「はぁー…………やっちゃった……」
 しょんぼりと肩を落としながら、雛森雪乃は放課後の廊下を歩いていた。職員会議が長引き、窓の外はもううっすらと闇に包まれようとしていた。
「…………待っててくれるわけ……ないよね、紺崎くん」
 呟きながらも、雪乃は月彦クラスの靴箱をチェックせずにはいられなかった。勿論予想通り、そこには靴ではなく上履きしか存在せず、愛しい相手が既に帰宅を終えてしまっている事を確認してさらに雪乃は深くため息をついた。
(……今度の週末こそ、紺崎くんと一緒に過ごそうって……そう思ってたのに)
 だからこそ今日は少々キワドイ丈のタイトミニを無理して履き、それとなくセックスアピールもしたというのに。結果的には全くもって雪乃の思惑とは裏目に事が運んでしまった。
(…………紺崎くん、本当にどうしたのかしら……あんなに怒るなんて……)
 あの後、雪乃は何度も何度も何がいけなかったのかと、己の行動を振り返った。さすがに、生徒をいちいち立たせるのは良くないと言う月彦の暴論をそのまま信じ込む気にはなれなかった。あれは、何かの揶揄ではないかと。
(……解らないわ。……もう、紺崎くん……言いたいことがあるならはっきり言ってくれればいいのに)
 勿論、それは二人きりの時に。できれば、ベッドの中で肌を重ねながら、甘く、囁くようにして――そこまで妄想して、雪乃はぽむと煙を噴くようにして顔を赤くする。
「……はぁ〜………………巧く行かないものね……」
 そう、それは本当ならば今週末――正確には明日明後日に――現実となる予定だったのだ。しかしそれもこうなってしまっては、水泡に帰したと言って過言ではない。
(……紺崎くんも携帯持てばいいのに)
 そうすれば、いつでも好きなときに声を聞く事ができるのに。少なくとも、他の家族が出てしまう事を懸念して電話すらかけられないという事はないのに。
(……ひょっとして、私……紺崎くんに嫌われてるのかしら)
 不意にそんな事を考えて、雪乃は不安になる。雪乃の中にある“恋人同士の行動”の基準から考えてみると、月彦のそれはあまりに素っ気ないように思えるのだ。
(ううん、素っ気ないってレベルじゃないわ。……むしろ、私を避けてるみたい)
 毎日同じ学校に通っているというのに、雪乃の側から切っ掛けを作らねばまともに話をすることすらも難しい。しかもその都度、一瞬嫌な顔をしそうになるのを、無理矢理噛みつぶすような笑顔を見せられて、雪乃は心中に黒い塊のような不安が容積を増していくのを感じるのだった。
「あっ……」
 月彦の事を考えながら歩いていたからか、職員用の昇降口へと向かっていた筈が気がつけば月彦の教室の前へと来てしまっていた。雪乃は恐る恐る教室の扉を開けるが、さすがに時間が遅いからか、残っている生徒は皆無だった。
「……………………。」
 雪乃は特に考えもなく、教室の中に入ると後ろ手に引き戸を閉めた。普段、生徒でひしめき合っている教室しか目にしないせいか、こうして誰もいない教室の中にいると自分がまるで異世界へと迷い込んだような気さえしてくる。
 雪乃は吸い寄せられるような足取りで月彦の席へと歩み寄り、机の上へと腰かける。が、すぐに手持ちぶさたになり、今度は椅子を引いて普通に着席してみた。
「紺崎くん……」
 呟いて、雪乃は机の上に被さるようにして伏せる。つるつるに磨き上げられている机の表面にはあ、と息を吹きかけ、曇った場所に“バ カ”と書いては、すぐに指で消し、再度息を吹きかけて今度は“ス キ”と書き、顔を赤くして消す。そんな遊びにもすぐに飽き、雪乃はため息を残して席を離れた。そのまま帰ってしまうのが何か癪に思えて、雪乃は再び月彦の席へと歩み寄る。
(…………紺崎くんが素っ気ないからいけないのよ?)
 ショルダーバッグの中から香水のビンを取り出すや、しゅっ、しゅっと机の中目掛けて二,三度吹きかけてやる。月曜日まで匂いが残っているかどうかは解らないが、雪乃なりの月彦への――かまってくれない事に対するささやかな報復だった。
「……あら」
 ささやかな悪戯でモヤモヤとした胸の支えが幾分スカッとしたのもつかの間、机の横に下がりっぱなしになっている体育着入れに雪乃は気がついた。
「体育着……よね、中身は……」
 雪乃は中身をチェックし、間違いなく体育用の青のジャージである事を確認する。
「もう……今日体育あったんでしょ? カビでも生えちゃったらどうするのよ」
 夏場ではないのだから、汗を吸っていたとしてもそうそうカビなど生えない――というツッコミはさておき、雪乃はぷんすかと手提げ袋のジッパーをしめるや、小脇に抱えてしまう。
「………………仕方ないから、私が届けてあげるわ。…………仕方なくよ?」
 口調こそさも嫌々――という素振りが満載だが、その実。雪乃は顔が緩んでしまうのを堪えるために時折頬肉の裏側を噛まねばならなかった。
 本当は、月彦に会いに行ける口実が出来たのが、嬉しくて嬉しくて堪らなかった。

 

 

『キツネツキ』

第三十話

後編

 

 




 体育着入りの手提げを手に、車に乗り込み月彦の家の側まで来てはみたものの、いざ家を尋ねるとなると雪乃の不安の虫が首を擡げてきた。
(…………紺崎くん、まだ機嫌悪かったらどうしよう……)
 雪乃の脳裏に、昼間の授業中に起きた出来事がフラッシュバックする。月彦にあれほど強い口調で罵倒されたのは初めての事であり、きっと何か理由があるはずだからなるべく気にはすまいとは思いつつも、やはり気にせずにはいられなかった。
(それに、もし家族の人とかが出たら……)
 担任でもないのにわざわざ?――と、間違いなく変な顔をされるだろう。そうやって考えれば考えるほど、自分と月彦との距離は思っている以上に離れているのだという事を雪乃は痛感せざるをえない。
(…………やっぱり、私が洗濯して……月曜日に渡してあげたほうがいいかしら)
 できれば、この体育着入れを返すついでになんとか仲直りをして、そのまま明日明後日のデートの約束を取り付けたかったのだが、雪乃にはどうしても紺崎邸のインターホンを押す勇気が作り出せなかった。
(……今日は、このまま帰ろう)
 一度は飛び上がりそうなほどに浮かれた気分が一気に沈み、雪乃は再度ため息をついた。これからまた、一人きりの週末を迎えねばならないと思うとそれだけで憂鬱で仕方がなかった。
(…………何か映画でも借りて帰ろうかしら)
 この際だから、見てみたかった映画やドラマを一気に借りて見てしまおう。そして気晴らしをしてしまおう。そして月曜日に改めて月彦との距離を縮める努力をしよう。
(…………でも、ホント……もう少し、紺崎くんに近づきたいな)
 たまに会って、デートをして、体を重ねるだけでは物足りなくなりつつある自分を、雪乃は自覚し始めていた。

 週末の夜ということもあり、レンタル店は雪乃の想像以上に込み入っていた。雪乃は買い物籠を手に、気になっていた映画、ドラマの類を片っ端から放り込んでいく。二日間の休日で全てを見終わる事が出来るかなど、細かいことは考えていなかった。こうして無駄遣いをしてしまうのも、一種の気晴らしだからだ。
「ぁっ……」
 と、つい声を漏らしてしまったのは、たまたまアダルトコーナーから出てきた男とうっかり目が合ってしまったからだった。男の方もばつが悪かったのか、いくつかのDVDケースを小脇に抱えたままそそくさと早足にレジの方へと向かう。
「………………。」
 雪乃は男の背中を目で追った後、そっと視線を前へと戻した。ピンク色の暖簾によってはっきりと区切られたその先には、女性の裸体をこれでもかとアピールしたDVDケースが所狭しと並んでいた。
(……えっちなDVD……かぁ……)
 正直、興味がないと言えば嘘になる。がしかし、このトンデモ領域の中に踏み込んでいく勇気を、雪乃は持ち合わせていなかった。
(きっとお姉ちゃんだったら……平気で入っていくんだろうけど……)
 そういう図々しさだけは、少しだけ羨ましいと雪乃は思う。
(あっ……)
 と、驚きはしたが、今度は声には出さなかった。雪乃が踵を返そうかとした矢先、暖簾をかきわけて出てきたのはどう見ても同年代かさらに年上と思われるスーツ姿の女性だったからだ。
(……………………女でも、普通にこういうの借りたりするんだ)
 てっきり、姉だけが特殊なのかとばかり思っていた雪乃としては軽く常識を覆されたような気分だった。
(そうよね……男だってこういうの見ない人はいるんだろうし、女だって見たい人は見るんだろうし……)
 そういえば自分も、学生の頃などは女友達と集まって部屋で飲んだりする際に見たりしたものだと、雪乃はそんな事を思い出した。尤もその場合は純粋に性欲の解消が目的ではなく半ば罰ゲーム的なもので借りてきては、酒の肴代わりに眺めるといったものだったが。
(………………あの頃は未成年だったし、いろいろ敷居は高かったけど……)
 そもそも未成年は酒など飲んではいけないというツッコミはさておき、雪乃の脳裏に試しに入ってみようかと、不意にそんな考えが浮かぶ。雪乃は戸惑い、戸惑った挙げ句結局アダルトコーナーの中へと踏み入った。
(うわぁ……)
 中に入るや、思っていた以上のピンクゾーンっぷりに雪乃は思わず声を漏らしてしまいそうになった。辛うじて平生を装いつつ、さも慣れているような足取りで雪乃は興味深げにDVDケースが陳列している棚を眺めていく。
(スゴい……こんなに色々あるんだ)
 ジャンル分けされているアダルトDVDのそれぞれの品数の多さに驚くばかりだった。
(……うわぁ…………)
 誰もいなければ、何度そんな吐息を漏らしてしまったか知れない。巨乳や美乳といったスタンダードなジャンルから、様々な企画物やSMめいたものまで。そこは雪乃の知らない世界が目白押しのとてつもなく濃い空間だった。
 そして、雪乃の目が当然のように――“女教師”の項目で止まる。
「…………………………。」
 ごくりと、微かに唾を飲み込みながら、雪乃は徐にパッケージの一つを手にとる。表面では、いかにもというスーツ姿の気の強そうな女性が胸元をはだけさせており、その胸元のボリュームだけは自分の勝ちだと、雪乃は密かに優越感を覚えた。
(…………やっぱり、こういう内容なのね)
 パッケージの裏面を見て、雪乃はげんなりとため息をついた。それは、強気な女教師が不良達に補習を行う際、無理矢理やりこめられてしまうといった内容だった。雪乃は全く興味を抱けず、そっとパッケージを棚へと戻した。
(…………純愛ものって無いのかしら)
 当然教師×教師ではなく、生徒×教師ものの、だ。雪乃はそれっぽいタイトルのものを手にとっては裏面を見て失望、という事を繰り返していく。途中、女教師コーナーに興味があるらしい客が棚に近づこうとして、明らかにその場にそぐわない客が熱心にDVDを物色している姿に絶句して回れ右、といった事が幾度と無くあったのだが、パッケージの裏の文言を読むのに熱心な雪乃は全く気がつかなかった。
(……あら、これ結構いいかも)
 漸く気に入りそうな内容のものが見つかった時には、アダルトコーナーに踏み入ってからかれこれ三十分以上も経過していた。勿論、雪乃自身は自分が他の客達に“女教師AVが大好きな女”という形で今夜のおかずにされるであろう事など、微塵も考えなかった。


 レンタル店を出た後、さらに最寄りのコンビニで夕食用の食材と酒の肴などを買い込み、マンションの地下駐車場に帰り着いた時にはもう九時を回ろうかという時間帯だった。
(すっかり遅くなっちゃったわ……)
 ちらり、と左手首の時計を見て、雪乃は今更ながらに気恥ずかしさに頬を染めた。一般DVDを選ぶ段階でもそれなりに時間はかけたのだが、店にいた時間の大半はアダルトコーナーに居たからだ。
(…………私、溜まってるのかしら)
 成り行きとはいえ、あんなにも熱心にアダルトDVDを選んでしまった自分が少し信じられなくて、エレベーターの中で雪乃は奇妙な自己嫌悪に襲われた。
(……もう、紺崎くんのせいなんだからね?)
 欲求不満になってしまっているのだとすれば、それは間違いなく月彦のせいだと雪乃は思うのだ。月彦さえきちんとかまってくれていれば、あのようにアダルトコーナーに三十分も居座る事もなかったのだ。
「もう……本当に紺崎くんったら――」
「おっそぉぉぉおーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい! いつまで待たせんのよ! バカ雪乃!」
 ぶつぶつと独り言を呟きながら、いざ自宅のドアの前へと来るなり、雪乃は思いも寄らぬ人物の待ち伏せを受けた。
「お、お姉ちゃん!? なんでこんな所に居るの?」
「なんでじゃないわよ! あんた今日携帯を家に忘れでもしたの?」
「携帯ならバッグに入ってるけど……」
 雪乃はバッグから携帯を取り出し、画面を見てみる。マナーモードにしていた為気がつかなかったが、いつのまにか矢紗美からの着信が五件、メールが三通も届いていた。
「あんたが全然返事返さないから、仕方なくここまできてやったんじゃない。守衛さんに頼んでマンション内には入れてもらえたけど、部屋の鍵は持ってないからずーっとここで待ってたのよ」
「……一体何の用? お姉ちゃん」
 咄嗟にレンタル店の袋を隠すように背後へと回す。あのようなDVDをレンタルしたことを万が一姉に知られたら、一生ものの弱みをまた一つ増やしてしまうことになるからだ。
「とにかく、こんなところで立ち話もなんだから、はやくドア開けてよ。いい加減風邪引いちゃうわ」
 矢紗美に促され、雪乃は渋々ドアを開け、部屋の中へと招き入れる。
「先に着替えるから、ちょっと待ってて」
「解ったわ。ビールある?」
 冷蔵庫に、と指さしながら、雪乃は寝室へと入るなり何よりもまずレンタルDVDの袋をベッドの下に隠した。それから部屋着へと着替え、居間へと移動する。
「で、改めて聞くけど、何の用?」
「メールにも書いたけど、明日ちょっと車貸してほしいのよ。どうせ暇なんだし、代わりに私の車置いていくからいいでしょ?」
「…………どうして暇だって決めつけるのよ」
 一足先に飲み始めている矢紗美に負けじと、雪乃もまた缶ビールを手にソファに腰かけ、口をつける。
「だって、ねぇ……どうせまた紺崎クンには誘って貰えなかったんでしょ?」
「そ、そんなのお姉ちゃんには関係ないでしょ! そういう事言うんなら絶対貸してあげないんだから! だいたい、私に借りなくたってお姉ちゃんだって自分の車持ってるでしょ?」
「私のはほら、小さいから。車の中でイチャイチャしたりするのに向いてないのよ」
「車の中でイチャイチャって……まさかデートに使うつもりなの!?」
「モチロン。そうじゃなかったら、わざわざ車貸して〜なんて頼みに来ないわよ」
「いーやーよ! 絶対貸さない! 汚されたら堪らないもの」
 自分が一人寂しい週末を迎えようとしている時に、デートをするから車を貸して欲しい等と、到底許容できる事ではなかった。ましてや、車を汚される可能性まであるとなれば尚更だった。
「雪乃、あんたついこないだ自分が言ったこと忘れたの? 自分に出来る事なら何でも協力するって言ってくれたのは嘘だったの?」
「う……そ、それは……」
 確かに、少し前に二人で飲んだ時にそのような事を口走ったような記憶はある。
「それに、そうじゃなくても……あんたには断わる権利なんてないでしょ?」
「ど、どういう意味よ……」
 姉の語気に押され雪乃はソファに背をつけるようにしながら視線を逸らす。
「あの車の頭金代わりに出してあげたのは誰だったかしらねぇ。しかも無利息無担保無催促で。……お給料出たら少しずつ返すって言ってたのに、まだ一円たりとも返してもらってないんですけど?」
「うっ……そ、それは……だって、家賃とか車のローンとかいろいろ大変で……」
「何言ってるのよ。ボーナスだってあったでしょ?」
「だ、だってアレは……ボーナスの半分は定期預金にとられちゃうし、残りは……冬用のコートとかいろいろ買ったから……」
「つーまーり、お金は返せない。よって、あんたは私の頼みを聞くしかない。ドゥーユーアンダスタン?」
 まるで雪乃の株を奪うかのような見事な発音で矢紗美に締めくくられ、雪乃はむぎゅうと駄々っ子のようなうなり声しか出せなかった。
「……し、仕方ないから貸してあげるけど……だけど、絶対汚さないでよ? 汚したらシートのクリーニング代お姉ちゃんが出してよね!? アレってすっごく高いんだから!」
「はいはい、解ってるわよ。一応ちゃんと気を付けるし、最悪でもシートは汚れたりしないように毛布とか積んでいくから心配しないで」
「本当にぃ……? まあでも、明日デートする相手って、例のお姉ちゃんの本命の人なんでしょ? 車の中とかじゃなくて、ちゃんとホテルとかとったりしたほうがいいんじゃないの?」
「そこはそこ、いろいろと事情があるのよ。いいからほら、さっさと車の鍵出す!」
「解ったわよ…………って、お姉ちゃんビール飲んでるじゃない! ダメよ、飲酒運転なんて!」
「だーいじょうぶ。帰りはちゃんと代行使うから、はやく鍵出して」
「………………本当に汚さないでよ? まだ買ったばかりなんだから」
 雪乃は渋々バッグから車のキーを取り出し、矢紗美へと渡す。
「ありがとっ、じゃあねー雪乃。一人で寂しい週末を楽しんでね〜」
 車のキーをちゃらちゃら鳴らしながら、矢紗美は最早用はないとばかりにさっさと玄関から出て行ってしまう。
「……本当に大丈夫かしら。……少しでも汚れてたら、本当にクリーニング代出してもらうんだから」
 ぶつぶつと独り言を呟きながら、雪乃はまるで厄介払いとでも言うかのように玄関にチェーンロックをする。
「……でも、いいなぁ…………デートかぁ…………いいなぁ、お姉ちゃん……」
 まさかその相手が他ならぬ紺崎月彦だという事など、雪乃は夢にも思わず、ただただ一人寂しく酒の杯を重ねていくのだった。



 一頻り酒を飲みながら夕食を済ませ、一端シャワーを浴びて寝間着に着替えてからさらに飲む。そんな半ば自棄酒めいたことをしながらテレビを観ていて、はたと。雪乃は帰りに大量の映画やドラマのDVDを借りていた事を思い出した。
 折角だからと、まずは映画の方から手を付けてみることにした。一本目に選んだのは一年ほど前に話題になったアクション超大作(と銘打たれた)だった。それなりに面白く、退屈もしなかったがテンプレート通りのストーリー展開のせいか、三日も経てばもう頭には残っていないだろうといった類の内容だった。
 映画を見終わり、欠伸をしながらもう一本見たものかそれともベッドに潜ったものか、雪乃は俄に迷った。壁掛け時計に目をやると、既に夜中の十二時を回っていた。
(……そうだわ)
 今日は、映画やドラマ以外にももう一本借りていたという事を雪乃は思い出し、雪乃はレンタル店の袋を漁って“その一本”を取り出した。
「……………………。」
 ごくり、と思わず唾を飲み込んでしまう。きょろきょろと辺りを見回してしまったのは、なんとなく“良くないこと”をしようとしているような気がしてしまったからだ。
(…………アダルトDVDが何よ、私だってもう大人なんだから)
 別に初めてみるわけでもないんだから――奇妙な強がりを胸に、雪乃はディスクをプレーヤーにセットし、高鳴る胸を押さえながらソファへと腰を据える。程なくデモ画面が始まり、それが終わるやメニュー画面へと切り替わる。雪乃は一も二もなく“本編を再生する”の項目を選んだ。
 画面が暗転し、程なく本編の再生が始まる。今回雪乃が選んだのは、単純なアダルトDVDではなく、いつだったか矢紗美が借りてきた――そして、月彦と共に映画館で観たような、成人向け描写ありきの映画仕立てのAVだった。単純に女優と男優が絡み合うものよりも、そのほうがより楽しめそうな気がしたからだった。
 本編の再生が始まるや、またしても回りを見回してしまったのは、なんとなく姉が茶々をいれてきそうな気がしたからだった。
 無論それは気のせいであり、邪魔など入るはずもない。代わりに、暗い画面から、切なげな女性の喘ぎ声が聞こえてくる。そんな、いきなり濡れ場なの!?――雪乃の同様をよそに、暗い画面に徐々に絡み合う男女の姿が映し出される。
 若い男女だった。女の方はパッケージにも移っていた、恐らく女教師役の女優だろう。男の方は中年とまではいかないまでも、二十台とは思いにくい容貌だった。もしこれが生徒役なのだとすれば、感情移入はかなり難しいのではないかと雪乃は思う。
 程なく濡れ場が終わり、事を終えた二人がベッドの中で会話を始める。
『……会うのは、今日で最後にしよう』
 男の方がタバコを燻らせながら、そのような事を言う。途端に女の方が弾かれるように身を起こし、信じられないといった目で男を見る。
『そんな顔するなよ。最初からお互い体だけの関係って割り切る約束だったろ? それに俺、もうすぐ婚約するんだ』
 でも、と女が食い下がるが、男は笑うばかりで全く真面目に打ち合おうとはしない。そういえば――と、雪乃は店でパッケージの裏を読んだ時に書いてあった内容を思い出していた。
(……確か、恋人と別れて失意の底に沈んでいた彼女の前に現れたのは――っていう様な事が書いてあったわね)
 恋人同士というよりは、どうもセックスフレンドといった関係らしかったが、察するに女の方はそうは思ってはいなかったらしい。画面の方では、雪乃の推測を裏付けるような女性の回想シーンが映し出される。
(馬鹿な女ね。自分が騙されてるって気がつかなかったのかしら)
 映画の登場人物に対してそんなツッコミをいれた所で無駄なのだが、雪乃はついそう思わざるを得なかった。甘い言葉で誘われ、互いに心の隙間を埋め合うような関係でいようと男に持ちかけられ、体を開いていく女に対し、あまり感情移入はできそうにないとそんな事を思う。
 女は教師をやっており、先ほど体を重ねていた相手も同僚の教師らしかった。当然のように職員室の中ではばつが悪く(相手の方は平然としていたが)、女は居場所の無さに堪らず職員室を飛び出してしまう。
 そのまま学校内を彷徨い、校庭の片隅の花壇の傍らで女はふと足を止めた。寂しげに咲くコスモスの姿に、今の自分の境遇を重ね、思わず落涙してしまう。
『北見先生っ』
 と、そんな女の背から不意に声がかかり、涙を拭うのも忘れて振り返った先に居たのは、なんとも線の細い顔立ちの男子生徒だった。
(……あら)
 と雪乃が思ったのは、ベッタベタなストーリー展開を鼻で笑いたくなったからではなかった。男子生徒役の男優が思っていた以上に高校生っぽかったからだ。
(……男優なんだから、それなりに年はいってる筈よね。…………でも――)
 こうして画面越しに見る分には、十七、八才くらいにしか見えなかった。
(…………紺崎くんとは似ても似つかないけど……)
 勿論、女優の方も女教師という職業以外は自分とは似ても似つかないと思うが、これはこれでアリかもしれないと、雪乃は微かに期待を高めた。
『北見先生も花が好きなの?』
 線の細い男子生徒は、その喋り方もよく言えば優しく、悪く言えばなよなよとしていた。それが演技によるものだとすれば、なかなかのものだと雪乃は思う。
 その後の展開は、まさにお決まりのコースだった。失意の女と、たった一人きりの園芸部員である孤独な男子生徒の取り合わせは、二人の距離が縮まっていくことを視聴者である雪乃に納得させるには十分な設定だった。
 園芸部というのは顧問も部員も居ない、当然予算も下りない、名ばかりの部だった。女は男子生徒の為に自ら園芸部顧問となり、部員の勧誘を手伝う傍ら、ポケットマネーで花の種を買っては男子生徒と共に花壇に埋めたりと、その献身的な姿にいつしか雪乃は自分を重ね始めていた。
(……いいなぁ、こういうの。…………私も、紺崎くんと一緒に……部活とかやれたらなぁ……)
 園芸部に限った事ではない。月彦と共にこうして二人きりの時間が過ごせるのならば、どんな内容の部活であろうとも文句はなかった。勿論、その部活には余計な人員は要らない。あくまで二人きりの空間でなければならない。
(はぁ……いいなぁ、ほんと……すごく幸せそう)
 演技だと解っていても、雪乃は画面の向こうの女優に羨望を禁じ得ない。既に紆余曲折を経て、二人は見るからに相思相愛となっていた。ただ、教師と生徒という関係だけが、最後の壁として立ちはだかっていた。
(そんな壁が何よ! 好きならそんなの障害でもなんでもないでしょ?)
 雪乃は気がつくと、柄にもなく画面の中の女教師を応援していた。そして雪乃の願い通りに、二人は深夜の教室でのキスの一件からとうとう最後の一線を越え、教師と生徒ではなく男と女へとなろうとしていた。
 女は、自分の部屋へと男子生徒を招く。順番にシャワーを浴び、ベッドへと誘う。男子生徒の初めての行為に緊張し、脅える様などは雪乃にはとても演技には見えなかった。
(やだ……私までドキドキしてきちゃう……)
 固唾を飲んで見守るとはまさにこの事だった。それは雪乃の憧れの一つでもある「お姉さんが優しくリードしてあげる」というシチュエーションそのものだった。
「んっ……」
 不意に、下腹の辺りにキュンと疼くものを感じて、雪乃はつい声を漏らし、身じろぎをしてしまう。画面の方では、男子生徒が不慣れな手つきで女教師の胸を愛撫し始めていた。
(やっ……体が……)
 知らず知らずのうちに体が火照り始めていた。心臓が高鳴り、呼吸までも早まる。
「ぁっ……」
 画面の中での愛撫に応じて、声まで出てしまう。否、声だけではない。手が、自分の手がなんとも焦れったげに肩を、腕を、そして太股をはい回る。
「だ、ダメッ……!」
 雪乃は咄嗟にプレーヤーのリモコンを手に取り、再生を中断させた。はぁはぁと肩で息をしながら、高ぶっていた気持ちを少しずつ落ち着かせていく。
(……ダメよ、こんなの…………いくら、紺崎くんとシてなくて溜まってるからって……)
 これ以上再生を続けていたら、きっと自分を止められなくなってしまう――そんな思いから、雪乃は再生を中断させた。
 が――。
「…………ンッ……」
 どれほど気を落ち着けようとしても、一度高ぶった気分はそう簡単には収まらない。ましてや、“体が思い出してしまった”のなら、尚更だった。
(やだっ……また……っ……)
 迂闊だった、と言わざるを得ない。折角必死に欲求を抑え込み、平生を保つ事が出来るようになったというのに。
(…………紺崎くん……)
 前回、月彦に抱かれた時の事が、“肉の記憶”として蘇る。中に鋼鉄が仕込んであるのではと疑いたくなる程に硬く、そそり立った剛直で息もつけぬほどに突き上げられ、そしてどくり、どくりと。特濃の牡液をたっぷりと注ぎ込まれ、女としての――否、人間のメスとしての至福を感じさせられる――その快楽が。
(やだ……だめっ……欲しく、なっちゃう……!)
 はあはあと、一度は落ち着きかけた呼吸を再度乱しながら、雪乃は焦れったげにパジャマの上から腹部の辺りをなで回す。
 子宮が、熱を帯び始めていた。
(……欲し、い…………紺崎くんの精子………)
 それは空腹による飢餓や、喉の渇きによる水分への渇望とは似て非なる、狂おしいばかりに強烈な衝動だった。
(……っ……我慢、できるようになったのに……)
 雪乃は震える手で再びリモコンを手にとり、ポーズ画面を解除する。スピーカーから男女の激しい息づかいが流れ始め、それが一層に雪乃の興奮を高めていく。
(だめ、だめ……私……何をしようとしてるの……?)
 こんな事はしたくない。何より、月彦に悪いと雪乃は思う。雪乃の倫理観では、自慰自体良識在る女性ならば自重して然るべきものであり、ましてや愛しい相手が居るのに、このようにAVなどを見ながらシてしまうのは浮気に分類されて然るべき事ではないかとすら思っていた。
(そうよ……私は、紺崎くんじゃないと…………)
 こんな事はシたくない――そう思いながらも、雪乃はその目を睦み合う男女達から外す事ができない。パジャマのボタンを外し、ブラのホックも外して、自らの胸元に直に触れる事を止められない。
(だめ……こんなの、だめ…………違う、違うの……私は、こんな女じゃ……)
 そもそも、こんな事をするためにDVDを借りたわけではない――そう思ってはたと、雪乃は自分の行動に疑問を持った。ならば何故自分は、このようなものを借りたのかと。アダルトコーナーに置かれているものというのは、基本このような使い道をするためのものの筈だ。それを借りておきながら、自慰をする気など無かったというのは通らない理屈ではないのか――。
(そう、なの……? 私、初めから……そのつもりで――)
 一瞬納得しかけて、やはり違うと雪乃はかぶりを振る。別にそういうつもりではなかった、ただ、何となく見てみたくて――そう、ただの興味本位だったのだと。
(そうよ、だから……止めなきゃ……)
 AVの内容に触発され、自慰をしてしまったのでは自分が今まで侮蔑してきた女達と同じになってしまう。自分は、そういう女ではない。所謂、淫乱だとか好色だとか言われるような女ではない。普通の……そう、一人の男性を愛する、ごくごく普通の教師に過ぎないのだから。
(……そうよ、違う……私は、お姉ちゃんとは違うんだから……)
 胸元を弄る手を、雪乃はなんとか止めようと試みる。が、しかしまるで誰かに操られているかのように雪乃の手は雪乃の指令を聞こうとはしない。
 それどころか――。
「だ、だめ……ぁ、あんっ……!」
 パジャマのズボンの下、下着の中まで潜り込み、くちゅりと。熱く火照っているその場所を弄り始める。
「い、嫌っ……こんなの…………だめ、止めて………ぁっ、んっ……だ、めぇっ……指、入って、来る……!」
 自分は、自慰をしてしまっている――そのことに、舌を噛みたいほどの羞恥を感じ、雪乃はきつく唇を噛みしめた。恥辱の余り目尻に涙すら浮かべながらも、雪乃は己の手を止める事ができない。
(やぁ……なに、これぇ……嘘っ……凄く……気持ちいい………………だめ、だめっ……こんなこと、すぐに止めなきゃ……!)
 己の膣内で指が蠢き、肉襞を擦り上げるたびに雪乃は甘い声を漏らしてしまう。足を開き、より奥へと指を誘ってしまう。
「いやっ、イヤッ……イヤッ……そこ、ダメ……ダメぇっ……やぁっ、だめっ……だめっ……」
 ぶるぶると、全身を包む快感に身震いしながら、雪乃はまるで懇願するように声を上げる。右手が、左手が、雪乃の意志とは無関係に弱い場所ばかりを攻め、その理性を切り崩していく。
「あぁんっ! あぁっ、やっ……だめっ、だめぇえっ…………止まら、ない…………どうして、止まらない……のよぉ…………はぁはぁ……んっ……ああァッ!!」
 最早、雪乃は画面の方など見てはいなかった。うっとりと濡れた目の先には、愛しい相手の虚像だけが浮かび、それは雪乃の妄想の中でどこまでも優しく雪乃を抱いた。
(……紺崎くん……紺崎くん…………!)
 雪乃は、妄想する。紺崎月彦に、甘く、甘く。体が溶けるほどに優しく抱かれる事を。抱きしめられ、愛の言葉を囁かれ、その逞しい剛直でゆっくり、ゆっくりと。雪乃が弱い、体を跳ねさせて声を上げてしまうペースで何度も何度も突かれ、最後は先端を子宮口に密着させるようにして特濃の精液を注ぎ込まれる、甘美な夢を。
「ああァッ……あぁっッ……ああァァーーーーー〜〜〜〜〜〜っっっ………………ッ…………ンッ、ンンッ!!!!!」
 己の懐いた妄想によって興奮の極みへと達し、雪乃はイく。その刹那、咄嗟に左手で口を塞いで声を押し殺したのは、雪乃の最後の羞恥心がそうさせたものだった。
「はーっ………………はーっ………………はーっ………………」
 全身を襲う、津波のような快感と、その余韻。雪乃は呼吸を整えながら、そっと右手を下着の中から引き抜いた。指を開くと、人差し指と中指の間ににゅぱぁ……と、白く濁ったものが絡みついていた。それは、女が本気で感じたときに出す――所謂“本気汁”と呼ばれるものだと、昔姉から聞かされた事を雪乃は思い出していた。
(…………私、オナニー……シちゃったんだ……)
 以前にも、半ば月彦に強要される形でシてしまったことはある。が、しかしあれはまったく別物だと雪乃は思う。そう、“人に強いられて”するのと、“自らムラムラして”するのでは天と地ほどの開きがあると。
  まるで、犯罪でも犯してしまったかのような背徳感が雪乃を襲った。ついと画面のほうに目をやると、いつのまにか本編が終わってしまったらしくスタッフロールが流れていた。
(……どうしよう、私…………紺崎くんとしか、エッチしないって、決めてたのに……)
 AVを見てシてしまった――そのことが、まるで重石でも乗せられているかのように雪乃の心を苦しめる。例え最後は月彦との事を妄想してイッたとはいえ、そんな事では雪乃の罪悪感は消えなかった。
(ごめんね……紺崎くん…………私、汚れちゃったかもしれない……)
 いっそこのまま死んでしまいたい――雪乃は膝を抱えるようにして、自己嫌悪に震えるのだった。



 

 
 
 汗を吸ったパジャマが気持ち悪くて、意気消沈しながら雪乃は再度シャワーを浴び、ベッドへと潜り込んだ。
 そして、“悪夢”を見た。
「先生、とうとうシちゃいまいたね」
 “それ”は月彦の顔で、そして月彦の声で、雪乃へと語りかけてきた。
「えっ……紺崎くん……? きゃっ……!」
 目の前からその姿が消えた――と思った瞬間、背後へと気配が回り込んでいた。ぎゅう、と体が抱きしめられる。
「どうでした? 初めて自分でシて、イッた気分は」
「ッ……やっ、止め、て……」
 背後へと回った月彦の手が、胸元から腹部へと移動する。いつの間にか回りの景色は誰もいない学校の教室、そして雪乃自身も在校時と同じスーツ姿になっていた。
「い、イヤッ……そこ、だめ……」
 月彦の手が、雪乃の腹部をなで回してくる。まるで、その奥、子宮の疼きを見透かしているかのように。
「解ってます。ここが疼いて疼いて、仕方ないんですよね」
「んっ、やぁっ……ぁっ、はぁぁンっ!」
 腹部を撫でながら、硬くそそり立ったものを尻に擦りつけられて、それだけで雪乃は甘ったるい声を出してしまった。
「だ、めぇ……止めて……貴方は、紺崎くんじゃ……」
 そう、これは夢なのだ。現実ではない、ただの夢。
 だから――。
「本当に嫌なら、もっと抵抗すればいいじゃないですか。……そんな風に、発情したメス猫みたいに尻を突き出したりしないで、俺を突き飛ばすなり引っ掻くなり噛みつくなり、好きにすればいいじゃないですか」
 どうせ夢なんだから――そんなことを囁きながら、月彦は食むようにして雪乃の耳を舐ってくる。
「……先生、もういちど訊きます。…………初めて自分でシて、イッた気分はどうでした?」
「っ……んっぁ……そ、そんなの……あんっ!」
 タイトミニがまくられ、生尻とショーツに直接剛直がスリ当てられる。熱い肉の感触に、体の火照りが増していく。
「ほら、先生?」
「んくっ……んんむ……」
 月彦の指が、口の中へと差し込まれる。くちゅくちゅと、まるでかき回すように蠢くその指を、雪乃は初めこそ抵抗したが次第に自らしゃぶるようにして舌を絡めた。そうして雪乃がその気になり始めたのを察したかのように、指は唐突についと、銀の糸を引いて引き抜かれてしまう。
「あぁんっ……やぁっ……もっと――」
 もっと舐めさせて――そんな言葉がつい飛び出しかけて、雪乃はハッと口を噤んだ。くすりと、耳の裏側から笑い声が聞こえた。
「……俺には解ってますよ。自分でシて、イきはしたけど、それだけじゃあ満足できなかったんですよね?」
 だから、“俺”を呼んだんでしょう?――そんな囁き声に、雪乃は必死にかぶりを振る。
「そ、んな……こと……ぁぁ…………」
 ショーツが脱がされる。ぐに、ぐにと尻肉が揉まれ、既に雪乃自身自覚しているほどに、とろとろの蜜を溢れさせているその場所が、両手の親指で開かれる。
「だめ……だめ……止めて……」
 それが、雪乃に出来る精一杯の抵抗だった。硬く熱い肉の塊が、敏感な粘膜にぐいと押し当てられる。そして、そのまま一気に――。
「ンぁぁぁぁァァっ……! あっ、あぁぁあっひ、ぃ…………」
 極太の肉槍が体を貫いた瞬間、雪乃はあられもなく声を上げていた。
「はーっ……はーっ……だ、めぇ……おね、が……抜いて……」
 下腹部を圧迫するほどの質量に息苦しさすら感じる。しかしその苦しさも慣れてしまえばむしろ心地よく、無ければ逆に物足りないとすら思えてくる。――そう、雪乃は既に、そう感じる程に“慣れ”させられてしまっていた。
「嫌です。……だってほら、先生の体……こんなに喜んで、もっともっとシて欲しい、って言ってますし」
 えっ、と。雪乃は改めて自分の“体勢”を見た。教卓に肘を突き、足は背伸びをするようにぴんと伸ばして、どう見ても自ら月彦に尻を差し出すような格好だった。
「……さて、そろそろ動きますよ」
「あっ、やっ……あんっ! あっ……あっっ、あっ、あんっ……」
 腰を掴まれ、ぱんぱんと尻が鳴る程に強く、何度も突き上げられる。そして、最初は早かったその動きが、徐々に速度を落とし、最終的にはひどくゆっくりしたものへと変わる。
「あっ、ぁぁぁぁぁっ……ぁああっ、やっ、だめっ…………んぁぁっ……!」
 抽送の速度が雪乃の“好みの速度”へと近づくにつれて、ますます声が抑えがたくなってくる。雪乃ははぁはぁと獣のように息を荒げながら、全身を包み込む痺れるような快楽の虜になりつつあった。
(だ、め……凄く、気持ちいい……とけ、ちゃいそ……)
 最早、これが夢かどうかなどどうでもよかった。下半身から全身を貫く怒濤のような快楽の波の前では、何もかもがどうでもよくすら思えた。
「……くす、先生。安心して下さい。……こうしてゆっくり、先生の大好きなペースでたっぷり気持ちよくしてあげた後、最後もきちんと中出ししてあげますから」
「ぇ……やっ……だ、だめ…………ナカは……中出しは、ダメぇ……」
 蜂蜜のように甘く、粘りけのある快楽にとっぷりと浸かった頭をなんとか働かせて、雪乃は言葉だけの拒絶をした。また、くすりと、悪魔が笑った。
「どうしてダメなんですか?」
「ど、どうして……って……ンッ……だって、中出し、したら……妊娠しちゃう……」
「大丈夫ですよ、先生。だってこれは夢なんですから。何回中出ししても、絶対に妊娠なんかしません」
「……で、でも……あぁんっ!」
 そう、これは夢なのだ。夢の中ではいくら中出しされても、妊娠はしない――そう思った瞬間、雪乃の心は安堵よりもむしろ落胆を覚えた。
(そんな……嘘よ……私は、別にがっかりなんて……してない……)
 そんな己の心の動きを、雪乃は認めない。また、背後で小さな笑い声が聞こえ、そして腰を掴む手に力がこもった。
「ぇっ、やっ……んんっ!」
「すみません、先生。……実は、そろそろ限界です」
 それは、雪乃が何度も味わった――そして体が完全に覚えてしまっている、月彦がイく時の動きだった。同時にそれは、雪乃が待ち望んだ瞬間が訪れる前兆でもあった。
「んっ、ぁっ、あっ、あっ、あっぁっぁっぁっあっ……ッ……やっ、ダメッ……やっぱり、ナカはッ……あぁんっ! 〜〜〜ッっっっ!!!!」
 またしても、雪乃が上っ面だけの拒絶の言葉を口にしたその刹那、ぐりっ……と硬い先端が奥へと押しつけられる。そして、びゅぐんっ――と。
(あぁぁぁぁあァァッ! ぁああっぁぁぁぁぁぁあっ!!!!)
 雪乃は唇を噛んで声を押し殺しながら、むしろ胸の中だけで歓喜の声を上げた。愛しい愛しいオスの子種をたっぷりと注ぎ込まれるこの瞬間に勝る快楽は、少なくとも雪乃は経験をしたことがなかった。そう、たとえ夢の中という仮初めのものだとしても、それは十分過ぎるほどに甘美な瞬間だった。
「……まだですよ、先生」
 そして、雪乃の体が覚えている通り、月彦との交接は――たとえ仮初めの夢の中だとしても――この程度では終わらない。
「俺を呼んでくれたのも久々ですからね。……今夜は朝まで、たっぷり先生に中出ししてあげますよ」
 雪乃はもう、嫌だとは言わなかった。

「……んっ……ぁふ……」
 雪乃は甘い声を漏らしながら、ゆっくりと瞼を開けた。ずっと寝ていた筈であるのに、体中が火照り、パジャマはたっぷりと汗を吸っていた。
(やだ……また……あんな夢……)
 体中が気怠く、身じろぎをする事すら億劫だった。枕元の時計は七時過ぎを指していたが、寝た気などまったくしなかった。
「……ンっ……」
 無意識のうちに、右手が這い、ショーツの中へと埋まる。雪乃はまだ夢現な意識の中で、ほんの少し前まで全身を愛撫していた月彦の手の感触を思い出しながら、自らを慰め始める。
「ぁっ、んっ……んっ……んぅ……」
 太股をすりあわせるようにしながら、雪乃は控えめに自らの秘裂を弄る。弄りながら瞼を閉じ、妄想する。
 月彦に抱きしめられ、キスをされる所を。背後から両胸を揉みしだかれ、尻に強張りを擦りつけられる所を。
「んっ……んっ……ンッ…………」
 妄想の中で、雪乃は全身をくまなく愛撫され、そしてとうとう足を広げられる。硬くそそり立った肉柱が媚肉を押し広げるようにして、雪乃の中へと埋没してくる。
「んんっ……ぁっ、はっ、ぁ……紺崎、くん……紺崎くんっ……〜〜〜〜〜ッッッッ!!!」
 そしてゆっくり、雪乃の好きなペースで散々往復した後、最後は一番奥で中出しされる所を想像しながら、雪乃はイく。キュキュキュゥゥ!――膣へと差し込んでいた人差し指と中指を締め付けながら、雪乃ははあはあと肩を揺らして呼吸を整える。
「…………また、シちゃった…………」
 てろてろに濡れそぼった右手の指を見ながら、雪乃は呟いた。目は、完全に覚めていた。

 またしても自己嫌悪に苛まれながら、雪乃はシャワーを浴びた。軽く朝食をとった後、気晴らしに買い物にでも行こうかと思って、昨夜矢紗美に車を貸した事を思い出した。
「……そういえば、お姉ちゃん自分の車置いていくって言ってたけど……」
 雪乃は昨夜の記憶を辿るが、どれほど辿っても姉から車のキーを受け取った瞬間の事は思い出せなかった。
「……テーブルの上とか、置いてない……わよね」
 雪乃は居間やリビングのテーブルの上や床、はたまた玄関に落ちてやしないかと探してみたが、どうにも見つからない。
「お姉ちゃんの馬鹿……車置いていかれても、鍵がなきゃどうしようもないじゃない!」
 恐らく、明日はデートという事で浮かれていて鍵のことを失念してしまっていたのだろう。こうなったら徒歩で買い物に行こうかと考えて、結局面倒くさくなって断念した。
「……今頃、お姉ちゃんはデートかぁ……」
 そう考えると、ますます気が滅入ってきて、最早歩く気力すら薄れてしまった。本当ならば、自分も今頃は月彦とイチャイチャしていた筈だというのに。
「…………紺崎くんに電話かけちゃおうかしら」
 奇妙な嫉妬を覚えて、雪乃は電話の子機を手に取るが、結局紺崎邸の番号は押せなかった。最後の数字を押そうとした瞬間、昨日の授業中での事がフラッシュバックして、どうしても声を聞く勇気が出なかったのだ。
(はぁ…………紺崎くんに会いたいなぁ……)
 子機を充電器の上に戻し、雪乃はのそのそとDVDプレーヤーの前へと移動する。こうなったらもう、当初の予定通り一人寂しくドラマか映画でも観てすごすしかないと、半ばふて腐れたような思いで中身のディスクを交換する。……交換しようとして、はたと手が止まった。
「……………………。」
 言わずもがな、プレーヤーにセットされっぱなしになっていたのは昨夜見ていた“アレ”だった。雪乃はしばし考えて、交換しようとしていたドラマのDVDをケースに戻し、プレーヤーに入っていたディスクをそのまま再生させた。
 リモコンでチャプター画面を開き、映画の後半――女教師と男子生徒の濃密な絡みのシーンから再生を再開させる。たちまち、部屋中に男女の荒々しい息づかいが響き渡った。
(………………いいなぁ………………私も…………紺崎くんと……)
 程なく、雪乃が“三回目”を始めてしまったのは言うまでもない。



 あれ程毛嫌いしていた自慰だったが、最初の一回をシてしまった後はまるでたがが外れたようにやみつきになった。勿論、最近構ってもらえなくて溜まっていたから、というのも大きな理由の一つではあったのだが。
「んっ、はぁっ……んんっ…………!」
 ソファーに座ったまま、左手で胸元を弄り、右手で秘裂を弄る。着ていた部屋着はその殆どを脱ぎ散らかしてしまい、ホックの外れたブラが胸の上に乗りショーツが片足に引っかかっているのみになってしまっていた。
「ぁっ、んっ……紺崎くぅ、ん……ンンッ!!!」
 ぶるぶると腰を震わせ、雪乃はイく。しかし、全身を満たす快楽とは別に、奇妙な物足りなさも同時に感じ始めていた。
(あぁっ……だめっ……やっぱり……紺崎くんじゃないと……)
 最初の一回の後に感じた後味の悪さ、罪悪感など最早吹き飛んでしまっていた。より集中して自慰を行うために爪まで切って、雪乃はそれこそ時を忘れて没頭した。
「はーっ…………はーっ…………んっ、んちゅっ、んっ……」
 白く濁った愛液が絡みついた指を、雪乃は息も絶え絶えにしゃぶりつく。しかしそれは到底、雪乃の求めていたものではありえない。
(はぁっ……ンッ……欲しい……紺崎くんの……精子……っ……精子、欲しい……)
 キュンキュンと下腹が痺れるように疼く。あのこってりとした、まるでゼリーのように濃い牡液が欲しくてたまらないと、脳髄が焦げ付きそうな程に急かしてくる。
(あぁ……だめ、だめよそんなの……避妊は、ちゃんとしなきゃ……)
 理性は、そう言う。しかしそれはあまりに弱々しい、“少数派”の意見だった。
(欲しい……欲しい…………精子、欲しい………………)
 息が詰まるほど強く抱きしめられ、ぐりぐりと子宮口に押しつけられた剛直の先端からこれでもかと特濃の子種が注ぎ込まれる瞬間を想像するだけで――否、思い出すだけで雪乃は全身が震えるほどの快楽に包まれ、容易くイッてしまう。
(あぁぁ……だめ……止まらない…………)
 太股を痙攣のように震わせながら、雪乃は津波のように連続でやってくる絶頂に翻弄される。しかしどれほどイッても決して雪乃が本当に求めているものは得られず、もどかしさばかりが募っていく。
(……紺崎くん……)
 この快楽には、決定的なものが欠けているのだ。絶頂を味わえば味わうほどにそのことを思い知らされる。行為を続けることに虚しさすら感じ、切なさで胸が一杯になっていく。
 それでも、雪乃は自慰を続ける己を止められない。何故なら、全身を包む快楽こそが紺崎月彦との絆を最も強く感じさせてくれるものだからだ。
(ううん、ダメ……もっと……もっと紺崎くんを……感じたい……)
 体をまさぐっていた手がもどかしく辺りをはい回る。そもそも、在るはずがないのだ。そのように都合良く、月彦を感じる事ができるものなど。
(あっ……)
 と、雪乃の思考が“それ”にたどり着いたのは偶然ではなかった。たまたま視界の端に止まった体育着入れによって触発された、至極当たり前の発想だった。
(紺崎くんの……体育着……)
 それも、使用済み。そのことが、今の雪乃にはたまらなく魅力的に感じた。それこそ、垂涎してしまいそうな程に。
(やだ……私、何考えてるのよ……そんな………………)
 自慰をすることには――認めたくはないが――慣れてしまった。しかしそれだけは、人としてやってはいけないことだと雪乃は思った。……思いながら、雪乃は這うようにして体育着入れに忍び寄り、その中身を掴みだしていた。
(だめよ……絶対だめ、こんな事……変態のすることだわ……)
 そう、これは一つの禁忌だ。一度踏み出してしまえば決して戻ることの出来ない道だ。雪乃は青のジャージを手にしたまま、たっぷり数分は逡巡した。
(だめ、だめ……だめよ……)
 理性では、してはいけないと解っている。解っているのに、止められない。雪乃は気がつくと、ジャージに顔を埋めるようにして思いきり匂いを嗅いでいた。
(紺崎くん……っ……)
 冬場の為だろうか。“匂い”は雪乃が想像したよりも残ってはおらず、全神経を集中させねばかぎ取れない程だった。……それは、月彦のクラスのその日の体育が一般的なマラソンやサッカーではなく、異例のマット運動で発汗量が極めて少なかったからという理由なのだが、勿論雪乃はそんなことまでは知らなかった。
 ジャージに微かに残る、男の体臭。それは本当にごく僅かなものだったが、今の雪乃をさらに興奮させるには十分なものだった。
(紺崎くん……紺崎くんの……匂い…………)
 すう、はあ。すう、はあ。雪乃はジャージが湿る程に息を荒げながら自慰の続きをした。ただ匂いをかぎ続けるだけに物足りなくなると、上着の袖の部分を体にこすりつけるようにしながら愛撫した。汗と、蜜でジャージは次第に濡れそぼり、色が変わっていく様がまた雪乃を猛らせた。それはさながら、月彦自身を自分色に染めていくかのような錯覚を雪乃に覚えさせた。

 くたくたになるまで自慰に耽って、そのまま泥のように眠った雪乃が眼を覚ました時には既に夜になっていた。
「…………うわぁぁ……」
 そして、居間の惨状を目の当たりにして過去十年で最高の自己嫌悪に雪乃は苛まれた。あまりの罪の意識に少し泣いてしまった程だ。ぐしょぐしょに汚れてしまったパジャマと下着、そして体育着を洗濯している時などはもう恥ずかしさの余り死にたくなった。
(ごめんね、ごめんね……紺崎くん……)
 月彦に詫びながら、完全に渇いた体育着を乾燥機の中から取りだし、きちんと畳んで体育着入れの中へと戻す。もし雪乃に普段の注意力があれば、この時に体育着の胸元に“紺崎”ではなく“静間”と刺繍が入っている事に気がついただろうが、その際に受けるであろうショックを鑑みると、むしろ気がつかない方が良かったのかも知れない。
 一連の作業が終わるや、雪乃は心身共に耐え難い疲れを覚えて倒れ込むようにしてベッドに潜った。何故だか得体の知れない寂しさが募って、毛布を丸めて抱きしめるようにして、雪乃は眠った。


 目が覚めたのは、日曜日の昼前だった。昨日散々一人でシて疲れていたせいか、“悪夢”に魘される事も無かった。
(………………アレは、一時の気の迷いだわ)
 思い出すと叫び声を上げて床を転げ回りたくなる為、雪乃は昨日の一件は記憶を封印する事に決めた。朝食をとった後は気を紛らわす為に、金曜日に借りたドラマを見て過ごす事にした。それは学園が舞台ではあるが教師と生徒の物語ではなく、生徒同士の恋愛を描いたものだった。四年ほど前、まだ雪乃が大学に在席していた頃にテレビ放送されたもので。当時はそれなりに評判が良く、雪乃自身も見てみたかったのだが生憎と卒業論文や取りこぼした単位のレポートなどと重なり、とてもテレビを見ている暇など無かったのだ。
 全十三話構成であり、雪乃は一気に見るつもりで全話を借りた。大まかな内容は生まれつきの持病の為長くは生きられない主人公が己の運命を悲観し、投げやりな学校生活を送っていた所を一人の教師との出会いによって変わっていくといったものだった。雪乃も実際見たことは無かったが、友人達の話から出だしのストーリーだけは知っていた。
(……女の教師だったら良かったのに)
 出だしでまずガッカリしたのは、主人公を諭し自分が顧問をやっている天文部へと誘った教師が男性であるという事だった。これが女教師であり、ゆくゆく主人公との禁断の恋に目覚めていくという話ならばより自分好みだったのにと、そんな事を考えながら雪乃は半ば惰性でドラマを見続けた。
 短命のさだめ故、光の速度ですら数億年という単位が必要な事もある宇宙の壮大さに主人公が惹かれるというのは、それなりに説得力もあった。また天文部顧問である件の教師自身も己の家庭に様々な問題を抱えているらしく、雪乃の好みとは外れてはいるが確かに見応えのある出だしのドラマには違いがなかった。二話の後半から出てきた、主人公以外の唯一の天文部員であり部長でもある女子生徒がまた性格が悪く、主人公に対する言動などは視聴者の全員を敵に回すのではなかいかという程に凄まじいものだったが、これもまた含みのある設定であり、雪乃は次第にストーリーに飲み込まれていった。
(……お姉ちゃん、まだ車返しにこないのかしら)
 そんな事を雪乃が思い出したのは、四話を見終わりさすがに小休憩をとろうかと思った時だった。雪乃は姉の携帯へと電話をかけてみたが矢紗美は出ず、仕方なく留守電の方に早く車を返しに来る様に伝言を入れる事にした。
 休憩をとった後、雪乃はドラマの観賞を再開した。序盤は教師と主人公、そして天文部長の女子生徒を中心に話が回り、部員不足による廃部の危機を必死の勧誘活動で乗り切り、またその際に入部した三名がこれまた一癖も二癖もある連中であったりと、少なくとも見ていて退屈はしなかった。中盤――五話辺りからは、どうも部長の女子生徒は顧問教師に想いを寄せているらしいという事が解り、反面主人公は苛烈な性格ながらもどこか心の弱さを隠しきれない女子生徒を慕うといった具合に、話に徐々にきな臭さが混ざり始めた。
 そしてとうとう八話では妻との離婚、子供の親権を巡る裁判にも負け愛していた息子娘達と引き離された顧問教師が酒の勢いもあり、女部長と肉体関係を持ってしまい、しかもその現場を主人公に見られたことで泥沼の三角関係に拍車がかかった。
 恩師への敬愛と片思いの相手への恋慕の狭間で主人公は苦しみ、混迷と失意の底で一人の女子生徒と関係を持ってしまう。相手は、廃部騒動の際に主人公に誘われて入った女子の天文部員だった。リストカットを初めとする様々な自傷癖を窘められた事がきっかけで主人公に想いを寄せ始め、距離を詰める切っ掛けとして天文部に入った彼女はこの機会をずっと伺っていたのだった。さらに、傷心の主人公の口から女部長と顧問の関係を知るや、それをさも口を滑らせたというような様を装って他の部員へと漏らし、恋敵の排斥を計ろうとする女狐っぷりは演技の秀逸さもあり、ドラマだと解っていても雪乃は怒りを感じてしまった。
(…………まるでお姉ちゃんみたい)
 昔から何度、姉に騙されたことか。目的のためならば手段を選ばない、大人の前で良い子を演じる事など当たり前、矢紗美がやった悪事をなすりつけられて何度冤罪で親に叱られたか知れない。
(……そういえば、まだお姉ちゃんからの返事が……)
 携帯はすぐ取れるよう、殆ど手元に置いてある。着信すれば気がつかない筈はないのだが、もしやと思って雪乃は着信履歴を見てみるが、やはり矢紗美からの着信は無かった。
(……もう日が暮れるのに、何してるのかしら)
 まさか、まだ件の“彼氏”とやらといちゃついているのだろうか。それは別に構わないのだが、車だけは返してもらわないと明日の朝の出勤に差し支えてしまう為、雪乃は焦れた。
 念のためもう一度矢紗美に催促のメールを送り、小休憩の後にドラマの続きを見る事にした。
 例の悪女が漏らした“噂”が学園中へと広まり、教師の辞任は最早時間の問題となりつつあった。主人公は己の口から全てが漏れてしまった事を激しく後悔し、その心痛のため持病が悪化、緊急入院してしまう。そして同時に発覚する、女部長の妊娠。悪女もまた、入院した主人公を献身的に看病するも、その心が今だ女部長に囚われたままであることを知り、さらに主人公の口から関係を持ったのはただの一時の気の迷いだったと告げられ、自傷癖が再発。リストカットからの出血多量が原因で意識不明の重体となってしまう。
(…………まだ二話……残ってるのよね?)
 あまりの展開に、雪乃はつい残りの話数を数えてしまった。うっすら覚えている限りでは、最後は大団円のハッピーエンドになるらしいのだが、少なくとも十一話を見終えた時点ではとてもハッピーエンドになるとは思えなかった。
(……ていうかこれ、星とか全然関係ないわね……)
 天文部が舞台という事になっているが、顧問教師が星の事を語ったのは第一話で主人公を説得する時のみであり、その後は合宿だなんだと部のイベントこそやってはいるものの、部員達がまともに天体観測をしているシーンすら皆無だった。
 ただ、生徒達を夜遅くまで学校に残らせる事のつじつま合わせとして天文部という設定が決められたのではないかと思いたくなるほどに、物語の本筋にその設定が絡んでこないのだ。
(…………まあ、面白いから、これはこれでいいのかもしれないけど……)
 何かモヤモヤとしたものを感じながら、雪乃は十二話のディスクをプレーヤーにセットする。
 ――インターホンが鳴ったのはその時だった。
「お姉ちゃん!?」
 雪乃は小走りに玄関へと駆け、ドアを開けた。瞬間、何かがどうと、雪乃の方へと倒れ込んできて、慌てて支えねばならなかった。
「たらいまー……おそくなってごめんねえ」
「お姉ちゃん!? どうしたの……まさか、酔ってるの?」
 矢紗美の様子はまさに、泥酔状態にそっくりだった。しかし、それにしては酒臭さは皆無。雪乃はひとまず矢紗美を玄関先に座らせ、外に置きっぱなしになっている紙袋――恐らく土産と思われる――を居間へと運び、最後に矢紗美に肩を貸すようにして居間のソファへと座らせた。
「はふー……もーだめ…………一歩も歩けない……雪乃、今夜はここに泊めてね」
「それはいいけど……一体どうしたの?」
 どう見ても、矢紗美の様子は尋常ではない。酩酊しているわけでもなく、しかしただ単に疲れが貯まっているというわけでもなさそうだった。全身はほんのり桜色に染まり、見ようによっては長湯した後のぼせているだけのようにも見える。
 雪乃の問いに、矢紗美は意味深に「んふふ」と笑った。
「“彼”とね、いっぱいエッチしちゃった」
「……………………ふーん、それは良かったわね」
 姉を気遣う気持ちが一気に冷め、雪乃はひどく冷淡な声で返した。
「もうね、ほんっっっっとスゴかったの。今日の昼から、さっきまで……殆どずっとイかされっぱなし。“彼”ったらぎゅうって私の体抱きしめたまま、全然離してくれないんだもの……だから、車返しに来るのこんなに遅くなっちゃった。ごめんね、雪乃」
「……ふーん。私の方はずーっと家に居っぱなしよ。お姉ちゃんが自分の車のキーおいていってくれなかったから、どこにも出かけられなかったし」
 嫌味のつもりで口にしたが、矢紗美は聞いちゃいない様子。
「その前にも……土曜日の夜にも殆ど夜通しシたのに、“彼”ったらホントに絶倫で困っちゃうわ。……よっぽど溜まってたみたい。今日だって、私がダウンしなきゃまだまだシたくて堪らないみたいだったし」
「……何よ…………それくらい……紺崎くんだって……」
「多分、“本命の彼女”がよっぽどエッチが下手か、全然満足させてくれないのね。最初はそれこそ、飢えたケダモノみたいに求められて、少し落ち着いた後はベッドに移ってあまぁ〜いエッチで半日近くずーっとイかされ続けて、なんだか魂が半分抜けちゃったような気分…………事故起こさなくてほんと良かったわぁ」
 うっとりと余韻に浸るように潤んだ目をする矢紗美に、雪乃は少なからず嫉妬してしまった。無意識のうちに握り拳まで作りながら、きっと姉の言葉は殆どが誇張だと思う事で心の平穏を保つしかなかった。
(……何よ……お姉ちゃんの“彼氏”がどんなにスゴいか知らないけど、紺崎くんのほうが絶対スゴいんだから)
 姉は知らないのだ。あの子の――紺崎月彦の本性を。文字通り肉の槍のような巨根は言うに及ばず、人並み外れた絶倫っぷりは年上である自分にただの一度もリードを許してくれない――少なくとも、雪乃自身は月彦をリードできた事はないと思っている――のだ。
(そりゃあ……私は紺崎くんしか知らないし……もしかしたら“アレ”が普通なのかもしれないけど……)
 ただ、もしそうだとしたら――“アレ”が普通なのだとしたら、真に絶倫の男性というのはどれほどのものなのだろうか。下手をすれば責め殺されてしまうのではないかと雪乃は思う。
(そうよ……絶対普通じゃないわ。…………普通じゃない筈よ)
 自分の彼氏の方がスゴいに決まってる――そういう見えも相まって、雪乃は決して月彦が矢紗美の彼氏に劣っているとは思いたくなかった。
「……ああそうそう、忘れないうちに返しておくわね。あと私の鍵は――って、あら、ついたままだわ」
「……さっき、お姉ちゃん鍵置いていってなかったって言ったじゃない」
 余程浮かれていて、脳味噌ピンクな状態なのだろう。雪乃はひったくるようにして自分の車の鍵を矢紗美の手からもぎ取った。
「…………車、汚したりしてないでしょうね」
 じとりと、睨み付けるようにして雪乃は問いただす。たとえ矢紗美が汚してないと言い張ったとしても、隅の隅まで自分でチェックするつもりだった。
「だーいじょうぶ。ちゃんと毛布しいてシたし、毛布は今うちのお風呂場だし、消臭剤もたーっぷり撒いといたから“残り香”が気になる事は絶対に無いわ」
「………………やっぱりシたのね」
 貸す段階で既に解っていた事だったが、気分が悪くなるのは否めなかった。自分の車の中で、他人がセックスをした――それはさながら、一種の侵略のように雪乃には感じられた。
「だって、しょうがなかったのよ。山道走ってたら雪がすんごい降ってきちゃって、このままじゃ滑って事故起こしそうだから〜って車止めて様子見てたら、“彼”がシたいって言いだしちゃって」
「雪って……ちゃんとチェーン積んでたでしょ? 使わなかったの?」
「あるのは知ってたけど、あれってつけるのも外すのも面倒臭いじゃない。それにほら、私もエッチ嫌いじゃないし、元々そのつもりで毛布も積んでたんだし」
「………………全然しょうがなくなんかないじゃない」
 我が姉の事とはいえ、雪乃はため息を禁じ得ない。そして、自分も他人から見れば似たようなものであるという自覚は無かったりする。
「ああそうそう、雪で思いだしたわ。雪乃…………あの店潰れてたわよ」
 ちゃらちゃらと、手の中で家の鍵を弄びながら、矢紗美が不意にそんな事を言った。
「あの店……ってどの店?」
「ほら、何年か前に海に遊びに行った時、帰りの山の中で酷い店に入った事があったじゃない?」
「あぁ……あの不味くておまけにボッタクリのうどん屋?」
 雪乃ははたと、記憶を蘇らせた。美味しい牡蠣を食べに行こうという姉の言葉に唆されて日帰りの小旅行をした帰りに寄った店で酷い目にあったのだった。
「そそ。外観はおしゃれな喫茶店みたいなのに、入ってメニューみたらうどんしかなかったのよね」
「しかもかけうどん一杯八百円とかで、麺はやたら硬くて像のお尻みたいな舌触りの上、スープはただ塩辛いだけ。あれは最悪だったわ……」
「お昼の牡蠣が美味しかっただけに不味さが余計に際立ったわね。潰れてるの見てせいせいしちゃった」
「まあ、当然よね。どうせあんな所に店を構えるんだったら、水車で挽いた小麦を使ったパンを出すおしゃれなペンションとかにすれば良かったのに」
「まったく同感だわ」
 矢紗美はくすくすと笑みを零しながら、手の中でちゃらちゃらと音を立てながらキーホルダーを弄ぶ。まるで、アピールするかのように。
「…………話は変わるけど、雪乃。あんたさー……紺崎クンにプレゼント貰った事ある?」
「な、何よ急に………………ぷ、プレゼント……くらい、貰ったことあるわよ」
「ふぅん…………何を貰ったの?」
 ちゃらちゃらとキーホルダーを弄びながら、矢紗美がにじりっ……と上体を乗り出してくる。
「そ、それは…………と、あ、アクセサリー……とか、あと……色々……」
 まさか本当は貰ったことがないとは言えず、咄嗟に嘘が口から出た。ここに来て、雪乃は痛い事実に気がついた。そう、自分はまだただの一度も月彦に贈り物を貰った事がないという事に。
(おそろいの貯金箱……は、あれは……私が買ったものだし…………紺崎くんが買ってくれたものって…………)
 どれほど記憶を探っても、月彦に何かをプレゼントされた覚えは無かった。その事実が雪乃にはとてつもなくショッキングであり、顔から血の気すら失せてしまった。
(私と……紺崎くんの関係って……何、なの……?)
 とすら、雪乃は思った。たまにデートをしてエッチをするだけで、毎日顔を合わせているのにろくな会話も無く、贈り物ひとつ貰った事がない。それで果たして恋人同士と言えるのだろうか。
「ふぅん……本当かしら」
 まるで雪乃の強がりなど見透かしているかのように、矢紗美が猫のような笑みを見せる。その手の中で先ほどから弄ばれているキーホルダーと鍵のちゃらちゃらとした音が、雪乃には次第に耳障りに思えてくる。
(何よ……自分は貰った、ってそう言いたいの?)
 矢紗美の手の中にある鍵、それについているピンクの巻き貝のキーホルダーには見覚えが無かった。“彼”からの贈り物としてほぼ間違いはないだろう。
(あんなの……ただの安物のキーホルダーじゃない)
 そう、恐らくはほんの数百円で買えるであろう、ただの安物のキーホルダー。しかし、そんな安物すら、自分は月彦に貰った事がない。
(違うわ……紺崎くんは学生で、お小遣いとかも少ないから……)
 だが、本当にそうなのだろうか。本当に好きな相手がいるのなら、なけなしの小遣いを貯めてでもプレゼントをしたいと思うのではないだろうか。
(ううん、そんなのおかしいわ。プレゼントを貰ったかどうかだけで、想いの強さを計るなんて……間違ってる)
 そう、間違っている筈だ――しかし、矢紗美を羨ましいと感じている自分の心に、雪乃は嘘をつけなかった。その手の中にあるピンク色の巻き貝が羨ましくて、そして憎たらしくて仕方がなかった。



 
 姉と共に一晩過ごし、翌朝雪乃は通常通り学校へと出勤――もちろん、出発前に車の中は入念にチェック済み――した。結局、件のドラマはあの続きを見る事が叶わなかった。というのも、テレビに映りっぱなしになっていたタイトル画面を見て矢紗美が懐かしいと言い出して最初から見始めてしまったからだ。
(……まぁいいわ。……ヒントは貰ったから)
 ドラマの結末が些か気にはなったが、雪乃はそれ以上の収穫を得て密かに満足していた。それは、一晩悩んで、そして結論を出した事柄だった。
(私も部活の顧問教師になっちゃえばいいのよ)
 まだ赴任して間もなかった頃、同僚の男性教師の手伝いで過去の部活動の記録や資料の整理を行った時の事を雪乃は思い出した。それは過去、どのような部が存在し、どのような賞を受け、そして部員不足や問題行動などで廃部となったかを記した書類だった。当時はなんとも思わず、同僚の男性教師の色目が兎に角不快で話も半分以上聞き流していたが、それでもいくつか覚えている事はあった。
 それは、“部を創設するだけ”ならばよほどのことが無い限りは簡単に作る事が出来るという事だった。最初に部を立ち上げる際に活動目的や意義などを原稿用紙数枚にまとめて提出するだけで、基本的には部を立ち上げる事は出来る。但し、それはあくまで仮のもので正式な部として学校側に認めて貰い、予算などを得る為には“顧問を引き受けてくれる教師を見つけ、さらに三ヶ月以内に部員を五名以上集めること”が必要ではあるものの、部員が足りなくても顧問の教師が居るのならば部室を手に入れる事も可能ということだった。
(……そうよ、なんでこの事に気がつかなかったのかしら)
 その発想を得た時、文字通り雪乃は小躍りして喜びたい気分だった。余程奇天烈な活動内容のクラブでない限り、生徒が望めば創設は可能。顧問の教師が居れば部室も貰える――ただしこれはあくまで空いている部屋があることが前提条件――そして、“部員が五名に満たなくても三ヶ月はその状態を維持できる”というのが、さらに喜ばしい所だった。
 つまり裏を返せば、誰に気兼ねすることなく放課後の密室で月彦と二人きり、好きなだけイチャイチャし放題という事ではないか。
(……学校内でイチャイチャするのは……ちょっと気が引けるけど……)
 最早そんな事は言っていられなかった。もっと、今以上に月彦と距離を詰め、理想の恋人関係に持ち込む為には多少強引な手を使うしかないと雪乃は思った。
(だってそうしないと……また…………)
 通勤途中の車内で、雪乃は“土曜日の一件”を思いだして顔を赤くする。あれは一時の気の迷い。一人孤独に休日を過ごさねばならない寂しさからの暴走。即ち、かまってくれない月彦が悪いのだと、雪乃は責任転嫁することで良心の重圧から逃れていた。
(…………きっと、紺崎くんも賛成してくれる筈だわ)
 月彦とて、なかなか二人きりになれない今の現状をもどかしく思っているに違いない。きっとその筈だと、雪乃は思っていた。

 学校に着くなり、何を置いても雪乃は真っ先に月彦の姿を捜した。幸い、というべきか。月彦のクラスの近くを通りがかった際に丁度登校してきたらしい月彦の背が見え、雪乃は一も二もなく声をかけた。
「紺崎くん……ちょっといいかしら?」
 ギョッと身を竦ませる月彦の返事を待たずにその腕を掴み、雪乃は人目も憚らずに生徒指導室へと連れ込み、肩を押さえつけるようにしてパイプ椅子へと座らせた。そこで雪乃は、己の“忘れ物”に気がついた。
(やだ……紺崎くんの体育着……車の中に置きっぱなしだわ)
 部活の件を話さなければと、そのことばかりを考えていて失念してしまっていた。雪乃は月彦にしばし待つように言って、小走りに車まで戻り、体育着入れの入った紙袋を手に大急ぎで戻った。
「待たせちゃってゴメンね、紺崎くん。…………はいこれ、金曜日体操着忘れてたでしょ」
 紙袋に入った体育着入れを手渡すやいなや、えっ、と。月彦が驚いたような顔をする。そして続いて月彦が言った言葉に、今度は雪乃が驚いた。
「……あの、先生……俺のはここにあるんですけど」
「……え?」
 雪乃は、月彦が持っているもう一つの体育着入れへと目をやる。何故、この場に二つの体育着入れがあるのだろうか。
「ほら、ここ……胸の所に“紺崎”って刺繍入ってますし……第一、俺は金曜日ちゃんと体育着持って帰りましたよ」
 確かに、月彦の言うとおりだった。体育用のジャージの胸元にはそれぞれ持ち主を示す名前が刺繍されており、月彦のそれには間違いなく“紺崎”と書かれていた。
 ざわりと、背筋に寒気が走った。
「そんな……だってこれ、紺崎くんの席の所にあったのよ?」
 わなわなと震える手で雪乃は紙袋を受け取り、そして月彦と同じく胸元にある小さな刺繍の文字を見た。その瞬間、目の前が真っ暗になった。
「……“静間”って書いてありますね。和樹のだ、これ……」
「そんな……どうして…………」
 よろよろと、雪乃は目眩すら覚えて後ずさりし、そのまま壁に凭れるようにしてずりずりと尻餅をついてしまった。
「私……紺崎くんのだと思って――」
 一昨日の自分の所業を思いだして、雪乃は二重のショックを受けた。そもそも、月彦の体育着であんなことをしてしまった事自体、消し去りたい過去だというのに。しかもそれが実は他の男子のものだったなんて。
(やだ……気分が……)
 吐き気にも似たものが混み上がってきて、雪乃は咄嗟に口元を抑えた。そんな雪乃の姿を、月彦が訝しげに見ていた。
「………………先生、ひょっとして……忘れ物の体操着で……何か変なことしたんですか?」
「…………っっっ……!!!!」
 雪乃はびくりと、バネ仕掛けのように咄嗟に立ち上がり、ふるふると首を横に振った。その挙動がすでに“何かをしてしまった”と示してしまっているわけだが、当の雪乃にそんなことに配慮をするゆとりは無かった。
「……先生、和樹のジャージで一体何をしたんですか?」
「ち、違うの……私はただ……紺崎くんと仲直りしたくて…………だから……」
 ここに至って雪乃は“当初の目的”を思いだしていた。そうなのだ、そもそも金曜日の授業で月彦とは気まずい事になってしまっていて、その仲直りの為に自分は体育着の洗濯をする事にしたのだという事を。
「……そういうことなら、俺も先生と同じ気持ちです。…………先生、あの時は本当にすみませんでした」
 月彦のそんな言葉が、パニックに陥りかけた雪乃の思考を幾分正常に戻した。
(あぁ……やっぱりそうだったのね、紺崎くん。私にはちゃんと解ってたんだから)
 何か理由があったのだろうと思った自分のカンはやはり正しかったのだ。
「ちょっと……説明がすごく難しいんですけど、あの時はどうしても席を立ちたくなかったんです。……だから、あんなワケわかんない事言って……本当にすみませんでした」
「こ、紺崎くんの様子が変っていうのは、私にも解ったのよ? だけど……それがどうしてなのかわからなくって………………席を立ちたくなかったって、どうして?」
 元より怒っていたわけでもなく、月彦がすみませんと謝るのならば雪乃としては蟠りなど一切残すつもりはなかった。だから純粋な好奇心で、雪乃は尋ねた。
「ああっ、そうか。俺のクラス、帰りのHRの時に席替えやったんですよ。だから、前の俺の席があった場所に下がってた体操着を先生が俺のと間違えちゃったんですね」
 しかし月彦は答えず、巧妙に話題をすり替えてきた。雪乃としても、“何故体育着が入れ替わったのか?”という謎が解けて奇妙な安堵を得た。が、安堵していられたのも数秒が限度だった。
「え……あの席、紺崎くんの席じゃなかったの……?」
 雪乃はまたしても思い出した。金曜日の放課後、自分があの席で何をしたか。寂しくて、構ってほしくて堪らなかったとはいえ、自分はなんてことをしてしまったのだろう――そのことが気恥ずかしくて堪らなくて、雪乃は月彦の方をまともに見れなかった。
「……と、とにかく、これは俺が和樹に返しておきますね。……なんか俺がお礼を言うのも変な気がしますけど、和樹の代わりに言っときます。洗濯、ありがとうございました」
「あっ、待って! 紺崎くん!」
 このまま別れてしまっては、何のために月彦を捕まえたのか解らなくなってしまう。勿論、体育着も返さねばならなかったのだが。
「あの、先生……本当にもうホームルームが始まっちゃうんですけど」
「解ってるわ、解ってるの……だから、先に用件だけ言うわね。詳しいことはまた放課後話し合いたいから、紺崎くんも今日の放課後は空けといてね?」
 まさか嫌とは言わないでしょうね?――とばかりに、雪乃は強引に迫り、“本題”を口にした。
「あのね、紺崎くん。……部活、入ってみない?」



「……なんか机が香水くせえ……」
 大急ぎで教室に戻ると、和樹がくんくんと鼻を鳴らしながら首を傾げているのが見えた。
「丁度良かった、カズ。お前金曜体育着忘れて帰ったろ」
「ん? 別にありゃ忘れたんじゃなくて持って帰るのが面倒――……なんだこりゃ。うぷ……これも香水くせえ……」
「お前の事が好きな女の子Aから渡してくれって頼まれたんだ。それが誰かは詮索するなよ」
「お、おい! ちょっと待てよ!」
 食い下がる親友を強引に引きはがして、月彦は八方全てを女子に囲まれた己の席へと戻る。丁度担任が教室にやってきた所であり、ホームルームが始まる中、月彦は一人思案に耽った。
(…………部活……って……)
 一体何がどうなって雪乃がそんな事を言い出したのか、月彦には全く解らなかった。雪乃の口ぶりから察するに、放課後になればきちんと説明してもらえるのだろうが、どうにもろくでもない事になりそうな予感がしてならなかった。
(……いっそ早退してしまおうか)
 そんな消極策に一瞬逃げそうになってしまうが、そんな事をしても何の解決にもならないことは分かり切っていた。
 月彦に出来る事は戦々恐々としながら放課後を迎える事のみだった。

 帰りのホームルームが終わるなり、月彦は朝同様雪乃に捕まり、半ば拉致同然の形で生徒指導室へと連れてこられた。
(……先生いつになく強引だな…………“溜まってる”のかな)
 パイプ椅子に座らされ、折りたたみ式の長テーブルを挟んで雪乃もまた着席する。どういうわけか、雪乃はずーっと満面の笑顔を浮かべているわけだが、その笑顔が逆に月彦には怖かった。
「……紺崎くん、部活の件考えてくれた?」
 いきなり雪乃にそのような事を聞かれ、月彦は答えに窮した。
(考えるもなにも……)
 そもそも一体何部に入れというのかも知らされず、考えるもなにもないと月彦は思う。
「えーと、そのことなんですけど……先生、どういう事なのか順を追って説明してもらえますか?」
「うん、そのつもりで紺崎くんに来て貰ったのよ。……まずね、紺崎くん。……最近常々思うんだけど…………私達もうちょっと距離を縮めた方がいいんじゃないかしら」
「ど……どういう、意味ですか?」
「つまり、ほら……ね? もうちょっと二人きりの時間を増やすべきなんじゃないかなーって、私は思うワケ」
 照れているのか、ほんのりと頬を赤らめながら雪乃はそんな事を言う。
「……俺は別に今のままでいいと思――」
「紺崎くん!」
 ばんっ、と雪乃が机を叩き、月彦は強制的に発言を中断させられた。
「…………私のお姉ちゃん、覚えてる?」
「えっ……」
 ひやりと、肝が冷えた。
(なんで……いきなり矢紗美さんの話なんだ……?)
 まさか、バレてしまったのだろうか。ドキドキと心臓が高鳴り、嫌な汗が全身から噴き出すのを感じながら、月彦は必死に平生を装った。装いながら、いつでも逃げられるように下半身に力を込める。
「ええと……矢紗美さん……ですよね。勿論覚えてますよ」
「金曜日の夜、お姉ちゃんに車貸して欲しいって頼まれたの。デートに使うからって」
 どきどきどきどきぃぃぃ!!!――心臓が口から飛び出てしまうのではないかという程に跳ねさせながら、月彦は手のひらにじっとりと汗を滲ませ、早くも腰を少し浮かせた。
『お姉ちゃんのデートの相手って、紺崎くんでしょ?』――雪乃の口から今にもそんな言葉が続きそうで気が気でなかった。
「私のお姉ちゃん、ああ見えて見かけ通りの人でさ。ずーっと男遊びばっかりしてたんだけど、この間一緒に飲んだときに珍しく真剣な顔して、本気で好きな人が出来たーとか言い出したのよね。土曜日のデートの相手っていうのがその人みたいでさ、浮かれたりなんかしちゃって、あんなに嬉しそうなお姉ちゃん、初めて見ちゃったかもしれないわ」
「へ、へぇ……そうなんですか」
 どうやら、これは大丈夫なのか?――しかしまだまだ安心はできないと、月彦は引き続き気を引き締める。
(……しかし矢紗美さん……ひょっとしたら俺の前だけの演技なんじゃないかって思ってたけど……そうじゃなかったのか)
 自分の前だけではなく、雪乃の前でもそうなら、真実“変わった”のかもしれない。――そう考えると、月彦は胸の奥に刺すような痛みを感じた。
「それでね、私……思ったの。…………私も紺崎くんともっと仲良くなりたいなぁ……って」
「えーと、脈絡がよく解りませんけど……別にそんなに無理して距離を縮めなくってもいいんじゃないですか?」
 果たして矢紗美の話の前フリは必要だったのだろうか。それとも何か探りをいれられているのだろうか。
 愛娘とその母親に散々騙されてきた月彦は必要以上に真剣に雪乃の言葉を吟味し、その裏に隠された意図を知ろうと試みる。受け答え一つミスっただけで雪乃に刺されかねないとなれば、尚更だった。
「俺としては今まで通り、時々のデートを思いきり楽しむスタイルの方が――」
「それじゃあダメなの!」
 ばむっ、とまたしても机が叩かれる。
「ねえ紺崎くん。……私ね、時々怖いの。夜とか、家に一人で居るとね、なんだかこのまま紺崎くんの心が離れていってしまうんじゃないかって、もの凄く不安になるの」
「そんな……それはただの気のせいですよ。俺は……先生の事、好きです。そう簡単に心が離れたりなんてしません」
「…………言葉だけじゃなくて、ちゃんとした証が欲しいの。ううん、証って言うより、絆。……紺崎くんとの絆が欲しいのよ」
「絆……ですか……」
「だから、部活なの。紺崎くん、知ってる? うちの学校って、生徒が嘆願すれば基本的にどんなクラブでも作れるのよ?」
「へぇ……それは知りませんでした。………………って、作る……?」
「そ、私と紺崎くんの二人で作るの。……新しい天文部を」


 学校からの帰り道、月彦は憂鬱だった。原因は勿論、雪乃によって持ちかけられた無理難題のせいだ。
『本当に作るかどうかの最終的な判断は紺崎くんに任せるわ。もし天文部以外に紺崎くんがやりたい部活があるのなら、私はそれでも全然構わないし』
 そう、あくまで自由意志に任せる。任せるとは言いながら、まさかNOとは言わないでしょうねと、言外のプレッシャーを月彦はたっぷり浴びせられた。雪乃が予め用意していたらしい、クラブ新設の為の用紙と、その活動内容や意義などを書き込む為の原稿用紙まで渡されて、容易に断る事など出来ない状況にされてしまった。
(部活……かぁ……)
 雪乃の狙いは薄々月彦にも解っていた。要は二人きりで会う切っ掛け――それも習慣的なものが欲しいのだろう。クラブを創設し、部長と顧問教師という関係になれば否が応にも顔を合わせる回数は増える。その上天文部となれば、その活動内容上夜遅くまで学校に残っている事も増えるだろう。
『今日はすっかり遅くなっちゃったから、帰りは送ってあげる。…………ついでに一緒に晩ご飯でもどう?』――そんな流れでお持ち帰りされてしまう自分の姿が容易に想像できてしまい、月彦はつい苦笑を漏らしてしまった。
(……まぁ、先生があんなに乗り気な以上、無碍には断れないよなぁ……)
 とはいえ、部活動については容易くやりますと承諾できない事もまた事実。特に姉がなんと言うか、それが月彦には気がかりだった。
(……でも、ちゃんとした部活じゃないし……)
 あくまで、雪乃との密会のための隠れ蓑だということは月彦にも解っている。ただ、そうだと解ってはいても、部活をやるという事に躊躇いを禁じ得ないこともまた事実。
(…………こうなったら、賭けに出るか)
 月彦は悩みに悩んだ末、運を天に任せる事にした。

「真央、久々にどうだ? 一緒に風呂でも」
「ごめんなさい、父さま。今日は一人で入りたいの」
 最早定番と言っていい断り文句。『ごめんなさい、父さま。〜なの』で真央は一も二もなく断り、着替えを持ってさっさと階下へと降りてしまう。月彦はそんな真央を別段咎めもせず見送り、風呂もいつも通り一人で入った。夕食を済ませ、部屋へと戻り、そして再度月彦は誘いを持ちかけた。
「まーおっ、今日くらいはいいだろ?」
 湯上がりパジャマ姿の愛娘の体を背後から抱きしめるようにして、そのたわわな胸元をむぎうっ、と掴む。
 ――が。
「……止めて、父さま。明日も学校だし、それに今日は体育もあってすごく疲れてるの」
 真央はひどく冷めた声で言い、ぺちんと打ち払うようにして月彦の手を退け、一人でさっさと布団に潜ってしまった。
(……なるほど、あくまでそういう態度を貫くのか。わかった、それでいいんだな?)
 月彦の腹は、この時決まった。


 部の創設は、雪乃の言った通りひどく簡単なものだった。用紙に必要事項を書いて提出し、活動についての簡単な注意事項、問題ととられる行為などなどを学年主任の教師から説明をされ、さらにそれらが書かれたプリントを渡された後、正式な部となるためには他に部員を最低四人集めなければならない事などを告げられた。
「あと他に解らないことがあったら、顧問の雛森先生に訊きなさい」
 学年主任は面倒くさそうにそう言い、それでどうやら全ての手続きは完了したらしかった。
「おめでとう、紺崎くん!」
 職員室を出るや否や、月彦は満面の笑みの雪乃に肩を叩かれた。
「…………本当に簡単なんですね。部を作りたい理由とか、かなり適当に書いちゃったんですけど……」
「私の方からも、紺崎くんがどれだけ熱心に天体観測をしているかたっぷり伝えておいたからね。ああそうそう、部室の方もちゃんと私がゲットしておいたから」
「部室……も貰えるんですか?」
「今は文化系の部室は余ってるらしいの、放課後は早速部室の掃除ね」
「……べ、別にそんなに急いで掃除をしなくても――」
「ダメよ! すぐに掃除するの! 私も出来るだけすぐに行くから、紺崎くんもホームルーム終わったらすぐ部室に来るのよ? 場所は部室棟の三階の角、屋上への階段のすぐ隣だからすぐ解るわ。……そうそう、これも渡しとかなきゃ」
 ごそごそと、雪乃がスーツのポケットからちゃらりとした鍵の束を取り出す。
「はい、部室の鍵。スペアは私が持ってるから、勝手にコピーして人に渡したりしちゃダメよ?」
「はぁ……わかりました」
 月彦は鍵を受け取り、無くさぬよう家の鍵と同じキーホルダーに取り付ける。
「じゃあ、そういう事だから。放課後、ちゃんと部室に来るのよ? いいわね?――ああそうそう、部室の中に入ってるものは好きにしていいらしいから、使えそうなもの以外は全部捨てちゃっていいから」
 そこまで一息に言って雪乃は漸く満足したらしく職員室の中へと戻っていく。その後ろ姿が見えなくなってから、月彦は小さくため息をついた。
「……さて、何かパンでも買って食べるかな」
 腕時計に目をやると、昼休みは残り十分弱しかなかった。


 放課後、月彦は一人部室棟へと赴いた。部室棟というのは、教室などがある校舎とは別に敷地の一角に立てられた建物を指す名称だった。ちょっとしたアパートほどの大きさで中央部は中庭兼吹き抜けとなっており、丁度四角いドーナツを積んだような形をしていた。出入りの頻度を考慮してか、下の方の部屋ほど運動部が多く、逆に最上階は全てが文化系の部室になっていた。
(……結構空き部屋が多いな)
 部室棟を歩きながら、月彦はそんな事を思った。最上階などは半分ほどの部屋がプレートなし、即ち使われていない部室となっていた。
(……天文部…………ここだ)
 屋上へと続く階段の脇の部室、と雪乃は言った。そこには早くも新品のプレートに“天文部”と書かれていた。月彦はドアの鍵を開け、恐る恐る中を覗いてみた。
「……うわぁ」
 ドアの向こうは、“快適”という単語に真正面から喧嘩を売るような凄まじい光景が広がっていた。元々何かの部活が使っていた部屋が廃部と同時に物置にでもされたのか、中には正体不明の廃材やら毛布やら工具類やらが乱雑に置かれ、それらの上からたっぷりと埃が積もり、少なくとも月彦はマスクなしでは一歩も踏み入りたくはなかった。
(これは……大仕事だ。一端着替えてきた方が良さそうだな)
 叶うことならば力自慢の友人に助力を願いたかったが、事が事だけに頼むわけにはいかなかった。まさか部長になってしまった等、和樹や千夏には口が裂けても言えないからだ。

 月彦は一度教室に戻り、ジャージに着替えてから改めて部室の掃除に着手した。お隣さんらしい新聞部の部員に粗大ゴミなどの捨て場所などを尋ね、時々手伝ってもらったりしながらまずは廃材から片づけていく。
 一時間ほど経った頃雪乃がやってきて、同じく中の惨状を見るなり凍り付いた。
「先生も着替えてきたほうがいいですよ。そんな格好で中に入ったら――」
「………………構わないわ。第一、着替えなんて持ってきてないもの」
「えっ、でも……ちょっ、先生!?」
 雪乃は口元にハンカチを巻き付けるや、スーツに埃が付着するのも構わず中へと踏み入り、次から次に廃材を運び出していく。
「ほら、紺崎くんもぼけっとしてないで手伝って! てきぱきやらないと今日中に終わらないわよ!?」
「は、はい……」
 鬼気迫るような雪乃の迫力に押されながら、月彦は雪乃が外に持ち出した廃材や毛布、テントの骨組みなどを中庭の片隅にある粗大ゴミ置き場へと運んでいく。そのたびに三階分の階段を上り下りせねばならず、中に積まれていたゴミを片づけ終わった時には両足が笑って立っているのもままならない状態だった。
「ふーっ……次は雑巾掛けね。これが終わればあとは大分マシになる筈よ」
 雪乃の指示のままに月彦はバケツに水を汲み、二人で手分けして雑巾掛けを始める。埃の量が凄まじく、一度拭くたびに雑巾の面を変えねばならない程だった。バケツの水もすぐに真っ黒に変わってしまい、そのたびに水をくみ直し、どうにかこうにか壁と床を拭き終えたのは七時を回った頃だった。
(…………いつかの引っ越しの時とはえらい違いだ)
 てきぱきと、働き者の見本のように動く雪乃を見ながら、月彦はそんな事を思った。それは同時に、今回の天文部創設に雪乃がどれだけ意気込んでいるかの表明でもあった。
「……とりあえず今日はこんな所かな。あとは明日、机とか椅子とか運び込んだらもう立派な天文部ね」
「天文部に見えるかどうかは兎も角、部室っぽくは見えそうですね。…………でも机とか椅子ってどこから持ってくるんですか?」
 廃材やゴミなどをどかし終えた部室は、思いの外広く見えた。とはいえ、せいぜい十二畳ほどのスペースにちょっとした戸棚と備え付けのエアコン、ホワイトボード、窓が一つあるだけの部屋は、まだただの空き部屋にしか見えない。
「それについてはアテがあるの。明日を楽しみにしててね、紺崎くん」
「はぁ……期待してます」
「…………気がついたらもうこんな時間ね。……紺崎くん、帰り送ってあげようか?」
「……………………そうですね。今日はほんと疲れちゃいましたから……お願いします」
 忽ち、雪乃が笑顔になる。さも、“早速効果アリ!”と言いたげな笑顔だった。
「お腹も空いたんじゃない? 折角だから帰りにどこかで一緒にごはんでも食べる?」
「それも悪くないんですけど…………先生、その格好じゃあお店とか入れないんじゃないですか?」
 己の体が汚れる事など全く頓着せずに掃除に勤しんだ結果、雪乃は灰被り姫ならぬ埃被り姫状態になっていた。到底、外食など出来る状態ではない。
「うっ…………だ、だったら一回うちに帰って着替えてからとか……ううん、いっそ出前とかでも――」
「さすがにそこまでは……そういう事はまた今度にとっておきませんか?」
 月彦としても、さすがにここまで疲労困憊した後、雪乃とのベッドインは――きっとそれでも、いざとなれば自分はケダモノになってしまうのだろうが――避けたかった。
「そ、そうね……残念だけど……じゃあ、とりあえず私は車の所で待ってるから」
「はい、着替えたらすぐに行きます」
 月彦は体を叩いて埃を落とし、一端教室に戻り着替えてから雪乃と合流した。帰りの車の中、雪乃は終始上機嫌だった。



「……一応、部員が足りないわけだから、募集している真似事くらいはしないといけないのよ」
 翌日の昼休み、月彦は昼食をとろうとしていた矢先校内放送で呼び出され、雪乃と共に中央階段の掲示板の前に立っていた。
「はぁ……しかしこれ、新入部員お断りと言わんばかりの大きさと内容ですね」
 雪乃が用意したプリントはA4サイズでもB5サイズでもなく、ハガキほどの小さなわら半紙に“新入部員求む(但し入部試験あり) 希望者は天文部部室まで”とだけ書かれていた。入部希望者は天文部部室に来いと書いてあるくせに、部室の場所すら明記されておらず、その上入部試験もあるとまで書かれてはまず入りたいと思う生徒は居ないだろう。
「そういうわけだから、一応紺崎くんもこのプリントを西側の階段の掲示板に貼っておいてくれる? なるべく目立たない所に、ずぐ剥がれ落ちそうな感じで」
「はぁ……解りました」
 じゃあ、私は東側の階段に貼ってくるからと、雪乃が意気揚々とその場を後にする。正直、こんな用件の為に一々呼び出さないで欲しいと月彦は思ったが、雪乃の嬉しそうな顔を見るとなかなかそんな事は言えなかった。

 放課後には、昨日同様雪乃と二人で部室へ様々な道具類を運び込んだ。折りたたみ式のテーブルに、パイプ椅子。それらとは別に木製のいやに豪奢な作りの机(雪乃曰く部長用)に肘掛けつきの回転椅子、革製のソファ等々。そして、肝心要の天体望遠鏡を運び込み、どうにかこうにか見た目だけは天文部室らしくなったわけなのだが。
(はて……この家具の配置……どこかで見たことあるぞ?)
 部屋の奥の窓を背にする形で机と肘掛けイスが置かれ、その前に横長の低いテーブル、その脇に革張りのソファという配置に妙なデジャヴを覚えるも、一体自分がどこでそれを目にしたのかハッキリとは思い出せなかった。
「…………先生、こんなソファ一体どうしたんですか?」
 ソファの座り心地を確かめながら、月彦はつい疑問を口にした。もっとも、月彦自身職員室側の物置から雪乃と二人で苦労して運んできたわけで、どこにあったかは知っている。雪乃に尋ねているのは、そういう意味ではなかった。
「このソファも机も、元は校長室にあったやつなのよ。去年、校長室の模様替えやった時に捨てるのも勿体ないからって物置に入ってたのを貰ってきたの」
「はぁ……道理でこの椅子も……」
 月彦はソファから腰を上げ、今度は肘掛け椅子のほうへと座る。元は校長室の椅子となれば、それなりに値が張る代物なのだろう。座り心地は抜群だった。
(ああ、そうか。校長室の配置に似てるんだ)
 校長室に入った事など一度あったか無かったかくらいだが、確かこのような感じだったと月彦は思い出していた。
「紺崎くん、紺崎くん、こっちこっち」
 肘掛け椅子で疲れを癒しながら、くるくると回転している月彦を雪乃が呼ぶ。雪乃はソファに腰かけ、膝ほどの高さのテーブルの上に紙コップとジュース、お菓子などを並べていた。
「部室も完成したことだし、乾杯しよっ」
「……そうですね。そうしますか」
 雪乃に招かれるままに月彦はソファに座り(そしてべったりともたれ掛かられて)ジュースの注がれた紙コップを手に取る。
「かんぱーい!」
「乾杯!」
 ガラスのグラスのように音を鳴らす事こそ出来ないが、月彦は雪乃のそれに紙コップの縁を当てて、ジュースを一気に煽る。重労働ともいえる作業の後だけに、ジュースの甘さが有り難かった。
「んふふふふ……紺崎くぅん」
 雪乃は一口だけ飲んだ紙コップをテーブルの上へと戻し、そのままごろにゃーんと月彦に抱きつくようにしてもたれ掛かってくる。
「ちょ、先生……ジュースが……」
 このまま手に持ったままでは零してしまいそうで、月彦はやむなく紙コップをテーブルの上に戻した。そんな月彦の意図などまるでお構いなしとばかりに、雪乃はすりすりと体を擦りつけるようにして甘えてくる。
(……まぁ、しょうがないか。多分先生もこういう事がやりたかったんだろうしなぁ……)
 と、そんな事を考えながら、月彦は渋々雪乃の背に手を回し、ぎゅうと抱きしめる。んっ、と耳元で小さく、雪乃が呻きを漏らした。
「ねえ、紺崎くん……」
 キスして?――甘えるようなおねだりに苦笑しかけて、月彦は言われるままに雪乃の唇を奪った。
「もっと」
 すぐに唇が離れた事が不満だったのか、雪乃がさらに催促してくる。月彦は再度、雪乃の唇を奪った。
「もっと、ンッ……」
 ちゅく、ちゅっ、ちゅっ……。最後は、雪乃の上唇と下唇を交互に食むようにしてねっとりとしたキスを交わす。
「んっ、んっ……」
 雪乃が心地よさそうに喉を鳴らし、さらに体を密着させてくる。月彦は完全にソファに押し倒される形になった。)
「んはぁ…………嬉しい……やっと紺崎くんと二人きりになれたのね」
 たっぷり十五分ほどキスを続けた後、漸く満足したらしい雪乃がそんな言葉を漏らす。
「部室のセッティングをしている時から、ほとんど二人きりじゃないですか」
「そうだけど……もう、紺崎くんの意地悪ぅ」
 一体何が意地悪なのか月彦には皆目検討がつかなかったが、とりあえず雪乃は満足そうだからこれで良しとすることにした。
(っていうか、先生……そんなに体を擦りつけるみたいにされたらっっ……)
 うっかり“反応”してしまいそうになって、月彦は思わずうわずった声を上げてしまいそうになり、慌てて何か気を紛らわすものはないかと辺りを見回した。
「そういえば先生……あの望遠鏡ですけど」
「うん? なぁに?」
 雪乃はうっとりと、まるで寝床で恋人に抱かれているような声で返す。雪乃なりの甘え方なのか、その指はしきりに月彦の首やうなじなどをなで続けていた。
「あれってどうしたんですか? まさか先生が買ったんですか?」
「そんなワケないじゃない。元々学校にあったのよ。……十年くらい前まであった天文部が使ってたのが倉庫に残ってたから、それを引っ張り出してきただけ」
「へぇ……昔はちゃんとしたのがあったんですね、天文部………………やっぱり部員不足とかで廃部になっちゃったんですか?」
「詳しいことは私も知らないけど、どうも不祥事だったみたい。…………当時の顧問の先生と女子生徒が放課後こっそり隠れてエッチしてて、それがバレちゃったんだって」
「ぶっ……せ、先生……それって――」
「大丈夫よ、ちゃんと気を付けてればバレたりなんかしないから。ドアにはちゃんと鍵をかけて……そうね、覗かれるとは思わないけど、一応窓にはカーテンつけといたほうがいいかもしれないわね」
 雪乃の言う窓は建物の外壁側の窓の事だった。部屋の唯一の窓といってよく、三階という事もあり外から覗かれるという事はまず考えられないが、可能性はゼロではないと言えるかもしれない。
(…………つまり、先生は覗かれたら困るような事をするつもり……ってことか)
 考えてもみれば、こうして密着している事自体、人に見られてはマズい事には代わりがなかったりするのだが、雪乃は離れる気は全くないらしかった。
「そうだ、ねえ紺崎くん。……ちょっと、紺崎くんに相談したいことがあるんだけど」
「……なんですか?」
 恐らくまた何か厄介事だろうな――と、月彦はそんなことを思いながら、なるべくそれが言葉に出ないように返事をした。
「この部室の鍵なんだけど……昨日掃除してたらうっかり落としちゃって」
 雪乃はごそごそと、スーツのポケットから鍵を取り出し、手のひらを広げて月彦に見せる。
「ありゃりゃ……見事に割れちゃってますね」
 恐らく元々鍵の管理の為についていたのだろう、蒼い楕円形のプラスチックの板が見事にぱっくりと割れてしまっていた。
「ね、角なんてこんなに尖ってて危ないし……どうすればいいと思う?」
「外しちゃえばいいんじゃないですか?」
 確かにプラスチックの板の部分は割れてしまっているが、鍵自体にはまったく損傷はないのだから外してしまえば何の問題もない筈だった。
「でも、鍵だけじゃいつ無くしちゃうかわからないじゃない。だから、どうしようかなぁ……って」
「手頃なキーホルダーが無いなら、普通に家の鍵とかと一緒につけておけばいいんじゃないですか? 俺はそうしてますし」
 月彦もまた何とかポケットから鍵を取り出して――雪乃がたっぷりと体重をかけているうえ、ポケットの所に丁度雪乃の太股が当たっていてひどく難儀したが――雪乃に見せる。
 その瞬間、きらりと。まるで獲物を見つけた女豹のように、雪乃の目が光った。
「……ふぅん、紺崎くんいいキーホルダー使ってるのね」
「え……いいですか? これ……」
 月彦は改めて己の鍵を見る。何の変哲もない、楕円の合成皮に小さな銀の鎖がついていて、その先に五円玉ほどの大きさの鉄環があり、そこに鍵をつけるという極めてオーソドックスなキーホルダーだった。月彦自身一体どこで手にいれたのかすら思い出せない、それくらい印象の薄い代物だった。
「ふつーのキーホルダーだと思いますけど……」
「そんな事ないわ。この皮の所なんて、すっごく味が出てるし、使いやすそうだし」
 なんとも物欲しそうな声で雪乃は褒め、褒めながらじぃと。なにやら意味深な目で月彦を見上げてくる。
(……この、目は――)
 月彦には、この類の視線に覚えがあった。
(真央と同じ、おねだりの目だ)
 媚びるような上目遣い。十中八九雪乃は“おねだり”をしているに違いない。しかし月彦には、一体何をねだられているのか解らなかった。
(……まさかキーホルダーそのもの……じゃあないよな…………)
 こんな小汚いものを欲しがる者など居るはずがない。きっと何か別のものが欲しくて、それを察してほしくてキーホルダーの話題を出したに違いないと、月彦は深く深く考えを巡らせる。
 が、どれほど考えても雪乃の意図が見えてこない。その間にも、雪乃は遠回しに月彦のキーホルダーを褒め、褒めてはしきりにこのままでは自分は部室の鍵を無くしてしまうと繰り返してくる。
(ええい、一か八かだ)
 月彦は思いきって切り出して見ることにした。
「……あの、先生……もしよかったら……このキーホルダー使いますか?」
「本当!?」
 一か八かのつもりだったが、雪乃はぱぁっ、と目を輝かせながら声を上げた。
「え、えぇ……そろそろ新しいの買おうかなって…………こんなお古で良ければ……」
「お古だなんてとんでもないわ! 私、そういう味があるキーホルダーに目がないの! 」
「そ、そうだったんですか……じゃあ、ちょっと待ってて下さいね」
 こうなっては仕方がないとばかりに、月彦はキーホルダーから鍵を外し、雪乃へと手渡した。
「ありがとう、紺崎くん! 大事にするね!」
「ええ……そうしてもらえると嬉しいです」
 演技でもなんでもなく、雪乃は心底喜んでいるらしかった。
(…………あんなものを欲しがるなんて、先生って時々解らないよな……)
 困惑する月彦に、雪乃はさらに体をすり寄せてきて、その頬にキスの雨を降らせてくる。――コンコンと、ドアを叩く音が聞こえたのはその時だった。
「えっ……?」
 びくりと身を震わせて雪乃が体を起こし、咄嗟にドアの方へと目をやった。コンコンと、またしてもノックの音。月彦はなんとか雪乃の下から抜け出し、ソファから立ち上がった。
「だ、誰よ……まさか……誰かに見られてたの……?」
「それは無いと思いますけど……とりあえず出てみましょうか」
 必要以上に警戒し、狼狽える雪乃をよそに月彦は鍵を外してドアを開けた。
「……ぁっ……」
 という声が、まず聞こえた。ドアの外に立っていたのは見覚えのない女子生徒だった。
(えっ……金髪?)
 月彦の目が真っ先に女子生徒の髪の色に釘付けになった。制服こそ間違いなく同じ学校の生徒である事を示しているが、その髪の色は目の覚めるような金髪のツインテールだった。
 女子生徒は月彦の顔を見るなり、まるで脅えるようにびくりと身を竦ませ、二歩後退った。
「………………? えーと、何か用…………ですか?」
 制服のリボンの色から同年代であるという事は察したものの、部長としての僅かな自覚が月彦に敬語を使わせた。しかし、女子生徒は後退ったまま言葉にならない嗚咽のようなものを漏らすばかりで一向に月彦の質問に答える気配がない。
「あぁ、ひょっとして部室を間違えたとかかな」
 自分の部室に帰ろうとしたら鍵が閉まっていて、開いたと思ったら見知らぬ男子生徒が出てきてパニックになってしまったのでは――そんな推測を立てて、月彦はなるべくフレンドリーに話し掛けてみた。
「あ、あ、ぐ……ぅ……」
 しかし、女子生徒はぶんぶんとツインテールの先がひたひたと頬を叩く程に強く首を振る。
「こ、ここここっ……は………………ぁぐ……」
「ここここ……?」
 何かを言おうとしているのは解るのだが、その示すところが全く解らず、月彦はオウム返しに尋ね返すしかなかった。女子生徒は湯気が出そうな程に顔を赤くし、自分の鞄を乱雑に漁り、一枚のプリントを掴み出すや突きつけるようにして月彦へと見せた。
 プリントには大きく“入部届け”と書かれていた。



「入部届けぇ!?」
 女子生徒の持ってきたプリントを見せるや否や、雪乃は素っ頓狂な声を上げた。
「ちょっと、紺崎くんこっち来て!」
「あ、はい…………えと、とりあえず中に入ってて」
 月彦は雪乃に呼ばれながら、女子生徒に部室の中に入るように促した。そのまま雪乃に腕を引かれ、部屋の隅へと連れてこられた。
「どういう事!? なんで入部希望者が来るの!? 部員募集のプリント掲示板に貼ったの今日のお昼よ?」
「お、俺に言われても……」
「まさか、紺崎くん……私に黙って、勝手に友達誘ったりとかしたの?」
「し、してません! そんな怖いことするわけないじゃないですか!」
 人並みの洞察力があれば、雪乃が二人きりになる口実作りの為に部を作ろうと言い出している事などわかりきっている。それをまるきり無視した真似など出来るわけがない。
「じゃあどうして入部希望者が来るのよ! 天文部なんてマイナーな部活で、しかも入部試験まであるって書いといたのに!」
「ちょっ、せんせっ……くるしっ……」
 雪乃に胸ぐらを掴まれ、がっくがっくと揺さぶられて月彦は危うく泡を吹く一歩手前で漸く解放された。
「……そうよ、入部試験よ!」
「せ、先生……?」
 雪乃の呟きが、一瞬かつての矢紗美のそれと重なった。サディスティックな笑みを浮かべて、月彦の手からひったくるようにして入部届けを取り上げる。
「えーと……月島……ラビさんね。とりあえずそこに座って」
 雪乃はニッコリと、まるで社長秘書のような口調でパイプ椅子を用意し、女子生徒――ラビを着席させた。
(ラビ……ってまた、珍しい名前だな)
 外国人なのだろうか。よくよく見れば、金髪の他に目も青く、顔立ちなどもどことなくそれっぽく見える。
(……………………待てよ、そういや千夏が……同じクラスにハーフの女子が居るって言ってたような……)
 詳しい特徴などは忘れてしまったが――そもそも千夏が詳しい特徴を語ったかどうかも解らないが――同学年という事を鑑みるに、同一人物ではないかと月彦は辺りをつけた。
 どうやらかなり人見知りをする性格らしい、キョロキョロと落ちつきなく周囲を見回したりしながら、ラビはパイプ椅子に座った。その前に折りたたみ式のテーブルをセッティングし、それを挟む形で雪乃もパイプ椅子に腰かける。
「じゃあ早速聞かせて貰おうかしら。……どうしてうちに入部したいって思ったの?」
 先ほどが社長秘書のそれであるならば、今度の雪乃は面接試験の担当官だった。
(…………なんか、先生が……怖い…………)
 端で見ながら、月彦はそのように感じた。そこに居るのはいつもの雪乃ではなかった。テーブルの上で指を組み、敵意ばりばりにラビを睨み付け、隙あらば噛みつこうとしている様にすら、月彦には見えた。
「ぁ、ぁっ……ぅ……」
 そんな雪乃の眼光に晒され、ラビはますます緊張し言葉が出ないらしかった。たまにやっと声を絞り出しても、それは意味の通じない呻きや嗚咽であり、本人もそれがよく分かっているらしくみるみるうちに顔を赤くして青い目に涙すら滲ませ始めた。
「どうしたの? 動機が言えないなら、入部を認めるわけにはいかないんだけど」
 何ともとげとげしい雪乃の言葉に弾かれたように身を震わせ、ラビは大あわてで鞄を漁り、そして一冊の分厚い革表紙の本を取り出した。月彦は少し身を乗り出すようにしてその表紙へと目をやった。
(…………星座の本かな)
 タイトルは英語ですらない、アルファベットに似てはいるがアルファベットではない文字で書かれている為読むことはできないが、拍子についている絵を見る限り星座に纏わる本らしかった。
「ふぅん、星が好きなのかしら。……でも生憎、それだけじゃ入部を認めるわけにはいかないわね」
 いや先生、星が好きって普通にアリな理由だと思うんですが――そんな軽口を叩けないほどに、雪乃から向けられるプレッシャーは凄まじかった。
「うちは見ての通り少数精鋭なのよね。ただ星が好きなんですーってだけじゃダメなの。相応の知識が無きゃ。…………そうね、最低でも星座の名前とその形を百個は知らないとお話にならないわ」
 デマカセも良いところだと、月彦は端で聞きながら思った。星座の名前と形など百個どころか十個も知っているかどうか怪しかった。
 雪乃としても、ラビに諦めさせる為にあえて無理難題をふっかけたつもりだったのだろう。事実、ラビはおろおろと困惑しきっていた。
「あ、のっ……はっ……はち…………」
「蜂? 蜂がどうかしたの?」
 雪乃が尋ねると、ラビはぶんぶんと首を振る。
「はち、じゅ……はち……」
「八十八…………」
 そう言っているように聞こえた。月彦ははたと、その数字で思いだした事があった。
「先生……そういえば、星座の数って全部で八十八個じゃなかったでしたっけ」
 月彦が呟くや、ラビは満面の笑顔で大きく頷いた。
「えっ……そうなの?」
「ええ、確か……昔好きだったアニメでそんなこと言ってたような……」
 またしても、ラビがぶんぶんと何度も頷く。まるで、「私もそのアニメ好きでした」と言わんばかりに。
「っっ…………い、今のは引っかけ問題よ! 良く見破ったわね!」
 雪乃は俄に顔を赤らめながら、咄嗟にそう切り返した。
「と、とにかく……八十八個の星座くらい何も見ずにで書けるくらいじゃなきゃ、入部は認められないわ」
 それはきっと、一般人相手ならば十分無理難題となったのだろう。無論雪乃もそのつもりで口にしたに違いなかった。よもや眼前の相手がたちまちにぱぁ、と満面の笑顔を浮かべて立ち上がり、ホワイトボードに向かうや凄まじい勢いで星座を書き始めるとは思わなかったに違いない。
(……すげぇ……この子……マニアだ)
 ホワイトボードの余白を埋め尽くす勢いでびっしりと書き込まれていく星座とその名称に、月彦は畏怖さえ感じた。雪乃もまたこの反撃は予想外だったらしく、たっぷり二十分以上かけて書き込まれた八十八の星座の図に呆気にとられていた。
 ラビはといえば、息も絶え絶えにペンを置くや、「これで入部を認めてくれるんですよね!」とばかりに青い目を爛々と輝かせていた。その視線から逃げるように雪乃が席を立ち、月彦の側へと身を寄せてくる。
「どうしよう、紺崎くん。この子マニアみたい」
「ええ、マニアですね……間違いなく。…………先生の負けじゃないですか?」
「で、でも……ひょっとしたらこれ全部デタラメとかじゃないかしら。エリダヌス座なんて聞いたことないわよ?」
「デタラメ……かもしれませんけど……俺たちには解らないですね」
「けんびきょう座とか、ろくぶんぎ座とかはまだしも……ちょうこくしつ座ってさすがにおかしいんじゃないかしら」
「いやむしろ、でたらめな星座を書こうとしたら絶対出てこない名前だと思いますよ、それ……」
 確かに雪乃の言う通りデタラメの可能性もある。が、しかし月彦にはそうは思えなかった。
「……とにかく! 絶対に入部させるわけにはいかないわ」
 小声だが、断固たる意志を込めて呟き、雪乃は椅子へと戻った。ラビもまた大あわてで椅子へと座り直す。自分の得意分野を示す事ができたのが嬉しくて堪らない、そんな笑顔だった。
「……残念だけど、不合格ね」
 が、それは雪乃の冷徹な一言で今にも泣きそうな顔へと変わった。
「確かに、それなりに勉強してるみたいだけど、所々形がいびつだし、大きさもバラバラだし、こんなもの認めるわけにはいかないわ」
「先生、それはちょっと厳し――」
「紺崎くんは黙ってて!」
 びりびりと肌が震えるほどの剣幕で雪乃が声を荒げる。その剣幕の凄まじさに正対しているラビなどは肩をすくめた程だ。
(…………先生、ちょっと酷いんじゃないかな)
 星座の形がいびつなのは限りあるスペースの中に八十八個収めねばならなかったからだろうし、大きさに至っても同様だろう。事実、ラビもそのことを言いたげに何度も口を開いてはいるのだが、うまく言葉に出来ていなかった。
 折角苦心して作り上げた二人きりでイチャつける空間を邪魔されたくなくてムキになるのは解る。しかし、その為に何も知らない女子生徒を虐げる事には月彦は賛同できなかった。
「ぁっ、ぅ……ぁ、の……も、い……かい……」
 ラビが、何かを言いたげに必死に言葉にならない呻きを漏らす。そう、言葉にはなっていないが、その意図するところは月彦にも、そして雪乃にも解った。
「なぁに? もう一度チャンスが欲しいの?」
 こくこくと、ラビが強く頷く。
「しょうがないわねぇ……じゃあ、紺崎くん。問題出してあげて」
「えっ……俺がですか?」
 雪乃の目が、雄弁に語っていた。『この子が絶対に答えられないような難しい問題よ?』――と。
(……そんな問題、咄嗟に出せるわけないじゃないですか)
 第一、出せた所でどうやって正否を判断するというのか。月彦は雪乃からの凄まじいプレッシャーにさらされながら、懸命に知恵を絞った。
「えーと…………それじゃあ………………君が一番好きな天体は?」
 場が凍り付いたのが、すぐに解った。雪乃が笑顔のまま席を立ち、月彦の側まで寄るや無言のまま頬を抓ってくる。
「いだだっ、いだだだだだだっ」
「こ、ん、ざ、き、くん? お願いだから真面目に考えてね?」
「は、はひ……」
 頬をさすりながら必死に問題を考えていると、不意に小さな呟きが聞こえた。
「……き」
 よくよく耳を澄ませると、それはラビが漏らしているらしかった。
「……き……月……好き」
 ぽっ、と頬を赤らめながら、再度ラビが呟いた。ぶちん、と。雪乃の方から何かが切れるような音を月彦は聞いた。
「第三問!」
 雪乃はつかつかとラビの前まで戻ると、両手をテーブルに叩きつけるようにして声を荒げた。
「太陽と地球の距離を月と地球の距離で割るといくつ!? 制限時間一分!」
 またしても、ラビは目をきらきらさせながら席を立ち、ホワイトボードへと向かう。そしてもの凄い勢いで星座を消してスペースを作るや、これまたすさまじい勢いで計算を始める。その早さたるや月彦も、そして出題した雪乃までもがあっけにとられるほどのすさまじさだった。
 そして数値を出し終えたラビは再び目を爛々と輝かせ、雪乃の方を見る。月彦がはかっていた限りではラビは間違いなく六十秒以内に答えを導き出していた。
「せ、先生……計算……多分あってるっぽいですけど……」
 数値自体は大げさだが、やっていることはただの割り算だ。ラビが最初に書き込んだそれぞれの距離の平均値とやらが間違っていない限り、計算して導き出された数値に間違いはなさそうだった。
 雪乃にもそれが解っているらしい。『これで入部させてくれますか?』と言わんばかりに青い目をきらきらさせているラビを唇を噛みながら睨みつける。
「………………水着審査よ」
 わなわなと肩を震わせ、しばらく沈黙していた雪乃は突然耳を疑うような事を言い出した。
「最後は水着審査! うちの部に相応しいプロポーションかどうかチェックしてあげる!」
「ちょっ……先生……正気ですか?」
 自分が何を言ってるか解ってますか?――そう続けようとした月彦の言葉は、鬼のような雪乃の目によって止められた。
「紺崎くんは黙ってて! ほら、さっさと水着に着替えなさい!」
「先生、落ち着いて下さい! こんな季節に水着なんか持ってるわけないじゃないですか、第一、天文と何の関係も――」
「黙っててって言ってるでしょ!」
 ビィンと、窓ガラスが震えるような大声と剣幕に、月彦は言葉を失った。雪乃もまた、その罵声で少しだけ冷静さを取り戻したのか、ハッとばつの悪そうな顔になった。
「ぁ、ぅ…………」
 室内を包む、なんとも気まずい沈黙を破ったのは、そんな嗚咽めいた声だった。見れば、女子生徒は両目に涙を溢れんばかりに溜めていた。
「あっ、ちょ――」
 そして月彦が制止する間もなく、部室から飛び出していってしまった。月彦は後を追おうとドアの所まで駆けて、ドアノブを握った所ではたと。背後の雪乃を振り返った。
「…………追いかける必要は無いわ。放っておけばいいのよ」
 雪乃は苦々しそうにそんな事を言った。――同時に、月彦もまた我慢の限界を超えた。
「先生、本気で言ってるんですか?」
「……な、何よ……紺崎くんは私が悪いって言いたいの? だってあの子は――」
「………………俺、少しだけ先生の事が嫌いになりました。……………………あの子に謝ってきます」
「えっ、ちょ……紺崎くん!」
 雪乃の声を無視して、月彦は部室を飛び出した。



「どこだ……どこに行った……?」
 月彦は部室を飛び出し、ラビの後を追おうとした。が、少々後を追うのが遅すぎたらしく、視界のどこにもその姿を見つける事が出来なかった。既に日も落ち、辺りは闇に包まれいくつかの運動部を除いて殆ど生徒も残っていないこの状況では、目撃者を捜すのも望みが薄かった。それでも月彦は部活棟の一階まで下り、校門付近まで捜してみたがやはり見つからなかった。
(…………ダメか)
 恐らくはもう帰ってしまったのだろう。こうなったら、後日探して改めて謝るしかないと、月彦は思った。
 月彦は渋々、部室へと戻ることにした。足が重く感じたのは、雪乃と顔を合わせづらいからだった。
(…………でも、いくらなんでも酷すぎるよな……アレは……)
 雪乃の気持ちは、勿論理解できる。理解できるが、物事には限度というものがある。ましてや、雪乃は大人であり、教師だ。当然自制して然るべき所の筈なのだ。
(…………それだけ、楽しみにしてたって事なのかな)
 雪乃としては、我慢して我慢して、やっと心おきなくイチャイチャできる――そう思った矢先に邪魔が入って、必要以上に頭に血が登ってしまったのかもしれない。そうでなければ――普段の雪乃であれば、いくらなんでもあそこまで無茶な振る舞いはしなかったのではないだろうか。
(……つまり、悪いのは俺、って事か)
 雪乃をそこまでおいつめてしまった自分が、一番悪いのだ。
(………………先生にも謝った方がいいか)
 その場の勢いとはいえ、嫌いだとまで言ってしまった。自分もまた頭に血が上っていたと、月彦は猛省しながら部室へと戻った。
「……………………。」
 そっとドアを開けると、真っ先に雪乃と目が合った。雪乃はまるで教師に居残りを命じられた生徒のように、肩を落としてパイプ椅子に腰かけていた。
「…………あの子には追いつけませんでした」
 月彦はそれだけ言って、先ほどまで女子生徒が座っていた椅子へと座った。雪乃はただ「そう……」とだけ言った。
 気まずい空気が室内を満たしていた。月彦は雪乃の方をまともに見れず、雪乃もまた同様らしかった。
(…………ええい、悪いのは俺だ。ここは意を決して――)
 ぎゅ、と握り拳を作り、月彦は覚悟を固めた。
「あの、先生――」
「あのね、紺崎くん――」
 しかし、意を決して発した言葉はものの見事に雪乃のそれと被ってしまった。二人とも出鼻を挫かれ、後に続く言葉を見失ってしまい、再び沈黙が流れた。
 それを破ったのは、雪乃だった。
「…………紺崎くん、さっきはごめんね。私……折角紺崎くんと二人きりだった所をあの子に邪魔されて……頭がカーッてなっちゃって……」
「いえ、俺の方こそ……ちょっと言い過ぎました。すみません」
「ううん、紺崎くんが必死に止めようとしてくれてたのに…………私…………本当にどうかしてたわ」
 肩を震わせ、今にも泣き出しそうな声で雪乃は呟く。
「……とにかくこの子追っ払わなきゃ、って……そうしないと紺崎くんがとられちゃう気がして……そのことしか考えられなくなって……」
「先生…………大丈夫ですよ。きちんと話せば、きっとあの子も解ってくれます。明日一緒に捜して、謝りに行きましょう」
 そこで月彦はふと気がついた。テーブルの上に一冊の本が置かれたままになっている事に。それは紛れもなく、先ほどの女子生徒が持っていた本だった。
(……この本も返してあげないとな――)
 そしてついでに、部長の座もあの子に譲ってしまったほうがいいのではないかと、月彦は思った。少なくとも天文の知識などゼロに等しく、ましてや星々への愛着なども皆無な自分がなるべき立場ではないように思えるのだ。
(…………考えてみれば、ほんと気の毒なことしちゃったよな)
 今日の昼休みに張り出したばかりの部員募集の張り紙を見て、その日の放課後に来るなんて並大抵の事ではない。きっと本当に心底天体観測が好きで好きで堪らなくて、ここに来れば同じような仲間と会えると思って居ても立ってもいられなかったに違いない。
(それをあんな…………うん、やっぱり謝らないと……)
 物思いに耽っていた月彦ははたと、自分を見る雪乃の視線に気がついた。
「…………紺崎くん、やっぱり怒ってる?」
「え、いやべつに……俺は怒ってませんよ」
「嘘。本当は怒ってる。………………私のこと、嫌な女だって思ってるんだわ」
「そんなことは……さっき言ったことなら気にしないで下さい。……俺が先生の事嫌いになるわけないじゃないですか」
「……嘘よ。だって私、あの子にも紺崎くんにいっぱい酷いことしちゃったもの。…………怒ってるに決まってるわ」
 雪乃は席を立ち、まるで月彦から逃げるように背を向ける。
「先生……」
「………………私、本当にショックだったの。…………紺崎くんに嫌いって言われた事もそうだけど、それ以上に……紺崎くんにそう言わせるくらい、自分が嫌な女だって事……知っちゃったから」
「先生、頭に来てカッとなる事は誰でもあります。先生だけじゃないですよ」
「だめっ、来ないで!」
 席を立ち、肩に触れようとした手が、雪乃の声によって止められた。
「先生……?」
 もしかして、泣いてるんですか?――その質問は口に出すまでもなく、雪乃の小刻みな肩の震えから月彦は察した。
「…………………………先生、これだけは言わせて下さい」
 月彦はそっと背後から、雪乃の体を優しく抱きしめた。
「俺は、本当に怒ってません。………………そして、今も変わらず、先生の事が好きです」
 そもそも、あの程度の醜態で愛想を尽かすくらいならば、過去に幾度と無く愛想を尽かしてしまっていると、月彦は苦笑した。そう、姉も含めて過去、雛森姉妹にどれほどの迷惑をかけられたか知れない。いまさら一つや二つ増えた所で大した差異はないと月彦は思う。
「本当? 紺崎くん」
 雪乃が、腕の中でゆっくりと振り返る。月彦は苦笑して、雪乃への返事の代わりに指先で涙を拭い、その唇にそっとキスをした。


 さて困った、これからどうしよう――ソファに座り、雪乃にべったりともたれ掛かられながら、月彦は困り果てていた。
 半泣き状態の雪乃を慰めつつ、うっかり腰をおちつけてしまったのが運の尽きだったのかもしれない。雪乃に思いきり体重をかけられる形でもたれ掛かられながら、月彦は雪乃の背中に手を回し、ぽむぽむと幼子をあやすように優しく叩いているのだが。
(…………そろそろ帰りたい、けど……)
 場の雰囲気が月彦にその言葉を言わせてくれないのだ。今この場で「そろそろ帰ってもいいですか?」等と口に出す事は、葬式の最中に大笑いをするのと同義ではないかとすら思えるのだ。
(……なんか前にもこんな事があったような……)
 いつだったか、雪乃に別れ話をしようとして失敗した時と、状況が酷似しているように思える。あの時もどうしたものかと悩んだ筈だった。
(……下手に冷たくすると、“やっぱり怒ってる”って言われそうだし……本当に困った)
 そして何より、一番空気を読まないものが今にも反応してしまいそうで、月彦はヒヤヒヤしていた。
(…………矢紗美さんとシてなかったら、空気を読むどころじゃなかったな)
 間違いなく最初の乾杯の後にもたれ掛かられた時点で我慢の限界に達していた事だろう。勿論今も、決して気を抜ける状況ではなかったのだが。
「…………ねえ、紺崎くん」
 ぽつりと、不意に雪乃が呟いた。
「“僕らの夜空”っていうドラマ知ってる?」
「僕らの…………ええ、知ってますよ。ちょっと前のドラマですよね」
 三年くらい前だっただろうか。確か短命な主人公が天文部に入るという内容のもので、“衝撃のラスト”というのが話題になって人気を博し、その後劇場版まで作られた筈だ。
「私、一度も見たことなくてさ。先週の週末、レンタル店で借りて一気に観たの」
「ははぁ……なるほど。……だから急に部活なんて言い出したんですね」
 月彦は漸く合点がいった。部活を作ってイチャイチャしようという発想はそこから出ていたのだ。
「あのドラマ……すごく嫌な女が出てくるのよね。主人公に誘われて天文部に入った女の子なんだけど、主人公の事が好きで好きでたまらなくて、だけど自分からは巧く言い出せなくて……そのくせ主人公が好きな他の女の子に嫉妬して、酷い事をして追い出そうとしたりするの」
「……先生…………」
「まるで、さっきの私そのまんまの姿だわ。…………紺崎くんの目にはあんな風に映ってたんだって想像したら、なんだか死にたくなってきちゃった」
「……大丈夫ですよ。本当に俺は気にしてませんから」
 先生って結構失敗を引きずるタイプなんだなと、月彦は雪乃の肩を抱きながら思った。雪乃が僅かに膝を立て、自分の体を押しつけるようにしてさらにもたれ掛かってくる。
「あのね、紺崎くん……私、本当に紺崎くんの事が好きなの」
 否、それはもたれ掛かるというより、縋り付くかのような――。
「だから、お願い……私を嫌いにならないで」
 まだ涙を溜めたままの目で見上げるように懇願されて、月彦はもう何も言わなかった。百万回の「大丈夫」という言葉よりも、一回のキスのほうが気持ちが伝わると思ったからだ。
「んっ……ンッ……」
 優しく、上唇と下唇を交互に食むようなキス。舌は使わず、あくまで唇だけで互いを求め合うようなキスを雪乃が“安心”を感じるまで月彦は続けた。
「……紺崎くん……」
 そんな雪乃の呟きが、転機といえば転機だった。それまではただ純粋に甘えているだけのキスであったものが、次第に相手を求めるようなものへと変わる。
「せ……先生……? んくっ……」
 焦れったそうな手つきで胸元をなで回されながら、月彦もまたその変化に気がついた。
「んくっ……んっ……ちゅっ……」
 気がつくと、雪乃に完全に被さられる形で舌を入れられ、制服のボタンまで外され始めていた。
(ちょっ……せ、先生!?)
 月彦がギョッとしたのは、足の間……丁度股間の辺りに雪乃が足を割り込ませてきて、その太股と膝のあたりで刺激するように擦り始めてきたからだ。
「だ、ダメですよ先生! こんなところで……」
 月彦は雪乃の肩を掴み、強引に引きはがした。
「ぁ……そ、そうよね…………一応ここ、学校、だし……」
 寝ていた所を急に起こされ、まだ半分夢を見ているような声で雪乃は呟く。
「ええ、ですから――うぷっ」
 突然、雪乃に両手で抱え込まれるようにして頭を胸元へと押しつけられ、口を塞がれた。スーツの生地を通して雪乃のつけている香水と、発情した女の体臭が呼吸の度に否が応にも感じられて、頭がクラクラしてくる。
(こ、これは……たまらん…………)
 ぐぐぐっ、と。ベルトの留め金をはじき飛ばす勢いで剛直が反応するのを感じながらも、月彦はそれでもまだ冷静さを保とうと必死だった。ここが自分の部屋や、或いは雪乃の部屋ならばとっくにケダモノ化している所だったが、まがりなりにも学校の敷地内の一室だ。しかも、先ほど部室に戻ってきた際にドアに鍵をかけるのを忘れてしまっていた。即ち、いつ誰が部屋に入ってきてもおかしくない状況なのだ。
(あぁ、しかし……この匂いは…………)
 すう、はあ。
 すう、はあ。
 すう、はあ。
 呼吸をする度に、甘い匂いが肺を満たし、強烈に月彦の脳髄を揺さぶってくる。藻掻こうにも、その細腕の一体どこにそんな力が?と問いたくなるほどの怪力でがっちりヘッドロックをかけられ、月彦は身動き一つできなかった。
(ダメだ……こんなの、我慢なんて………………我慢? そもそも何で我慢なんかする必要が……?)
 思考が、切り替わる。雪乃を引きはがそうと、していた手が、逆にその背へと回り抱きしめる。そのまま這って、やんわりと雪乃の尻をなで回す。
「あん……」
 雪乃が微かに声を震わせ、ぎゅううううっとさらに強く月彦の頭を抱きしめてくる。月彦もまた、濃厚なメスの匂いを嗅ぎながら、両手でタイトミニの上から雪乃の尻を揉む。
「やっ、だ……めぇ…………あぁんっ……」
 尻をなで回され、雪乃が身悶えしながら甘い声を上げる。月彦は雪乃の腕の中でくすりと笑った。
(ダメ? 自分からこんな事をしておいて一体何がダメなんですか?)
 月彦は雪乃のスカートを捲し上げ、今度は直に生尻を触る。ショーツの方にはあえて一切手を触れなかった。ただ、尻肉だけを、ぐにぐにと。まるで、“何か”の意図を雪乃に伝えようとするかのように。
「あぁっ……んぅ…………はぁ……はぁ………………ふぅ…………ふぅ…………」
 全身を上気させながら、程なく雪乃は月彦へのヘッドロックを解いた。月彦は雪乃を見上げて、雪乃も月彦を見下ろした。
「紺崎くん…………ひょっとして、変わっちゃった?」
「…………はい、変わりました。先生のせいで」
 月彦はにっこりと、天使のような笑顔で雪乃に返した。そう、いつもの――“先生とエッチする時の俺”ですよと、言外に言い含めるかのように。
「そっ……か。変わっちゃったんだ…………」
 こんな結果は全く想定していなかったと言いたげな、雪乃の困ったような声に、月彦はもう苦笑しか出来なかった。


 月彦は、すぐには雪乃に襲いかからなかった。その前にいくつか、すべき事があったからだ。
 まずは、葛葉への電話だった。雪乃に携帯を借り、今夜は友達の家に泊まる旨を伝えた。毎度の事ながら、葛葉は一切追求もせず、二つ返事で了承した。
 次に、部室の戸締まりと消灯をした。如何に天文部とはいえ、いつまでも明かりが灯ったままになっていれば誰かしら尋ねてくるかもしれないからだ。
(…………まあ、無難に先生の家に行って楽しむ、って手もあるんだけど)
 この際だからここでもいいか、という極めて単純な理由で月彦はその考えを却下した。何より、そうして月彦が下準備を勧めている間、当の雪乃がムラムラを抑えきれないとばかりにモジモジしっぱなしで、早く食べてしまいたくて仕方がなかったというのも大きかった。
「さてと、それじゃあそろそろ――」
 戸締まりをして電気も消して、窓から入ってくる微かな星明かりの中、月彦はソファに座ったまま焦れったそうにしている雪乃へと目を向ける。先ほどまでズボンのベルトの留め金をはじき飛ばさん勢いでそそり立とうとしていた剛直を一時的に押さえつけて部屋の中を自由に歩き回ったりできるのはハイド月彦時の特権に他ならない。下半身と脳髄の意志の統一化さえ出来れば、その程度の事は出来て当然なのだった。
「おっと、その前にテーブルの上を片づけておかないと」
 ソファへと戻ろうとして、はたと月彦はそんな事を言い出し、紙コップなどを片づけ始める。
「ね、ねぇ……」
 暗闇の中、コップを片づけようとしてまだ中に残っていたジュースを零してしまったり、それを拭くためのティッシュを捜したりとしている月彦に堪りかねたように雪乃が声を出した。
「紺崎くん……早く……」
 くいくいと、雪乃が制服の裾を引っ張ってくる。月彦は口元の笑みを噛み殺しながら、いそいそとテーブルの上に零れたジュースをふき取っていく。くいくいと、裾を引く力が徐々に強くなってくる。
「ねえ、………………お願い、焦らさないで……」
 はぁはぁ、ふぅふぅ。そんなケダモノめいた雪乃の息づかいに苦笑しながら、月彦は星明かりの中、寸分の狂いもなく丸めたティッシュをゴミ箱へと放り込み、そして振り返りざまに雪乃をソファに押し倒した。
「きゃんっ!」
 それはなんとも嬉しそうな悲鳴だった。月彦はふんふんと鼻を鳴らしながら雪乃の体を組み敷き、そしてその耳元へと唇を寄せる。
「先生、お待たせしました」
 囁いて、そして耳の中に舌を這わせ、這わせた後にはむはむと耳たぶをしゃぶるように口に含む。
「やっ、み、耳っっ……んっぅ…………ぁぁぁぁ……!」
 耳を舐めながら、月彦は雪乃の全身をなで回し、なで回しながら胸元のボタンを外していく。
(……そう、折角だから……)
 余り脱がせずに、今夜は楽しもう――そんな考えが頭に沸く。月彦は最低限のボタンだけを外し、ブラのホックを外し、上方にずらした。
(あぁ、そうだ……コレが足りなかったんだ)
 眼前にまろび出た白い塊を前にして、月彦は矢紗美との行為を経て今ひとつ満たされなかった己の心の隙間が埋められるのを感じた。
(矢紗美さんも決して小さくはない……けど、先生のコレに比べたら……)
 月彦は谷間に顔を埋めるようにして、顔全体でその柔らかさを堪能する。堪能しながら、舌を這わせ、先端をしゃぶった。
「んっ……ぁっ、あぁぁっ……紺崎、くん……もっと……」
 もっと吸って、ということだろうか。それとももっと舐めて、の方だろうか。雪乃の手が焦れったそうに月彦の後ろ髪を撫でつけてくる。月彦はその両方を試してみる事にした。
「あぁんっ!」
 雪乃が悶え、微かに体を跳ねさせる。月彦はさらに、両手でその巨乳を揉み捏ねるようにして、今までの“飢え”を満たしていく。
(……最近は、真央がろくに触らせてもくれないからな……)
 雪乃の巨乳をこね回しながら、月彦は己がどれほど巨乳に飢えていたのかを悟った。コレだ、コレこそが俺の生き甲斐なのだとすら思いながら、月彦は白い塊を好き勝手に揉み捏ね、しゃぶりつく。
「んぅっ……なんだか、いつもより……紺崎くんも……したかったの……?」
 乳を好き勝手にこね回されながら、雪乃は陶然と言った。紺崎くん“も”の所にさりげなく雪乃の本音が出てしまっているのだが、月彦はあえて突っ込まなかった。
「…………先生の言うとおりです………………ずっと、先生とシたくてシたくて堪らないのを我慢してました」
 月彦は一端乳を弄る手を止め、素直に白状した。
「そ、そうだったの……?」
「はい。…………今だから白状しますけど、先週、先生の授業中あんなワケわかんない事言ってしまったのは、本当は先生を見てたらムラムラしてしまって、席を立つことができなくなってしまったからだったんです」
「えっ……そ、それって――」
 かぁ、と。星明かりの下でも、雪乃が顔を真っ赤にしたのが解った。
「あの時、先生スゴいミニ履いてたじゃないですか。そんな格好でお尻ぷりぷり振って歩いたりされて…………どうにも我慢できなくなっちゃって」
 アレは反則です、と月彦は苦笑する。
「そ、それは……だって、紺崎くんがなかなか声かけてくれないから……だから…………で、でも! それならどうして……」
 誘ってくれなかったの?――雪乃の目は雄弁にそう語っていた。
「…………さすがに、あんな事言って先生を悲しませちゃった手前、いけしゃあしゃあと“それはそれとして、エッチさせてください”なんて俺には言えません。……だから、断腸の思いでしたけど、金曜日に先生を誘うのは諦めたんです」
「なっっ………………もうっ…………紺崎くんってどうしてそんなに……………………」
 怒り半分、しかし嬉しさも半分。そんな顔だった。
「…………紺崎くんが私のこと、大切に考えてくれてるっていうのはとても嬉しいわ。………………だけど、もっと求めてくれてもいいのよ?」
 私も、紺崎くんとエッチするの嫌じゃないし――と、雪乃はちょっと照れ混じりに小声で付け加えた。
「ダメですよ。そんな事言ってたら、毎日先生を襲わなきゃいけなくなっちゃいます。……先生、俺が毎日どれだけ先生とエッチしたいのを我慢してるか知らないんですか?」
「そんなの…………こ、紺崎くんの方だって、私がどれだけ…………紺崎くんとエッチしたいの我慢してるか……知らないでしょ?」
 そこまで言って、はたと。雪乃は何かを思い出したかのようにまたしても顔を赤くした。
「…………先生?」
「………………うぅ…………そうよね、紺崎くんも……恥ずかしいの我慢して……本当のコト教えてくれたんだもの…………私も、ちゃんと言わなきゃフェアじゃないわよね」
 一体何の話なのか、月彦には皆目検討がつかなかった。つかなかったが、雪乃が何か重大な秘密を暴露しようとしているという事だけは理解できた。
「あ、あのね……紺崎くん…………………私、ちょっとだけ浮気……しちゃったの」
「えっ………?」
 しかし、さすがにその答えは想定の範囲外だった。
「あっ、浮気っていっても、そういうのじゃなくて……ええとね…………き、金曜日……映画とかドラマのDVD借りた時に、一緒にちょっとエッチなのも借りたのね。……も、もちろんそんなの借りたのはその時が初めてよ?」
「……話を続けて下さい」
「あ、エッチなのって言っても、普通のAVとかじゃなくて、映画なんだけどエッチな描写もちゃんとある、っていうやつよ?……普段はそういうの、全然観たいって思わないんだけど……ただちょっと、たまにはそういうのもいいかな、って……興味本位っていうか、ほんの軽い気持ちだったのね。ほ、ほら……紺崎くんとケンカみたいな事になって落ち込んでたし、少し気分転換もしたかったから、いつもと違う事すれば気晴らしになるかなぁ、って」
「それで、気分転換してムラムラした気持ちになって、自分でシちゃったんですね」
「う…………有り体に言っちゃえばそうだけど……だけど――」
「それで、それはどんな内容のエロ映画だったんですか?」
 まるで詰問するような口調で、月彦は雪乃に告白を促す。促しながら、止めていた手を再び動かし始める。
「ど、どんな、って……んぅ……ふ、普通の……」
「普通の、じゃわかりません。どういう内容のものか、詳しく教えて下さい」
 やんわりと乳をこね回しながら、月彦はさらに問いつめた。嘘は許しませんよ、と。眼光に力を込めて。
「っ……お、男の子と……女の人が、エッチ……するの……それで……」
「もっと詳しく。“男の子と女の人”っていう事は、年齢差があるんですか? 二人の関係とかも詳しく」
 うっ、と。雪乃が口籠もってしまう。月彦は先を促すように、乳首を軽く抓った。
「ぁぅっ…………ぅぅ…………関係は……きょ、教師と……生徒……だったと思うわ」
「成る程。女性教師と、男子生徒、という事ですね?」
 成る程、成る程と月彦は必要以上に頷いてみせる。うぅぅ、と唸るような声を出して雪乃がますます顔を赤くする。
「やっぱり先生ってそういうのが好きなんですね。そういえば前回のデートの時も、最後の映画だけやたら反応してましたよね」
「ち、違うの! 私は、別に――」
「ひょっとして先生、俺じゃなくても男子生徒なら誰でも良かったんですか?」
「だから、違うの!」
 月彦が態と拗ねたような声で言うと、雪乃はムキになって否定した。
「別にそういうシチュエーションが好きなんじゃなくて、ただ……そういうのだと……紺崎くんの事、思いだしやすいから……だから……」
「………………解ってます。ちょっと意地悪言ってみただけです」
 月彦は苦笑し、雪乃に軽くキスをする。
「……それで先生、何回くらいシたんですか?」
「えっ……何回……って……」
「先生の事ですから、一回シて終わり、じゃないですよね? 満足するまで、何回も何回もシちゃったんじゃないですか?」
「そ、そんなの……解らないわ……んぅっ!」
 また、強く。月彦は先端を摘み、キュッと捻る。
「先生、ちゃんと答えて下さい。正確な数が解らないなら、大体でも良いですから」
「で、でも……」
「答えてくれないなら、今日はもうこれで終わりにして帰っちゃいますよ?」
 すっ、と月彦は雪乃の胸元から手を引き、体まで離すような素振りをする。待って、と慌てて雪乃が月彦の制服を掴んだ。
「い、言うわ……言うわよ…………もぉ…………こんなの、紺崎くんじゃなきゃ……絶対、教えないんだから……」
 ううぅ、と恥辱の余り涙すら滲ませながら、雪乃はぽつりと漏らした。
「多分……三十一回……くらい……」
「…………え?」
 雪乃の口にした数字があまりに予想と食い違っていて、月彦は思わずそんな声を出してしまった。
(三十一回?)
 三回の間違いではないのだろうか――月彦がそんな事を考えていると、目の前の雪乃ふしゅーっ、ととうとう湯気を出し始めた。
「ち、違うのよ! 一度にシたんじゃなくて、少しずつ、金曜日の夜と、あと土曜日に……ぜ、全部合わせてそれくらいって事!」
「いや、それにしても……」
 金曜日の夜から土曜日にかけて、凡そ二十四時間の間に三十一回という事は、平均して一時間に一回以上という事になる。勿論、食事や睡眠など、他の事にも時間を使わねばならないだろうから、実際にはそれ以上のペース……実質一日中シっぱなしでなければ達成できない数字ではないのだろうか。
(……それとも、女の人はそれが普通なのか?)
 自慰の回数を男の常識に当てはめる事自体が間違っているのだろうか。さすがに月彦自身、女性の一日の平均自慰回数など知らない為、それが普通であるという可能性は否定できない。
(……いやでも、いくらなんでも多すぎだろう)
 否定はできないが、その可能性は限りなくゼロであると月彦は思う。
 そんな思考が顔に出ていたのだろうか。次第に雪乃は己がどれだけとんでもない事を言ってしまったのかを悟ってしまったらしかった。
「ち、違っ…………う、嘘! 今のは嘘! 本当は二回くらい――……やんっ……!」
「…………先生、すみませんでした。俺のせいですね」
 むにぃ、と雪乃の乳を捏ねながら、月彦は謝罪した。
「そんなに一人でシちゃうくらい、先生に我慢させちゃった俺の責任です」
「こ、紺崎……くん…………あんっ……」
 乳を優しくこね回し、次第に雪乃がとろんっ、と瞳を潤ませる。十分にその目が潤んだ所で、月彦は最後の質問をぶつけてみることにした。
「……そういえば先生、俺のと間違って友達の体操着持って帰ってましたよね」
 ぎくりと、雪乃が微かに顔を引きつらせるのが解った。やはり、と月彦は思う。
「なるほど、“使った”んですね?」
「つ、使うって…………ち、違うの! 私はただ、本当に……」
「先生、正直に答えて下さい。“使った”んですね?」
 月彦はしっかりと雪乃の目を見据え、尋ねた。うぅ、と雪乃は観念したように唸り、頷いた。
「ちなみに、どんな風に使ったんですか?」
「…………に、匂いを嗅いだり…………あと、抱きしめたり……とか……」
「なるほど。先生にそんな風に使われたなら、和樹もきっと本望でしょう」
 そんな事を言いながら、月彦は奇妙な嫉妬を感じていた。勿論、自分のあずかり知らぬ所で、しかも人違いでジャージを自慰に使われる等、迷惑千万な出来事に違いないのだが。
「ううぅ……お願い、紺崎くん……もぉ許してぇ……」
 死にたいくらいに恥ずかしい秘密を次から次へと白状させられた為だろう。雪乃はまたしても半泣き状態になっていた。尤も、先ほどのそれとは違い、今度の半泣きはなんとも可愛らしい、思わず抱きしめたくなるようなものだったが。
「……とりあえず、先生をあんまりムラムラさせると危険、ってことはよく分かりました。…………先生が三十一回もシちゃったエロ映画、俺も是非観てみたいですよ」
「やっ、もぉ……言わな…………ンッ……」
 月彦は雪乃を抱きしめ、目尻に堪っている涙をそっと舐め取る。化粧のせいか、涙は塩味というよりも微かに苦かった。
「…………でも先生、これって確かに……広い意味ではやっぱり浮気……ですよね」
 そしてぽつりと、月彦は雪乃の耳元で呟く。
「一人でシちゃった事は兎も角として、俺以外の男の匂いを嗅ぎながらするっていうのは……知らなかったとはいえ、ちょっと許し難いですね」
「ぁ…………ご、ごめんね……紺崎くん……私、本当に知らなくて…………」
「ええ、解ってます。ゼロではないとしても、先生の過失はそんなに多くはないですよね。…………だから、一つだけ俺の我が儘聞いてくれたら、それで水に流したいと思います」
 何、簡単なことですよ――そう囁いて、月彦はちらりと元校長室にあった机の方へと目をやった。


「んふっ、んんっ、んんっ……んんっちゅっ、んふっ……んんっ、ぺろっ……んんっ……」
 ふんふんと鼻を鳴らすようにしながら、雪乃は夢中になって剛直を頬張っていた。
「んんっ、んっんむっんんっ、んっ……!」
 そんな雪乃の髪を、愛しげに月彦が撫でる。「いいですよ、先生。もっとシて下さい」――まるでそう語るような手つきに、雪乃はますます口戯を激しくする。
(熱い……熱くて硬くて……あぁ……!)
 隆々とそそり立った剛直を口いっぱいに頬張りながら、雪乃はついうっとりと目を細めてしまう。コレなのだと、自分が求めていたものはこの熱く滾るような肉柱なのだと、雪乃は身震いしながら思い知った。
 月彦の“我が儘”とやらは、雪乃の想像していた無理難題に比べれば遙かに容易い事だった。何故ならそれは“あの椅子”に座ったまま雪乃の口戯を受けてみたいという、ただそれだけの事だった。
(……紺崎くんはこういのが好きなのかしら……?)
 かつては校長が使っていたという机の下に潜り込む形で奉仕をしながら、雪乃はそんな事を思う。尤も、雪乃としてはソファでしようが、椅子の前でしようが大した違いは無かった。
(あぁ……スゴい……びくん、びくんって震えて……)
 手を這わせ下を這わせ、頬ずりをするようにして、雪乃は己の絡ませた唾液で顔が汚れるのも頓着せずに文字通り剛直を貪った。ドク、ドクと脈動する血液の流れすら愛しく思えて、雪乃は夢中になって舌を這わせた。
「っ……くっ……いつもよりも随分…………せ、先生もやっぱり溜まって……くぅ…………」
 月彦の言いたいことは、雪乃にも解った。いつもよりも積極的だと、そう言いたいのだろう。
(……だって、ずっと――)
 “溜まっていた”という表現は適切ではないが、間違いでもないと雪乃は思う。正しくは、“飢えていた”のだ。
(ずっと、紺崎くんに会いたくて――)
 そして、欲しくて堪らなかったのだ。
「んちゅっ、んんっちゅっ……じゅるっ、ちゅっ……んんんっ。!!!」
 “それ”を求めるように、雪乃は先端部をくわえ込むやちゅるちゅると汚らしい音を立てて思いきり吸い上げた。くはぁ、と月彦がたまりかねたように声を上げる。
「ちょっ……せんせっ……そんなにっっ……くぁぁ………………」
 月彦の言葉など、雪乃には何の制止にもならなかった。舌先に微かに感じる、透明な牡液の味に神経を集中させていて、それどころではなかった。
(あぁ……精子…………紺崎くんの、精子っ…………!)
 透明なカウパー氏線液にもそれは含まれている筈だった。きゅん、きゅんと下腹が痺れるように疼く中、雪乃は躍起になって舌先を窄めて尿道へと差し込み、掻き出すようにしてそれをすすり上げる。
「せ、先生っっ……待っ…………待って……」
 息も絶え絶えの月彦に強引に頭を引きはがされ、雪乃は透明な糸を引きながら渋々唇を離した。じろり、とつい怨みがましい目で見上げてしまったのは、折角の楽しみを中断されてしまった為だった。
「あの、口だけじゃなくて……出来れば胸も……」
 月彦がそう望むのならば、雪乃には断る理由はない。自らの乳房を持ち上げるようにして剛直を挟み込むと、忽ちその合間でググンと堅さを増した。否、堅さだけではない、たくましさ――体積も二割ほど増したようにすら見えた。
「あぁっ……!」
 胸の谷間でその猛々しさを感じ取りながら、雪乃はぶるりと体を震わせてしまった。
(もうっ……本当に紺崎くんったら……)
 挟んだだけでこんなになっちゃうくらい、おっぱいが好きなのね――苦笑を漏らしながらも、雪乃は早くもその先端に滲みでている透明な液体に釘付けだった。ぐに、ぐにと両側から圧迫しながら剛直を擦り上げ、そうしてさらに先端ににじみ出てきた液体を唇を付けてすすり上げる。
「んんっ、ちゅっ………………んんっ、んっ……!」
 とろとろと、もどかしいほどの量しか味わうことの出来ないその味が、雪乃をますます猛らせる。こんな甘美な味が他にあるだろうかと、雪乃は思う。キャビアやフォアグラに代表される世界三大珍味の味など、これに比べたら紙粘土にも等しいとさえ。
(あぁんっ……早く……早く、欲しい…………っ……!)
 こんな薄いものではなく、もっと濃く、熱いものが欲しい。ドロリとした、液体というよりは殆どゼリー状の……むせかえるようなオスの香りに満ちたそれを早く出せといわんばかりに、雪乃はどこまでも貪欲に舌を這わせる。
「せ、先生……っ……」
 雪乃は見上げる。月彦が肩で息をしているのが見えた。その目は、巨根を挟み込んでいる白い塊に釘付けになっていた。雪乃はさらにサービスするように、むぎう、と乳房の形が歪む程に強く剛直を挟み込みながら上下させる。ぴくぴくと剛直が震えたその瞬間、雪乃はさらに先端部へと食らいついた。
「ンンンンンンン!!!!」
 ドクン、と。胸の間で一瞬剛直が膨らんだように感じたその刹那、雪乃の口腔内に熱い奔流が迸った。それは一度きりでは終わらず、二度、三度と続き、雪乃は胸でその脈動を感じながら、口腔内に射精される濃厚な牡液を夢中になって味わった。
(あぁ……っ! 精子っ……紺崎くんの……精子……っ……!)
 ドロリとしたものが、ゆっくりと食道を下っていく。それらは人間の体内から打ち出されたものとは思えないほどに熱を孕んでおり、飲み込んで尚、体のどの辺りにあるのかが“熱”で解る程だった。
「んふーっ………………んふーっ…………んふーっ…………」
 雪乃は剛直を口に含んだまま、とろりと目を潤ませる。ちゅう、ちゅうと必死になって吸い付き、尿道に残っている僅かな牡液すら吸い取ろうと躍起になっていた。
(もっと……欲しい……もっと、もっと……)
 どれだけ吸ってももう出ない、と判断するや、雪乃はしぶしぶ唇を離した。
「ンッ……!」
 ぶるりと身を震わせたのは、またしても下腹が疼いたからだった。雪乃はとろけた目で月彦を見上げる。欲しい――と、言葉以上に雄弁に訴えかける。
「……いやしかし……先生、なんか一気に巧くなりましたね。なんていうか、“飢えてた”って感じがビンビン伝わってきて――せ、先生!?」
 無駄口を叩く月彦に焦れて、雪乃はその体を這い登るようにして、月彦の太股の上に跨った。下着は、跨る前に脱ぎ捨てた。水気を吸った下着は床に落ちるやぴちゃりと汚らしい音を立てた。
「欲しいの……」
 雪乃は月彦の肩を掴み、制服ズボンの上から濡れた秘裂を擦りつけるようにして哀願する。
「ねぇ、お願い……紺崎くん」
「ちょっ、先生……落ち着いて――んんっ!!」
 雪乃はなかなか思うような言葉を言ってくれない月彦の唇に焦れて、キスで塞いでしまう事にした。そのまま腰を上げて、ヘソまで反り返っている剛直に手を沿え、自らの秘裂へと導く。
「っぷはっ…………先生、ダメですよ! ちゃんとスキンつけないと」
「ぇ……でも……」
 熱に浮かされた頭が、俄に冷静になる。そう、避妊はしなければならない――。
「ちょっと待ってて下さいね。すぐつけますから」
 月彦はそう言い、制服のポケットからスキンを取り出す。雪乃は、咄嗟にその手首を掴んでいた。
「先生?」
「ぁ……」
 つけないで――そんな言葉が口から出そうになるのを、雪乃は辛くも飲み込んだ。
(だめ……避妊は、ちゃんとしないと……でも、でもぉ…………!)
 きゅん、きゅんと疼く下腹部が、僅かに残った雪乃の理性を突き崩していく。同時に、過去にナマで犯された際の快楽が強烈なフラッシュバックとなって雪乃の精神を揺さぶる。
(紺崎くんの……精子、欲しい……欲しい、のに……)
 思い出すだけで、はぁはぁと息を乱してしまうあの快楽を再度味わいたい――しかしそれは禁忌の味でもある。人として大切なものをかなぐり捨てなければ得られないものだ。
(紺崎くん……どうして……)
 前の様に、強引に生でシたいと言ってくれないのか。雪乃にはそのことが恨めしくすら思えた。そうして強引に迫られれば、否応なく流れに身を任せる事が出来るのに。
「よし、準備完了です。…………先生?」
「う、うん……そう、よね……避妊は、ちゃんとしないと…………」
 雪乃は呟き、再び剛直に手を沿えてゆっくりと腰を落としていく。
「んっ、ぁっ、ぁっぁっ…………」
 ゆっくりと肉を裂かれていく感触。本来ならばそれは、声が震えるほどに心地よいものの筈だった。
 しかし――。
(やっ……違う、違うのぉ……!)
 叶うことならば、そう叫びだしたいところだった。ほんの薄皮一枚、一_にも満たない膜を被せてあるだけだというのに、雪乃にはまるで全くの別物を挿入されているように感じられてしまう。
「くっ、はっ、ぁ…………!」
 根本まで剛直を飲み込むと、下腹部からの圧迫感は一層強くなる。いつもはその息苦しささえ心地よく、体が溶けそうな程に感じてしまう筈なのに、今日はただ苦しさともどかしさばかりが募っていく。
(ダメ……これじゃ、ダメなの……)
 雪乃は必死に視線で訴えるが、月彦には伝わっていないのか、それとも伝わっているのに無視をされているのか、雪乃の希望が叶えられる気配は皆無だった。
「それじゃあ先生、動きますよ」
「んっ……あっ、んぅっ…………ぅっ……」
 月彦の手が雪乃の尻へと添えられ、体が揺さぶられる。雪乃もまた、両足に僅かに力を込め、月彦の動きに合わせて腰を動かす――が。
「はぁはぁ……んぅ…………んっ……はぁはぁ……ふぅふぅ…………」
 しかし、下腹にうずまったものの違和感が気になって集中できない。ぎし、ぎしと椅子を軋ませながらも、雪乃はじれったげに月彦の首や頬を撫でつける。
(せっかく……紺崎くんとエッチ……してるのに……)
 この瞬間を待ちに待っていた筈なのに。ただ薄皮一枚挟んでいるというだけで、全てが台無しにされている気分だった。
(だめ……こんなの、違う……こんなの、セックスじゃない……!)
 きゅん、きゅんとまるで鳴くように疼く下腹につき動かされて、雪乃は切なげに息をはきながら必死に月彦に訴えかける。これでは、このままでは自分は――自分の“体”は満足することができないと。
(いっそ――)
 はっきり言ってしまおうか――焦れに焦れた雪乃の中に、そんな誘惑が沸く。
(でも、そんな事……)
 言えるわけがない――少なくとも、理性が僅かでも残っているうちは。避妊具無しでシたい等とは口が裂けても言えなかった。
(そうよ……避妊は、ちゃんとしないと、いけないのよ……)
 前回とは違うのだと。あの時は、月彦に水を向けられて、否応なく言わされてしまっただけなのだ――雪乃はなんとか理性をつなぎ止め、全身を炎のように包み込んでいる狂おしいばかりの焦燥に必死に抗った。
「くすっ……」
 なんとも意地悪な含み笑いが聞こえたのは、そんな時だった。ぐっ、と雪乃の尻を掴む手に力がこもる。
「ぇっ、ぁっ、やんっ……ぁっ、だめっ、ええっ…………やっ、だっ……そこっっ……」
 それまで比較的穏やかだった月彦の動きが、突如激しくなる。雪乃の中でグンと剛直が反り返り、硬い先端がコリコリと子宮口を揉むように刺激し始める。
「だっ、めぇ……やっ……ぁっ…………紺崎くっ……そこっ、だめっ……揺すらないでぇっ……!」
 子宮を激しく揺さぶるような月彦の動きに、雪乃はたまらず、生乳を月彦の頭におしつけるようにしてしがみついていた。摩擦による快感がどうのという問題ではなかった。熱を帯びた子宮をそうやって刺激される事が、そしてその“熱”が全身へと伝播してしまう事が怖かった。
(だめっ、だめっ…………欲しく、なっちゃう……!)
 喉が――否、まるで体全体がカラカラに渇いていくかの様。そうして求めるのは、ただの水分ではない。
(欲しい……欲しいのぉ…………紺崎くんの……濃い精液……欲しいぃ……)
 はぁ、はぁ、ふぅ、ふぅ。
 ケダモノのように息を吐きながら、雪乃は今にも“白状”しかけていた。或いは、今すぐ剛直を体から抜き、力ずくで避妊具を引っぺがす寸前にまで思い詰めていた。
 “救い”がもたらされたのはそんな時だった。
「…………先生、すみません」
 胸の谷間からそんな声が聞こえて、雪乃は慌てて体を少しだけ離した。
「俺なりに、必死で我慢したんですけど………………限界です」
「こ、紺崎……くん?」
 まさか――どきどきと、雪乃は心臓を高鳴らせながら、月彦の次の言葉を待ちわびた。
「……続きはナマでシてもいいですか?」
「……っ…………!」
 キュンッ!――月彦の言葉に、思わず下半身が反応してしまった。同時に、痺れるような快楽が全身に迸って、肌が皿に上気する。
「な、生って…………ひ、避妊具……外したい、って事?」
「はい。………………ダメですか?」
「うっ…………で、でも……」
 雪乃は迷う。正確には迷っているフリをする。さも、自分は避妊には厳格な女なのだと装う為に。
「先生……どうしてもダメですか? 俺、もう……先生とナマでシたくてシたくて…………爆発しちゃいそうなんですけど」
「っ……ぅンッ…………そ、そんなに……………………生で、シたいの?」
 そして何より、月彦にそうして求められる事に雪乃は至福を感じる。自分は愛されている、メスとして……セックスのパートナーとして求められているのだと実感できる、最高の瞬間だった。
(やだ……私……凄く、ドキドキしてる…………)
 生でシたい――ただそう迫られているだけなのに、まるで強烈な愛の言葉で口説かれているような気分だった。
「……も、もう……! 生でなんて…………本当は絶対ダメなんだからね? こ、紺崎くんだけの……特別の……ご褒美なんだから」
 怒ったような口調で誤魔化しながら、雪乃は早くも腰を浮かせ、剛直を抜く準備を始める。誰よりも、雪乃自身が早く生のセックスをシたくてシたくて堪らないのだった。


「先生、ちょっと立ってもらえますか?」
「え……こ、こう……?」
 てっきり、スキンを外すなりそのまま再挿入されるものだとばかり思っていた雪乃は、月彦の思わぬ言葉に少しだけ動揺した。動揺しながらも、言われるままに立ち上がった。目の前には、部室の窓があった。
(やだ……ここじゃ……見えちゃう……)
 慌てて窓の前から逃げようとするも、それは月彦の手によって止められた。
「先生、どこに行くんですか?」
「だ、だって……ここじゃ……やっ……だめっ……」
「ほら、先生。もっとお尻を突き出すようにしてください。じゃないと挿れにくいですから」
「こ、紺崎くん……何、言って……やっ……だめっ、あっ、……あぁぁあんっ!!!」
 雪乃の体は、雪乃の命令に従わなかった。代わりに、月彦の言うままに尻をさしだし、そのまま背後から深く貫かれた。
「かっ、はぁっ……あぁぁぁぁァァッ…………!」
 先ほどまでとは全く違う、生の肉同士の結合に雪乃は窓におしつけられる形で甘い声を上げてしまう。
(……本当に見られちゃう……!)
 窓の外は暗く、遠くに見える校庭にも校舎にも最早照明は灯っていない。室内も暗いから、そうそう外から見られる筈はないのだが、それでも雪乃は気が気ではなかった。
 何より、そうして見える光景が、雪乃が忘れかけていた“ここは学校”という事実を再認識させた。
(やだ……私……学校で……紺崎くんとエッチしてるの……?)
 もし口にしていたら、今更何をと月彦に笑われている所だった。しかし、雪乃としては真実、今の今までそのことを全く意識していなかった。或いは、無意識のうちにそのことが念頭に浮かばないようにしていたのかもしれない。
(部室で……こんな……窓におっぱい押しつけるようにして……後ろから…………)
 それは一昔前の雪乃の倫理観では到底許容できないシチュエーションだった。しかし、そのようなものなどは、肉柱の一突きによって粉々に打ち砕かれた。
「あぁっ、んっ、はぁんっ!」
 ゆっくりと、月彦が抽送を始める。痺れるような快楽が雪乃に声を上げさせ、口の側の窓ガラスを白く染め上げた。
(やっぁっ……ひぁっ、やっぱり、全然、違うぅぅ……!)
 ゾクゾクと、寒気にも似た快楽が稲妻のように全身を貫く。体の端々、細胞の一つ一つに至るまでが歓喜に震えているかのようだった。
「はぁんっ、あぁんっ……やぁっ……ゆっくり……っ……ゆっくりっ、だめぇっ…………!」
 極太の剛直がゆっくりと出入りし、そのたびに敏感な粘膜が刺激され、雪乃は尻を震わせつま先立ちになりながら悶える。
(気持ちいいのが……いっぱい、出て……溢れ、て……)
 惚れ惚れするほどに逞しい剛直で突き上げられる度に、快楽物質がドクドクと音でも立てて分泌されているかの様。
(だめぇっ……こんなの、絶対逆らえない……気持ちいぃ…………)
 常識や倫理観など、一撃で粉砕されてしまうほどの強烈な快楽。それが何度も、何度も波のように押し寄せ、雪乃はたちまち虜にされてしまう。
「あぁっぁっ、あんっ……! あっ、ぁぁっ……ひぃっ……ンッ……あぁぁぁっ……! きゃっ、ぁぁぁあああああァッ!!!」
 そうしてゆっくり抽送されながら突然耳を舐められ、雪乃は堪らず嬌声を上げた。ヒクヒクと、痙攣するように肉襞が動いて剛直を締め付ける。軽くイッてしまったのだった。
「くす……先生は本当にナマが好きなんですね。さっきまでとは段違いの反応です」
「っっっ……ち、違っ……そんなこと、……なっ……ンンッ!!」
「いいじゃないですか。俺も……ナマの方が好きですよ。……ほら、先生……解りますか? さっきからずっと我慢してて……もう結構限界が近いんですよ」
 確かに、月彦の言うとおりだった。雪乃の中に挿入された剛直がぴくぴくと、何かに堪えるように小刻みに震えているのだ。絶頂が近いのだと、雪乃にも解った。
「こ、紺崎くん……やっぱり……その……」
「はい。……先生のナカに、出したいです」
 キュキュキュンッ!――月彦の言葉に、下腹が強く疼く。
(私も……欲しい…………紺崎くんの、精子……)
 それは如何とも抗いがたい、生物としての――成熟したメスとしての根源的な欲求だった。
「ぁっ……んくっ……う…………で、でも……やっぱり……中、は……」
 迷っているようなフリをしてしまう。自分を求めるオスの言葉がもっと聞きたくて、雪乃はついそのように装ってしまう。
「ダメですよ、先生。もう、俺……止まりません。…………先生のナカ、ドロッドロの濃いので一杯にするまで、絶対離しませんから」
「っっっ……やっ……ダメよ……そんなに濃いの出されたら…………に、妊娠しちゃう…………」
 興奮が、最高潮に達していた。月彦の言葉だけでイかされそうになりながらも、雪乃はそうならぬ様必死に我慢した。イくのは、月彦の子種を受けて、子宮口にたっぷりと注ぎ込まれてからだと決めたからだ。
(あぁっ……ダメっ……こんな事、ダメ、なのにぃ……………………!)
 月彦はいつものようなスパートをかけることはなかった。ただ、万力のような力で雪乃の腰をがっしりと掴んだまま離さず、あくまでも“ゆっくり”のペースで突き上げてくる。
「……今日は、このままゆっくり最後までシてあげますね。……その分時間かかっちゃうと思いますけど……別にいいですよね」
「え……そんな……ンンッ! あぁんっ!」
 月彦の言葉は真実だった。あくまでもゆっくり――雪乃が一番たまらなくなる速度で抽送を続け、事実雪乃は幾度となくイかされかけた。太股をぶるぶる震わせ、湿った吐息で窓ガラスを白く染め上げ、爪すらたてながら雪乃は我慢した。
(はや、く…………も、だめっ…………意識、トんじゃう……!)
 まるで、意識そのものをヤスリがけかなにかをされている気分だった。剛直が出入りするたびに、ガリガリと、雪乃の正気は確実に削られていく。
「ふーっ……ふーっ……先生、お待たせしました……そろそろイきそうです……」
 ずんっ、ずんと膣奥を小突く剛直の動きが、心なしか早くなってきていた。雪乃は荒々しく息を吐きながら、その動きに意識を集中する。
「ッ…………先生っ……!」
 そして腰を掴んでいた手が離れ、ぎゅうっ――と抱きしめるようにして圧迫してきたその刹那。
「あぁぁッ………………ぁっ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ〜〜〜〜〜〜ッっっっっっ……!!!!」
 びゅぐんっ! びゅっ、びゅるっ、びゅうっ!
 びゅっ、びゅっ、びゅっ……びゅう!
 びゅるっ、びゅっ!
 凄まじい勢いで注ぎ込まれる子種の感触に、雪乃は声にならない声を上げながらたちまち達した。
(やっ……スゴい…………濃いの……注ぎ込まれてるぅ…………あぁ……)
 自分を抱きしめている月彦の手をそっと握りながら、雪乃はうっとりと。メスとしての最高の瞬間に酔いしれる。
「はぁ……はぁ…………んぅっ…………やだ……まだ、出て…………あんっ………………スゴい…………ホントに、ドロッドロで……濃いの……注がれてるぅ…………」
 じぃんと、手足に痺れすら感じた。何十回と繰り返したオナニーでも一度も得られなかった満足感を感じながら、雪乃は俄に脱力し、窓ガラスに体を預けた。
「……先生、まだですよ」
 絶頂と中出しの余韻にうっとりしていた雪乃の心を、そんな一言が現実に引き戻す。
「まだまだ、こんなモノじゃないですよ。……教室でぷりぷりお尻を振って授業する先生に俺がどれだけムラムラさせられたか………………先生には体で責任を取ってもらいますから」
「こ、紺崎くん……?」
 ぐぐんっ、と。雪乃の中に埋まっているものが忽ち力を取り戻す。そんないつもの流れに、雪乃はむしろ安心すら感じるのだった。



 
 月彦は、文字通り雪乃に体で責任を取らせた。窓に押しつけるようにして後ろから散々犯した後は、ソファに押し倒してその体を余すところなく蹂躙した。
(先生っ……!)
 事実、授業の際にはどれほどこの体に悩まされたか知れない。人目も憚らずに飛びかかってしまいそうになるのを何度、拳を握りしめて堪えた事か。
「あぁっぁんっ! あぁんっ! だ、めぇっ……紺崎くんっ……これ以上、はぁっ……!」
 嫌がる雪乃を組み伏せるようにして、月彦は剛直を根本まで埋没させ、ドクドクと牡液を注ぎ込む。注ぎ込みながら、あえて脱がせずにおいた雪乃の衣服に鼻をすり当て、甘い汗をたっぷりと吸った生地の香りを月彦は楽しんだ。
「ぁぁぁァァァ!!」
 剛直が脈動し、白濁が打ち出されるたびに雪乃は歓喜の声を上げて背を仰け反らせ、うっとりと瞳を潤ませる。たわわな胸を呼吸の度に大きく揺らしながら、肉襞はどこまでも貪欲にからみつき、より多くの子種を搾り取ろうとしてくる。
「先生……」
 ぜえぜえと喘ぐ雪乃の唇を月彦は奪い、ちゅくちゅくと唾液を注ぎ込むようにしながら濃密に舌を絡め合う。
「んふっ、んんぅっ……んぅっ……!」
 雪乃の手が脇の下から後頭部へと回り、後ろ髪をなでつけてくる。両足は月彦の腰を挟み込むように絡みつき、ヒクヒクと痙攣するように締まる膣肉で、さらなる子種をねだってくる。
 月彦はいまだ萎えない肉槍でこちゅんっ、と。大きく雪乃の中を小突き上げた。
「んンぁあああッ! はーっ…………はーっ…………んぁっ……ぁっ、ぁふ……やっ……も、らめぇっ………………はぁ…………はぁ……」
 見た目には、くたぁ……と脱力し、疲労困憊しきっているように見える。しかし、その両手両足に込められている力は些かも衰えてはいない。
(成る程、まだまだ……満足できてないって事ですね、先生?)
 月彦はぐりぐりと、雪乃の中を抉るように剛直を動かす。ぎゅうっ、と雪乃がさらにしがみつく手に力を込め、声を上げ締め付けてくるが、月彦はさらにそれをこじ開けるようにして突き上げる。
「あァッ! ぁっ……ひぃっ……ひぃっ…………やぁっ……きもち、いぃ…………はぁはぁ……自分で、するのと……全然違うぅぅ…………!」
「それは良かったです。…………先生がまたムラムラして、一人でシちゃったりしないように、いっぱい感じて下さい」
 月彦は力ずくで雪乃の抱擁を振り解くと、たゆたゆと揺れっぱなしのその乳房の先端に吸い付き、ちぅぅと吸い上げながらさらに腰を震う。
(コレだ……やっぱり、こうじゃないと……!)
 鼻息荒く吸い上げながら、ぐにぐにと力任せに揉み捏ねる。矢紗美相手にどれほど時間をかけても得られなかった“何か”が満たされていくのを月彦は感じた。
「あぁぁっ……また、紺崎くんのが……グンッ……ってぇ、私の中で……反ってるぅ…………」
「解りますか? そろそろ……また……ッ……」
「やぁっ、だめっ、だめえっ……もうこれ以上中出ししないでぇえ!」
 だめ、と言いながら、雪乃今までになく両足を強く絡めてきて、月彦の体を両手で引き寄せてくる。
「くす……ダメですよ。今日はもう全部先生のナカに出すって決めたんですから」
 月彦は囁き、そして雪乃の体を抱きしめてから、どくりと。その膣奥に白濁をまき散らす。
「やぁぁっ! ひうっ……んぁっ……はーっ……はーっ……ぁんっ! だめぇっ……もぉ、無理ぃ…………これ以上注がれたら……っっっ…………」
 もう無理――その雪乃の言葉を表すかのように、ごびゅごびゅと濃厚な牡液を注ぎ込むたびに、結合部から細い筋のようになって勢いよく白いモノが溢れ出していく。しかしもとよりそのようなこと、月彦にはどうでも良かった。
「ァァァあァッ!! ぁぁっ、ひっ、ァッ……!」
 雪乃はそんな熱く激しい白濁のうねりをうけ、背を仰け反らせながら声を上げる。体を痙攣させながら激しくイき、そんな状態を十数秒も続けた後にようやくぐったりと脱力した。
「はァー……はァー……ふゥー……ふゥー…………ふゥー……」
 肩を大きく揺らしながら呼吸を整える雪乃を見下ろしながら、さて次はどう犯してやろうかと、月彦がそんな邪な考えを抱いた時だった。
「ねぇ……紺崎くん…………上に……。……私が……上になっても、いい……?」
 とろりとした――先ほどまでとはやや異質な光りを宿した――目で見上げながら、雪乃はじれったげに月彦の頬の当たりをなでつけてくる。
「……解りました」
 雪乃の申し出に些か驚きながらも、月彦はごろりとソファの上で寝返りをうつようにして雪乃との上下を入れ替えた。
(ほんと、先生も昔に比べて随分積極的になったよなぁ……)
 まだムラがあるものの、時折みせる雪乃のこういった積極性が月彦は決して嫌いではなかった。
「んぁ……ンッ……ンッ!」
 月彦の両肩に手を置く形で、少しずつ雪乃が腰を使い始める。
「はァー……はァー……んぁあっ……んっ、くぅぅぅっぅぅんっ!!」
 雪乃が腰を持ち上げ、落とすたびに剛直の先端部にとんっ、と軽い衝撃が走る。同時にそれは、雪乃がなんとも甘い声を上げる瞬間でもあった。
「はぁぁぁっぁぁっ……奥っ、いいのぉ……紺崎くんのっ……堅いぃぃ……ずんっ、ずんっ、てぇ……ふぁぁっ……!」
「くっ……せ、先生……そんなにっ、…………い、痛くないんですか?」
 腰を落とす、というよりは叩き落とす、というような腰使いに月彦は思わず雪乃の尻を掴み、その動きを抑制しようとした。
「やぁっ、だめぇっ! 紺崎くんはじっとしてて!」
 しかし月彦のそんな抑止を振り切るようにして、雪乃はさらに激しく腰を使う。
「せ、先生っ!? んんっ!?」
 声を上げようとしたその唇が、雪乃に奪われる。キスというよりも、食らいつくといった方が正しいそれは文字通り月彦の口を蹂躙してきた。
「んんっ、んんぐっんんっ!」
 雪乃の右手が後頭部へと周り、がっちりとロックされるような形で強制的に舌を絡まされる。その間も雪乃は腰を使い続け、白く濁った液体が溢れる音が部室中に響き渡る。
「はぁぁァ……奥、いぃ……奥っ、おくっ、おくぅぅ……あぁぁぁぁぁっ……きもち、いぃのぉ……はーっ…………はーっ…………んんっ、ッ、あぁあっぁぁぁぁァァァッ!!」
「ちょっ、くっ……ぅぅぅっ!!!」
 雪乃が限界まで腰を落とし、そのままグリグリと先端部にこすりつけるようにくねらせてくる。
「せ、先生……さっき出したばっかりなのにっ……そんな事されたら……んんっぷっ!?」
 またしても、唇が奪われる。舌を通じて送り込まれる雪乃の唾液が甘いと感じてしまうのは、月彦自身雪乃の魅力に狂わされているからだった。
(くぁっ……げ、限界……だっ……)
 唇を奪われたまま、月彦は半ば暴発気味に白濁をほとばしらせる。雪乃は唇を重ねたまま、剛直の震えで察したのか、一端腰の動きを止めて全てを受け止めた。
「んんっ、んんっ、んっ!!」
 喉奥で噎ぶようにしながら、雪乃もまた体をびくびくと震わせる。程なく射精が終わると、余韻を楽しむかのように、ねっとりとしたキスが再開された。
「んっ、んっ、んっ……くちゅ、くちゅ…………んっ……ふっ……はぁ……もうっ、紺崎くんったら……勝手に出したりしちゃダメじゃない……もったいないでしょ?」
 額をこつんと合わせ息も絶え絶えに、しかし口調だけは教師のそれで、雪乃が“めっ”とばかりに呟く。
「す、すみません……で、でも……むぐっ!?」
 一体なにがもったいないのかを問う前に今度は唇ではなく、巨乳を押しつけられて唇を塞がれた。
「ねぇ、紺崎くん……まだまだ出来るでしょ?」
 両腕を月彦の後頭部へと回し、ぎゅうぅ、と圧迫してくる。
「もっともっと……奥……ズンってシて欲しいの……そして、最後はいっぱい…………ね?」
 ぎゅぅぅ、と息も出来ぬほどに谷間に顔を押し込まれ、さらに両腕でロックされている月彦には首を横に振る事など許されず、かろうじて縦に首をふるのみだった。



 今夜の雪乃は、いつになく激しかった――と、言わざるを得なかった。恐らくは、よほど“溜まっていた”のだろう。一度上になることを許してからは、ほとんどそのまま一方的に貪られ続けた。
(……っ……さ、さすがに……そろそろ反撃を……)
 このまま一方的に貪られ続けるのはよろしくないと、月彦が反撃を試みようとしたその時だった。
 不意に奇妙な違和感を感じて、月彦は眼前でたゆたゆと揺れっぱなしの巨乳から無理矢理視線を外し、窓の方へと目をやった。
(…………外が、明るい?)
 その事実が一体何を指し示すのかを察するまでに、さらに数秒の時間を要した。
「………………………………せ、先生! ヤバいです、朝です!」
 月彦は直ちに、夢中になって腰を使い続けている雪乃にその事実を伝えた。
「ふぁ……あさ……?」
 まるで千年の眠りから覚めたような、そんな頼りない声を上げて雪乃が俄に窓の方へと目をやる。
「あ、さ……朝!? うそ…………ええぇええ!?」
「嘘じゃないです、時計見て下さい! もう七時前ですよ!」
「やだっ……きょ、今日平日よね……? 一回、帰らなきゃ……」
 雪乃はあわてて立ち上がろうとするが、ほとんど一晩ぶっ続けで腰を振り続けたツケか、ろくにソファから身を起こす事も出来ないらしかった。
「んっ……やだ……足に……力入らない……」
 どうにかこうにか立ち上がったものの、白いものが後から後から太股を伝ってきて、雪乃は顔を真っ赤にしながら必死にそれらの後処理をしつつ衣服を正した。
「と、とにかく……私は一端帰るわね……さすがに昨日と同じ服で出勤なんかしたら……変な目で見られちゃうわ……」
「ええ、それがいいと思います。……俺も下でシャワー浴びてから教室に行きます」
 部室棟の一階部分には、運動部用のシャワー室があるのだ。ただ、朝練の後にシャワーを浴びる変わり者もいるかもしれないから、正規の運動部員と顔を合わせぬよう気を付ける必要はあるのだが。
「ううぅ……折角……紺崎くんと…………………………せめて、もうちょっと……………………」
 なにやらブツブツと恨み言のような事を言いながら、二人分の汗やその他の体液で汚れた皮ソファの表面を雪乃がウェットティッシュで丁寧に拭う。
「…………先生、もしかして……まだ物足りないんですか?」
「そ、そういうわけじゃ…………ただ、ほら……紺崎くんとエッチした後って……いっつも邪魔が入ったりして……すぐ離れなきゃいけないじゃない?」
「……それは……」
 確かに否定できない事ではあるのだが、今回ばかりは完全に雪乃の仕掛けた場所が悪いと、月彦は思うのだった。


 こっそりシャワーを浴びて制服を着、教室へと戻った途端月彦は猛烈な眠気に襲われた。考えてもみれば、一晩ぶっ通しで雪乃とサカり続けたのだ。疲れていない方がおかしかった。
 午前中は半死人のように過ごし、昼休みに購買で買ったパンを腹に詰め込んだ後、さらに泥のように眠った。
(そうだ、本を返さなきゃ……)
 と、大事な用事を思いだしたのは六時限目も終わりに近づいた頃だった。当然、返さねばならない本が手元にある筈もなく、結局放課後月彦は部室に取りに行かねばならなかった。
「おう、月彦。久々にお好み焼きでも食いにいかねーか? 千夏も誘って」
「悪い、カズ。今からちょっと部室に――」
 半分寝ぼけていた頭で、月彦はついうっかりそんな事を言ってしまい、慌てて口を噤むが手遅れだった。
「へ……? お前、今部室って言ったか?」
「ああ、いや……ちょっと、な……ワケアリで今、天文部所属って事になってる」
「天文部って……また似合わねー所だなぁ」
「なっ、ばかやろう! 紺崎月彦の月はお月様の月だぞ! 似合う似合わないの問題じゃないんだよ!」
「いやでも……いいのか? 確かお前――」
「大丈夫だ。ほんとにワケアリで、一時的に入ってるだけだから」
 またな、と親友に別れを告げ、月彦は部室へと向かった。鍵を開け、中に入るやまず最初に時間の都合で朝できなかった諸々の後かたづけを済ませた。何となく残り香が気になって、窓を開けて空気の入れ換えも行った。
(…………大丈夫、だよな?)
 しかし念のため、雪乃が買っておいたらしい消臭剤をソファーを中心にまんべんなくふりかけた。――コンコンと、ドアがノックされたのはその時だった。
(先生……?)
 一瞬思って、そんな筈はないと月彦は思った。そもそも雪乃ならばノックなどするまえにいきなり入室してくるはずだ。鍵を忘れてしまったのにしても、そもそもドアには鍵すらかけていなかった。
「はい……?」
 恐る恐る出てみると、ドアの前に立っていたのは昨日の女子生徒だった。



「と、とりあえず……座って」
 些かうわずった声で月彦は入室を促し、パイプ椅子へと座らせるや、お茶の代わりにと昨夜の飲み残しのジュースを出した。
(えーと……まずは……本を返して……それから……)
 これからの自分の行動をシミュレートしながら、月彦は昨日女子生徒が持ってきた入部届けに目をやった。
(そうそう、月島……ラビさんだっけか)
 同学年ではあるが、クラスが違えば面識など皆無に等しい。月彦はひとまず忘れ物の本を手にとり、ラビの対面へと座った。
「あの、月島さん……これ……」
「…………!」
 本を目にするや、ラビはぱぁっ、と瞳を輝かせて両手を伸ばし、分厚い本を受け取った。
「あっ、ぁっ……ありっ……が、っっ……」
「いえいえ、どういたしまして。…………あと、それから……昨日はごめん。雛森先生、ちょっと昨日虫の居所が悪かったみたいでさ……ついカッとなっちゃったらしくて……」
 ラビは本を鞄にしまうや、ふるふると素早く首を横に振った。
「あの後、月島さんに謝らなきゃって、先生も凄く反省してたから、どうか許してあげてくれないかな。俺からも謝るよ、本当にごめん」
 月彦は席を立ち、大きく頭を下げる。がたりと、ラビもまた慌てて席を立った。
「わっ、わたっ…………気、っ……」
 大あわてで両手をばたつかせながら、必死になって言葉を紡ぎ出そうとするラビの背後でがちゃりとドアが開いた。
「うー……しんどかったぁ……少しソファで眠――……っっっ!?」
 ふらふらと入室し、その目がラビを捕らえるや否や、まるでデフコン1だと言わんばかりに雪乃が身構える。
「あぁ、先生……丁度良かった。……昨日のこと謝るんですよね?」
 そうですよね?――念を押すように月彦は語りかけるが、雪乃は雪乃で昨夜の事を悪いとは思っているが、しかしかといって泥棒猫に頭を下げるのも癪とでも言いたげな目でラビを見つめていた。
「……っ……そ、そうね……月島さん、昨日は――」
 と、渋々謝罪をしようとした矢先、雪乃は不意に言葉を止めた。
「えっ、なっ――」
 月彦もまた、絶句した。何が起きたのか全く理解できなかったからだ。
 ラビは雪乃の顔を見るや否や、大急ぎで服を脱ぎ始めたのだった。そして――どうやら予め着込んできたらしい――スクール水着姿になってしまった。
 あっ、と。その時になって月彦も、そして雪乃もまた昨夜のやり取りを思いだした。そう、水着審査という雪乃の言葉を真に受けて、わざわざ着込んで来たに相違ないのだ。
「えぇと……そのぉ…………こ、紺崎くん!」
 雪乃は狼狽し、月彦に助けを求めてくる。そんな事言われても、と月彦もまた狼狽した。
(……なんてキラキラした目だ…………そんなに天文部に……)
 屋内とはいえ肌寒いのだろう。肩を抱くようにして、それでいて微かに頬を染めながらも、それでも蒼い目を爛々と輝かせている入部希望者に、月彦は完全に気圧されていた。
「…………先生、これはもう……認めるしかないんじゃ……」
 月彦はそっと雪乃に忍び寄り、ぼしょぼしょと囁きかける。
「っっ……紺崎くん何言ってるの!? そんなことしたら――」
「いやでも……」
 この分だと、裸になったら入れてやると言えば二つ返事で水着を脱ぎ捨てるのではないかとすら、月彦には思えるのだった。
「第一、ここまでやらせちゃって入部を認めない、なんて言ったら可愛そうですよ」
「でも……」
「それに下手すると他の先生とかに言いつけられたりして、別の問題が出てきたりするかもしれませんし…………」
「でも、でも……!」
「もしこの子の入部を認めてくれるなら、……また今度、先生とする時にいっぱいサービスしますから」
 ぴくりと、雪乃が頬を赤くして月彦の方を見る。そしてしばし思案するように黙り込んだ。
「……………………………………し、仕方ないわね………………今回だけよ?」
 拗ねるような口調で言って、雪乃はぷいと背中を向けてしまう。
「ありがとうございます。………………月島さん、先生が入部してもいいって」
 にっこりと月彦が微笑みかけると、ラビはその三倍くらい眩しい笑顔を零した。
「あっ……ありっっ…………」
 どうやら“ありがとうございます”と言いたいらしいのだが、例によって例の如く言葉にならない。ラビはぺこり、と雪乃の方に辞儀をして、そしていそいそと制服を着始める。
「よかったね、月島さん。…………ああそうだ、俺のほうの自己紹介がまだだったか。名前は月彦。紺崎月彦、漢字で書くと――」
 月彦はマジックペンを手にとり、ホワイトボードに“紺崎月彦”と書く。きらりと、ラビの目が不思議な輝きを放ったのはその時だった。
「……こ……崎…………“月”……ひこ……くん?」
「そそ、紺崎でも月彦でも、どちらでも月島さんが呼びやすい方でいいよ」
「わ、わた…………し、も…………つき……」
 スカートを履く手を止めて、ラビは月彦の隣まで来ると同じくマジックペンを手にとり、月島、と書いた。
「あぁ、そういえば……確かに……」
「……………………おそ、ろい………………」
 ぽう、と顔を赤らめ、ラビはもじもじと身をよじり出す。そして、なんとも熱っぽい視線を月彦へと向けてくる。
(えっ……?)
 と。突然の事に月彦は思わず後ずさりをした。
「……つき…………好き……」
 さながら、“運命の恋人”を見つけたと言わんばかりの潤んだ目で見られ、月彦は反射的に背後に殺気を感じて振り返った。
「……好きになるのは空にあるお月様だけにしといてね、月島さん。……紺崎くんも、部長としての自覚を忘れないでね?」
 “もし万が一浮気をしたら、紺崎くんもその子も生かしてはおかないわよ?”――にっこりと微笑んだ雪乃の目は、如実にそう語っていた。


 

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