四の切 心に響いた子狐の声 2003.1.22 |
22日、浅草公会堂で上演されている浅草新春歌舞伎の昼の部を見てきました。 四の切「川連法眼館(かわつらほうげんやかた)の場」のあらすじ 問いただされた忠信は自分は去年の春から郷里に帰っていたので、そんな話はしらないと弁明する。義経は駿河、亀井両名に詮議を命ずる。するとそこへ静御前と佐藤忠信が到着したとの知らせがくる。やってきた静御前から、「一緒に来た忠信とは別人らしい」と聞くと、義経は静に忠信の詮議をまかせ、奥へ入る。 鼓をたたく時必ず忠信が現れたということを思い出した静は、鼓をたたいてみる。すると館の階段のところへ忽然と姿をあらわした忠信。静が問い詰めると忠信は、「実は自分は狐だ」とことのなりゆきを話し始める。 昔桓武天皇の御世、旱魃で困り果て、雨乞いのために信田の森に住む千歳の狐の夫婦を捕らえて、その皮で鼓を作った。それが「初音の鼓」で狐はその夫婦の子供だというのだ。鼓をしたってここまでついて来たが親狐が「本物の忠信の迷惑になるので、もう家に帰れ」と言っているのでと言って、去っていく。 その話を奥で聞いていた義経は、「自分は親も無く、兄弟にも疎んじられているのに、狐はなんと親思いなんだろう」ともう一度狐を呼び寄せ、鼓をあたえる。喜んだ狐は「この山を悪法師たちが夜討ちにしようと取り囲んでいるので自分の神通力でやっつける」と約束し、鼓を手に飛び去っていく。 「その鼓は、私の・・・・・親でござりまする!」と子狐が叫ぶようにいうと、もう何度も見ているこの場面ですが、初めてジワ〜ッと涙が出てしまいました。獅童の狐忠信は荒削りでもあるし、動きもぎごちないし、声も二つに割れていたのですが、ひたむきさが良く出ていてそれがとても新鮮に感じられました。半ば計算を度外視したような懸命さが感じられました。 しかし「一生懸命やれさえすれば必ず人を感動させられる」というわけではありませんから、獅童は確かに実力のある役者だと思います。 最初の本物の忠信の時も、義経の家来としての格が丁度程良くて、顎の線の強さがこういう役にとても合っていると感じました。ただ動きはちょっと力が入りすぎていて、偽者の忠信をつかまえようと綱を用意するところなどは、ぎこちなかったです。 狐忠信の出は、「出があるよ!」という揚幕の奥からの声とともにチャリーンと揚幕が開くのですが、それは「引っ掛け」で実際は正面の二重の階段の奥から押し出されてきます。いつもあっという間に出てくるので見逃してしまっていたのですが、今回は瞬きもしないでじっと見ていたので、狐忠信が出てくる一部始終を見届ける事ができました。 獅童の狐忠信はちょっと人形のような思い切った動きで、本物の忠信との差を強調しているようでした。引っ込みは花道を使いました。幕切れに猿之助の忠信は宙乗りをし、勘九郎は上手の木に登りますが、その中間と言う感じで木に登る型よりは、華やかで良いと思います。 ところで「これは本役でしょう」と思ったのは、勘太郎の静御前でした。「切ってはめたよう」と良くいわれますが、最初の出から狐忠信とのやりとりまで品の良さと若々しさが静御前にぴったりでした。勘太郎はだんだん背が高くなってきて、どういう役者になるのかなと思っていましたが、この静御前を見ると、祖父の芝翫が予測したように「勘太郎には女形が向いている」と言う事が十分に納得出来ます。 勘太郎は第一部で「車引き」の梅王丸も務めていますが、この役を演じるには柄が華奢なので、カバーしようと必死なところが見えました。梅王はある程度恰幅の良い役者の方が良いと思います。声もほとんど限界まで張っているので、大丈夫なのかしらと心配になりました。いつか新之助が声を壊したことがふと頭をよぎったりして。 しかしその後で演じた静が無事だったようなので一安心。かなり前から義太夫と謡のお稽古に通ったりして、念入りに準備をしたようです。若い人が大役に挑戦するのはとてもいいことですが、声だけは壊さないように大人がいつも気をつけてあげていて欲しいです。 |
この日の大向う |
最初のうち沢山いた大向うさんが、「四の切」の頃になったらとても少なくなってしまい、残念でした。初めのうち「火消しの纏持ちタイプ」の方と「大店のご隠居タイプ」の方、両方いらして面白かったです。ご隠居の方も声は小さいんですが、気合が入っているので良い感じに聞こえました。 |
壁紙&ライン:「和風素材&歌舞伎It's just so so」