桜の記憶・3
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桜の記憶・3
 それに気づくことは、私にとって相当の衝撃でした。しかし自分に嘘はつけません。確かにあのとき、私は芳子を先生に、この男に奪われた、この男が来なければ芳子の傷は私が舐めてあげられたのに。そう思ったのでした。
 醜い感情です。でも事実でした。あのとき私は気づいてしまったのです。小夜さんから告げられて以来、自分の中で沸きあがっていたものの正体を。
 その自覚は、認識するのにいたく苦痛を伴うものでした。恥ずべきことです、禁忌と見なされても仕方ありません。その自覚は、私は異常なのだという自覚をなすのと同義でした。いいえ、自覚ならまだましですが、もしこの感情を誰かに知られてしまったら……。両親や級友、葉山先生や----まして芳子自身にまで----私は異常者だと思われてしまう。避けられてしまうようになるかもしれない。あの芳子にまで。
 ……私は感情を制御するようになりました。ただ友人として接していれば、すべて杞憂に終わります。私の異常を知っているのは私のみです。誰に知られてもいけない。隠していればずっと皆と、芳子と接していられるのです。私ひとりが隠し、耐え続けていればいいだけの話でした。
 それに私にはまだ救いが、私は完全には異常ではない、と信じるつてがありました。
 私は芳子に対しある種の感情に似たものを抱いていたかもしれませんが、葉山先生に心がときめくのもまた事実でした。自分が淡い感情を向けている人物が、ただひとり芳子に接するときだけ憎らしい対象になる、というのは随分破綻した感情だと自分でも思います。全く、他の誰でもないこの私が、ふたりが許婚だと知らされているなんて、何という皮肉でしょうか。もしかしたら、許婚のことを知らされなかったら、私はずっと気づかずにいられたのかもしれません。芳子への感情に。
 よしんば気づいたとしても、葉山先生に嫉妬心など抱かなかったでしょう。ただふたりに思いを募らせて、ある日運命を知り、思いを秘めたまま招待された式で微笑むことが出来ただろうと思います。
 とりあえず私は、芳子への感情は、友愛が少し高ぶってしまったにすぎない、と自分に言い聞かせることにしました。先生を見れば胸が切なくなるではないか、これが恋なのだ、芳子への感情とこれは違う、と。
 私どもの卒業が迫り、国語の時間中、葉山先生から卒業文集の作製の提案がありました。皆で詩を書くようにと仰るのです。私たちは普段詩など書かないものだから、かなりてこずりましたが、葉山先生が助言を下さいました。
「詩とは心の素直なかたちだ。気取ったり格好をつけたりして書くものじゃないよ。詩を書くというのは、自分の心に目を向けるということだ。それが例え浅ましいものでも卑しいものでも、温かいものも優しいものも、まず目を向けること、自覚することが大事なんだ。卒業という事柄にこだわらなくていい。言葉を飾らなくていい。自由に心の中にあることを書いてごらんなさい」
 卒業すれば芳子は進学します。けれど私は進学するあてがありません。のちにいいご縁があるまで家業の手伝いをすることになります。小さな頃から一緒だった芳子とは、これからは違う道を歩んでゆくことになるのでした。
 心の中にあること、素直に思っていること……。私はたどたどしくも筆を取り、数行書き始め、しかしすぐに息を呑み。
 咄嗟に、紙を左の拳で握り締めている自分がいました。
「どうしました?」
 すぐ背後から気遣う葉山先生の声がしましたが、わたしは動転して返答ができませんでした。私は先生の気配を察して紙を丸めたからです。
 ……見られてしまった。
 即座にそう思いました。いつから先生がわたしの背後にいたのか、もしかしたらほんの数瞬だったかもしれません。でも、ほんの一行見ただけで、先生なら私の思いに気づかれたはず、という確信が何故か私にはありました。
 私は俯いたまま何も言えませんでした。皆が口々に声をかけ心配してくれているのが分かりましたが、それがますます私を惨めな気持ちにさせました。芳子の声もするのです。
 先生はそっと皆を静め、俯いたままの私の頬をそっとハンカチでぬぐってくださいました。私が顔も上げられず、声も出せず、震えているわけを先生は悟ってらしたのです。
 ……私は何ていやらしいのでしょう。人に言えぬ思いを抱いて悶々としている自分も卑しいと思っておりましたが、それをうっかり書き記して、当事者である先生に知られた途端、隠そうと七転八倒する自分を、心底醜いと思いました。隠す覚悟でいたのに、何故書いてしまったのでしょう。それは私の弱さ故だと、私はこのとき思いました。
 私は目の周りが赤く腫れていて、随分見られない顔になっているかもしれないと思いましたが、先生にお礼を言わなくてはと、顔を上げました。
「先生……」
 すると先生は優しく私を制し、新しい紙を持ってきてくださいました。
「それは破れてしまったろう。でも心は決して人に見せるためではない、まず自分が心の中をちゃんと見つめることが大事なんだ。驚かせてしまってすまなかったね」
 私の拳を優しくひらき、紙のしわを伸ばして畳み、
「君は私の言うとおりに実践してくれた。これは、君が大切にしてやりなさい」
 私の掌に置いて、優しく微笑みながらその掌で包んでくださったのでした。

続く→


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