、都に問いかけた。一体、都はどう答えるだろうか。もちろん訊いたからには、都が望むことをしてやるつもりではあった。
「…………つっきーの、おちんちん、欲しい…………」
 しかし、都の答えは月彦の予想の範疇を遙かに超えていた。
「欲しいよぉ……つっきぃ……おちんちん欲しいぃ…………」
「っ……みゃーこ、さん……」
 しかし、どストレートな要求というものは、時にどんな高度な演出よりも、偉人の言葉を借りた言い回しよりも、人の心を揺さぶるものだ。飾らず、隠さず、欲求のままに口を出たであろう都の言葉は、月彦から人間らしさを奪い去るには十分すぎる威力を秘めていた。
「……わかった、みゃーこさん」
 月彦は、人としての尊厳と共に一切の衣類を脱ぎ捨てた。



 かつて、たった一枚の衣類を前にこれほど悩んだことがあっただろうか。それは人らしさというものを奪われた月彦を、尚も悩ませる程に巨大かつ最強の壁だった。
(スパッツを、どうする……?)
 本音を言えば、脱がさずに破りたい。一部分だけを引き裂いて、あくまでスパッツを身につけたままの都とヤりたい。前回は都にトラウマを残さないためにやむなく断念せざるを得なかった禁断の行為を、今度という今度はやりたい。――が、着替えもないこんな状況でそんな事をするのはさすがにどうだろうか。カーゴパンツを穿けば見た目にはわからないとはいえ、状況が状況だけにさすがに躊躇い、結局月彦は破らずに脱がすことにした。
 苦渋の決断だった。
「ぁぅ……」
 スパッツを取り去られ、残されたのは薄いブルーのショーツだけ。しかし都にしてみれば、スパッツを脱がされることはこちらの予想以上に恥ずかしかったのか、まるで下着を月彦の視線から遮るように、両手で隠そうとする。
「……ダメだよ、みゃーこさん」
 今更それは許さないとばかりに、月彦は都の手を撥ね除け、強引に下着を脱がしにかかる。
「やっ、つっきぃ…………は、恥ずかしい、よぉ……」
 都は咄嗟に俯せになるようにして、俄に抵抗する。が、それでも構わずに月彦は下着を取り去り、足を抜き終わると、目の前には不安そうな顔で月彦の方を振り返りつつも、ぷるんと美味しそうなお尻を見せたまま俯せになっている都の姿があった。
「“欲しい”って言ったのは、みゃーこさんだろ?」
 このまま、都の腰を掴んで膝だけを立てさせ、背後から――というのも悪くはない。が、“おねだり”をして尚、羞恥心を捨てきれてない都の恥ずかしがる顔を見ながらシたいという思いから、月彦はあえて都の肩を掴み、仰向けに寝返りを打たせた。
「だ、だめっ……つっきぃ……」
 やはり、“そこ”を晒すのは恥ずかしいのだろう。仰向けにされた都は両手で股間部分を隠していた。が、それを許さないのが月彦という男であり、都の両手首をつかむや、強引に引きはがし、さらに足の間に体を入れて太ももを閉じる事すらも封じてしまう。
「あぁぁ……!」
 顔色がわかりにくい都だが、それでも真っ赤になっているのがはっきりと解るほどに赤面していた。さすがにこのままヤってしまうのは悪い気がして、月彦は都を落ち着かせる為に、そっと唇を重ねた。
「ぁ……ンッ……」
 そのまま、ちっ、ちっと小さく音を鳴らしながら、短いキスを続ける。落ち着かせようとしていることが、都にも伝わったのだろうか。徐々にではあるが、都もまたキスに応じ、五分もしないうちには互いの舌を絡ませ合うような濃厚なものに変わっていた。
「あふ、ぁ……つっきぃ……」
「みゃーこさん……落ち着いた?」
 戸惑いつつも、都は小さく頷いた。じゃあ、早速――と急ぎたくなるのを必至に堪えて、月彦はそっと都の足の間へと右手を伸ばす。
(考えてみたら、みゃーこさんはまだ二回目なんだ……もうちょっと、しっかりとほぐしたほうが良いかもしれない)
 まさか出血することはないとは思うが、まれにそういう女性も居るという話は聞いたことがある。都を落ち着かせるためのキスの副作用で若干の冷静さを取り戻した月彦は、恐る恐る都の恥毛の辺りを進み、濡れそぼった秘裂へと指を伸ばしていく。
「ぁっ……つっきぃ……そこ、は……」
「うん、びしょびしょになってるね」
「あうぅぅぅぅぅぅぅ…………」
 見ていて面白いほどに――否、もはや気の毒なほどに、都が顔を赤くする。そんな都が可愛くて愛しくて、月彦は指先で優しく小陰唇、大陰唇の辺りを愛でるように撫で、そのまま円を描くように愛撫しながら、徐々に、指先を埋めていく。
(う、わっ……なんだこれ……!)
 ゾッ、と背筋が震えた。都とするのは二回目であるが、記憶と照らし合わせても、その締まりの良さに驚かされたのだ。
(……っ……指が食いちぎられそうだ)
 濡れた粘膜ではなく、歯でもついていれば間違いなくそうなっただろう。丹念に、敏感な粘膜を傷つけたりしないように優しく、ゆっくりと指を埋めていく。
(それに、熱い……。みゃーこさん、ホント体温高いんだな……)
 何か秘訣でもあるのだろうか。もしあるのならば、是非とも聞き出して由梨子に教えてやりたい所だった。
「つ、つっきぃ……ぁっ……つっきぃが、都の中に、入って来てるぅ…………」
「まだ指だよ、みゃーこさん。裂けちゃったりしないよう、ちゃんと慣らさないと」
 声を震わせながら喘ぐ都の頬を、左手で優しく撫でつける。
「ゆ、び……気持ちいい……つっきーの、指……ぁっ……つっきーの指が、動いてるの、解る……あううっ! ま、曲げちゃだめぇぇ!」
「いや、ていうか……みゃーこさんも、締めすぎ……ちょっ、抜けないから……!」
 ギチッ、と媚肉が指に絡みついたまま締め上げてきて、抜くのも一苦労だったりする。その締まりの良さもさることながら、ぷりぷりと水を弾きそうなほどに弾力にとんだ肉質も一級品なのだ。指で触れば触るほどに、早く挿れたいという衝動が強くなるのだから、月彦としては堪らなかった。
「……っ……ごめん、みゃーこさん……ホントはもうちょっと……丁寧にシたかったんだけど……」
 もう、挿れたくて堪らない――はたしてそれは、声になっただろうか。月彦はもう腹につくほどギン勃ちしている剛直の先端を、じっとりと濡れた秘裂へと宛がう。
「みゃーこさん……挿れる、よ」
「うんっ……来て、つっきぃ…………あっ……あぁッ!」
 先端に感じる、ぷりぷりと弾けるような肉の感触。ゾクリと背筋を振るわせながら、月彦は徐々に、徐々に、剛直を都の中へと埋めていく。
「あっ、あっ……つっきぃ……あっ、あっ、あっ……堅い、の、入って、きてるぅぅ……」
「ちょ、みゃーこさん……だから、締めすぎ……くはぁぁぁ……」
 熱い媚肉が吸い付くように絡みついてきて、月彦は思わず腰を引きそうになってしまう。コレはヤバいと、本能的に感じる。やみつきになってしまうと。
「あっ、あっ……こ、こえ……でちゃうう……つっきぃの、スゴいぃ……」
「みゃーこ、さんのナカ……ほんと、熱っ……ヒクヒクって絡みつきっぱなしで、っ……摩擦、が……」
 剛直が、喜んでいるのを感じる。無論錯覚なのだろうが、そんな錯覚を抱く程に、都のナカは具合が良いのだ。
(ヤ、バ……みゃーこさんのナカ……マジでいい……)
 動きたい、しかし動きたくない。そんな相反する思いに、月彦は金縛りになっていた。しかしその金縛りも、長くは続かない。
(ちゃんと、奥まで……みゃーこさんのナカを味わいたい)
 自分の痕跡を刻みつけたい、俺のモノにしたい――そんな独占欲じみた思いから、月彦は剛直をさらにねじ込み、都の奥を小突く。
「あぅっ……! つ、つっきぃ……だめ、だよぉ…………もう、都のなか……いっぱいいっぱいだよぉ……」
 それ以上入ってこられたら困る――そう言いたげに、ギュウと都が両手でしがみついてくる。
「みゃーこさんのナカが気持ちいいから、俺もいっぱいいっぱいだよ」
 強がりな笑みを浮かべ、唇を重ねる。嘘ではなく、事実月彦は限界ギリギリだった。
(気のせいかな……前シた時より、さらに良くなってるような……)
 前回は、“初めて”故に体の準備が出来ていなかったのかもしれない。しかし今回は違う。まるで、都の体全体が男を、子種を欲しがるように、肉襞が貪欲にうねって絡みついてくるのだから堪らない。
そして、その“おねだり”に応じたくなってしまっている自分がいる。都にたっぷりと子種を注ぎたくて堪らなくなってくる。
「つっきぃ……」
 しがみつくように背に回っていた都の手が、今度は首にひっかけるように移動する。動いて、と。目で訴えられた気がして、月彦は脂汗を滲ませながら、少しずつ、抽送を始める。
「あっ、あっ、あっ……」
 剛直が動く度に、都が声をあげる。まだ声を上げるのが恥ずかしいのだろう、必死に抑えようとはしているものの、しかしどうしても漏れてしまう。そんな声だった。
「あっ、あっ、あんっ……あっ、あんっ……つ、つっきぃ…………気持ちいい、よぉぉ……」
「俺もだよ、みゃーこさん……すごく、いい……」
 気を抜けば、すぐにでも出してしまいそうだった。しかし歯を食いしばり、耐えながら、抽送を続ける。
「つっきぃっ……つっきぃ……!」
 少しずつ、抽送の往復距離を増やしていくと、都は感極まった声を上げ始めた。その両腕に力が籠もり、月彦は半ばむりやりに都に引き寄せられ、そして唇を奪われる。
「みゃーこさ――んぷっ」
「んちゅっ、んちゅっ、んちゅっ……つっきぃ……ちゅっ……ちゅっ、ちゅっ……」
 キスをせずにはいられなかった――そんな都の気持ちが痛い程に伝わる、情熱的なキスだった。
(う、わっ……みゃーこさんが、自分で腰使って……っ……)
 キスをしながら、都自ら腰をくねらせてきて、月彦は思わず意識が飛びそうになる。いっそ無理せず、出してしまうべきではという意見を総却下して、都に負けじと腰を使う。
(ダメだ……もっと、もっとみゃーこさんのナカを味わいたい……)
 今出してしまうなんて、もったいない――そんなワケのわからない思いに突き動かされるように、月彦は徐々にケモノと化していく。
「あっ、あぁぁぁァァァァッ!!!」
 そうして腰をくねらせ、突き上げていると、唐突に都が唇を離し、大きく喘いだ。
「ん? みゃーこさん……ひょっとして、ココ弱い?」
「だ、だめぇっ……つっきぃ……そ、ソコ……びりびりって来て……あーーーーーーーーッ!!!!」
 ギチッ、ギチギチッ、ギュチィ――都のナカが、痛烈なほどに締まる。結合部から、愛液が噴き出すほどの締め付けに、月彦は一時的に腰の動きを止め、辛くも耐える。
「くっ、はぁっ……みゃーこ、さっ……そんなに、締めたら……」
 経験を積み、絶頂をある程度はコントロール出来る自身はあった。しかしそんなものがただの過信に過ぎないことを、月彦は思い知らされていた。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……びりびりって、あたま、真っ白になっちゃった……」
「みゃーこさん……!」
 恐らくは、軽くイッたのだろう。しかし、“次”は軽くでは済まさないと、月彦はもうリミッター解除のつもりで、ぐりんと都のナカを抉るように腰を使う。
「あぃっ、あぅンッ! つ、つっきぃ……? やっ、だ、だめぇっ…………ま、また……あたま、まっしろに、なっちゃうぅ!」
「いいんだよ、みゃーこさん。頭も、心も、全部真っ白になっちゃうくらい……っ……」
 腰を使いながら都に被さり、時折キスを挟みながら、誘うように先端を揺らす乳房に食らいつきながら、手を這わせながら。
 月彦は、高みへと上り詰めていく。
「あーーーーっ!! あーーーーっ!! き、気持ちいい…………気持ち、良すぎて……つっきぃ……つっきぃ……はぁはぁ……みゃこ、おかしくなっちゃうよぉ……」
「みゃーこさんっ……みゃーこさんっ……!」
 都より先に達しないというのが、最後の矜恃だった。それまでは、腰を振るという機能を持ったただの機械のように、月彦は都に声を上げさせ続ける。
「つっきぃっ……つっきぃっ…………来るっ、よぉ……おっきいの、来るぅっ……ンぅうっ、来るっ……くるううっ……つっきぃ……つっきぃ……あっ、あァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
 都の体が跳ねた瞬間、月彦は最後の力を振り絞り、都のナカから剛直を引き抜いた。
「……っ……」
 先を固定せずにホースから勢いよく水を出したような、そんな荒ぶる勢いで白濁汁が迸り、都の胸に、腹に、太ももに、そして顔にまで飛び、小麦色の肌に白濁色のコントラストを描いていく。
(くはぁ…………なんだか、めっちゃ疲れた……)
 たった一回の射精でこれほどまでに疲れたことがあっただろうか。疲労の原因は分かりきっていた、あまりにも我慢をし続けた為だ。
(でも、そうしないと……みゃーこさんがイくまでに何回イかされたか解らない……)
 ふらりと。立ちくらみに近いものを感じて、月彦は重力に引かれるままに背中からベッドへと倒れ込む。そのまま呼吸を整えていると、不意に何かが被さってくるのを感じた。
「ってうわっ、みゃーこさん!?」
「つっきぃ……」
 絶頂の余韻冷めやらずな都が、のそりと体を起こし、月彦の足の上のあたりに蹲っていたのだ。褐色の肌に白濁液をちりばめられた都の姿はそれだけで扇情的であり、月彦は思わずごくりと唾を飲む。
「みやこね、つっきーのせーし……欲しい……」
「な、何言って、みゃーこさ……うっ……」
 都の手が、依然臨戦態勢のままの剛直を捉える。次の瞬間には、まるで肉食動物が獲物をとらえるような素早さで、先端部が都に咥え込まれていた。



 


 男を喜ばせようと、考え抜かれた舌技ではなく。ましてや媚びるようなものでもなく。
 純粋に、子種としての精液を欲するようなねっとりとしたフェラであっさりと一発分抜かれた後は。
「あっ、あぁぁぁっ…………つっきぃぃ…………あーーーーーッ!」
「っっ……みゃーこさっ……」
 “最初”のように、両足でがっちりと体を挟まれながら、剛直は根元まで都に“食われ”ていた。
「んぁぁぁっ……つっきぃのおちんちん……凄く堅くて……都の奥、グイグイって押されてるよぉ……」
 はぁはぁと肩で息をしながら、弱音ともとれる言葉を吐きながら、しかし都は腰をくねらせ続ける。
「あぁんっ、あぁっ、ンッ……つっきぃ……つっきぃ……気持ちいいよぉ……!」
「ちょっ……くっ……」
 この形は、姿勢はマズいと。月彦は幾度となく都を押し倒し返そうとした。しかしがっしりと挟み込まれた下半身は外すことが出来ず、体を起こすことも出来ない。
(ま、まだ二回目、だよな……?)
 都の乱れっぷりに唖然としながら、月彦は驚愕せずにはいられない。まだ処女を喪失したばかりの相手に、こうまで圧倒されるものなのかと、信じられなかったのだ。
 とにもかくにも主導権を握り返さなければと、月彦は都の胸元へと手を伸ばす――が、その手はおっぱいに届くよりも前に、都に捉えられてしまった。
「つっきぃ……」
 悪気があってのことではないのだろう。むしろ都は愛情すら感じさせるほどにトロリとした目で微笑むや、互いに掌を合わせるように両手の指を絡ませてくる。そうして両手をしっかりと握り合うや、いっそう激しく腰を使い始めるのだった。
「みゃ、みゃーこさん……ちょっ……」
 ふりほどこうとしても、都の指が外れない。そうして完全に抵抗を封じられた状態で、剛直だけが嬲られる。ぷりぷりと弾力に富んだ極上の媚肉が、痛い程に締め上げながら上下に、左右に、時には円を描くように責め上げてくる。
「く、は、ぁ…………!」
 それは、快楽という名の絶望だった。そして、月彦はかつてそれを一度だけ味わった事があった。ケラケラと、悪魔のように笑いながら自分の上で腰を振る女の幻影――それが、月彦の生存本能を呼び覚ました。
「ふっ……くっ……だ、ダメ、だぁ……」
 しかし、体が起こせない。指が外せない。かつては鉄の鎖すら引きちぎった力を持ってすら、都のマウントから逃げられないのだ。
(……みゃーこさん相手では、本気が出せないだけだって、そう思いたい……)
 男を食い物としか見ていないあの性悪狐とは違い、都は悪気があってしているわけではないのだ。だからどうしても手加減してしまうのだと。
(そうだよ、みゃーこさんは別に、悪気があるわけじゃないんだから……)
 だったら、もっと簡単な解決方法があるではないか。
「みゃーこ、さん……俺、みゃーこさんのおっぱいに、触りたい……」
 言って、月彦は都の意識がそっちに向くように、両手で軽く都の手を握り返してみる。すると、驚く程にあっさりと、都は両手を解放してくれた。
「ありがとう、みゃーこさん」
 これはお礼だと言わんばかりに、月彦は先ほどよりもよりいっそう丹念に、都の両乳をこね回す。
「ンッ、ぁ……つっきぃ……みやこのおっぱい、好き……?」
「うん、大好きだよ、みゃーこさん。ずっと触っていたいくらい、大好きだ」
「あんっ、ンっ……嬉しいよぉ、つっきぃ……」
 都もまたお礼だとでも言うかのように、ぐりん、ぐりんと大きく腰を回してくる。
(みゃーこさん……腰使い、エロっ……くっ……)
 都が腰を使う際、一瞬だけ浮き出る割れた腹筋に生物的な美しさすら感じ、月彦はおっぱいを触る手すら止めて都の腰回りへと手を這わせる。
「あっ、ぅぅ……つっきぃ……くすぐったいよぉ……」
「でも、腰の動きは止めないんだね、みゃーこさん」
 苦笑混じりに、都の脇腹周り、足の付け根から太ももへと手を這わせる。
「だって、だってだってぇ……つっきーの……すっごく気持ちいい……止まらないよぉ……」
 唾液に濡れた唇で喘ぎながら、都は腰を振り続ける。そんな都の太ももの付け根辺りを掴んで、ズンと。
「あうううっ!」
 月彦は強く突き上げる。
「つ、つっきぃ……そ、それダメぇ…………みゃこ、シビレちゃう……」
「でも、みゃーこさんだけ動いてもらうのも悪いから」
 これが反撃の狼煙だとでも言わんばかりに、月彦は突き上げ続ける。ぎしり、ぎしりと崩壊の不安を感じるほどにベッドが軋むが、手加減などしていられない。
「あァーーーーーっ! あァーーーーーっ! つっきぃっ……つっきぃ……気持ちいいよぉ……気持ちいいぃ……はぁはぁはぁ……」
 何度も何度も突き上げると、目に見えて都の反応は良くなった。張りのある小麦色肌にいくつも玉汗を浮かべ、ベッドの上で跳ねるように体を大きくくねらせる度に、それらが飛沫となってふりまかれる。都のそんな汗の臭いに月彦もまたますます興奮を覚え、がむしゃらに突きまくる。
「あァッ! あァッ! あァッ! つっきぃっ……もっ、だめぇっ……おっきぃの、来る、っうッ……来るっ……」
「みゃーこさっ……俺も、ヤバっ…………こ、腰、浮かせてっ……早くっ……」
 このままじゃ、中に――月彦のそんな焦りは、都には届かなかった。
「つっきぃっ……つっきぃ……!」
 目が合った瞬間、都は感極まったように体を被せて、キスをせがんできた。都の両手が後頭部まで回り込んできて、両足の太ももでギュッと体を締められる。
(ちょっ…………!)
 そのように密着されたまま、クイクイと腰だけを動かされ、月彦は堪らずタップでもするようにばんばんと都の背中を叩いた。
 が――
「あむっ、んっ、ンッ…………んんっ、んはっ……ンンッ、ンッ……」
 れろり、れろりと貪るような都のキスとの同時攻撃に、月彦城の城門は破られ、瞬く間に本丸まで陥落してしまった。
「ンンッ、ンッ、ンンーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
 その噎びは、一体どちらのものであったか。月彦は都の尻を両手で鷲づかみにし、腰を浮かすように都の体ごと持ち上げ反らしながら、貯まりに貯まった精の滾りを撃ち放つ。
(くっ……はっ…………)
 それは、魂が溶け出していくような、途方もない射精だった。体が、本能が。都こそ自分の子種を授けるに相応しい牝であると認めているかのような。是が非でも孕ませてやると猛り狂っているような。容赦の無い射精だった。
(や、べ……超、気持ちいい…………)
 全身が痺れ、意識が遠のく。男としての至福を感じながら、月彦は何故だか交尾の後はメスに食われるというカマキリのオスの事を思い出していた。
「ふぁ……つっきぃ……熱いの、みゃこのナカにいっぱい出てるよぉ…………」
「ご、ごめん……みゃーこさん……」
 ヤバい、もし間違って都を孕ませでもしてしまったら姉に殺されてしまう――そんな月彦の不安は、ほろりとこぼれた都の笑顔で吹き飛ばされてしまった。
「ン……いいよ、つっきぃの赤ちゃんなら……」
 呟いて、キス。そのまま、都は月彦の唇周り、頬、首へと、舌を這わせていく。どうやら、肌に浮いた汗を舐め取っているらしい。
「しょっぱい」
 そして、またころりと笑った。
「みゃーこさん、ダメだよ……シャワー浴びたわけでもないんだから……」
 衛生的にも、顔を舐めたりするのは良くない――しかしそれを言うならばそもそもヤるのもよくないのではと、今更ながらにその事に気がつく。
「つっきぃ……つっきぃの汗のニオイ……」
「ちょっ、みゃーこさん、ダメだって……」
 密着したまま、都は今度は鼻先を擦りつけるようにしながら、くんくんと慣らしてくる。それがこそばゆくて、月彦はつい体を逃がすような動きをしてしまう。が、そんな月彦を捕らえるように、都の手が再び、月彦の掌と重なる形で指を絡めてくる。
「ねぇ、つっきぃ……もっと、つっきぃのせーし、頂戴?」
「みゃーこさん、それは……」
 ダメだ、今そんな事を言われたら。じぃと、上目遣いに、おねだりでもするように言われたら。
「……っっっっ……みゃーこさああああああああああん!!!!」
 叫びと共に、都を逆に押し倒し、組み敷く。そして、月彦という名のケダモノは、都の体に溺れていくのだった。



 

「あンッ……あンッ……つっきぃ……つっきぃ……!」
「みゃーこさんっ……みゃーこさんっ……!」
 パンッ、パンと小気味の良い音を立てながら、月彦は都の腰を掴み、その尻に自らの腰を打ち付ける。
(あぁぁ……みゃーこさんっ、みゃーこさんっ……!)
 月彦の頭の中はもう、都のことですっかり埋まりきっていた。都の体を、隅々まで余すところ無く味わいたい。一滴でも多くの子種を注入したい――そんな思いが高じて、際限なく都の体を求め続けた。都を逆に押し倒し、主導権を握ってから一体何度中出しをしたか、数えるのも億劫な程だ。そのうちとうとうベッドの中すら煩わしく思えての、立ちバック。作業机に手を突かせ、尻を高くあげさせ、無防備な姿勢の都を背後からがむしゃらに突きまくる。
(っくぅぅ……みゃーこさんって、ホント締まりが…………お尻も、突く度にぷるんって弾けて……)
 女性の尻肉に噛みつきたくなったのは生まれて初めてだった。それはどちらかといえば肉欲というよりも食欲に近く、月彦は己の頭がおかしくなってしまったのかと危ぶまねばならなかった。
「はぁはぁっ……つっきぃ……イイよぉ……気持ちいいっ……ずん、ずんって、つっきぃのが奥まで来て、みゃこもうトロけちゃいそうだよぉ……!」
 剛直を突き入れる度に、どろりとした白濁汁が溢れ出し、都の太ももからふくらはぎへと伝っていく。それほど出して尚、都が欲しいという気持ちが治まらず、月彦は止まることが出来ない。
「ふーっ……ふーっ……みゃーこさん、ごめん……俺、もうっ……」
 もはや、先に都をイかせてから――などという気配りすら出来ない。月彦はただただ快楽を求めて腰を振り続け、それが限界に達するや――。
「みゃーこさんっ……!」
「つ、つっきぃ……あんっ……!」
 都に被さるように密着し、その奥にたっぷりと白濁汁を注入する。射精を受けて、都も興奮しているのだろうか。キュキュキュと精液を搾り取るように締め上げてくるのがまた心地よく“また出してあげないと”という気にさせられる。
(やっべぇ……もっと、もっとみゃーこさんとシたい……)
 出したばかりだというのに、うずうずと焦れのようなものを感じる。月彦は両手で都の体を抱きしめ、両手でおっぱいをもみくちゃにしながら、剛直のみではなく体全体で都の体を味わい、その“飢え”を少しでも紛らわそうとする。
 が、やはりそんなものでは到底足りないと感じる。
「あっ……」
 がくりと、都が膝を折ったのはその時だった。
「……みゃーこさん? 大丈夫?」
「う、うん……ごめんね、つっきー……つっきぃにいっぱい気持ち良くされて、足に力入らなくなっちゃって……」
 無限の体力を持っているかのように見える都だが、そこは人間。やはり限界はあるという事なのだろう。
(そりゃそうだ……ましてやみゃーこさんは、これがまだ二回目なんだから……)
 慣れないこともあるだろう。むしろ、こんなにも際限なく求めてしまう自分のほうこそ恥じ入り、都に謝るべきではないか。
「……ごめん、みゃーこさん……俺、もっとみゃーこさんとシたい……」
 しかし、実際に口に出たのは謝罪の言葉などとは無縁の恥知らずな提案だった。
「つ、つっきぃ……あんっ……」
「みゃーこさん、こっちを向いて、机に座るようにして。それなら、足は辛くないだろ?」
 都は言われるままに月彦の方へと向き直り、そして机に腰掛け、足を開く。まだ呼吸が整わないのだろう、はぁはぁと肩で息をする都の全身はその代謝の良さを現すように汗だくであり、そんな都をこの上なく魅力的だと感じる。むせかえるような汗の香りも決して不快ではなく、むしろその中に溶け出している濃厚な牝フェロモンに頭が痺れる程に興奮させられる。
「来て……つっきぃ……ンッ……くぅぅっ……!」
 糸で引かれるように都に被さり、剛直を挿入する。肩のすぐ横で都の喘ぐ声がし、それだけで剛直の体積が二割は増すほどに興奮する。
「ああァンッ! つ、つっきぃの……ググンって、みゃこの中でおっきくなってるよぉ……!」
「それ、は……みゃーこさんのナカが気持ちいいから……みゃーこさんが可愛い声で鳴くから、だよ……」
 徐々に、腰を使う。何度も中出しを繰り返し、トロトロに蕩けきった媚肉を楽しむように、時折腰をくねらせ突く角度を変えながら、都に声を上げさせる。
「あぁっァアッ! あぁっ……つっきぃぃっ……はぁはぁっ……ぅんっ……ぁん! あぁっ……もっと、もっとイッパイ突いてぇ……あぁっ、あんっ!」
「みゃーこさん……っ……」
 都に請われるままに、月彦は腰を使う。が、机自体のバランスがよろしくないのか、動きを激しくすればするほどに、ガタガタと音を立てて気が散って仕方が無かった。
「みゃーこさん、持ち上げるよ」
「えっ……きゃっ……ンッ、くひぃぃぃっ!!!!」
 都の両膝の裏へと腕を通し、ぐいと持ち上げる。慌てて都も両手を月彦の首にかけてきて、月彦はそのまま都の体を抱え上げるようにして、上下に激しく揺さぶる。
「あぅぅ! あうっ、くひっ! あンッ! あひっ……くひぃっ!」
 剛直の先端に、都の体重を感じる。その都度、都は苦しげに喘ぎ、背を弓なりに反らせる。少し強すぎるかと、月彦はストロークの距離を縮め、短く、小刻みに揺さぶるような刺激へと切り替える。
「あっ、あっ、あっ、ァッ、ァッ、ァッ……!!!」
 どうやら、都にはそっちのほうが良いらしいということを、都の声と、そして喜ぶように締め上げてくる媚肉の反応で、月彦は知った。
「つ、つっきぃ……こ、コレ……スゴいよぉ…………き、きもちいいの、いっぱい、来る、よぉ……!」
「じゃあ、いっぱいシてあげるよ、みゃーこさん」
 そういや、先生も“コレ”がお気に入りだったと、そんなことを思い出しながら、月彦は都の体を小刻みに揺さぶり、イかせ続ける。
「ッッンぅ! ぁああッ! はぁはぁっ……イイよぉ……つっきぃ……はぁはぁはぁ……き、気持ちいいよぉ………………みゃこ、おかしくなっちゃうよぉ……!」
「っ……お、れも……気持ちいいよ、みゃーこ、さんっ……」
 ぜえぜえと呼吸を荒くしながら、月彦はテンポを早めていく。互いの腰がぶつかる度に、ばちゅんばちゅんと激しい音が鳴り響き、結合部から漏れ出した混合液が飛沫となって飛び散っていく。
「つっきぃっ……つっきぃっ…………もぉ、だめえっっっ……きもち、良すぎ、て……みゃこ、おかしくなっちゃう……ばかになっちゃうよぉ!」
 都がかぶりを振りながら喚き、暴れるように自ら腰を使い始める。
「ちょっ……みゃーこさっ……危なっっ……!」
「つっきぃっ! つっきぃ! つっきぃ……来るっ、来るぅっ……! あーーーーーッ……あーーーーーーーッ!!!! き、気持ちいいのっっ、おっきいの来るっっ……あァァァーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!!」
「っっっっ……みゃーこ、さっ……」
 都が大きくのけぞり、天を仰ぐようにして体を痙攣させる。瞬間、月彦もまた、魂を絞り出すような恍惚の射精を、白濁の奔流を都のナカへと撃ち放っていた。
「ァ……ァァァァァ…………おな、か……あつ、い……よぉ…………つっきぃの……せーし……ンンッ……いっぱい、出てる、よぉ…………」
 絶頂の余韻に声を震わせながら、都が呟き、不意にその体が脱力する。途端、まるで体重が倍加したかのようにズシリと月彦の体にのしかかってきて、同じく絶頂の余韻に惚けていた月彦は危うく転びそうになった。
「と、と、とっ!」
 辛くもベッドに尻餅をつき、そのまま勢いに任せてベッドに仰向けになる。ぜえぜえと、まるで互いに示し合わせたかのように同じタイミングで荒い呼吸を続け、不意にそのことに気がついて同時に噴き出したりしながら、月彦は気怠くも最高の余韻を噛み締めていた。
「つっきぃ……」
 漸くにして呼吸が整ったらしい都が、ごろりと月彦の上で寝返りをうつようにして密着してくる。
「ちゅーしよ……?」
 断る理由など、在るはずが無い。月彦は都の体を抱き寄せながら、唇を重ねる。
「あむっ、ちゅっ……んっ……」
 都もまた、余韻のキスを楽しむように、月彦の体へと手を伸ばし、なで回してくる。肩を、首を、耳の裏を、後頭部を、胸板を、頬を。
「ンッ、ちゅっ……んっ………………」
 くち、くちと、まるで少しずつフェードアウトするように、唇が触れあう時間が短くなっていく。くちっ、と最後に吸うようなキスをして唇を離した都は、えへへと照れるように笑った。
「みゃーこ、さん……」
 都が可愛いことなど、百も承知の筈だった。しかし、今この時ほどそれを痛感したことは無かった。
「きゃっ……!? つ、つっきぃ……?」
 気がつくと、月彦は都と体を入れ替えるように押し倒していた。
「ごめん、みゃーこさん……もう一回、もう一回だけ、みゃーこさんと、シたい……」
 自分の体が疲労の極みにあることも、都が同様であることも、百も承知だった。しかしそれでも尚、都とシたくて堪らなかった。
「うん、いいよ。……つっきぃ……シよ?」
 都は少しだけ体を起こして、ちゅっ……と触れるだけのキスをした。それを今度は月彦が追ってキスをし、都がキスをやりかえし、月彦がやり返すといったことを繰り返すうちに、徐々に濃密なキスへと変わっていく。
 激しい動きなど必要無い。月彦は自分の素直な気持ちを表現するように、キスをしながら優しく都の胸元を愛撫し、掌全体で包み込むように優しく愛でる。やがてつぼみが花開くように自然な動きで都が足を開き、月彦は今尚腹に突くほどに屹立した剛直を、ゆっくりと挿入する。
「ぅ、ンッ……っはっ……つっきぃ……!」
 根元まで挿入し、とんっ、と奥を小突くや、そのまま密着させて都を抱きしめる。抱きしめたまま、さらにキス。唇がふやけるほどにキスを重ねながら、ゆっくり、ゆっくり剛直を前後させる。
 さながら、先ほどまでの激しいセックスに対するクールダウンのような、そんな緩やかな抽送だった。その分、都が動きに飽き足りしないよう、小刻みに速度や角度を切り替えながら、徐々に、徐々に。都に息を弾ませていく。
「ンッ……ンッ……つっきぃ……こ、コレ……イイ、よぉ……はぁはぁ……」
 動き自体は緩やかな、ひどく静かなもの。しかしそれも小一時間ほども続けると、月彦も、そして都も全身から汗を噴き出させていた。
「あァァ……ァァァ……さ、さっきまでと、違うよぉぉ…………」
「……どんな風に違うの? みゃーこさん」
 囁きながら、都の短い髪を優しく撫でながら、月彦はそれでも腰の動きを止めない。
「気持ちいいのが、ずっと続いてるのぉ……はぁはぁ……つっきぃ……もっと、もっとちゅーしてぇ……」
「わかったよ、みゃーこさん」
 請われるままに唇を重ねる。かさねながら、長いストロークで何度も何度も、都の奥を小突く。
「ンッ……ンンッ! やぁぁっ……つっきぃ……はぁはぁ……今、コンってするのだめぇ……きもち、よすぎて……ビクンって、お腹が跳ねちゃうのぉ……」
「でも、すっごく気持ちよさそうに見えるよ、みゃーこさん」
 囁きながら、さらにコンッ、コンと子宮口を突くと、都はその都度可愛らしいほどに声を上げて短くイき続ける。
「だめっ、だめぇっ……つっきぃのこと、どんどん好きになっちゃうぅ……離れられなくなっちゃうぅ!」
「……俺も大好きだよ、みゃーこさん」
 セックスは、愛を育てる効果もあるのだろうか。始める前よりも確実に、都を愛しいと感じている自分に気がつく。その愛しい都のあえぐ姿がもっと見たくて、月彦は都がより良くなる様、突く角度、速度を調整しながら、コン、コンと子宮口突きを繰り返す。
「はぁはぁはぁ……だめっ……ホントにダメぇ……おっきぃの、来るっ……いちばんスゴいの、来るぅっ……みゃこ、死んじゃうっ……壊れちゃう!」
「解るよ、みゃーこさんがすっごい感じてるの、俺にも伝わってる。みゃーこさんのナカ、すっごいうねって、キュンキュン締めてくるから、俺の方も、もう……」
 都を感じさせる為の動きが、徐々に自分がイく為の動きになる。そうならじと努力しても、どうしても自らの絶頂に引きずられる。月彦は息を荒げながら、今度は自分から都の手を握り指を絡めながら、ラストスパートをかけていく。
「あアンッ! あぁッ、あぁあっ、ッ……つっきぃ……つっきぃっ……あぁぁぁぁッ! あぁぁぁッ アアアァァッ!! あぁあっ、あっ、あっッ……ッ…………ッッッ!!! ッッッーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!!!!」
 都の最後の叫びは、声にならなかった。ケモノの雄叫びのような声を上げながらイく都のナカに、月彦もまた最後の射精を行った。


 翌日。丸太小屋の窓から陽光が差し込んで尚、深い眠りの底で微睡み続けていた月彦を目覚めさせたのは、何とも場違いなほどに香ばしい肉の焼ける匂いだった。
「うん……? 何だろう……あれ、みゃーこさん……?」
 むくりと体を起こすと、隣に都の姿は無かった。くん、と鼻を鳴らすと寝ていた時よりもより強く、香りが鼻をつく。ぎゅうと、香りに反応するように腹が鳴り、月彦はいそいそと衣類を纏い、匂いに誘われるように小屋の外へと出た。
「ぎゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
 瞬間、月彦は悲鳴を上げた。
「あっ、つっきー! おはよー!」
 皮を剥がれ木の枝から宙づりにされているイノシシの向こう側から、都がひょっこりと顔を出す。どうやら、イノシシの解体途中だったらしく、その両手は血にまみれており、月彦は危うく腰が抜けそうなほどに驚いた。
「みゃ、みゃーこさん……これ、どうしたの……」
「早起きして捕まえた!」
「つ、つかまえたって――」
「あっ、つっきー、足下ちゅーい!」
 ぐらりと、足から力が抜けてフラつきかけた月彦は、都の声に反応してグッと体勢を立て直す。というのも、小屋の入り口のすぐ脇に、成人一人分はあろうかという臓器類で一杯になったポリバケツが置かれていたのだった。
「こ、これ……イノシシの……?」
「うん! しんぞーとかんぞーはもう焼き始めてるよ!」
 小屋の前ではコンクリートブロックを積み上げて作られた即席の竈で既に網焼きの準備がなされ、そこでは輪切りにされたハツとレバーがじゅうじゅう音を立てて香ばしい匂いをふりまいていた。
「つっきー、先に食べてていーよ! 都もイノシシばらばらにしたら食べる!」
「………………ありがとう、みゃーこさん」
 皮を剥がれ宙づりにされたイノシシと、バケツ一杯の内蔵で食欲を大きく減退させつつも、月彦は満面の笑顔を返した。


 最初こそげんなりと食欲を失ってしまったが、一度口にいれてしまえば、なるほどイノシシ肉は美味だった。
「美味い! これめっちゃ美味しいよ、みゃーこさん!」
「はふはふむふぐんぐんぐっ……ぷはーっ! 都、イノシシ大好き! あむぐっ、んぐむぐむぐ」
 都と二人、貪るようにして食べ続ける。味付けは小屋に備蓄されていた塩と醤油のみだったが、それすら問題にならないとばかりに食べ続けた。
(……ていうか、みゃーこさんの食いっぷりが……スゴい……)
 同じく貪るように食べていた月彦だが、気がつくと見入ってしまっていた。都は特に骨に近い場所の肉を好み、がじがじと歯で骨からこそぐように食べ続けるから、都の脇にはみるみるうちに骨の山が出来ていくのだ。一方月彦はといえば、まるで焼き肉屋で出されるような切り方をされた肉を食べ続けるだけという、都のそれに比べればまるでお嬢さんのようだと言われても仕方が無い食べ方だった。
「………………つっきー?」
 食べる手が止まっていたからだろうか。不意に都が骨付き肉にかぶりついたまま、きょとんとしていた。
「みゃーこさん、どうしたの?」
「つっきー、泣いてる。どーして???」
「え……?」
 都に指摘されて、手で拭ってみて、月彦は初めて自分が涙を流していることに気がついた。
「あ、れ……何でだろ……」
 混乱する。一体全体なぜ自分が涙を流しているのか、まったく理解できなかった。
(生まれて初めて食べたイノシシ肉が美味すぎるから…………なわけないよなぁ……)
 もちろん不味いわけでもない。ワサビが塗ってあるわけでもない。なのに、どういうわけか涙だけが止まらない。
(……いや、本当に俺、イノシシ肉食べるの初めてだった、か……?)
 前にも食べたことは無くないか。記憶を辿る――が、やはりそんな思い出は無い。無いはずなのに、ザラリとした違和感が拭いきれない。例えるなら、本来その記憶があるべき場所までの“道”はあるのに、あるべき記憶そのものが無い――そんな気分だった。
「つっきー、……お腹痛い?」
「いや、大丈夫だよ、みゃーこさん。ちょっとさっき塩のついた指で目を擦っちゃってさ」
 ノイズのように走る偏頭痛を堪えながら、月彦は大丈夫だよという笑顔を作る。
「でもさ、俺イノシシ肉って初めて食べたんだけど、ホント美味しいね。ハツもレバーもタンも全部最高だよ」
「うん! イノシシは一番美味しいよ! まだまだいっぱいあるから、つっきーどんどん食べて!」
「わわっ、ちょっ……みゃーこさん焼きすぎだよ! いくらなんでも食べられないって!」
 見る見るうちに余白を無くしていく金網に、もはや苦笑しか出ない。炭焼き小屋として使われているだけあって、炭の在庫には困らない様だが、こんなに湯水のように使っていいのだろうか。
(ていうか、そもそもウサギとかイノシシとかも、狩猟免許がないと獲っちゃいけないんじゃなかったっけか……)
 都がそのようなものを持っているとは思えないのだが、もし仮に後日このイノシシの件が問題となったら「生き抜くための緊急避難的措置でした!」と証言することにしよう。そしてイノシシ肉を食べて何故涙が出たのかという件については、きっと前世かなにかで因縁でもあったのだろうと月彦は無理矢理に自分を納得させながら、イノシシ肉を頬張り続けた。



 イノシシ肉は、肉だけの重さにして2,30キロはあったのではなかろうか。しかしそれは今や半分ほどに量を減らし、そしてその半分は都の手によって“れーとーしつ”へと運ばれていった。その入り口は山の斜面にあり、どうやらそれは地下空間へと繋がっているようだった。そんな場所に冷凍庫があるとは思えないから、恐らくは天然の冷凍庫ということなのだろう。
「炭使っちゃったから、じーちゃんにもおすそわけ!」
 確かにずいぶんと炭も使ってしまったが、そういうことならばそのじーちゃんとやらもきっと笑って許してくれるのではないだろうか。
「……むしろ、問題はコッチだな」
 都の話では、小屋のすぐそばに沢があるのだという。イノシシの内臓をそのままにしておくわけにはいかず、それらを都が埋めに行っている間、月彦は自分たちが汚してしまったシーツやら毛布やらを沢へと運び、丁寧に水洗いをする。
(つ、冷てぇええ!)
 針で刺されるような痛みを伴う指先の感覚が、みるみるうちに消えていく。月彦は何度も手に息を吐きかけながら揉み洗いをし、最後には都に手伝ってもらって思い切り絞り、水気を切ってから干した。
(……できれば俺もシャワーを浴びたいけど……)
 沢の水の冷たさを知ってしまうと、とても全身を浸す気にはなれなかった。小屋にもさすがにシャワーは無いだろうなと、都にダメもとで打診をすると、驚くべき答えが返ってきた。
「シャワー? あるよ!」
「えっ、マジで!?」
「うん! 都は起きてすぐ浴びたよ! こっち!」
 都に手を引かれていった先で、月彦は愕然と立ち尽くした。それは言うなれば、“天然のシャワー”だった。天然由来のシャワーらしく水量調整などは微塵もされておらず、その勢いも温度もおよそ人類には不適切な設定しかされていない。
 平たく言えば、それは岩壁の下にある――そして恐らくは先ほどの沢の上流に繋がる――ただの小さな滝なのだった。
「…………ごめん、みゃーこさん。こんなの頭から浴びたら、俺心臓止まっちゃうよ」
「えぇー! 都は大丈夫だったよ?」
「…………みゃーこさんが大丈夫でも、俺はちょっと無理かな……仕方ないから、タオルで体を拭くことにするよ」
「じゃあ、都も手伝う!」
「えぇええ!?…………まぁ、いっか……」
 お互い裸を知らない仲というわけでもない。月彦は汗ふき用に持ってきたタオルを水に浸して堅く絞り、小屋に戻ってから体を拭くことにした。
(……これはこれで、なんか照れくさいな)
 都の前でジャージの上を脱ぎ、半裸の状態になってからベッドの上へと腰を下ろし、ごしごしと体を拭く。――が、そんな月彦を、都がじぃと熱の籠もった視線で見てくるから、月彦としてもやりにくかったりする。
「えと……背中の方とか、お願いしてもいいかな?」
「えっ……う、うん……つっきー、タオル貸して?」
 都にタオルを渡し、背を向ける。ごしごしと、まるで垢すりでもするような強さで背中が拭かれるが、堪えきれないほど痛いわけでもないから、月彦はあえて何も言わず、踏ん張るようにして体を固定しつづけた。
 そんな“ごしごし”が、不意に途絶えた。
「……? みゃーこさ……うひゃあっ!」
 突然、ぬめっとした感触が背中に走り、月彦は声をうわずらせた。
「ちょっ、何して……」
「んっ……つっきーの背中……ちょっと、しょっぱい」
「しょっぱいって、な、舐めちゃだめだよ、みゃーこさん!」
 慌ててベッドから立ち上がり、都と距離を取る。が、都はまるでじゃれて遊ぶ子犬のようにすぐさま飛びついてきて、顔中にキスの雨を降らせてくる。
「えへへーっ、つっきー、大好き!」
「ちょっ……みゃーこさん、体が拭けないから!」
 とはいえ、力任せに都を押しのけるわけにもいかない。結果、子犬と子犬がじゃれ合うような押しつ押されつが続く。
「つっきぃ……」
 背後に回った都が、両腕でぎゅうっ、と抱きしめてくる。背中越しに、都の服越しに、ふくよかな膨らみがこれでもかと押しつけられる。微かに感じる堅いものは、例の首飾りだろう。
「今度は、都のおうちでえっちしよーね!」
 はぁ、と熱っぽい吐息を耳の裏に吹きかけながらのお誘いに、不覚にも下半身が反応してしまいそうになる。今度などと言わずにむしろ今からでも――そんな気分になりかけたところで、ぴょんと都は離れてしまった。
「つっきー、急いで帰ろう!」
 そして一転、今度は急かしてくる。それは早く帰ってシたいから――ではなかった。
「早く帰って、きららの所にねじねじ持っていかなきゃ!」
「あ……あぁ、そうだね。早く帰らないと、今度は病院が閉まっちゃうし……」
 相変わらず都の思考の流れや行動は読めないなと苦笑しながら、月彦は手早く体を拭き、帰り支度をまとめるのだった。


 やや急ぎ気味に山の中を歩き続け、都の案内の元月彦はどうにかこうにか出発点である小屋へと戻る事が出来た。
「これは……真央達が置いていった自然薯……だよなぁ」
 小屋の中には、自然薯掘りに使った籠とその中に9本の自然薯が入っていた。うち一本は折れており、月彦の記憶とも一致する。一本も持って帰らなかったのは、ひとえに“それどころではなかった”からなのではないか。
(……ホント、悪いことしたな。ちゃんと埋め合わせしなきゃ)
 自分が思っていた以上に、二人には心配をかけたのかもしれない。都と話し、“じーちゃん”に分ける分の自然薯を小屋の中に残し、残りをビニール袋に入れて都が両手で抱えて持って帰るという形になった。
「みゃーこさん、俺が持とうか?」
「ううん、へーき!」
 重さもそれなりだが、何よりかさばって邪魔なのではないだろうか。しかし都は頑として譲らず、やむなく都に持たせたまま道路まで戻り、そこでバスを拾った。行きとは違い、酔い止めを飲んでいない都はみるみるうちに顔色を悪化させていったが、月彦が降りたほうがいいと勧めてもがんとして首を縦には振らなかった。
「降りたら、今日中にきららの所に行けなくなっちゃう」
 気分を落ち着ける為の呪文のように、都は何度もそう繰り返していた。どうやら病院の面会時間を気にしているらしかった。さすがの都も、自然薯をかかえたまま、しかもそれを折らないように配慮しながらバスよりも速く霧亜の病院にたどり着くのは無理だと判断したのだろう。
 都がそういうつもりならば、月彦も無理にとは言えなかった。
「気持ちはわかるけど、みゃーこさん、このまま病院に行くのは多分ダメだよ」
「どうして? つっきー」
「いやほら、俺もみゃーこさんも、山帰りで服だって汚れてるし、一度帰ってシャワー浴びて服も着替えてきた方がいいよ」
 仮にも病院に行こうというのだ。衛生面には十分に配慮しなければならないと、月彦はなかなか首を縦には振らない都を説得する。
「山には、有害なダニとかノミとかだって居るだろうし、そういうのを病院に持ち込んだりしたらいろんな人に迷惑かかっちゃうから」
 ひいては霧亜にも迷惑がかかると諭すと、都は渋々了承したようだった。

 見舞いに行く前に、一度家に帰ってシャワーを浴びて服を着替えてから、再度病院前で合流しようと約束して、月彦はバスを降り都と別れた。都に分けてもらった自然薯(折れたやつ)を抱いたまま大急ぎで家へと帰り――
「ただい――」
「父さまぁ!」
 うわっ、と。玄関の戸を開けるなり飛びかかってきた真央の体を、月彦は反射的に避けてしまった。ごん、と真央が玄関の戸に額をぶつけるのを見て、月彦は慌てて真央の側に跪いた。
「す、すまん……自然薯を抱えてたから咄嗟に避けちまった……真央、大丈夫か?」
「うん……大丈夫……父さまぁ……ホントのホントに心配したんだよ?」
 赤くなった額を摩りながら、真央が涙を浮かべたまま微笑む。月彦はもう何も言わず、真央の体を抱きしめた。
「……真央、すまん。いろいろ話したいこともあるけど、病院の面会時間が終わっちゃうからさ。シャワー浴びて、急いで姉ちゃんの見舞いにいかないと。……そういえば、母さんは?」
「義母さまは……えっと、多分お昼寝してると思う」
「昼寝……」
 相変わらず、肝の太い母親だと、もはや苦笑いしか出て来ない。月彦は真央に折れた自然薯を託し、大急ぎでシャワーを浴びて着替え、家を出る。移動時間を惜しんで自転車で病院の前までいくと、既に待ちくたびれた様子の都の姿が目に入った。
「つっきー! おそいよ! はやくはやく!」
「ごめん、みゃーこさん」
 ちゃんとシャワー浴びて来た?――そう尋ねるのは、さすがに都に失礼というものだろう。足踏みをするほど焦れている都を伴い、月彦は病院のロビーへと入っていく。



 見舞いの手続きをとり、念のため掘ってきた自然薯を食べさせても良いかどうかの許可もとり、霧亜の病室へと赴く。ドアの前に立ち、月彦が深呼吸の後いざノックをしようとした矢先――
「きららー! 来たよー!」
 月彦の儀式じみた行動を台無しにする形で、都が一目散に中へと入ってしまった。やむなく、月彦も都の後に続いた。
「きらら、見て! ねじねじ採ってきたよ!」
「それは……自然薯?」
 呆気にとられた霧亜の顔というものは、なかなか見れるものではない。都の代わりに自然薯の入ったビニール袋を両手で抱えていた月彦は、つい表情が綻んでしまう。
「わざわざ山から採ってきたの…………ありがとう、都」
 まるで飼い主に尻尾を振る犬のように、ベッドの脇で膝をついている都の頭を、霧亜が優しく撫でる。
「えへへーっ、つっきーとね、マオマオと、あとユリユリも一緒に行ったよ!」
「……そう」
「きらら、ねじねじ食べて体早く治す! ねじねじ美味しくて、栄養もいっぱい!」
「ありがとう、都。さっきご飯食べたばかりだから、後で食べるわね」
「後で、ダメ!」
 きょとんと。まるで飼い犬に軽く手でも噛まれたかのように、霧亜が目を丸くする。
「今食べて! 都の目の前でちゃんと食べて!」
「今はお腹が空いてないの」
 困ったように、霧亜が微笑む。月彦はちらりと、壁掛け時計へと目をやる。時刻は午後五時をやや過ぎた辺り。
(……“さっきご飯食べたばかり”って、いくらなんでも変だろ……)
 昼飯だとしたら遅すぎ、夕飯だとしてら早すぎる。ざわりと、月彦は嫌な予感が胸の奥を撫でるのを感じる。
「俺、看護士さんに器とすり下ろす道具借りてくるよ」
 自然薯を壁に立てかけるように置き、一人病室を後にする。丁度廊下を通りかかった看護士に声をかけると、意外にもあっさりと了承を得ることができた。
「入院してるお姉さんの為に山まで行って自然薯を掘ってくるなんて、エライわぁ……」
 熟年の――女性だが年齢的に霧亜の射程範囲から外れているであろう――看護士は頬に手を当てながらそんなことを呟き、てきぱきと必要なものを揃えてくれ、さらにこれもあったほうがいいと調味料類まで用意してくれた。
「紺崎さんも本当ならとっくに退院できてる筈なんだけどねぇ……骨がなかなかくっつかないみたいなの」
 だから、自然薯で栄養をとるのは体にとってもいいはずだと、看護士は励ましさえしてくれた。月彦は例の言葉を言い、皿やらすり鉢やら調味料やらが載せられた盆を手に、霧亜の病室へと戻る。
「……あれ、みゃーこさんは?」
 病室内には、都の姿が無かった。そして、自然薯も。
「……自然薯の泥を落としてくるって言ってたわ」
「そっか。…………みゃーこさん、本当に姉ちゃんのこと心配して、自然薯掘ってきてくれたんだぜ。ちょっとくらい無理してでも、ちゃんと食べてやりなよ」
「…………。」
「真央も、見舞いに行けないからって手伝ってくれたんだ。由梨ちゃんも――」
「きららー、洗ってきたよ! あ、つっきーおかえり!」
「早かったね、みゃーこさん。じゃあ早速すり下ろそうか」
「うん!」
 殆どひったくられるように、都にすり鉢が奪われ、床の上にあぐらをかいた都の手によって凄まじい勢いで自然薯がすり下ろされていく。その様子を物憂げに見つめる姉の顔に、月彦は胸を締め付けられるようだった。
(……姉ちゃん、明らかに喜んでる様子じゃないな。むしろ重荷って感じだ……)
 果たして、これは本当に霧亜の為になるのだろうか――そんな月彦の思惑とは裏腹に、都はあっという間にまるまる一本すり下ろし終わり、とろろ状になったそれを小鉢へと移す。最後に濡れ布巾で手を拭いてから、キラキラと輝くような目で、霧亜を見る。
「きらら、おしょうゆかける?」
「そうね、お願い」
 小鉢に醤油を垂らし、木匙を添えて霧亜に手渡す。霧亜は木匙を手にとり、かるくかき混ぜてから、とろろが垂れてこぼれてしまわぬ様慎重に掬いとり、口へと運ぶ。
「うん、とっても美味しいわ」
「きらら、違う! ねじねじはもっと、ずるずるーって一気に食べる!」
「……ごめんね。今は本当にお腹が空いてないの」
「ダメ!」
 都は頑なだった。殆ど睨み付けるように霧亜を見続け、やがて根負けしたように霧亜がため息を漏らし、小鉢へと唇をつける。音こそ立てなかったが、時間をかけて都が言った通りに小鉢いっぱいの自然薯を飲み干し、ふうと息をつく。
「ほら、ちゃんと食べたわよ」
「…………きらら、もっと食べる?」
「そうね。もらおうかしら」
 霧亜が、空になった小鉢を都へと差し出し、都は嬉々としてすり鉢から小鉢へととろろ状の自然薯を移す。
「これは、都と半分こにしよっか」
「半分こ……でもでも、ねじねじはきららの為に……」
「いくら何でも私一人じゃ食べきれないから。ね?」
 今度は、都が折れる番だった。霧亜と交互に一つの器を回して、一口ずつ食べるその様子に、月彦は気がつくと奥歯を噛み締めていた。
(…………ダメだ、こんなの見てたら、頭がどうにかなっちまう)
 幸い、自分の存在は二人の意識の外のようだ。月彦はそっと一人、病室を後にした。


 気分がくさくさするというのは、こういうことを言うのだろう。都も、そして霧亜のことも決して嫌いではないはずなのに、二人がイチャイチャしている所を見ると狂おしいほどの嫉妬にかられ、月彦は逃げるように病院を出てしまった。
(……俺だって、みゃーこさんと一緒に頑張って掘ったのに)
 褒められたくてやったわけではない。その筈であるのに、実際に空気のように扱われると心穏やかではいられない。純粋に姉の為に、一日でも早く退院してもらう為にと頑張った筈だが、やはり心の奥底では褒めて貰いたいという気持ちがあったことを、月彦は認めざるを得なかった。
(そりゃあ、姉ちゃんのことだから、面と向かって褒めてくれるなんてことは絶対無いだろうけど……)
 またしても、都だけが霧亜の寵愛をかっさらう形になってしまっただけに、月彦はいつになく心がどす黒く染まるのを止められない。むしゃくしゃとしたこの気分を、誰かにぶつけたくて堪らなくなる――。
(そうだ、いっそ――)
 憂さ晴らしならば、うってつけの相手が居るではないか。悪魔の双子の片割れ――優巳ならば、どのような扱いをしてもこちらの心が痛むということは無いだろう。幸いなことに住所も知っている。久方ぶりに尋ねて、ドアを開けるなりさながら強姦魔のように襲いかかるのも面白いかもしれない。二度にわたる邂逅で、優巳一人であれば恐れることは何も無いということは明らかだ。むしろ、口やかましく抵抗をしてくれたほうがこちらも血が滾り、より憂さを晴らすことが出来るだろう。難を言えば、大学生とは思えないほどに胸が無い点だが、そこは我慢をするしかない。
(むしろ、一番の懸念は――)
 優巳が抵抗をしないことだった。いつぞやのように、まるで憑き物が落ちたような素振りを、例え演技でも見せられたら興醒めだ。さすがにしゅんと肩を落とし怯えた子羊のような目で見上げてくる相手では、優巳といえど手酷く犯す気にはなれないからだ。
(あぁ、そうさせないために、いきなり目隠しをして口を塞ぐってのもアリだな)
 優巳を、あくまでモノのように扱う――それはそれで、あの女にとって屈辱だろう。何なら、前だけでなく後ろを犯してやるのもいいかもしれない。とにもかくにも、優巳が嫌がることであれば何でもやってやればいい。そのような扱いをされても仕方ないほどのことを、あの双子はやってきたのだから。
(…………なんて、な。……そんなこと、本当に出来るわけがないんだけどな)
 優巳を手酷く犯す妄想は、幾分ながらも月彦の頭を冷静にした。いくらあの双子が憎くても、向こうから仕掛けてくるならともかくこちらから出向く気にはなれなかった。そんなことをしてしまえば、自分まであの双子と同レベルになってしまう気がするからだ。
(それに、優巳姉の仕返しが、姉ちゃんの方に向く可能性だってある)
 ましてや今は都との再会を果たし、恐らくここ数年でもっとも穏やかな日常となっている筈だ。そんな姉の所に、あの双子がちょっかいを出してくる口実を進んで作る気には、どうしてもなれない。
 とはいえ、完全に気分が晴れたわけでもない。このまま帰って、万が一真央や葛葉に当たり散らすようなことになっては申し訳ないから、月彦は気分が落ち着くまで散歩をすることにした。
(…………そうだ。久々にバッティングセンターでも行ってみるか)
 こういうくさくさした気分の時は、思い切りバットを振って憂さ晴らしをするのが良いかもしれない。我ながら名案だと思い、隣町のバッティングセンターへと行くべく駅前へと続く道に入ったところで。
「……おや、そこにいらっしゃるのは、もしや月彦さんですか?」
 辺りを行き交う人混みの中からかけられた声に、月彦の足は止まった。


 何かを忘れている気がしていた。しかし緊急性の高いものではなかったような気がして、ついつい姉の件を優先してしまっていた。
 恐る恐る振り返ると、なにやらいつになくめかし込んだ出で立ちの白耀が、涼風のような笑みを浮かべながら歩み寄ってくる所だった。
「丁度良かった……今から伺おうと思っていた所だったんです」
 しかし、さすがに白耀の顔を見れば、思い出さざるを得ない。先日、あの性悪狐をとっちめる妙案を一緒に考えてほしいと、相談を持ちかけられていたということを。
(や、べ……すっかり忘れてた……)
 全身が凍り付いたように硬直する。白耀には、返しきれないほどの大きな借りがある。故に、白耀が望むことであれば、たとえば左手の小指が欲しいくらいの頼み事であれば二つ返事で差し出さざるを得ない程度の負い目は感じている。それだけに、白耀の頼み事をすっかり忘れていたという事実は、月彦の心に多大な衝撃を与えた。
「月彦さん、実は……例の件なのですが――」
 進展はいかがでしょう?――てっきり月彦は、そんな言葉が続くものだと思っていた。だとしたら一体なんと答えるべきか。確か、俺に妙案があるから安心して任せてくれというようなコトを言ったはずだ。それが実は何一つ進展していませんというのではさすがに体裁が悪いのではないか。例え嘘でも「今交渉中だが、思ったよりも難航している」程度の言い訳はすべきではないのか。
 そんなことをぐるぐると考えていた月彦の目の前で、唐突に白耀が頭を下げた。
「すみません、月彦さん! あの話は無かったことにして下さい!」
「は……え……?」
 思いも寄らぬ白耀の言葉に、月彦の口からそんな言葉が漏れる。しかし白耀は月彦の呟きを「あぁん?」といった憤怒の声とでも聞き違えたのか、頭を下げたままさらに弁明を続ける。
「月彦さんがお怒りになるのはもっともです! こちらからお願いしたことを、舌の根も乾かぬうちから無かったことにとお願いしているのですから! 償いをしろと仰るのでしたら、どのようなことでもいたします!」
 んん?――月彦の心がそよいだのは、白耀の一言だった。どんなことでもする――白耀の言葉につい「本当にどんなことでもいいのか?」という言葉を口にしそうになる。が、さすがに白耀も“そこまで許す気”で言っているわけではないだろうと、すぐさま冷静に考え直す。
「……ですが、僕は思い直したのです。それでは、目には目をという考え方では、“あの女”と同じになってしまうという事実に! それこそ、“あの女”に今以上の跳梁跋扈をさせる口実を与えるようなものであると!」
 白耀の言葉を聞きながら、月彦は不思議な既視感に襲われていた。なぜならば白耀が口にしている理屈は、つい先ほど月彦が思案していたことと酷似し、まんま優巳への報復を断念した理由と同じだったからだ。
「……そ、っか。……良かった、そのことに気がついてくれたのか、白耀」
 白耀は、作戦の遅延を責めにきたわけではなかった――そんな安堵から、月彦はついそんな言葉を漏らしてしまう。
「やはり、月彦さんは最初から全てご承知だったのですね。……承知の上で、未熟な僕の為に話を合わせて下さっていたのですね!」
 顔を上げた白耀に尊敬の眼差しを向けられ、月彦は途端に体中がこそばゆくなり、照れ隠しに髪を掻く。
「いや、まぁ……なんつーか……アイツが憎いってのは、俺もよくわかることだし、復讐なんて褒められたコトじゃないけど、白耀がどうしてもやりたいっていうんなら手伝ってもいいか、って。そんな感じだったけど、正直気は進まなかったよ」
「……っ……申し訳ありません! 僕が未熟なばかりに、月彦さんに余計な負担を……!」
「いいって、白耀が思い直してくれたなら良かった。……これからもアイツがちょっかい出してくるかもしれないけどさ、なるべく相手にしないようにしようぜ。そうすりゃ、アイツも飽きて手を出してこなくなるかもしれないしな」
「はは……そうなってくれればありがたいですが……」
 そうは巧くはいうかないだろうという、白耀の困った笑み。しかしそこには前回の時のような、復讐に怒り狂った男の面影は無かった。むしろ人として、妖狐として一皮むけた男特有の、ある種オーラのようなものさえ漂っていた。
「まあ、またどうしても我慢ならないコトがあったら、その時は俺が相談に乗るからさ。今回のことで気兼ねなんかしないで、その時は遠慮無く言ってくれよ」
「はい!……月彦さんさえよろしければ、今後も頼りにさせていただきます」
 何かが解決したわけではない。が、少なくとも白耀との絆は深まったように思える。そんな錯覚めいた実感が、月彦に言わずともいい一言を口にさせた。
「そういや、白耀。今日は随分めかし込んでるみたいだが、何かあったのか?」
「はっ……そう、見えますか?」
 仮に女性であっても白すぎるその肌に、朱の線が走る。瞬間、月彦は嫌な予感がした。
「…………実は、その……さっきまで、菖蒲と……出掛けておりまして」
「あやめさん、と……?」 
 ざわりと。心臓の表面を、まるで巨大なネコの舌で舐められたようだった。
「はい……その……一応、デート……ということになるのでしょうか…………先日、菖蒲の方から誘われまして……」
 今度は“ドキリ”の方だった。だくだくと、全身から冷や汗が噴き出す。
「へ、へぇー……菖蒲さんの方から誘ってくるなんて、良かったじゃないか」
 思わず声が裏返りそうになるのを、必死に堪える。顔がひきつりそうになるのを、無理矢理笑顔に戻す。
「僕も驚きしました。夜中の、突然の電話でしたから。ただ、その時はあまり体調が良くなかったようで……大事をとって、体が治ってからにしようということになりまして……」
「それが、今日、だったと……」
「すみません、隠すつもりは無かったんです。ですが……」
「わ……わかってるって。別に今日菖蒲さんとデートをするって、いちいち俺に報告するってのも変な話だし、そんなの隠すも隠さないもないだろ?」
 恐らく白耀は、真狐討伐の件を頼んでおきながら、自分はデートをしていた――ということを、負い目に感じているのではないだろうか。そんなことで負い目を感じる白耀に対して負い目を感じてしまい、月彦は尚更優しい口調にならざるをえない。
「白耀は、もっと堂々としていいんだって。きっと菖蒲さんも、もっとグイグイ来て欲しいって思ってると思うぞ?」
「……やはり、そうなのでしょうか」
 心当たりでもあったのか、白耀がずーんと沈んだ顔をする。が、同時に何かを思い出すように、その女性のように細くしなやかな指先が、唇をなぞるように動く。
「…………このようなこと、月彦さんにしかご相談できないのですが」
「待て、待て、白耀。さすがにこんな人通りの多いところじゃ、な?」
 周りは住宅街、そして駅へと続く道はひっきりなしに往来がある。月彦は白耀の手を引き、手頃な路地裏へと入り込む。
「で、何を相談したいんだ?」
「はい…………あの、月彦さん!」
「お、おう!」
 がしっ、と。両手で腕を掴まれ詰め寄られ、月彦は俄に上体を引く。
「実は」
「実は?」
「菖蒲と、その……接吻を、したのですが……」
 うぐと。唸り声を上げてしまいそうになって、グッと飲み込む。まさかそれは俺が命じたことだ、などと言えるはずもない。
「それも、菖蒲の方から、でした……やはりあれは、それ以上を求めているサインということだったのでしょうか!」
「おっ、おおっ、おちっ、つけ白耀! 揺らされっ、たらっ……」
 がっくがっくと揺さぶられ、月彦は舌を噛みそうになりなりながら、必死に白耀を宥めおちつかせる。
「す、すみません……少々興奮してしまいました……」
「はぁはぁ……んで、キスはOKのサインかって話だけど」
「はい!」
「…………それは、菖蒲さん以外誰にも解らない」
 白耀の顔に、失望とも、納得ともつかない色が浮かぶ。
「だけど、白耀が本気で求めるなら、仮に菖蒲さんの答えが“NO”であっても“YES”に変わる可能性はある」
「ほ、本当ですか! 月彦さん!」
 またしても、両腕を掴まれ、揺さぶられる。揺さぶられながら、月彦は何度も頷き返した。
「ただ、あくまで本気のときだけだぞ? お前が本当に菖蒲さんのコトが好きで、その想いがきちんと伝わらなきゃ、嫌がられておしまいだからな?」
「僕はいつでも本気です。…………ですが、それも相手に伝わらなければ、意味がないということですね」
「そ、そういうことだな、うん」
 嫌な汗が止まらない。余計な一言を言ってしまったが為に、胃を搾られるような思いをしながらアドバイスをする羽目になってしまった己の迂闊さを、月彦は責めずにはいられなかった。



 人間とは、忘れる生き物だ。月彦はそのことを、白耀との苦い汁を飲まされるようなやりとりで思い知った。
(そういや、先生とのデートを忘れた時も、酷い目に遭ったっけか……)
 少し身を引き締める必要があるかもしれない。そんな思いを新たにしながら、翌朝学校へと行くと、教室の前の廊下で思いも寄らぬ人物と遭遇した。
「珠裡……?」
「ツキヒコ……まだなの?」
 え、まだ?――珠裡の言葉に、月彦は露骨に狼狽えた。まさか、自分はいつのまにか珠裡との約束まで忘れてしまっていたのだろうか――そんな焦りに、冷や汗が止まらない。
(やべぇ……珠裡との約束なんて、毛ほども思い出せないぞ……)
 もしやこれが音に聞こえた若年性痴呆症というやつなのか。自分の体はそこまでキてしまったのか――愕然と膝をつきそうになりながら、月彦は一縷の望みと共に膝に力を込める。
(いや、待てよ……もしかして、遊園地に連れて行くって、“アレ”を珠裡は約束だって勘違いしてるのかもしれない)
 だとすれば、まだ救いはある。月彦は崩れ落ちそうになる足をなんとか踏ん張り、平生を装う。
「悪いな、珠裡。最近ちょっと持ち合わせがなくて、遊園地に行くのはしばらく無理なんだ」
「…………はぁ?」
 しかし珠裡は眉を寄せ「何言ってんのコイツ」と言わんばかりに不審げな声を出す。
「何それ。私はママがツキヒコにそう訊いてこいって言うから訊いただけなんだけど」
「えっ……まみさんに……?」
「そ。まだなのか、まだ失敗してないのかーって」
「失敗……?」
 はてなと首をひねり、そして――。
「あぁぁ!」
 月彦は、廊下の端まで聞こえるような大声を上げた。
「アレだ! 真狐をとっちめるのに、手を貸して欲しいって……まみさんに頼んだ件のことだ!」
 しかしアレはまみに却下されたのではなかったか。月彦は慎重に記憶を辿る。
(いや、違うな。まみさんはこう言ったんだ。まずは自分たちだけでやってみろ、それでダメなら手を貸す――って)
 まだ失敗しないのか、というのは即ち、まだ真狐に返り討ちに遭っていないのかという意味だ。
「えっ……ママにそんなこと頼んだの?」
「あぁ……ちょっと知り合いに頼まれてな。まみさんに助太刀してもらおうと思ったんだけど……だけど、知り合いがもういいって言い出して、話も立ち消えになっちまったわけなんだが……」
 ええっ、と。今度は珠裡が呆れたように声を出した。
「…………ママ、すっごい張り切ってるんだけど。毎日妖具の手入れをしたりして、うきうきしながらまだかな、まだかなって」
 どうする気なの?――珠裡の怪訝そうな顔はそう訴えていた。月彦もまた「どうしたらいいと思う?」という顔で珠裡を見る。
(てゆーか……まみさんやっぱり本心では手伝いたかったのか…………)
 珠裡の口ぶりが誇張でないとすれば、それはもはや恋人とのデートを待ち望む乙女のそれではないか。
(…………まみさん、真狐のこと好きすぎだろ……)
 正確には、真狐本人が好きなのではなく、真狐との喧嘩が楽しくて堪らないのだろう。先だっての助太刀依頼も、出来る事ならばすぐさま乗っかりたかったに違いない。しかし、それはまみの主義に悖ることであり、泣く泣く断った。が、それでも尚知人が返り討ちに遭い、やむなく手を貸すという形であれば――ということなのだろう。
「…………今更やっぱり無しになったなんて言ったら……キレちゃうかもしれない」
 ぽつりと呟いた珠裡の独り言に、月彦は戦慄した。かつて一度だけ見た、キレたまみの雄叫びのような声が、フラッシュバックのように蘇る。
「…………悪い、珠裡。学校が終わったら謝りに行くから、一緒に謝ってくれ!」
「えぇーーーーー!? やだ! 怒ったママ怖いもん!」
「頼む、珠裡! 頼む!」

 そしてその日の夜。綿貫家の居間では、ばつが悪そうに座る珠裡とその脇で土下座をする月彦。むすっとした顔で月彦が持ってきた極上のどら焼き(白耀に大急ぎで用意してもらった)を食べ続けるまみの姿があったそうな。

 



 
 


 

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