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日本橋魚河岸発祥の地の碑 |
ここは築地に市場が移転する前、東京の台所でした。
観音様が置かれています。 その足元に書かれているのは魚河岸発祥のいわれです。
この広場は歴史が有ります。
まず、足元にある「乙姫広場」の標識は平成2〜3年にかけて日本橋の4隅の広場を
整備した時に設置されています。
その左隣にある背丈の高い「日本橋魚市場発祥の地」の碑には、
裏側に「昭和五十五年三月 東京築地魚がし会 」の記述が有ります。
観音様の背中には、魚河岸の様子?が荒く書きこまれ、
「琴市作 平成四年十一月吉日 山本恭平 復刻 施主 魚河岸会」
と有ります。
その台座は赤の御影石で作られています。 下記の写真(魚河岸発祥のいわれ)が正面中央に、
その左右には「江戸名所図絵」から引用している絵の部分図がはめ込まれています。
もっとも右側は、さきほどの「日本橋魚市場発祥の地」の碑に隠され、
左側にいたっては、その前の椿の茂みに隠されていて正面からは見ることができません。
この台座の裏側には、右手側に「昭和二十九年三月○ ○日本橋○○○○○」の刻が、
中央に「日本橋魚市場記念碑県立発起人氏名」のプレートがはめ込まれています。
○○はあの印鑑に使う文字なので全く読めません。
プレートには「伊勢乃国 伊勢八 伊勢安 伊勢仁 伊勢原・・・・・・」など
約四百人(400軒?)の名前が刻まれています。
ただ、この裏側には回り込む道が無く、乗り越えてゆく必要が有ります。
後の見晴台との隙間が30cmと狭く、入るのがやっとで写真には撮れませんでした。
魚河岸発祥のいわれの拡大です。
学が無いのでまだ読み切っていませんが、下記のように書かれていました。
碑:・・・・碑文に書かれた文章(旧字体で書かれています。
できるだけ近い漢字を当てはめてみましたが、
誤植があるかも知れませんので注意して下さい。
フォントが見つからないのは、赤字でマーキング。
例えば、「門がまえ」が省略文字(上部の「日 日」の部分が「’」)になっている文字は
そのまま「門」の文字形を採用。
W:・・・・webで見つけた内容(解説)を勝手に転記。
注)は我が友人 I.A氏 の解説 です。
------------ここから-----------
碑:本船町小田原町安針町等の間悉く鮮魚の肆なり
W:本船(もとふね)町小田原町安針(あんしん)町等の間悉く(ことごとく)鮮魚の肆(し:お店のこと)なり
碑:遠近の浦々より海陸のけぢめもなく鱗魚をこゝに
W:遠近の浦々より、海陸のけぢめもなく鮮魚をこゝへ
注)鱗 と 鮮 ・・・第1行目に「鮮魚」とあり、重複を嫌っての違った言い回しでしょうか。
碑:運送して日夜に市を立て甚賑へりと江戸名所
W:運送して、日夜に市を立て、はなはだ賑(にぎわ)へりと江戸名所
碑:圖會にのこれる日本橋の魚市魚河岸のありしは
W:図会にのこれる日本橋の魚市魚河岸のありしは
注):図は戦後新たに制定された新字体で、伝統的な字体ではありませんでした。
江戸名所図会のhpは ここ。
リンクの許可を得ていないので頭に http:// を付けてごらんください。
www.asahi-net.or.jp/~ne4k-tgc/kanda/010615/0615.htm#3
碑:このあたりなり舊記によればその濫觴は遠く
W:このあたりなり、旧記によればその濫觴(らんしょう:物事の始まり)は遠く
注)舊(旧の旧字体)
。 豊道先生はさらに別の書写体(楷書行書の正しい字体)で
書かれているようで、舊(活字特有の康煕字典体)とは異なる字形です。
碑:天正年間徳川家康の関東入國とともに摂津國
W:天正年間、徳川家康の関東入国と共に、摂津国
注)国も戦後制定された新字体です。 國は旧字体で、書写体は字形が若干異なります。
碑:西成郡佃
大和田両村乃漁夫三十餘名江戸にうつり
W:西成郡(にしなりぐん)佃(つくだ)大和田両村の漁夫三十余名、江戸にうつり
碑:住み幕府の膳所に供するの目的にて漁業を
W:住み、幕府の膳所(ぜんどころ)に供するの目的に漁業
碑:營美しに出づその後慶長のころほひ幕府に納めし
W:営みしに出づ、その後慶長のころほひ、幕府に納めし
碑:残餘の品を以てこれを一般に販賣するにいたり漁る
W:残余の品を以て、これを一般に販売するに至り、漁る
碑:もの商ふものゝ別お乃づからこゝに生じ市場の形態
W:もの商ふものゝ別、おのづからこゝに生じ、市場の形態
碑:を漸く整ふさらに天和貞享とすゝみて諸國各産
W:漸く整ふ、さらに天和貞享とすゝみて、諸国各産
碑:地との取引ひろくひらけ従ってその入荷量の膨
W:地との取引ひろくひらけ、従ってその入荷量の膨
碑:張驚くべきものありか(久)して
やがて明治維新の
W:張驚くべきものあり、かくしてやがて明治維新の
碑:變革に堪え大正十二年関東大震災の後をうけて
W:変革に堪へ、大正十二年関東大震災の後を受けて
注):「變」の書写体は若干異なる字形です。
碑:京橋築地に移轉せざるの止むなきにいたるまで
碑:京橋築地に移転せざるのやむなきにいたるまで、
碑:その間じつに三百餘年魚河岸は江戸及び東京に
W:その間じつに三百余年、魚河岸は江戸及び東京に
碑:於ける屈指の問屋街としてまた江戸任侠精神
W:於ける屈指の問屋街として、また江戸任侠(にんきょう)精神
碑:發祥の地としてよく全國的の羨望信頼を克ち
W:発祥の地として、よく全国的の羨望信頼を克ち
碑:えつゝ目もあやなる繁榮をほしいまゝにするを
W:えつゝ、目もあやなる繁栄をほしいまゝにするを
碑:得たりすなわちこゝにこの碑を建つる所以乃もの
W:えたり、すなはちこゝにこの碑を建てる所以(ゆえん)のもの、
碑:われらいたづらに至りゆける夢を追ふにあらず
W:われらいたづらに去りゆける夢を追ふにあらず
碑:ひとへに以てわれらの祖先乃うちたてたる文化を
W:ひとへに以てわれらの祖先のうちたてたる文化を
碑:ながく記念せんとするに外ならざるなり
W:ながく記念せんとするにほかならざるなり
碑:東京に江戸の未こと乃しぐれかな
W:東京に江戸のまことのしぐれかな
碑:昭和二十九年三月
碑:舊日本橋魚市場関係者一同に代わりて
碑:日本藝術院會員 久保田万太郎 撰
碑:日本藝術院會員 豊道慶中 書
碑: 東魚 刻
------------ここまで-----------
I.A.氏からは下記情報をもらいました。
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この「豊道慶中」と言う方は、
日光山輪王寺の高僧・豊道春海のこと
天台宗大僧正西川春洞門下 昭和45年没 93歳
慶中は春海翁が最晩年に用いた雅号です。
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久保田万太郎 小説家 劇作家 俳人 芸術院会員
号 暮雨 昭和38年没 75歳
上記の「東京に江戸のまことのしぐれかな」の作者です。
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松丸東魚 篆刻 日展審査員 毎日書道展会員
昭和50年没 73歳
結構有名な方のようです。
碑文の文章は浮き彫りで作成されていましたが「東魚 刻」のみ
左隅に1cm角位の小さな見えにくい文字で控えめに彫り込んで有りました。
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