サイトの軌跡
「80s岩手県のバス“その頃”」というWebサイトを始めたのが2002(平成14)年7月のこと。早くも開設以来、20年という月日が経とうとしています。20年といえば、その年に生まれた人が、もう成人式を迎えてしまうという月日です。この間、世の中には色々な変化がありました。当然、私個人を取り巻く環境にも、様々な変化がありました。そして、このWebサイトも、定期的な更新を心がける中で、肥大化し、また複雑化してきましたし、自分で言うのもどうかと思いますが、クオリティを上げてきたと思います。
しかし、物事には必ず終わりが来ます。
終わりが来てしまうと、もう何の弁解も言い訳もできなくなってしまいますので、今のうちに、これまでの経緯とか、なぜこうなったのか、なぜそうしなかったのか、どう考えているのか、などを整理してみようと思います。
(2022年7月1日記)
1.前史
何かを作るということ
(画像:“その頃”にフリーアルバムにまとめた盛岡の新車年鑑。このサイトの原形です)
もともと、自分で何かをプロデュースするのが好きでした。
小学生では、学芸会といえば自分で喜劇のシナリオを書いて、友達に演技指導(?)をして、しかしなかなか趣旨が伝わらず、思い通りの作品(?)ができない苛立ちを繰り返してきました。
中学生では、文化祭で発表する事柄について、印刷物にまとめ、冊子にして配布するなどが得意技になりました。趣味で撮影した写真は、個人的なアルバムに体系的にまとめるなどで、最終的に何らかの「形」にすることに喜びを感じていたのです。
高校生では音楽にも、大学生では研究室の課題にも、「自分が納得できる内容にまとめる」ことにこだわってきました。
これは社会人になっても同じで、広報紙を発行する仕事をしたり、お客様に情報を伝えるパンフレットや解説書を作成する仕事をしたりすると、のめり込んでしまいました。仕事以外でも、同僚の結婚式での余興をするときは、シナリオ通りにできない友人を叱咤したりしながら、パーフェクトを目指しました。
何かを作り、人に見せる。これが生きがいの一つだったのです。
写真を撮る
私が自分のカメラを持つようになったのは、中学生になったときです。
最初の数か月間のネガフィルムを見返してみると、とりあえず見たものを撮っています。電車にしろバスにしろ、左右が見切れていたり、電柱が真ん中に立っていたり、車両の前に人がいたりします。
しかし、段々と、車両単体で、障害物なく斜め前から撮る「形式写真」に近づいてきます。この時「形式写真」という言葉を知っていたかというと覚えていませんが、「形式写真のようなもの」が目標になったことは理解できます。
そして、これを会社別とか年代別にアルバムに貼って解説をつけるのです。
形式写真というもの
趣味の世界でも芸術の世界でも、人の真似をする(コピーする)というのは、上達の常とう手段です。私が小学生のころから、図書館で借りてきては読み漁っていたのが、誠文堂新光社の「ガイドブックシリーズ」です。このシリーズは、形式写真と形式図、そして解説文を、見開きページにバランスよく載せるというレイアウトになっていました。「電車の写真はこう撮るんだ」「車両の解説はこう書くんだ」という基本は、この本で学びました。
その結果、写真を撮るとき、いつの間にかガイドブックシリーズと同じような角度で撮り、それをアルバムにまとめるときは同じようなレイアウトを踏襲するという癖がついたのです。知識ではなく、模倣です。
どこかに行って写真を撮るときは、まず形式写真を押さえ、安心してから風景の中を走る走行写真を撮るのが常でした。
必要のない写真は撮らない
よく皆さんは、旅行先などで手当たり次第に写真を撮ったり、自分たちの記念写真を撮ったりしますが、私は必要なものだけを撮ります。後でアルバムに体系的にまとめられるネタだけを撮るのです。
これには良し悪しがあり、その時に必要なものしか撮らないので、後で興味を持った物については、「あの時なぜ撮っておかなかったんだろう」と後悔します。
もちろんメリットもあります。アルバムに貼ることを前提に撮りますので、アングルは自分なりにきちんと定めて撮ります。同じような写真を並べる場合には、同じような角度で撮ります。表紙写真やグラビアのように使いたいときは、光線状態も考慮して、かっこよく撮ります。
このことは、会社で広報誌を作るときにも、そして後にWebサイトを作るときにも自然に役立つ習慣でした。
Windows95
社会人になって10年と経たない頃、Winsows95が発売されました。
それが何なのかは、その時の私にはよく分かっていません。テレビのニュースで若い人が行列を作ってWindows95と書いた箱を奪い合うように買っている姿を見て、先輩社員が「あの箱には何が入っているの?」と言っても、それに明確に答えられる知識は持っていませんでした。
しかし、間もなく会社にパソコンが入りました。それまでワープロを使って資料を作っていた私たちには、大きな革命になりました。ただ、新しいものに慣れるには時間がかかります。多くの上司や先輩は「ワープロの方が使いやすい」と言いました。これまでキーボードだけで操作できていたのに、マウスを使って「右クリック」や「ダブルクリック」をするとか、変換キーの使い方、保存媒体がFDではなくて機械そのもののHDであること、プリンターが別に必要になること、電源を入れてから立ち上がるまで時間がかかること。すべてがバリアになりました。
このことを私は逆に好機ととらえ、パソコンを使いこなせるよう努力しました。経理関係の仕事をしていたので、仕事でよく使う表計算はパソコンに入っているExcelが圧倒的に便利で早いこと、数あるワープロソフトも今は使いにくいけれど、画像を貼り付けるなどの機能を駆使すれば、かなり面白い事が出来そうだと気付いたのです。
写真活用の可能性
(画像:書籍の写真をWord文書に貼り付けた鉄道車両の解説文)
パソコンがあれば、様々な媒体から画像を取り込むことができ、それを貼り付ければ、色々な文書がいとも簡単に作れる。
これまで必要があれば自分で写真を撮ったりして来たけれど、それが必要なくなる。世の中に他人が撮影した画像が溢れているのだから、それをもらえばいい。
そう思った私は、自分のカメラを捨ててしまいました。古い友人に誘われて大井川鉄道を見に行った時も、カメラを持たずに行き、「これからは自分で写真を撮る必要がない時代だ」などと粋がっていました。
また、パソコンに接続するスキャナを購入し、持っていた本に載っている写真を片っ端からスキャンし、学生時代に作りかけていた鉄道車両の解説文をパソコン変換するとともに、書籍の写真を貼り付け、「これならいつでも本にできる」などと思っていました。
もちろんこれは誤りです。著作権というものがありますので、他人が撮影した写真がいくらたくさんあっても、個人で楽しむ以外の使い方はできません。
2.Webサイトの立ち上げ
インターネット
パソコンでのネットワークの始まりは、パソコン通信でしょうか。時代の先端を行く若い人たちが、パソコン通信で、コミュニケーションを図るようになります。
その次の時代として、「インターネットのホームページを作る」ということが流行します。
企業においては、これまで多額の広告費を使ってテレビCMや新聞広告、パンフレットなどを作成し、広報活動をしてきましたが、インターネットを使うことで、情報の発信が容易になります。受け手が見に来てくれれば、こちらが伝えたい情報が日本全国、いや世界各地に伝わるのがインターネットなのです。
うまいことに、私の職場でも「ホームページがあればいい」という話になり、企画部門にいた私は、それを担当することになりました。
さらに運がいいことに、グループ企業でパソコン教室を立ち上げたことから、業務の一環としてその生徒になるという機会を得ることができました。そして、その延長上で、ホームページ作成という講座も受けることができました。
教わった技術は、使わないと忘れてしまいます。さっそく、会社のホームページをまずは自分で作成してみることにしました。外注するより安く済むし、何より自由度が高いからです。
作っているうちに、読みやすい色と読みにくい色、画像サイズの問題、横スクロールはない方がいいなど、色々と学ぶことができました。
Webサイトが趣味の発表の場、社交場になっている
2002年頃の岩手県交通の公式Webサイト。トップページと「バスファンの広場」
会社のホームページを作るためにも、他社の模倣は大事です。まだ黎明期ではありましたが、参考になりそうなページを色々と見て回りました。
そんな時、ふと岩手県交通の公式ページを見に行くと、掲示板のページが作られており、そこが岩手県のバス愛好家の情報交換の場になっているのを発見しました。当時まだ、私が知っている車両が残っていて、そんな車両の移動や廃車情報とか、過去の思い出話とかに花が咲いているのを見て、昔の自分を思い出してきました。
企業だけでなく、個人のページを立ち上げる人も大勢います。
自分の撮った写真を綺麗に並べたり、研究結果を体系的に発表したり、色々な個人ページが立ち上がっていました。
ある日ふと気づいたのです。「自分でも、あの当時撮影した岩手県のバスの写真を、かつてフリーアルバムに貼ったように、ホームページに掲載できるんじゃないか」
そう思い立ってしまったら、いてもたってもいられなくなりました。
サイトの基本
どのようなデザインのWebサイトを作るか。それがまず最初の課題でした。
どちらかといえば、形から入るタイプなので、自分でとことんまで気に入ったパッケージができると、そこに入れる中身の作成にも気合が入るのです。
この当時、「Web Creators」とか「Web Desining」などの雑誌が出版されており、優れたWebサイトの実例とか、作り方などが紹介されていました。
もちろん、デザインというのは、見た目の美しさだけを指すのではありません。ページ遷移のしやすさやページ構成の分かりやすさなどを含みます。しかし、この時代、ページの見た目は大事でした。
Webサイトというものがまだ世の中で完全に認知されていない中で、いかに見てもらうか、いかに興味を持ってもらうかは重要な要素で、突飛なデザインや煌びやかな色使いで興味を引くサイトも多数ありました。
当サイトは、いたずらにカラフルでうるさいデザインにはせず、テーマカラーとして青と黒を使用し、シンプルに仕上げることにしました。
また、これらの雑誌に教えられた点の一つに、サイトの作成や更新、リニューアルなどの記録を残しておくことが必要だということが挙げられます。これは、サイト内に「更新日報」のページを用意し、スタートから今までのトップページの「更新情報」に記載した内容を、常にコピーして残しています。
プロバイダの決定
個人ページ全盛の時代、様々なプロバイダが個人Webサイトの門戸を開けていました。
これだけは雑誌をめくっても正解は書いていないので、職場でシステムを担当する同僚に、さりげなく聞いてみました。「友人が個人ホームページを作りたいからって相談を受けたんだけど」ということにして。
彼から推奨を受けたのが、Biglobe(当時NECの一部門)でした。大手の企業の方がサーバーも安定しているし、長く付き合うことができるというのが理由でした。
広告を掲載することで無料で使えるプロバイダにも惹かれましたが、彼の助言を尊重し、有料のBiglobeに決めました。
この判断は、結果的に大正解でした。20年間、大きなトラブルなく推移しました。また、他のプロバイダの中には、個人ホームページの事業を終了したところが多数ありますが、Biglobeは今も引き続き運営してくれています。
サイト名称の決定
サイトの名称は、「80s岩手県のバス“その頃”」に決定します。
他にどんな候補名があったかは忘れましたが、「あの頃」では遠すぎる感じだし、「この頃」では「このごろ」と読めてしまって意味が異なると自問自答した覚えがあります。
メインテーマが1980年代であり、岩手のバスであることから、残りのワンフレーズでサイトの印象を決定づける必要がありました。
結果的に“その頃”というフレーズは成功したと思っています。20年後の今では、「その頃」で検索しただけで、このサイトが上位に出てきます。
ディレクトリ構造
(画像:初期に購入し長くお世話になっている単行本2冊)
デザインが決まったら、ディレクトリ構造を決めて行きます。要はカテゴリ分けです。
これも最初にちゃんと決めておかないと、ナビゲーションの作り直しや複雑化といった問題が起きやすくなります。
そこで、メインコンテンツを「車両ギャラリー」とし、サブコンテンツとして「その頃の出来事」「アラカルト」を設定しました。バス車両を図鑑形式で掲載するので、「車両ギャラリー」は必然となりますが、当時の時代背景を振り返るには「その頃の出来事」のコンテンツも必須でした。
この時は、「アラカルト」は予備的なサブコンテンツで、残りをすべてここにぶち込んでしまえば、コンテンツを増やさなくても対処できるという思惑がありました。結果的に「アラカルト」のコンテンツは有効活用されます。なお、パンフレットなどの資料の紹介の場である「過去の本棚」は、後に追加しました。
ページ構造
当時のWebページの多くが「フレーム」構造を採用していました。これは、ナビゲーションなどを一つのパーツにしておくことで、スクロールしてもナビゲーションが固定されたり、サイト構造変更の際にそのページだけを修正すれば済むなど、複数のメリットがあります。
当サイトでは、ヘッダーのグローバルナビゲーションを常に固定し、主要コンテンツにすぐに遷移できるように作りました。トップページやリンク集などは、このヘッダーをフレーム化せずに、1枚のページに収めました。トップページをフレームにしてしまうと、トップページそのものに本文の記載がなくなり、検索されにくくなるなどの問題があるのです。
「車両ギャラリー」などのページ数の多いコンテンツでは、左にサブメニューのフレームを作りました。孫ページ間での遷移のしやすさを考慮したものです。このサブメニューにはグレーを用い、シンプルでハイセンスを維持できるようにしています。
サブデザインの工夫
突飛なデザインは避けたとはいうものの、ほかにはない個性を発揮したいという思いはありました。
乗物の趣味サイトの多くは、駅名票や方向幕など乗り物関連のパーツを使ったナビゲーションを作ります。
当サイトでは、手元にあるものを使おうと思いました。「車両ギャラリー」ではフィルムのマウントケースをモチーフにしました。「その頃の出来事」はスリーブのネガをそのままモチーフにしてみました。カーソルを合わせると、ネガが反転して普通のカラー写真になります。「過去の本棚」はクリアファイルなどに入れた資料を並べるので、ノートとかバインダーをモチーフにしました。
こういうパーツづくりには、のめり込んでしまうのが私の悪い癖ですが、それがまたサイトを作る大きな楽しみにつながるので、構わないと思っています。
フィルムスキャンを楽しむ
Webサイトの作成を始める前から、スキャナは購入済みでした。Windows95のパソコンを購入し、同時期プリンタも購入すると、次には写真類をスキャンしてみたくなったのです。この時購入したのはキャノン製で、通常のスキャナのほかに、フィルム専用のスキャナも購入しました。
Webサイトの作成を始めるのと時を同じくして、パソコンを買い替えることになりました。このスキャナはWindows95対応機だったため、新しいOSに対応せず、今度はエプソン製を購入しました。これは原稿台のほかにフィルムスキャンユニットが付属しており、1台で紙焼写真もフィルム写真もすべてスキャンできます。
写真をスキャンしてゆく作業というのも楽しいものでした。
フィルム写真の時代には、フィルムの現像代のほかに紙焼のプリント代もかかります。そこで、まずフィルムの「現像のみ」を写真屋さんに依頼し、必要なコマを選んで「焼き増し」を写真屋さんに依頼するという流れでした。そのため、撮影はしたもののプリントしなかったコマは多数あったのです。
今回スキャナを使ってパソコン画面に表示してみて、まるで初めて見るような写真が多数ありました。
それだけではありません。撮っていなかったと思い込んでいた車両が撮れていたり、写真の隅に気づかなかった車両が写り込んでいたり、写真屋さんでは露出不足で失敗写真だったものがスキャナではそれなりに取り込めたり、想像した以上に様々な発見がありました。
Webサイトを作り込む作業は、単に過去の資料を整理するだけでなく、タイムマシンに乗り込んで、過去の世界に触れているかのような楽しい時間でした。
3.初期
いよいよ公開
2002年7月1日、待ちかねた公開日になりました。
主要ページは準備を整えた上での公開でしたが、もったいぶって、少しずつ、連日新しいページを追加していくスタイルを採ります。人気のありそうな岩手県交通と国鉄バスからのスタートです。
公開しただけでは訪問者は来てくれません。SNSのない時代、頼みの綱は既存のWebサイトです。岩手県交通の公式サイトの掲示板には、同じ興味を持つ人が大勢来ていましたので、ここで最初のご挨拶をしました。
“その頃”からまだ10数年。サイトに掲載しているバスがまだ走っていました。当時を知る人はもちろん、最近になって岩手県の古いバスに興味を持った若い人まで、サイトを訪れてくれるようになりました。
相互リンクの依頼
この時代のWebサイトの訪問者を増やすための主要な方法の一つが、他のWebサイトからリンクを貼ってもらうことでした。直接的には、訪問者の多いサイトのリンク集を見てこちらに流れてきてくれるという効果があります。間接的には、サーチエンジンに登録される条件として、いかに多くのサイトからリンクが貼られているかということが重要だという点がありました。
当時、全国を見渡すと、有名どころのバスのサイトがいくつもありました。その中で、東北地方のバスのサイトや、特に古いバスを扱っているサイトの管理者様にメールを送り、または掲示板に書き込みし、相互リンクをお願いするのです。多くの管理者様が快く受け入れてくれました。
頂き物の写真を掲載する
やがて、“その頃”のバスの今の姿を撮影していただいたり、廃車体となった姿を撮影していただいたりするようになります。サイト開設から2か月ほどの8月下旬、「車両ギャラリー」に「別館」を増設し、そこに頂き物の写真を掲載することにしました。サイト開設当初に予定していなかったコンテンツの登場です。
メインコンテンツとは違うことを強調するため、イメージカラーは緑色としました。
4.拡大期
デザインのブラッシュアップ
“その頃”に撮影したバスの写真を事業者別、用途別に掲載する「車両ギャラリー」がほぼ完成し、サイトは安定期に入ります。それ以降、「アラカルト」とか「過去の本棚」とかに写真や資料を発掘して、見せ方を工夫しながら出してゆくのですが、常に何かを変えて行かないと落ち着かない性格が災いします。
2005年7月には、上部のグローバルナビゲーションの黒い部分に、時計と岩手山の画像を入れ込むなど、デザインの修正を行いました。時計は1980年代から現在までの時間の経過を、岩手山はメインテーマが岩手県であることを表します。
東北地方からはみ出してゆく
自分の写真だけで作り込んで行ったWebサイトも、頂き物の写真を掲載することで、「別館」というサブコンテンツを作ることになったわけですが、やがて岩手県以外の東北地方の写真を頂くようになり、2004年4月には「別館の別館」を開設しました。さらには東北地方以外の古いバスや廃車体の写真を頂くことも多くなり、2004年7月には「別館の番外」を開設します。
岩手県や東北地方にとどまらない古いバスに焦点を当てたコーナーとしては、2003年12月に「1980年代までのバス入門編」を立ち上げました。まだ若いバスファンの皆様に、古いバスのことを知ってもらい、このサイトにより親しんでもらおうというのが狙いです。
2004年12月には「バスコレを理解するために」というコーナーも新設。2005年3月には「保存車の世界」を新設しています。
奇跡が起きるということ
Webサイトが何かを動かすとか、何かを変えるとか、そういうことがあれば嬉しい・・・いや本望だといった方がいいか。
2005年の夏、奇跡が起きました。見たこともない古いキャブオーバーバスの写真が送られてきて、掲載したその写真を見て、「そのバスを引き上げたい」という人から連絡を頂いた・・・これが発端でした。
この顛末は、2006年7月に正式に「奇跡の復活〜サルベージ」という独立コンテンツにしたページに事細かく記載してあります。
これが縁となり、海和さん、及び昭和の車保存会の皆さんとの交流が始まります。栗駒町(栗原市)では「みんなでしあわせになるまつり」が開催されます。様々な古いバスのサルベージも行われます。
結果的に、世にも貴重な元塩釜交通のキャブオーバーバスは海和さんが所有しているほか、小松市のJバス、大分県豊後高田市など、保存会がサルベージしたバスが保存車として活躍しているのです。
個人的な参戦
サイトを始めたことで、個人的な趣味の世界にも変化が生じました。
このサイトを始めたきっかけは、「昔撮った写真を整理して公開しよう」ということで、新たなものが加わることは想定していませんでした。それが、まずは頂き物の写真を掲載することから始まり、古いバスそのものの解説をしてみようとか、サルベージリポートをしようとか、色々と範囲を広げているうちに、自分でも古いバスの撮影にカムバックしようという機運になりました。
実は、1990年代からの約10年間は、ほとんど個人的な写真撮影を行っていませんでした。発表の場がなかったこともありますし、モデルチェンジなどで知らないバスが増えてきて興味が薄れたり、仕事の方が面白くなったり、そもそもわざわざカメラを持って外に出るなんて面倒くさくてやってられない気分だったのです。
それなのに、過去を振り返るだけのつもりだったこのサイトが、私を引っ張り出してくれました。
画像掲示板
2008年3月に、これまでの掲示板を閉鎖し、画像掲示板をスタートさせました。
サイトのプロバイダであるBiglobeが掲示板サービスを廃止したためです。
サイト訪問者の皆様とのコミュニケーションの場がなくなることは好ましくないので、後継の掲示板を探します。
時代的には画像投稿ができる掲示板が欲しいですし、これまでの書き込み内容から考えて、スレッド形式(一つの話題ごとに返信できる形式)のものがいいと思いました。
その結果、bbseeの提供する画像掲示板に加入することにしました。画像掲示板のスタートをきっかけに、これまで管理人の立場は返信するだけでしたが、自らスレッド主になって話題を提供することも増えて行きました。
5.サイトデザイン第2期(CSSの時代)
サイトデザイン改修
2010年12月より、サイトデザインの改修を開始しました。
これまでのデザインは、フレームを多用していましたが、フレームは時代遅れになりつつあったのです。
また、パソコンのサイズも横長になり、これまでのページだと、ユーザーのパソコン次第ではいたずらに横にひろがった画面表示になって、デザインの劣化だけでなく、読みにくくなる欠点が生じつつあったのです。
改修後のサイトデザインは、メインカラーの黒と青(紺)は維持しつつ、それぞれのパーツの役割を明確にしました。ヘッダーは黒色で時計と岩手山を背景にしたデザインを踏襲していますが、サイト名を示すだけのヘッダー機能に絞りました。グローバルナビゲーションはその下に配置しました。
フレームを廃止したことにより、左側にあったサイドナビゲーションがなくなり、同一カテゴリー内でのページ遷移が難しくなりましたが、上部に「パンくずリスト」を配置することで、今どのページにいるのかが分かりやすいようにしました。
CSS(スタイルシート)の活用
この改修はまた、ページ作成技術の革新にも影響されています。
これまでは画像や文章の配置にはhtml内での表組(table)を使ったものが多かったのですが、サイトデザインの主流はスタイルシート(CSS)を用いたものに移行しつつありました。
CSSはサイトデザインを一括して記述するため、これまで1ページずつ修正しないとできなかったデザイン改修が、CSSの記述を変えるだけで可能になります。そして、html内のソースは文章だけで簡潔になりSEO対策上も有利になります。
CSSを理解するのは難しく、単行本を3冊も購入し、勉強しました。試作ページもいくつか作りました。
今まで直接的に修正出来たデザインが、遠隔操作をするようで、最初は戸惑いがありました。
結果的に完成したページのベースとなったのは、ある企業サイトのCSSです。やはり成功の影には模倣があるのです。それがどこの会社のページかは内緒ですが、東北地方であることだけは白状しておきます。
SNSの時代
Webサイトの作成技術だけでなく、Webサイトを取り巻く環境も変わりつつありました。
2000年代の中頃から、個人が公開するのはブログ(Web-Log)に主流が移りつつありました。ブログは作成が容易で、文章も写真も日記形式で簡単にアップすることができます。多少の技術が必要なWebサイトに比べて、すべてが楽なのです。
2010年頃になると、ツイッター(Twitter:固有名詞)が流行し始めます。こちらは「つぶやき」とも言われ、思ったことを短文でもすぐに公開できるツールです。いわゆるSNS(Social Networking Service:個人間コミュニケーション)の最たるもので、相互の情報交換から情報の拡散など、あらゆる方法でコミュニケーションが図れるのが強みでした。
時を同じくして、携帯電話はスマートフォンに移行し、人々が手元に常にネット端末を所持できるという時代がやってきました。
2010年代が進むと、これまでリンク先であったり、情報の参照先であったりした個人Webサイトが次々と閉鎖になり、ブログやツイッターへと活躍の場を移してゆくようになったのです。
それでもWebサイトにこだわり続ける
それでも私はWebサイトにこだわり続けます。
その理由の一つは、このサイトは情報の集積であり、情報の新しさには無関係であるからです。ブログだと、古い情報は埋もれて行きます。情報を体系的に見ることが難しいのです。
もう一つの理由は、リアルタイムのコミュニケーションも不要だと思っているからです。これは個人的にもそうで、「既読」がつくようなコミュニケーションは面倒だし、受信したものをすぐに読まなければいけないコミュニケーションはごめんだからです。
そういえば、昔から電話が嫌いでした。でも電子メールは好きです。好きな時に読めばいいし、好きな時に返信すればいい。内容次第では返信すらしなくていい。私はそういう環境の居心地がいいんです
もう一つの時代の変化
この時期、もう一つ時代の変化がありました。それは回顧主義のメジャー化です。
サイトを始めた時にはコアな参考文献しか存在しなかった古いバスの情報が、出版物として次々と世に出るようになりました。
時々、もうこのサイトの役割は終わりかもしれない、と思うようになりました。サイトデザイン改修を前に「1980年代までのバス入門編」を閉鎖したのはそのためです。本で買える情報を個人サイトで公開する意味はない。そもそも、入門編のコンテンツ自体が、文献情報を集積しただけのもの。それなら、みんなそれをお金を出して買えばいい。
でも、この考えは、イコール自分のWebサイトを全否定することに他ならなかったのです。
入門の復活
こういった葛藤の中、一旦閉鎖した「1980年代までのバス入門編」を「入門その頃のバス」として復活させることにしました。
2012年10月、たった2年程度での復活に何の意味があったのでしょう。
それは、文献研究をベースにした内容ではなく、実車研究をベースにしようということです。特に過去にメーカーが発行したカタログの記載されている事項は、文献以上に真実性が高いものです。
ただし趣旨は旧コンテンツと全く同じ、若い人にも古いバスに興味を持ってもらいたい。それのみです。
6.サイトデザイン第3期(レスポンシブデザインの時代)
2回目のサイトデザイン改修
2018年2月20日より、2回目のサイトデザイン改修を行い、3世代目の姿になりました。
パソコン画面の幅はさらに広がり、大きな画面でも違和感のないようなデザインにするとともに、既に訪問者の過半数となっていたスマホでの閲覧に対応したのです。
デザイン上の流行としても、グラデーションや立体感のあるデザインから、スマホでも見やすいメリハリのある色使いが主流になっていました。
そこで、思い切ってこれまで気に入っていたメインカラーの黒を捨て、青を前面に出しました。イメージは岩手県交通の青銀カラーですが、この色が間もなく姿を消すのであれば、サイトデザイン上はそれを残そうという意図もありました。
レスポンシブデザイン
今回の主要なミッションは、スマホでも見られるページにすること。つまりレスポンシブデザインです。
過去に「携帯サイト」などというのがあり、携帯電話で見られるように幅の小さいページを別に作った時代がありましたが、今回は一つのページがパソコンにもスマホにも対応するという点で大きく進化しています。
しかしこれもどうやって作ればいいのかよく分からない。そこで今回はこの本1冊だけで勉強しました。
でも、結果的に本を読んだだけで完成しないのは、前回のCSSの時と同じ。今回も他のページを模倣するという近道を選びました。その対象ページはやはり東北地方なのですが。
スマホで見ると
レスポンシブデザインというのはこういうことです。
パソコンで見ると、写真が横に2枚並んでいて、左にサイドナビゲーションが配置されています。幅の広いパソコンで余裕をもってみられるページ配置です。
これを幅の狭いスマホで見ると、写真は縦に並ぶ配置に変わります。さらに、サイドナビゲーションは姿を消します。
もちろん、この中間的サイズのタブレット端末にも対応しています。
これらをすべてCSSの記述で定義しているのが、レスポンシブデザインなのです。
7.コンテンツのこだわり
自己満足とか自画自賛は好きではないのですが、サイトの中で展開したいくつかのコンテンツについて、その成り立ちなどについて、ちょっと触れておきます。
保存車の世界
「保存車の世界」というコンテンツを新設したのは、2005年3月のことです。
発端は「鉄道車両には保存車をまとめた本があるけど、バスの保存車をまとめた本はないんだろうか」と思い、探したことから始まりました。
鉄道では、JTBから1993年に「全国保存鉄道」という本が発行され、続編は私の知っているだけでも4冊発行されています。カラーグラビアや場所別の保存車両解説、巻末には詳細な保存車リストがつくなど、パーフェクトで分かりやすい構成です。
一方、バスにはそういう本はありませんでした。「バスラマ」で1998年頃に「日本の保存バス」というコーナーが連載されたことがありましたが、飽くまでも連載記事なので一覧性はありませんし、紹介された保存車もパーフェクトではなかったようです。
ないのなら自分で始めてしまえ、というのが「保存車の世界」を始めたきっかけです。
交通博物館(当時)に保存されている円太郎バスや国鉄バス1号車から始まり、メーカーや事業者などが静かに保存している車両まで、許可をいただいて見学させて頂いたりして、画像を揃えました。
保存車の基準というのは曖昧なところがありますが、動態保存と解釈できるボンネットバスなども対象としました。
もしこのコンテンツを本にするとしたら、単なる車両紹介とリストだけでは固すぎるので、動的なコーナーが必要になるでしょう。よく売れる旅行の本がそうであるように、遊べるスポットを紹介したり、グルメスポットを紹介したりして、紙面を飾るのです。物を売るというのはそういうことです。
もし保存バスのコーナーを本にする人がいたら・・・という仮定で、場所別の紹介コーナーである「保存バスを見に行こう」というページも作ってみました。
次に作るとしたら、「保存バスグルメ」というコーナーだと思っていますが、幸か不幸かグルメ記事を書くスキルがないため、実現はしていません。
バスコレを理解するために
「バスコレを理解するために」というコンテンツを立ち上げたのは、2004年12月のことです。
トミーテックのバスコレクションは、2003年に発売が開始されたNゲージサイズ(1/150スケール)のバス模型ですが、造型が非常にリアルで、かつ実際のバス事業者のカラー、仕様が再現されているという、これまでにないバスモデルです。
私が特に感銘を受けたのが、人気のある最新車種だけでなく、私の世代の車両であるモノコックボディの車両もラインナップされていたことです。そして、バスコレで発売された車両を並べることで、“その頃”の岩手県のバスを再現できてしまうという魅力もありました。
しかし、若い人には、古いバスは不評とのこと。ならば、その古いバスがどのような車両であり、どんな活躍をしたのかなどを、まとめることで、若い人にも興味を持ってもらおう・・・ということで、このコーナーができました。
第1弾の三菱MPから、第8弾の富士重工R13までのバスについて、実車の写真や解説などを記載しました。
もっとも、その後のバスコレの展開は、やはり若い人向けに最新車種をモデル化する方向に向かってしまい、このコーナーは2007年8月に役目を終えました。
その後、「過去の本棚」に「今の本棚」というコンテンツを新設し、バスコレを含むバスモデルを紹介するという形で現在に至ります。
バスのカラーリング
「バスのカラーリング」というコンテンツは、2017年1月にスタートしました。
“その頃”の盛岡駅前でバスを見ていると、小田急バスとよく似た羽後交通とか、国際興業とよく似た岩手県交通とか、或いは島原鉄道とよく似た岩手県北バスが次々と出入しているわけです。こういう現象は全国どこに行っても見られたもので、「どうして同じカラーのバスが走っているんだろう」という疑問を持った方は少なくないはずです。
しかし、これについても解説した本は見つからないのです。
結果、「なら自分で作ってしまえ」ということでこのコーナーが誕生しました。
折しもこの時期、全国的に復刻カラーがブームとなっており、過去のカラーデザインが各地で見られるようになっていました。
バスのカラーリングのコーナーを作成するに当たっては、これら復刻カラーの存在も助けになりました。通常なら撮影できない過去のカラーのバスが撮影できたからです。もちろん、古い画像を提供していただいた板橋不二男様ほかの皆様のご協力も不可欠でした。
バスカタログ聖地巡礼
「バスカタログ聖地巡礼」は2019年7月にスタートしました。これはバスのカタログを題材に、そこで使用されている写真の撮影場所を訪問するというコーナー。聖地巡礼というのは、映画やアニメーションなどのファンの間で流行っている行為です。これをバスカタログでやってしまうというのは、本邦初の試みです。
このアイデアは、YS様から頂きました。いすゞジャーニーQのカタログに載っていた写真が、新潟県の弥彦駅で撮影されていると教えてもらったのが始まりです。こういう切り口でバスカタログを紹介するのも面白い、ということで、アイデアを丸ごと頂戴しました。
実は、バスのカタログをサイトで紹介する構想は以前から持っていました。ただ、具体的な方法が決まっていませんでした。
市販されているバス誌でも、バスカタログを題材にしたコーナーがあったりしますが、大抵は、そこに載っているバス車両の解説記事です。ブログやツイッターでバスカタログを紹介している個人の方も見られますが、大方同じ傾向です。
しかし、それではつまらないと思っていました。「入門その頃のバス」と内容が重複しますし。
バスカタログのデザインや写真は、その時代を反映します。そんな切り口もあるのではと思っていたので、聖地巡礼はもってこいのアイデアだったのです。
撮影:新宿区(2019.8.8)
8.納涼特別企画
引き続き自己満足のコーナー解説になってしまうかもしれませんが、夏になると毎年続けてきた「期間限定の納涼特別企画」について触れたいと思います。
これは、開設翌年の2003年の夏から始めた企画もので、7〜8月の夏休み期間に掲載して、終わると消去してしまいます。題材は、サイトテーマから微妙にずれたものを取り上げています。
納涼特別企画を始めた理由は、サイトテーマからずれていても、ちょっと遊んでみたいという個人的な興味からでした。期間限定にしたのは、サーバーの占有量を抑えるためでもありました。また、当時夏のシーズンには仕事が忙しく、ページの作成や更新が滞るため、事前に作成しておいた特別ページをアップして手を抜くという理由もありました。
そんな自己都合で始めた納涼特別企画の中から、自分で面白かったと思うものを振り返ります。。
末期の国鉄貨車(2005年)
カメラを手にし始めた中学生の頃、貨車の形式写真を相当数撮っていました。
1970年代は、まだ国鉄が貨物輸送の主役だった時代で、幹線でもローカル線でも、貨物列車がたくさん走っていました。単車からボギー車、有蓋車から無蓋車、黒いのから茶色いのからクリーム色まで色もさまざま、形も様々でした。
そんな貨車の形式写真を車種別に並べてみたのです。年代的にも車種的にも、サイトテーマにはかすりもしないことから、期間限定のコーナーで取り上げてみたのです。
或る高原リゾートの2010年
ある特定の観光地とか温泉地とか企業の敷地内とかで、古いバスが集団で生き残っていることがあります。その地域内でしか動かない送迎用途であるから、最新モデルを入れる必要がないし、その費用もない、そんな理由で生き残っているのだと思います。
そういう特定地域の自家用バスを取り上げたのは、この2010年が最初だったと思います。
翌年には「或る湖畔リゾートの2011年」という続編のようなものもやってみました。
昭和50年代の地方私鉄(2012年)
鉄道図鑑シリーズとでもいうべきものの中で、各地で撮りためていた地方私鉄の車両の形式写真をまとめてみました。
1970年代の中頃、朝日新聞社で毎年発行されていた年鑑誌「世界の鉄道」で地方私鉄が取り上げられており、簡単な写真と解説でその時の各社の実態が分かるという構成が魅力でした。そんなイメージを下敷きにしてみました。
特に中古車両によって車両代替をしている地方私鉄は、バスと同じように、車両のライフサイクルが短く、一つの時代を切り取った資料というのは貴重なのです。
1980年代の高速バスブームを振り返る(2014年)
1980年代後半から1990年代にかけて、高速バスブームというべき時代がありました。都会のバス会社と地方のバス会社が共同運行で夜行の高速バスを運行するというスタイルで、全国各地にデラックスなスーパーハイデッカーを使用した高速バスが誕生しました。
そんな時代に各バス会社が作成したパンフレットを一堂にお見せしました。次々と新しい車内サービスが登場し、パンフレット自体のデザインも工夫やセンスが磨かれて、時代の楽しさが伝わってきます。
四半世紀経って振り返った時、それがバス事業にとって一つの黄金時代であったのだと、改めて実感しました。
(ちなみに、メニューページの意匠は、岩谷堂箪笥です)
或る温泉旅館街の2016年
観光地にまとまって存在する古い自家用バスをご紹介するという趣旨は何回目かになりますが、この時は、昔ながらの温泉街の雰囲気を、町並みの写真で表現することに工夫してみました。実際の車両そのものの数はそう多くはありませんでしたが、温泉街の雰囲気が面白くて、記憶に残っている特集です。
この後、この温泉地は、昭和レトロ(私はこの言葉が嫌いですが)が残る温泉地として、若い人が訪れるようになります。
とんでも鑑定談(2019年)
“その頃”に岩手県交通の様々な車両を見ながら、これはどこの会社から来た譲受車だろうか、などと想像や調査を繰り返した記憶を、ページに再現したのがこのコーナーでした。
今でこそ、ネットを通じて様々な情報が飛び交い、数時間でこんな問題は解決してしまうのですが、当時はそんな仲間もいなければ情報交換手段もありませんでした。
車体の隅々まで舐めるように眺めまわしたり、車内に残る表示類を探したり、不審な行動の末に答えを見つけるという、そんな経緯を加工画像を交えながら紹介しました。
ちなみに、ロゴの元ネタは説明するまでもないと思いますが、「団」を「談」に変えていることは、地味に気付いていただけなかった気がします。
9.結語
アニバーサリーは不要だけれど
Webサイト「80s岩手県のバス“その頃”」の20年を振り返ってきました。自画自賛やアニバーサリーが嫌いだと言いながら、ここまで書いてしまいましたが、客観的な記録だと思ってお許しください。
自分の誕生日だって、小学生以来祝ってもらった記憶はありません。人生の節目を祝う○○式もやったことはありません。20歳を迎えた時の成人式は、岩手県に住民票を移していた時期なので、生まれ育った地区からは対象外とされ、岩手県では地元出身者のみ対象なので、どこからも呼ばれませんでした。仮に呼ばれたとしても行かなかったと思いますが。
近年、マスコミで取り上げられることがある「荒れる成人式」では、成人式に呼ばれた新成人が暴力をふるったり、奔放な行動をしたりします。目的が分かりません。社会に反発があるのなら、出席しなければいいだけなのに、大人が用意した席に間抜けな顔をして参加しておいて、秩序を乱してみる。実はそこに出席している大人だって、毎年無駄な成人式に並ばされてうんざりしているということを、気づきもしない時点でまだ子供なんだと思います。
葬式も墓石も意味はない
人生でかかわる様々な式典の中で、最も無駄なものがあるとしたら、葬式だと思います。
結婚式や卒業式など、当人が出席しているからまだ許せますが、葬式に当人はいません。遺体という形で存在はしていますが、「あなたのために式を執り行っている」ことを自覚はしていません。
にもかかわらず、泣きながらマイクの前で「別れの言葉」を述べたり、お経の後に本人の許可なく戒名が決められたり、「お別れ」と称して死に顔をみんなで代わる代わる覗き込まれたり、そこに当人がいるかのような演出がなされます。
埋葬後には、墓参りなるものがあり、墓の前で手を合わせたり泣いたり、当人の好物を備えたりします。墓の下にあるのは焼いた後の骨だけで、人ではありません。話しかけても誰も聞いていません。
事故等で亡くなった場合には、事故現場の道路脇に花を置いたり、好物だったお菓子や缶ビールを置いたりすることもあります。死んだ場所にも当人はいません。
それに、置かれた食べ物や飲み物は、鳥や野生動物が荒らすのを防ぐため、管理者や近所の人が片付けざるを得ません。それを食べ物として利用できればいいのですが、屋外に放置されたものを食べることはできません。無駄に廃棄するしかないのです。
生と死の二者択一という不合理
いつのころからか、「心肺停止」という言葉が生れました。その時点ではまだ「生きている」という発想です。土砂災害などで生き埋めになった場合も、発見されれば「死者」にカウントされますが、それまでは「行方不明者」です。「死」が確認できなければ、生きていると判定されるのです。
そして「生」は無条件に「善」と認められます。人間としての思考能力や身体能力が残されていなくても、生きていれば「よかった」と言わなければなりません。結果的に、脳死状態で生きていた人が死去した時、人はその死を悲しむ必要があるのです。
状況によっては、本人が「この状態で生きていても意味はない」「苦しくて生きていたくない」と思うこともあるでしょう。しかしそこに本人の意思は関係ありません。本人の痛みも苦しみも実感できない人間が、「生かさなければいけない」という常識に基づき、治療や延命の判断をするのです。
私は、今ここで死んでも後悔がないので、延命はしないで頂きたいと思っています。
また、どこかで「行方不明者」になったときには、そのまま探さずに、海底とか土の中とかに埋もれたままにしていただきたいと思います。「このままでは浮かばれない」などと言うのは、あなたの勝手な意見であり、私の本意ではありません。
結語
Webサイト開設の顛末を書くつもりが、脇道に逸れてしまいました。
このWebサイトを続けることで、仕事をリタイアした後の生きがいもなくならずに済みそうです。
反面、「絵葉書でめぐる日本バス紀行」を始めたことで、やりたかったことはほぼやり終えた気もしています。
要するに、このまましばらくこのペースで続けることも可能だし、どこかでいきなり中断してしまっても悔いはないという所まで来ているのです。
始まりがあれば、終わりもあります。終わるときには、きちんとご挨拶も説明も出来ない可能性があります。ここで書いたことは、その時のご挨拶代わりです。
長くお付き合いいただき、本当にありがとうございます。
Special thanks to every visitors to my Web Site, especially Mr. T. Kaiwa, Mr. M. Fushimi, Mr. Y. Katsurada, Mr. Y. Akagi, OKMR, Sato89, Nekomo, Oppretta, Shuten Yokokawame, Ichinoseki Shimin, Tonan Sonmin.