海神別荘 泉鏡花の世界 2006.7.12 | ||||||||||||
7日、歌舞伎座初日の昼の部を見てきました。
「海神別荘」のあらすじ 姿を現した公子に僧都は、美女の親が娘を公子にやるかわりにと望んだわたつみの財宝の数々を読み上げる。公子はこれで満足できる人間の欲望などは浅いものだと言う。しかし僧都は、娘の身の代として財宝を欲しがるのは、人間としては欲が深い方だと進言する。 その頃白龍馬に乗せられ、黒潮騎士(こくちょうきし)に守られながら女房に導かれて海底の琅かん殿へと向かっている美女は、自分の運命がどのようになるのかわからず戸惑っていたが、女房がこの輿入れはただただ嬉しいことだと祝いを述べるのを聞いて、海への生贄にされたのがなぜめでたいのかといぶかしく思う。女房は美女がもはや人間ではなく、公子の新夫人なのだと語り、道を急ぐ。 このやりとりを鏡で見ていた公子に、僧都は馬に乗せるのは、ひきまわされる罪人の姿に似ているというので、公子は早速博士を呼び出して尋ねる。博士は「おさん茂兵衛」の浄瑠璃を朗読するが、これを聞いた公子は「女は殺されても本望だろう」と言い、「八百屋お七」を聞けば「お七も満足して死んだので刑罰ではない」と公子はいう。 それよりも美女の首にかけられた水晶の数珠を見咎め、早速博士に公子の妻にふさわしい襟飾りを選ぶように言いつける。 一同が道中双六をして遊んでいると、入道鮫たちがやってきて、侍女を銜える。公子が鮫を撃退するために鎧を身につけると鮫たちは退散する。 そうするうちに美女が到着する。怯える美女に公子はどんなに彼女を愛しているかを語り、喜び嬉しがるように、決して悲しんではいけないと言って聞かせる。 公子の深い愛情を感じとった美女は今の姿を故郷の人々に見せてやりたいと思うが、人間の目にはもはや美女は見えないのだと知らされる。美女は父との別れの悲しみを語るが、公子は美女の父は身代としての財宝を得るやいなや、若い妾を囲ったと言い、それが情愛というものなのかと尋ねる。 公子秘蔵の美酒を飲んだ美女は、再び故郷の人に自分が生きていることを知らせたいと願う。だれも生きていることを知らない命は命ではなく、身に着けた宝石も人がみなくては価値がないと訴える。だが公子は人は愛するものと共に生きればそれでいいではないかという。 何度も美女が頼むので、公子は美女が今では人の目から見ると美しい蛇にしか見えないのだと話す。しかし美女は信じようとせず、とうとう公子は美女が一度故郷へ帰ることを許す。 しばらくして帰ってきた美女は、公子のいうとおり、もはや自分が人の目には大蛇にしか見えないと知って、泣き伏す。公子は不機嫌になり、ここでは悲哀は許されないというが、美女はこれはすべて公子の魔法によるものだと公子を責める。 それを聞いて激怒した公子は黒潮騎士に美女を殺すように命じる。しかし美女が公子自身の手で殺してほしいというので、公子が刀を振り上げると、その颯爽とした姿に見惚れた美女は自分は公子の気高さ、美しさを初めて見た、早く殺してほしいとにっこり微笑んで言う。 その様子を見て、公子は美女を許し行く末を誓い合い、互いの血を杯にとって飲み干すのだった。 大正3年に発表された泉鏡花作「海神別荘」は、昭和30年になって歌舞伎座で新派によって初演されました。聞いているだけで、豊かで美しいイメージが広がる台詞が次々と紡ぎだされる、魅力的なお芝居です。主な音楽は上手に専用の席を作ってのハープ演奏。 前回この玉三郎と新之助で2000年に日生劇場で上演された時にも見たのですが、日生劇場の舞台は歌舞伎座よりずっと間口が狭く、舞台上に設置された大階段のせいか舞台がとても縦長で立体的に見えたような記憶があります。今回は横長の舞台に海の洞窟を連想させる柱があちこちにたっていて、雰囲気はかなり違って見えました。 海の中を白龍馬で連れてこられる玉三郎の美女の、波にゆられている様子がなんとも優雅で、キラキラする清楚な白い衣装の玉三郎はまさに光り輝く絶世の美女でした。 前回も感じたことですが、公子を演じた海老のまとった長いマントがさざ波のようにひるがえる様子がとても素晴らしく、海老蔵は前回より表情も穏やかで、公子の思慮深い性格を感じさせ、その一言一言が心に沁みとおりました。 しかしそれだけに「悲しむものは殺す」と急に美女を殺そうとするところが唐突に感じられました。自分を殺そうと刀を突きつける公子を見たせつなに美女が真の美を悟り、恍惚として「私を殺す、そのお顔の綺麗さ」「もう故郷も何も忘れました。早く殺して。ああ、嬉しい」というクライマックスで、客席から笑いが起こったのにはゲンナリしました。本で読めばなんの抵抗もないこの台詞の意味を、観客に充分理解させるのが最大の難関のようです。 海老蔵は化粧も眉毛以外は普通のハンサムな風貌にしていますが、もっと恐ろしげなほうが、良いようにも思いました。それから長いマントを扱うためか、玉三郎との身長差をつけようということか、かなり厚底のブーツを履いていたのが、美しいとは思えずちょっと興ざめでした。公子の侍女を演じた京妙のコケティッシュな女らしさが印象に残りました。 ―三国ガ嶽の山奥にある夜叉ヶ池には不思議な伝説がある。この山の麓にある鐘を毎日3度、決まった時間につかないと氾濫するというのだ。だがこのところの日照りで村は旱魃に苦しんでいた。 この鐘楼守の家へある日、文学士・山沢学円が訪ねてくる。この家のなぞめいた美女・百合を妻とし、鐘楼を守っていたのは、3年前に行方不明になった山沢の友人・萩原晃だった。夜叉ガ池を訪ねてこの家に逗留していた萩原は、鐘つきの老人が倒れたために、その代わりとしてこの家に留まったのだという。 一方夜叉ヶ池の主・白雪姫は剣ガ峰千蛇ヶ池の主に恋をしていて、会いに行きたいと願うが、「姫が動けば大洪水になり、また決められた時刻に鐘がなる間は動くことはならない」と万年姥に諭される。 山沢に誘われて萩原が夜叉ガ池を見に出かけたすきに、村の男たちが村一番の美女である百合を、雨乞いのために夜叉ヶ池の主への生贄にしようと押しかけてくる。あわやという時、萩原が戻ってきて百合を助けるが、村人は萩原にこの地を出て行けと迫る。 萩原はかつて同じように生贄にされた白雪という娘の恨みの念が村を焼き、娘は池に身を投げたと話して聞かせ、自らを百合の代わりに生贄にしろと言う。しかし村人は聞こうとはせず、ついに百合は鎌で自らの胸を突いて死ぬ。 その時、ちょうど鐘をつかねばならない丑満時になるが、萩原は撞木の綱を切る。すると雷鳴がとどろき、大波がおしよせて全てをおおいつくし、村人は泥鰌や鮒となる。白雪姫は新しく出来た池を鐘ケ淵と名づけ、萩原と百合夫婦の住まいとし、晴れやかに家来をひきつれて千蛇ガ池へと向かう。― なぞめいた美女・百合と夜叉ヶ池の主・白雪姫の二役を演じた春猿の独特の持ち味がぴったりはまって、大正時代風のたおやかな女性の雰囲気がよく出ていました。鐘楼守・萩原晃を演じた段治郎は最初のうち台詞まわしがこの芝居には少し硬すぎるように感じましたが、後半はよかったと思います。 萩原の友人・山沢の右近は気になる口跡の癖を感じさせない自然な演技で好演。面白いことに夜叉ガ池の化け物たちよりも、百合を生贄にしようと集まってくる人間たちのほうがよほど不気味で恐ろしく感じられました。化け物の万年姥を演じた吉弥に不思議な存在感がありました。 |
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この日の大向こう | ||||||||||||
今月は演出の都合で、大向こうグループは声を掛けないことになったとか。はたしてどうなることかと思ってみていました。「夜叉ガ池」では百合と白雪姫二役を好演した春猿さんの百合に「春猿」、白雪姫がすっぽんから姿を消す時「澤瀉屋」と声が掛かっていました。 「海神別荘」では玉三郎さんの登場の時、あまり大きくない渋い声で「大和屋」と掛かり、玉三郎さんがどう反応されるかとハッとしましたが、特に抵抗感はなく、この位の音色・大きさなら許容できるのではと思いました。 ただ「海神別荘」では上手に特別なスペースが設けられて、そこで蝶ネクタイの朝川朋之氏が大小のハープをずっと奏でていましたので、現世とは隔絶されたような静かな雰囲気をなるべく壊したくないと判断された演出家としての玉三郎さんのお考えも理解できると思いました。 「海神別荘」が終わったあと、拍手がなりやまずカーテンコールが一回ありました。 |
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歌舞伎座7月昼の部の演目メモ | ||||||||||||
●夜叉ヶ池 段治郎、春猿、右近、吉弥、薪車、寿猿 ●海神別荘 玉三郎、海老蔵、猿弥、門之助、笑三郎、 |
壁紙&ライン:「和風素材&歌舞伎It's just so so」