「助六」 助六の出端 2003.1.17 |
17日、歌舞伎座夜の部を見てきました。 助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)のあらすじ そこに妹分の花魁白玉と髭の意休(いきゅう)が男伊達を伴ってやってくる。意休は揚巻をくどこうと懸命で、毎晩のように通ってくるが、助六という恋人のある揚巻はつれない。意休が助六のことを盗人呼ばわりして悪口をいいたてると、揚巻も身体をはって悪態をつき助六をかばう。その場は白玉がなだめて、揚巻は見世に入っていく。 尺八の音が聞こえてきて、助六が登場。人気者の助六に花魁や新造たちは、吸い付け煙草を次々に差し出す。意休は自分も吸い付け煙草がほしいと所望すると、助六は自分のをやろうと足の指にはさんでさしだしたり、意休の子分達を痛めつけたりして挑発するが、意休は刀を抜くことなく見世に入っていく。 すると一人の白酒売りが助六を呼び止める。それは助六の兄、曽我十郎祐成(すけなり)であった。実は、助六は曽我五郎時致(ときむね)。弟をいさめる兄に助六は、源家の重宝「友切丸」を探すために、誰彼かまわず喧嘩を仕掛けている事を話す。それを聞いた十郎は自分も一緒に喧嘩を売ろうと喧嘩の仕掛け方をならい、通りかかった国侍や通人などに股くぐりをさせる。 そうしているうちに揚巻に送られて三浦屋の中から一人の侍が出てくる。助六は「自分をさしおいて客をとった」と揚巻に腹をたて、悪態をつく。が、その侍を良く見てみれば兄弟の母、満江(まんこう)であった。母も助六の所業を心配していさめに、廓へやってきたのだ。だが喧嘩の理由を知って「怪我、過ちのないように」とお守りがわりの紙衣(かみこ)を助六に着せて去っていく。 そこへ出てきた意休、助六を「親の仇も討たず放蕩にふけっている不孝者」と扇で打ち据える。そして刀を抜きそばにあった香炉を真っ二つ。すかさず助六が刀の銘を読むと、それこそ探し求める刀「友切丸」であった。意休が見世の中に立ち去ったので、「意休が廓から帰るのを待つように」という揚巻の意見を入れて、はやる心を抑える助六であった。 助六の出端(では)が素晴らしく印象的でした。 助六の出端、揚幕から登場し本舞台へ掛かるまでは約10分と時間が掛かります。その間まず、逆七三と呼ばれる昔の七三で一演技、それから普通の七三に行ってひとくだり。また揚幕の方へ少し戻って演じ、最後に七三にいって一くだりと、行ったり来たり、たっぷりと花道での演技がくりひろげられます。ここのところは踊りのように見えますが、九代目團十郎は「ここは踊りではなく語りだ」と言ったそうです。 その間、台詞は「この鉢巻のご不審か」と後一箇所だけで、あとは市川宗家の場合、ご贔屓の旦那衆の集まりである十寸見会(ますみかい)の河東節によって演じられます。旦那衆といっても最近は女性が多いようで、私が見た時一階ロービーに掲示された当日演奏者の名簿はほとんど女性で占められていました。 この素人旦那衆は多額の会費を払って自前で参加するため、芝居が始まる前に段四郎が「河東節御連中様、お始めくだされましょう」と口上を述べます。河東節については「歌舞伎通になる本」小山観翁著グラフ社に詳しく出ています。 團十郎はむきみ隈のよく似合う役者です。むきみ隈は「寿曽我対面」(ことぶきそがのたいめん)でも五郎が用いますが、若さを象徴しているといわれています。溌剌とした気分がみなぎった出端は、「助六」を見た満足感の50%を占めているのではないかとさえ思うくらい良いものです。 ですがその演技は実のところ、例えば歌舞伎座の場合、約四分の一の観客は見ることが出来ません。三階席だと正面の席一番前でも七三がようやく見える程度、二列目だと役者の頭が三列目だと運がよければ・・・というところでしょう。二階でも正面だと奥の方は花道半分より手前はみえないでしょう。 およそ10分間助六を全く見る事ができないお客さんをも納得させる、これが助六の出端をより張りのあるものにしているのだと私は思います。 揚巻を演じた雀右衛門は立女形の貫禄十分、しかも非常に若々しいのには驚かされます。この役は江戸の意気地を代表しているような役で女形としても非常に気持ちのいい役だと雀右衛門自身も言っています。 豪華な衣装をとっかえひっかえするので、よほど品格のある女形でなければただのファッションショーに終わってしまうでしょうが、雀右衛門は趣向の限りを尽くした数々の打掛を、自分の一部として着こなしていて見事でした。それに加えて雀右衛門の美点は台詞におかしな癖が無いところで、どういう役を演じても嫌味がありません。雀右衛門はやはり当代一の揚巻役者と言えるのではないでしょうか。 他の演目は「寺子屋」と舞踊の「保名」でしたが、芝翫の「保名」が良かったと思います。保名は長袴をはいて踊りますので小柄な芝翫にはあまり似合わないだろうと思っていたのですが、全く違いました。 六代目菊五郎のやり方と言う事で、蝶々を使わない方法でした。もともと私はあの蝶々を(差し金を使う人の技量によるのかもしれませんが)うるさいと思っていましたので、無い方がすっきりとして良いと思いました。保名が訳がわからなくなったり、正気にもどったりするのを、芝翫は実に見事に表現していました。 実物の蝶々は使いませんが周りを飛んでいる心で、芝翫が目玉をぐるぐるとまわすのですが、頭を全く動かさないので、遠くからだと判らないだろうなと思いました。 今までみた「保名」のなかで一番優れた「保名」でした。 |
この日の大向う |
「寺子屋」の「いろは送り」が始まる前に、大きな声で「まってました」と声がかかりましたが、お主の身替りとなって死んだ小太郎の冥福を祈ろうとする場面で、「まってました!」は場違いな感じがしました。 「助六」で助六の名乗りの前に「まってました」と掛かりましたが、こちらは良いタイミングで掛かったと思います。 |
壁紙&ライン:「和風素材&歌舞伎It's just so so」