加賀鳶 江戸の華 2005.1.8 W97 | ||||||||||||
4日、歌舞伎座昼の部を見てきました。
「盲長屋梅加賀鳶」(めくらながやうめがかがとび)のあらすじ 加賀鳶の頭分の梅吉が町火消したちの様子を見に行ったまま、まだ帰ってこないので、心配した梅蔵の兄弟分の松蔵と加賀鳶たちが喧嘩支度で押し出してきて、今しも木戸を押し破ろうとしている。 そこへ梅吉が戻ってきて、町火消しの頭取の仲裁で喧嘩相手が引いたので、こちらも引いてくれという。しかし、血気にはやった面々は言うことを聞こうとしないので、梅吉はそれなら自分を殺してからいけと木戸の前にどっかと座り込む。 松蔵も皆を説得するので、一同その場を引き上げる。 二幕目 偽盲の道玄がその金を奪おうとすると、太次右衛門は脇差を抜いて抵抗するが、逆にそれを奪われ切り殺されてしまう。 金を奪った道玄が立ち去ろうとする時、加賀鳶の松蔵がその場をとおりかかる。道玄は何食わぬ顔で按摩笛を吹きながら去っていく。松蔵は死体に気がつき、その場に落ちていた道玄の煙草入れを拾う。 三幕目 そこへ太次右衛門の娘のお朝がおせつを訪ねてくる。お朝は奉公先伊勢屋の主人から、道玄に邪険にされて苦労している叔母おせつにやるようにと5両の金を預かってきたのだ。ところがおせつは、その金額のあまりに多さに、ただの親切から出たものだとは信じられず、事情を聞きに伊勢屋へと出かけていく。 帰ってきた道玄はお朝に、どうせ伊勢屋の慰みものにされたのだろうと難癖をつけてお朝を折檻し、やってきたお兼(実は道玄の情婦)と示し合わせて、伊勢屋をゆすろうと企てる。お朝を廓へ売るてはずを整え、道玄とお兼は偽の書付を用意して伊勢屋へと出かけていく。 竹町の伊勢屋の店先で、道玄とお兼は「お半長右衛門」の例をひきながら、お朝が書いたといって偽の書置きを見せ伊勢屋主人・与兵衛をゆする。身に覚えがない与兵衛だが、店先に居座られても困ると番頭が50両で話をつけようとする。 すると丁稚が呼びに行った鳶頭の松蔵が姿を見せ、その必要はないと道玄にいつかお茶の水で拾った煙草入れを見せる。しらばっくれる道玄に、松蔵は中に入っていた質屋の道玄あての書付を読んで聞かせる。 悪事が露見した道玄は仕方なく煙草入れだけ受け取ってすごすごひきあげようとするが、松蔵はあとくされないようにと10両の金をやって偽の書付を買い取る。あざやかな松蔵の裁きに道玄とお兼は「えらい!この裁きには恐れ入った。」「大岡様このかただね」と感心するのだった。 大詰 加賀藩上屋敷門前まで逃げた道玄だが、ついに追っ手に捕まり、奉行所へと引っ立てられていく。 河竹黙阿弥作「盲長屋梅加賀鳶」(めくらながやうめがかがとび)は1886年(明治19年)、五代目菊五郎の梅吉、道玄と、近頃では上演されない「小石川水道端の場」に出てくる死神の三役で初演。 この芝居は、当時切望していた「村井長庵」を團十郎にまわされ腹をたて新富座を飛び出した五代目が、黙阿弥に長庵ほど極悪でない坊主と、祖父のやった死神を演じてみたいと頼んだけれど、あまり汚いものばかりなので、気風のいい仕事師をとりあわせたものだそうです。(季刊雑誌歌舞伎より) いろいろな注文を一つにまとめて出来た話なので、それぞれが上手く結びついていないところがあるとか、見どりとは言え「本郷通町木戸前の場」がいつも取ってつけたようだと感じるのも道理だったわけです。 しかしながら35人もの鉞まげに雲に稲妻の長半纏、革羽織という粋な格好の加賀鳶たちが舞台一杯に並んだところは壮観で、まさに「火事と喧嘩は江戸の華」。ただし花道での渡り科白の間、下座の音が大きすぎて、科白がよく聞こえなかったのは本末転倒のように思われました。 幸四郎の梅吉はちょっと陰気に感じられましたが、道玄の方はあくの強いいやらしい感じを出すのが上手かったです。富十郎や猿之助の道玄は愛嬌の方がかっていたように感じましたが、滑稽な演技にもかからわず道玄が極悪人に見えるのは幸四郎の持ち味でしょう。 証拠を突きつけられて思わず煙管を取り落とすところでの手の使い方は写実で、グーッと上から廻しておろしたりせず、すぐひざに置いていました。 三津五郎の松蔵はいなせな江戸っ子らしさがぴったりでした。松蔵がよくないと道玄がやりにくいものだそうですが、申し分のない松蔵です。 ところで「盲長屋」というのはもとは加賀藩の長屋のことで、大久保彦左衛門がたらいで登城した時、加賀邸の前を通りかると長屋の窓から加賀家の家来たちがそれを見て笑ったので、それを彦左から面詰された前田候が「そのような窓はない」とその日のうちに窓を塗りつぶさせてしまったという面白い逸話もあるそうです。 けれども筋書きの中でこの本名題にだけルビが振られていず、先月の「箱根霊験誓仇討」の題名のこともですが、昔のものにまでこう気を使わなくてはならないものかと思います。 「梅加賀鳶」というのには、加賀藩の紋が梅鉢、それに菊五郎の俳名梅幸を利かせてあるそうで、昔の本名題というものには遊び心があると感心します。 それと三津五郎の松蔵は道玄に「とんだだんまりほどきだが・・・」と言っていましたが、この事について『だんまりほどき』という言葉が『だんまりもどき』ではないのかという議論にも興味深いものがあります。 17代目羽左衛門は『だんまりもどき』派で、「初代吉右衛門他も『だんまりもどき』と言っていた」と言うのに対し、服部幸雄氏は「だんまりほどきと黙阿弥の台帳にもあるし、御茶ノ水の土手での暗がりの出来事の解き明かすという意味ではないか」と語っています。 六代目の芸を継いだ2代目松緑が芸談の中に「だんまりほどき」と書いているところを見ると、菊五郎系では「だんまりほどき」として受け継がれてきて、松緑を尊敬している三津五郎もそれに習ったと思われます。 福助が演じたおさすりお兼は、もと色街の出をにおわす立てひざが似合う雰囲気がありました。 そのほかは最初が染五郎の「松廼寿操三番叟」(まつのことぶきあやつりさんばそう)。翁は歌六、千歳は高麗蔵。染五郎の三番叟は軽快で見事でした。猿弥の後見はふっくらとしたおおらかな持ち味がよく合っていました。 吉右衛門の「石切梶原」は、先月南座で見たばかりの仁左衛門のものとはまた違って重厚な梶原でした。 仁左衛門が羽左衛門型で手水鉢の向こう側から断ち割った手水鉢の間から飛び出してくるのに対して、吉右衛門は後ろ向きに構えて一刀のもとに切りおろすと、しばらくしてからゆっくりと石が左右に倒れるという初代吉右衛門型でした。 六郎太夫と梢の位置も仁左衛門型は手水鉢の両脇ですが、吉右衛門型は手水鉢から離れた下手の手前と異なってました。 最後が芝翫の「女伊達」。助六にあこがれる女伊達のお駒が助六の真似をしてみせるという舞踊。からみ8人がそれぞれ持った傘の「なりこまや」という文字がそろっていて綺麗でした。 歌昇と高麗蔵、二人の男伊達の衣装が濃い緑とブルーグレー、それに紫の襦袢という地味な色合いだったのですが、もうちょっと華やかでもよかったような気がしました。 |
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この日の大向こう | ||||||||||||
お正月休みとあって、満席の盛況で掛け声を掛ける方もたくさんいらっしゃいました。一階席奥からも声が掛かっていました。会の方は3人ほどみえていたそうで、寿会の方たちをおみかけしました。 「石切梶原」で吉右衛門さんの梶原が石の手水鉢を切ったところで、梢「あれもし、父さん」六郎太夫「切り手も切り手」梶原「剣も剣」の後の間は、先月の仁左衛門さんの時と違い、お三味線の方の掛け声で埋められていました。 初日のテレビ中継の時は、あそこで「役者も役者」と掛けた方もいらしたようでしたがこの日は全く聞こえず、その少し後に2〜3人の方が「播磨屋」と声を掛けていらっしゃいました。 |
壁紙&ライうン:「和風素材&歌舞伎It's just so so」