この後村上藩はさらに多くの鮭を得ようと自然産卵ふ化法を考えました。
鮭の育て方を考え増殖について研究し三面川(みおもて)に種川の仕掛けをつくり鮭が豊富にとれるよう工夫していったのは青砥武平治(1713〜86)という村上藩の小身の藩士でした。
その方法としては鮭の産卵に適した川床の上流と下流をすのこで止め、その中で産卵させ産卵の終わった鮭から捕獲するというものでした。


  
        

鮭は9月になると海から川に上り、冬の間に砂や小石の中に卵を生みつけます。卵は2月末に孵化して、魚の形となり、5月になると2寸ほどの大きさとなり海にもどり、成長して川で生まれた鮭の子は再び生まれた川に戻って来るという習性の観察研究から三面川は3本の流れに分かれていて、1本は上流まで通じていますがのこりの2本の流れの中に柵を立てて流れを横切り、それに竹の“すのこ”をならべて魚が上るのをとどめ、柵の中で産卵しやすい環境をつくる仕掛けを考えました。こういう仕掛けを設けた川を種川といいます。

           

種川とは鮭の産卵孵化を容易にする保護河川のことで、カナダで行われているふ化事業の140年前につくられた画期的な事業でした。
これにより鮭の漁獲量は増え運上金は文政4年(1821年)には二千両にもなってきたようです。明治11年(1878年)に人工増殖法が導入されました。
ところが産卵の済んだ老鮭しか食べられないため、いかにおいしく食べるかということで多くの鮭料理が開発されたとのことです。

    


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